39. 市原の石造物に登場する石工達
市原の石造物に登場する石工達とその作品一覧
※「市原の狛犬」(市原市教育委員会:平成6年)のデータをもとにカッパが手を加えた。
時 期 |
市 内 |
市外あるいは不明 |
寛文年間 |
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茂左衛門(?) 菊間八幡神社手水鉢(寛文8年1668) |
元禄年間 |
今津の八郎兵衛 海保遍照院大日如来(元禄7年1694)
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浅草の惣兵衛 松ヶ島墓地宝篋印塔(元禄10年1697) 安藤長左衛門(江戸か木更津あたり?) 姉崎神社手水鉢(元禄15年1702) |
宝永年間 |
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安藤長左衛門 |
享保元文年間 |
姉崎(今津)の八郎兵衛 海保遍照院角柱宝塔型宝篋印塔(享保 16年:1731) 馬立龍源寺宝篋印塔(享保18年 1733) 八幡中町の…郎兵衛 今富正光院庚申塔(享保20年1735)
八幡の十郎兵衛 山木三差路近く馬頭観音(元文2年: 1737) |
下鷺(下崎?)長兵衛・・・おそらく不入斗 近辺 不入斗行屋跡庚申塔(享保3年1718) 片又木法蓮寺庚申塔(享保7年1722) 不入斗小鷹神社手水鉢(享保8年 1723) 勘右衛門 佐是光福寺六地蔵道標(享保20年 1735) 勘兵衛(市内か市外か不明) 国本金蔵院宝塔(享保年間?) 浅竹三四郎 菊間八幡石段塔(享保17年:1732) |
寛保・延享 寛延年間 |
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仁兵衛・勘右衛門(市内か市外か不明) 牛久円明院宝篋印塔(寛保3年1743) 長南の三十(以下の文字が判読不能) 山田佛蔵寺題目塔(寛延3年:1750) 江戸八丁堀の和泉屋久兵衛 姉崎神社石灯籠(元文5年:1740)? 大厩延命寺宝篋印塔(延享2年1745) 大厩駒形神社鳥居(延享3年=1746) 郡本八幡の狛犬(延享5年:1748) 五井龍善院宝篋印塔(寛延2年1749) 宮原明照院宝篋印塔(寛延3年1750) 江戸の弥八 高滝神社狛犬(寛延元年:1748) |
宝暦年間 |
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木更津の高橋八郎右衛門 下川原東泉寺宝篋印塔(寛延3年 1750 椎津山谷地蔵(宝暦6年:1756) 西国吉医光寺宝篋印塔(宝暦14年: 1764) 方又木十二社神社手水鉢(宝暦9年: 1759) |
明和年間 |
姉崎の八郎、清吉 引田六地蔵道標(明和7年:1770) 八幡の瓜本権八(二代目?) 海保山王庚申塔道標(明和元年1764) 八幡円頓寺日泰供養塔(明和4年: 1767) 惣社国分寺宝篋印塔(明和5年1768) |
江戸八丁堀松屋町の権六 原田諏訪神社狛犬(明和3年:1766) 八幡円頓寺日泰供養塔(明和4年: 1767) ※土宇玉前神社の手水鉢(年代不明)に は世話人として八丁堀松屋町の車屋権 七の名がある。権六と関係がある人物 かもしれない。また八丁堀権七の名は 君津の石造物(1789)にも刻まれてい る。 |
安永天明年間 |
牛久の山内平七 牛久丸山神社手水鉢(安永9年1780) 姉崎の廣瀬紋治(?) 君塚明光院宝篋印塔(安永4年1775) ※君津に姉崎の廣瀬紋次郎の石造物 (1784)が残されている。 勘七 馬立龍源寺近く庚申塔(天明2年 1782) 八幡南町の三郎兵衛 郡本多聞寺札所塔(天明6年=1786) 郡本正光院札所塔(天明6年=1786) 五井の重左衛門 養老長泉寺馬頭観音(天明7年: 1787) |
江戸浅草蔵前の中村佐兵衛 高滝神社石灯籠(安永4年:1775) |
寛政享和年間 |
姉崎の古川辰五郎 深城無量寿寺石段塔」(寛政4年: 1792) 姉崎(?)の廣瀬左内利英 姉崎白塚境橋馬頭観音道標(寛政8 年:1796) 八幡の佐平治(初代) 郡本八幡神社大宮大権現祠(寛政12 年:1800) 八幡の瓜本権八(三代目?) 根田神社鳥居(寛政9年:1797)? ※八幡の権八とだけあるので断定はで きない。 君塚稲荷神社手水鉢(文化7年1810) |
