37.廻国塔概説(前編)

 

 大乗妙典「法華経」六十六部を書写して全国六十六か所の霊場(東北の霊場では出羽三山が選ばれる事が多かったため、廻国塔の幾つかは三山塚上に建てられている)に一部ずつ奉納する目的で諸国を行脚した行者を「六十六部」とか「六部」、あるいは「廻国衆」と呼んだ。彼らは釈迦入滅後から弥勒菩薩が下生するまでの無仏時代に当たる56億7千万年の間、法華経を悪魔や外道から守るために全国を遊行したのである。鼠色の木綿の着物を着て厨子を背負い、鉦をたたき、鈴を鳴らして戸別に銭を乞い歩く。鎌倉時代から始まったと思われる六十六部の廻国は巡礼の一つで写経という善行と廻国という苦行によって「天下泰平、五穀成就、日月晴明、二世安楽」等を願うものだった。

 江戸時代には形式化し、写経はせずに納経札や金銭を納めるだけとなったらしい。巡礼者は納経帳を持って歩き、行く先々の寺社で受取を書いてもらう形式が広く普及していたようである。とはいえ、遊行は数年がかり、場合によっては10年を超える苦行には違いなかった。廻国を成就した行者らは誇らしげに郷里に「廻国成就塔」を建て、出立と帰着の年月日を刻んだ。しかし行半ばにして病にかかり、あるいは不慮の死を遂げた行者も多かった。この場合には現地の心ある施主が供養のために「六十六部供養塔」を建てた。これらを総称して「廻国塔」という。一応次回に投稿する一覧表では六十六か所の巡礼を成し遂げて建てられた碑を「成就塔」とし、「六部」が志半ばで倒れ、その菩提を弔うべく碑が建てられた場合、「供養塔」としてやや簡略な表現で区別しておいたが、銘文だけでは区別できないものも多い。

※小嶋博巳氏(「廻国供養塔から六十六部を考える」…「日本の石仏」2016春 

 No.157に掲載)によれば廻国塔のタイプは他にも巡礼の途中で供養塔を建てた

 「中供養」塔、廻国者への作善の供養塔(千人の廻国者に対して宿を貸した…お米

 を施した…草履を施した等)、廻国者の作善の供養塔(橋をかけた…お堂を建立し

 た等)などがあるという。

 船橋市内では二十一基確認され、最古は1709年のもの。市原ではカッパが今のところ113確認している。確認されている中で市原市内最古は1708年のもの。加来氏の袖ケ浦での調査では袖ケ浦最古の廻国塔は寛文5年(1665)であり、今後、市原でも17世紀に遡れる廻国塔が発見される可能性は十分あるだろう。宝篋印塔の形式のものが三基、表中に紹介されているが、これらは三界万霊塔や他の巡拝塔などを兼ねている。また三山塚上に建つケースが幾つかあり、当時、廻国の目標として市原出身の六部が出羽三山を選ぶことが多かったことも推測できる。

 多くの場合廻国塔は目立たない文字塔であり、墓石と見分けがつきにくい。このため無縁墓地内に墓石と混在しているケースが幾つかあった。ほぼ偶然に目に入ったため、ここに掲載されたものも少なくない。すべてを見つけ出すことはおそらく困難を極めるであろう。実際、加来氏の市内の石造物調査では廻国塔はわずか6基しか確認されておらず、カッパの調査との食い違いは大きい。とはいえ加来氏の調査結果を良く見るとかなりの数の廻国塔が経典塔として分類されてしまっている。これらの中には六部らが廻国の途中で法華経を埋納した記念に建てた経典塔としての廻国塔も確かにあるのかもしれない(中供養塔)。

 石塔の側面が確認できず、あるいは磨滅、剥落などの理由によって「成就塔」か「供養塔」のどちらかが判別できない場合も多く、表中では「?」としておいた。今のところ廻国塔に関しては市内で悉皆調査が行われた形跡はない。「悉皆」は無理としても是非、おおよその概況を今後も掴んでいく必要があろう。

 小嶋氏(既出)の調査によると全国的には数万の廻国塔が存在すると推定されている。今のところ小嶋氏がデータベース化できたのが九千基ほどであるがそのデータから以下の事が考えられるという。

