15.七里法華資料
1.八幡円頓寺:日泰の隠居寺
2.七里法華と不受不施派
長享2年(1488)、千葉から土気、東金にかけて支配を拡大した酒井定隆は領内一円に日蓮宗を強制する「改宗令」を出したという。ある日、定隆が安房の里見氏を訪れるために品川から乗船したところ沖合で暴風雨に見舞われ、乗り合わせた日泰の祈祷で無事、浜野に到達できたことで日泰に深く帰依するようになったことがきっかけらしい。
既に日泰は文明元年(1469)、浜野に本行寺を創建、文明5年には品川に本光寺を再興するなど、江戸湾の海上交通を利用して当時盛んに布教活動を行っていた。酒井を弟子にした日泰はさらに教線の拡大をはかるため、酒井に働きかけて「改宗令」を出させたようだ。これに反対する寺院は破却されるか、移転を余儀なくされた(菊間の千光院等)という。
以後、約100年間、酒井氏五代に渡って日蓮宗妙満寺派(顕本法華宗)が領内に浸透し、現在でも山武の南部から市原北部と千葉までのおよそ七里四方は日蓮宗寺院280か寺を数える。特に茂原、東金、大網に密度が濃い。「改宗令」の真偽はともかく、日蓮宗寺院がこれだけ密集して存在するのは全国的にも珍しいという。
市原市でも八幡円頓寺は日泰が老後を過ごした寺であり、顕本法華宗の勢力は七里法華にかかる市の北部を中心に円頓寺をはじめとして姉崎妙経寺など市内の各地にも及んでいる。
日泰が創建した浜野の本行寺は江戸時代になって御禁制の不受不施派に近い立場にあった什門流の住職が続いたため、本行寺の影響が強かった七里法華の地域の僧侶や信者がたびたび幕府に弾圧されている。
「民衆と信仰―来世への救いをもとめた人びと―」(県立総南博物館特別展パンフレット平成6年)によると不受不施派とは…
開祖は日奥(1565~1630)で京都妙覚寺の住職であったが1595年、秀吉から方広寺で千僧供養会を開くのでその出席を命ぜられた。日奥は日蓮の教えに忠実たらんとしてこれを拒否し、丹波に逃れた。日奥に賛同する者たちがやがて結集し、不受不施派が形成されていった。1599年、今度は家康が日奥らを大坂城に呼んで受布施派と対論させ、千僧供養会への出席を求めた。これも拒否した日奥らはついに対馬へ流罪となった。1630年、再び幕府の命で不受不施派と受布施派との対論が行われ、不受不施派6人(内5人は房総出身)が流罪、2人は自殺した。この段階で事実上、日蓮宗総本山は身延山久遠寺となった。
1665年、幕府は不受不施派に寺領を受ける(=施しを受ける)ことを迫った。これを拒否した松戸の本土寺日述らは流罪、同派が檀家を持つ事も禁じられた(寛文の惣滅)。1691年、幕府はさらに不受不施派をやめる起請文の提出を迫り、これを拒否した70人以上が伊豆諸島に流罪となった。この時の不受不施派の寺院数は100を超えていたが、特に安房、上総、下総の三国だけで49を数えていた。
こうした弾圧にも負けず、信仰を守り続ける人達がいた。特に夷隅地方や備前(岡山)には「内信」を貫く者が多かった。1717~18年、上総行川で日進ら内信者14人が捕まり、4人が牢死している。これに抗議した他の僧侶も捕まり、7人が島流し、4人が牢死した。1794年には下総多古の内信者らが捕まり、20人以上が牢死した。さらに1838年、同派の総検挙が全国規模で行われ、関東では「八州廻り」が出動。1840年までに上総、下総で200人以上が「改宗証文」を書かされている。
同様に不受不施の教義を守り続けたのが什門流。酒井定隆が行った七里法華は什門流に属していた。茂原出身の日経(1560~1635)は日奥と連携して統制に反発し、1609年、耳鼻削ぎの刑に、彼の弟子5人(内4人は上総出身)は鼻削ぎの刑に処された。京都を追われた日経は越中で没している。1627年、日経の建てた方墳寺(大網白里)を代官三浦監物が焼き払い、日経の弟子日耀が牢死、4人の在家信徒が三宅島へ流罪となった。1635年には同じく三浦監物が本覚寺(千葉市緑区誉田)を焼き払い、日経の弟子や在家信徒らを9月5日に磔に処した(処刑された日に因んで後に「五日堂」が建てられた)。1660年、方墳寺跡に芳墳寺を再興した日尚が三宅島に流罪。浜野本行寺の10世日逞(~1692)は本満寺(千葉市)の日清とともに伊豆大島へ流された。1739年、大網白里出身の日進(1698~1767)は寺社奉行大岡忠相の裁きによって三宅島へ流され、上総国の信徒831人が「改宗証文」を書かされた。
なお日逞や日進は流罪後も島で法華曼荼羅、教議書を房総の内信者に送り続けたという。
※日逞らは流罪後も島から手紙を信者に送るなどして布教を続けた。処刑を恐れた信者の一部はそれ
でも信仰を守ろうとして表向きは他宗の寺院に属しながらも、「納戸題目」「内證題目」などと称
し、隠れ部屋などで密かにお経を唱え続けたという。
3.本行寺
五日堂墓地