千葉町小嶋(?)八郎右衛門 村上観音寺宝筐印塔(寛政9年1797) 江戸本材木町の上総屋治助 村上諏訪神社鳥居(寛政6年:1794) 村上諏訪神社中段の石段塔(文化5年: 1808) |
文化文政年間
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姉崎の大嶋久兵衛 ※市内で最初に狛犬を彫る 安須日枝神社鳥居(文化5年:1808) 姉崎神社狛犬(阿)(文化6年: 1809) 姉崎神社鳥居(下)(文化8年: 1811) 椎津八坂神社鳥居(文化9年:1812) 海保森厳寺結界石(文化10年1813) 姉崎最頂寺手水鉢(文化10年1813) 姉崎稲荷神社手水鉢(文化11年: 1814) 椎津八坂神社狛犬(文政2年:1819) 椎津瑞安寺観音札所塔(文政3年: 1820) 高滝神社石灯籠(文政4年:1821) 白塚交差点庚申塔(文政7年: 1824)? 椎津八坂神社浅間神祠(文政9年: 1826) 辰右衛門 不入斗熊野神社石段(文化5年1808) 姉崎神社狛犬(吽)(文化6年1809) 姉崎神社鳥居(下)(文化8年1811) 三之助? 姉崎神社石段塔(文化3年:1806) 五井の丹波屋六兵衛 松崎春日神社手水鉢(文化10年: 1813) 村上諏訪神社石段(文化12年1815) 五井の丹波屋藤吉 高田日枝神社鳥居(文化9年:1812) 川岸の関佐七 不入訶具都智神社手水鉢(文化7年: 1810) 高滝神社手水鉢(文化7年:1810) 飯沼龍昌寺石段塔(文化7年:1810) 大坪諏訪神社富士塚常夜灯(文化9 年:1812) 馬立根本神社手水鉢(文化9年: 1812) 松崎春日神社石灯籠(文化9年: 1812) 川岸富貴稲荷常夜灯(文化9年1812) 平野大山祇神社鳥居(文化11年: 1814) 島野三光院庚申塔(文化14年1817) 岩崎稲荷出羽三山鳥居(文政元年: 1818) 岩崎稲荷手水鉢(文政2年:1819) 相川石神神社手水鉢(年代不明) 牛久の茂七(1824) 平蔵熊野神社石灯籠(文政7年: 1824) 牛久中町の茂兵衛・下町の兵七 牛久円明院馬頭観音(文政5年1822) 八幡の安藤佐平治(二代1818~1839) 能満日枝神社石灯籠(文化15年: 1818) 八幡円頓寺題目塔(文化13年1816) 能満釈蔵院観正塔(文政5年:1822) 山木白幡神社手水鉢(天保10年: 1839) |
江戸の井筒屋藤兵衛 奈良の大仏(文化元年=1804) 久留里の栄次郎 高滝神社石灯籠(文化2年:1805) 千葉町の八郎右衛門 村上諏訪神社石灯籠(文化4年1807) 大多喜の永松屋銀左エ門 高滝神社石灯籠(文化6年:1809) 大多喜町の平蔵 国本金蔵院光明真言塔(文化11年: 1814) 久留里の治助 石塚白鳥神社手水鉢小(文政13年: 1830) 同 石灯籠(拝殿向かって左 文政 12年) ※治助は1847,1851に君津で石燈籠と 狛犬を残している 平岡(現袖ケ浦市)の萱野犬吉 石塚白鳥神社狛犬(文政13年:1830) 江戸の萬吉 不入斗小鷹神社狛犬(文政8年1825) |
天保年間 |
姉崎の亀次郎 豊成八幡石段(天保3年:1835) 大坪の滝瀬義恭 安須日枝神社石段(天保12年1841) 川岸の根本甚太郎 岩崎墓地六地蔵(文政7年:1824) 村上諏訪神社参道下石段(文政11年= 1828) 村上諏訪神社石灯籠(文政13年: 1830) 川岸富貴稲荷狛犬(天保4年=1833) 田淵熊野神社手水鉢(天保12年: 1841) 寺谷大宮神社狛犬(天保12年 1841) 岩崎墓地富士講先達の碑(弘化4年: 1847) 五井若宮八幡石燈籠(弘化4年:1847) 松ヶ島養老神社鳥居(嘉永元年: 1848) 五井波渕枡型六地蔵(嘉永2年: 1849) 池和田大宮神社狛犬(推定で弘化年 間) |
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弘化年間 |
青柳の佐七(1849)
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江戸深川の源兵衛 青柳若宮八幡狛犬(弘化5年:1848) |
嘉永年間 |