 1.東国に多い。特に千葉県の1045基、長野県の932基は突出して多い。但し旧国別

  の件数でみると武蔵の958基、信濃の932基となる。千葉県は安房が286基、上総

  が138基、下総が740基。上総の把握された件数が少な目に思える。

  ※の記載を参照してください。

 2.18世紀初頭から東国中心に爆発的に出現。1600年代の100年間の総数がわずか

  54件に過ぎないにもかかわらず、1700~1709年の十年間で264件、次の1710年

  代には720件も出現している。この頃から納経帳が出現しており、「六部殺し」

  の話も宝永頃に出現しているという。1770年代が造塔のピークでおよそ800基。

  1800年代以降は東国が漸減していくため、西国とほぼ同数の基数となっている。

  明治以降は明治4年の太政官布告によって六十六部の活動が大きく制約されたため

  激減。

 3.法華経信仰だけにとどまらない、多様な信仰が習合。西国では阿弥陀信仰との習

  合が強く見られ、六部は念仏聖とほぼ同等の扱い。

 4.7000基以上が文字塔。内、1600基余りは仏像塔でその六割は地蔵塔。したがっ

  て地蔵信仰も習合。

 5.職業的な廻国者の組織が江戸後期に成立。必ずしも「渡世の六部」は偽六部では

  なく、廻国者を助力し、廻国塔の勧進に協力する全国的なネットワークが存在

  し、それらは公共的な事業の資金を調達するという役割をも担っていた。彼らは

  「天蓋」とも呼ばれ、京都の仁和寺、江戸の寛永寺を本山として活動していたよ

  うである。

 

 西海賢二氏は「江戸の漂泊聖たち」(吉川弘文館 2007)の中で江戸時代、厳しい宗教統制の下で生活できなくなった多くの聖(ひじり)達(寺院に属さず、俗世において諸国を遊行しながら法を説く民間僧、私度僧。これに対し寺に居住する僧は官僧)が幕藩体制下に虐げられた民衆の中に入ってそこで生死を共にするようになったことを指摘している。寺請制度が確立する中で特権の上に安住する官僧に対して、民衆の内懐深く入り込み、彼らの救済に励む聖達はより身近な宗教者として民衆から頼りにされる事も多かったに違いない。

 他方で聖達の中には生きるためにのみ聖の仲間に入った「偽聖」(「宿借聖」などと揶揄された)もいたようだ。確かに「六部」のなかにも「渡世の六部」はいた。六部が宿を借り、喜捨を受ける度に配った刷札には「天下安全、日月清明…」とあり、廻国納経の功徳にあずかれる旨が記してあった。しかしそれを真に受けず、疑り深い村人も多かったに違いない。

 かつて「六部に宿貸すな。娘とられて恥かくな」といわれたように、他所者の侵入を極端に恐れた当時の閉鎖的な村社会にとって六部と物乞い、盗賊のいずれかを見分けるよりも、ひとまとめにして警戒する方が容易であり、かつ安全確実でもあった。六部を「人柱」にしたという言い伝えや、急に裕福になった家に対して「六部を殺して奪った金品で金持ちになったに違いない」と悪口が言われるなどといった、いわゆる「六部殺し」の伝承は各地に残っていた。

 村人から宿を借りることができずに野宿したり、寺社の軒先で雨露をしのぐ六部も多かったに違いない。にもかかわらず、数年間の時を費やす、命がけの修行に大勢の人々が加わっていったのである。供養塔の多さを思う時、すなわち数多くの「六部」が病を得て中途で行き倒れた旅の過酷さを思う時、「偽聖」、「渡世の六部」とても気安く郷里を捨てて旅に出られるものではなかったろう。いずれにせよ、それは命がけの「渡世」であったのだ。

 過酷なのは六部だけではなかっただろう。修験者(山伏)や陰陽師、木食僧、願人坊主(すたすた坊主、乞食坊主とも)もまた加持祈祷、占い、芸能などを生活の糧とする一方で、施しを得るべくそれなりの修行を積む必要があったに違いない。中には封建的な土地への呪縛から解放されるべく、聖の道に入った者もいたであろうが、結果的には安住の地を失って彼らの多くが不安定な漂泊の日々を余儀なくされたはずである。おそらく時には同じ無宿者としてアウトローの世界と接することもあっただろう。市内に数多く残る供養塔はそうした漂泊者としての六部が数多の遍歴の果てに辿りついた、苦難多き生涯の証とも受け取れる。

 碑をよく見ると東北、大阪や静岡といった遠方の者がいる。家族に看取られることなく異土の地で孤独の内に果てる心境はいかばかりのものであったろうか?草深い田舎道や無縁墓地の一画に今もひっそりと建つ廻国塔にぜひ思いを馳せたいものである。

※なお2020年に出された「市原市の六十六部廻国供養塔」(いちはら六十六部供養塔

 調査の会)によると151基を市内で確認している。カッパの確認したものと重なら

 ないものが4基あった。おそらく市内には合わせて200基近くはあると思われる。

※「房総古代道研究6」(2023)において上記の調査の追補としてカッパが指摘した

 4基など合わせて8基が山本勝彦調査会長によって発表されている。この結果、市原

 市内で確認された廻国塔の総数は159基となっている。