八幡の安藤佐平治(三代目) 門前路傍297号沿い廻国塔(弘化4年: 1847) 奈良本泉寺題目塔(弘化5年:1848) 番場神社石段塔(嘉永2年:1849) 海士有木大宮神社石段塔(嘉永2年: 1849) 飯香岡八幡石橋(嘉永3年:1850) 八幡稱念寺祐天名号塔(嘉永4年: 1851) 犬成神社狛犬(嘉永7年:1854) 同 石灯籠(年代不明) 八幡無量寺名号塔(嘉永7年:1854) 荻作神社狛犬(嘉永7年:1854) 牛久の山内平七 皆吉墓地手水鉢(嘉永元年:1848) 牛久三島神社手水鉢(嘉永4年: 1851) 青柳の佐吉 安須日枝神社狛犬(嘉永2年:1849) 海保神社石段(嘉永4年:1851) 同 狛犬2対(慶応2年:1866) |
林村(現袖ケ浦市)の御園藤吉(1823~ 1897)牡丹と獅子の意匠を得意とした らしい。 深城熊野神社石灯籠(嘉永5年1852) 同 手水鉢(文久2年:1862) 寺谷玉泉寺大般若経碑(元治元年: 1864) |
安政年間 |
時深七五郎 大戸熊野神社手水鉢(安政3年1856) |
勘兵衛(浜松か?) 鶴舞神社手水鉢(安政7年:1860) |
文久年間 |
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江戸金杉の和田幾治郎 今津朝山鷲神社手水鉢(文久元年: 1861) 江戸鎌倉川岸の三吉・由五郎 今津朝山鷲神社石灯籠(文久2年: 1862) |
慶応年間 |
弥七(1866) 八幡の佐平治(四代目か?) 山倉春日神社手水鉢(慶応3年1867) |
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明治 |
青柳の伊藤米治郎 皆吉白山神社石段塔(明治12年: 1879) 磯ヶ谷八幡摂社石段塔(年代不明) |
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※村田町神明神社には江戸行徳の治兵衛の石造物が残されている(手水鉢・石灯籠:いずれも嘉永5年:
1852)。なお山田佛蔵寺には年代不明の日蓮供養塔に山田村の石工政文の名が記されている。
木更津の石工高橋八郎右衛門は袖ケ浦市内にも8基「(永地長泉寺:年代不明、高谷光福寺:延享2年=1745、横田善福寺:寛延4年=1751等)、君津にも2基の「開花高層型」宝篋印塔を残している。このタイプの宝篋印塔の作り手として高橋の名は近隣に鳴り響いていたのだろう。
同じ頃、江戸八丁堀和泉屋久兵衛も宝篋印塔の作り手として有名だったようで市内に三基残されている。内二基は隅飾りの無い角柱宝塔型だがいずれも屋根瓦の文様を笠石に施しており、きわめて装飾的な塔である。残り一基(大厩延命寺)は高橋と同様の「開花高層型」である。高橋は宝筐印塔を含め4基の石造物を市原に、9基の石造物(内8基は宝筐印塔)を袖ケ浦に残しており、18世紀の西上総を代表する名工と言える。
※和泉屋を冠する有名な石工は他に二人、知られている。江戸では和泉屋次郎右衛
門、和泉国に和泉屋長兵衛がいた。古来、泉州は石の産地であるとともに「泉州石
工」と呼ばれる優秀な石工を輩出した土地でもあった。泉州石工の作品は各地に残
されており、彼らの一部は石造物の大消費都市江戸にも進出していた。久兵衛もそ
うした「泉州石工」の一人に違いない。当時「和泉屋」は石工の屋号として全国的
に通りが良いため、和泉出身の石工が名乗ることが多かったのだろう。大多喜の夷
隅神社の石灯籠(安永3年=1774)には大坂の和泉屋佐七という石工の名が見え
る。
なお石工は石の粉を吸い込むことによる塵肺などの肺病を患うことが多かったため、長生きすることが難しかったという。代々石工を家業とする場合には家を存続するために長男には別の仕事につかせて石工を継がせず、次男以下に継がせるなどといった風習もあったらしい。五井の丹波屋六兵衛と丹波屋藤吉も有名な「丹波の石工」に由来する名と思われるが、二人とも肺病で若死にしたのであろうか?名を刻んだ石造物は今のところそれぞれ一、二点しかない。
石工の多くは石の搬入、石造品の搬出に都合のよい港近くや河岸に工房を持っていた。江戸では八丁堀、深川、浅草、行徳などに多くの石工が存在していたようだ。江戸の石工は自分の工房で石造物を完成させるだけでなく、鳥居などの大きな石造物の場合には現地に赴いて製作に当たることもあった。地方の村々の注文に応えるべく押送り船や五大力船に乗って江戸の石工達は幾度も房総の地に足を運んだことだろう。高橋八郎右衛門のいた木更津南片町は五大力船の発着する港町であった。
他方、姉崎の大嶋久兵衛は袖ケ浦の下泉竜善院に宝篋印塔(文化8年:1811)と石灯籠(文政2年:1815)など4基を残している。市原では川岸の関佐七や根本甚太郎、八幡の安藤佐兵治(佐平治とも。明治以降、安藤石材店。江戸時代後半に三代続けて佐兵治を名乗っている。5代目の常太郎は初代碩年を名乗り、以後、子孫は碩年を名乗った)と並んで広域に作品を残している点で大嶋もまた市原の名工といえよう。石材の搬入に便利なため、久兵衛や佐七ら市原の石工の多くは八幡から姉崎にかけての湾岸部に工房を構えていたのである。
内陸部では久留里や大多喜の石工がかなり利用されていたようで、何れも城下町として優秀な職人が存在していたはずである。彼らには周辺の村々の注文だけでなく藩からの注文もあったに違いあるまい。
また表からはっきりと分かるように18世紀後半から地元市原の石工の作品数が目立って増えてきている。近世、市原の経済的発展に呼応して、地元石工が急速に台頭してくるとともに、石造物の「地産地消」が海浜部を中心に進展してきたことをあらためてこの表から確認できる。
なお市原の江戸期の石造物は多くが安山岩製である。これは江戸城築造の際、真鶴産を中心とした小松石を主に石垣の材料として利用したことに由来するであろう。つまり江戸初期には伊豆・相模と江戸とをつなぐ石材の流通ルートが確立しており、江戸城完成後もそのルートが存続していたと思われる。そして築城の際に各地から集められた穴太衆や泉州石工などの一部が江戸に残留し、大名屋敷などで働き続けたに違いない。
彼らは17世紀後半、商工業の発達によって町人が武家と同様、墓石を設けるようになるとさらに活躍の場を拡大する。そして農民たちも18世紀には全国的に墓石を設けるようになり、石造物の需要は爆発的に増大した。江戸では石工達が大勢集まってついに「江戸御府内石工十三組」と呼ばれる特権的な同業者組合を結成するまでになる。
かつては農閑期に限られていたと思われる石工の仕事も江戸時代にはオールシーズンで稼げる専業の職業となっていった。こうして18世紀後半以降、江戸の石工組合は江戸での石造物一切を請け負う特権を獲得するかたわら、房総だけでなく関東各地に出張し、数多くの石造物を地方にも残していったのである。他方で江戸の石工が組合を設けて仕事の独占を図ろうとした背景に地方の石工の台頭が考えられる。江戸の石工に負けないほどの腕を持つ地方の石工達がこの頃続々と登場し、おそらく江戸の石工を脅かし始めていたのである。
市原では明和年間に活躍した八幡の瓜本権八が国分寺に残した壮麗な宝篋印塔(明和5年=1768)に地方石工の成長の一端を見ることができる。江戸の石工となんら遜色の無いその出来栄えに村々は地元の石工を見直し始めたに違いない。
18世紀末以降、市原の村人はそれまでもっぱら江戸に発注してきた「宮物」(神社の石造物のこと)を徐々に地元の石工に委ねるようになっていった。
寛政9年(1797)に奉納された根田神社の鳥居には誇らしく八幡の石工瓜本権八の名が記されている。彼はおそらく国分寺の宝篋印塔を造った権八の跡取り。権八らが代々積み上げてきた地元石工の名声の上に、19世紀、地方石工の時代が訪れる。関佐七、大嶋久兵衛、安藤佐平治、根本甚太郎らの華々しい活躍は何の前触れもなしに始まったものではなかったはずである。
※八幡の瓜本家の墓石は称念寺山門の右手前にある。初代瓜本権八と推定できる墓石
は宝暦11年(1761、二代目瓜本権八と推定できる墓石は明和7年(1770)の没年
が記されており、それぞれ「石屋」の文字が確認できる。ただし初代が関わったと
思われる石造物は今のところ確認できていない。
「袖ケ浦市史研究第5号」(袖ケ浦市史編さん委員会 H.9)所収「袖ケ浦の近世石工」(萱野章宏)では石工の名が刻まれることの多い石造物は寺社に「奉納」されたものが多いという傾向が指摘されている。また狛犬や宝筐印塔など、石工の技術力、表現力が試される石造物にも石工の名がよく登場するという。
木更津の高橋八郎右衛門などは落款印を用いており、自らの腕を誇示する、宣伝する意図もあっただろう。なお袖ケ浦で石工銘が確認された57点の石造物の多くは木更津の石工であるという。19世紀になると袖ケ浦の村々にいた石工の名が目立ってくるらしい。地元石工の台頭の時期はほぼ市原と同じであろう。そして地元石工の石造物はその多くが数か村ほどの狭い範囲内に供給されていたこともほぼ共通する。ただし袖ケ浦では江戸の石工が登場するのは2件だけであり、市原の18件とは大差がある。木更津石工の存在が袖ケ浦地域では圧倒的だった事がうかがえる。