20.縁日について
・「縁を結ぶ日本の寺社参り」(渡辺憲司監修 青春新書 2006)より
以下、要旨をご紹介いたします。
1.春の縁日
江戸における元旦の早朝は一家の主人が衣服を改め、桶を持って井戸端へ水を汲みに行くことから始まる。この水は「若水」といい、これで雑煮を作り、神仏に捧げる水としても使った。
江戸の井戸は掘り抜きの井戸が少なく、ほとんどは水道から引いた水を桶にためておくものだった。年に一度は井戸浚え(井戸替え)が必要で、7月の頭頃に井戸に入って掃除をするのが習わしとなっていた。
初詣は「恵方参り」といってその年の歳徳神(としとくじん)が来るという方角の神社にお参りした。2日からは初売りが始まる。太神楽(だいかぐら)や猿回しなどが芸を披露し、双六などを売る行商人が来た。七日までは掃除をしないという風習(幸せを掃き出さないように)もあったようで、かきいれ時とばかりに商売に励む大道芸人や行商人を除けば、ノンビリと過すのが普通であった。
正月8日は初薬師といわれ、その年の健康を祈願する。茅場町薬師(智泉院)は特に賑わったという。10日は初金毘羅で多くの船頭や漁師が虎ノ門の琴平神社に参詣。獣肉を食べることがタブーであった当時は魚介類の需要が大きく、漁師の数も多かった。なお12月10日は終い金毘羅といって一年の感謝をするために参拝する者が多かった。
21日は初大師(初弘法)。真言宗寺院では「御影供(みえいく)」と呼ばれる法会が行われる。西新井大師や川崎大師が有名で、特に川崎大師は「厄除け」で知られていたため、厄年(中国伝来のもので平安時代に伝わったらしい)の男女が数多く参詣した。
24日は初地蔵。江戸六地蔵と呼ばれた正徳4年(1714)に江戸の出入り口に設置された3メートル近くの巨大な地蔵はとくに有名。
25日は初天神。28日は初不動。目黒不動瀧泉寺は三代将軍家光の帰依を受け、目黒御殿と称されるほどに豪華な建物が立ち並んでいた。不動明王はシヴァ神が密教に取り入れられたものと言われ、悪魔を下し、仏道に導きがたい者を畏怖せしめ、煩悩を打ち砕くとされた。そのため、災厄を封じ、家内安全、商売繁盛にもつながると広く信仰された。
初亥は摩利支天の縁日。インドの神で光や陽炎が神格化された神。日本では光や陽炎が実体のない、傷つかない存在であることから、武士の守り神として信仰された。猪に乗った姿で表されたため、亥の日が縁日とされた。江戸時代には大黒天、弁財天と並んで三天と称され、蓄財と福徳の神として特に商工業者に信仰されるようになった。上野の徳大寺(アメ横)の摩利支天が有名。
初甲子は大黒天の縁日。元はインドの戦闘神だったが仏法の守護神に取り入れられ、日本では食物の神として厨房などで祀られるように。また大国主命と習合し、子孫繁栄、商売繁盛の神として信仰されるように。大国主命がスサノオに焼き殺されそうになったときにネズミに救われたという神話から子の日で特に干支の最初となる甲子が縁日とされた。この日は「甲子待ち」といって子の刻まで起きて二股大根や小豆飯、黒豆などを供えて大黒天を祀る風習があった。
初午は二月初めての午の日。稲荷の縁日。伏見稲荷の祭神がこの日、稲荷山に降臨したことに因む。旧暦の2月は今の3月半ばにあたり、春めいてくる。初午は江戸の春祭りという趣もあった。江戸では小豆飯に辛し菜をそえて食べるのが習わしだった。特に有名なのは王子稲荷。諸祈願の絵馬を奉納し、凧市も開かれた。なおその翌日は寺子屋に入門する日とされていたため、入門をひかえていた子どもにとっては遊び納めの日でもあった。
2月8日は針供養。関西では12月8日。淡島神社に折れたり錆びた針を奉納する。江戸では浅草寺境内にある淡島堂に多くの女性が訪れた。本社は和歌山の淡島神社で淡島願人と呼ばれる願人坊主が御利益を説いて全国を行脚し、信仰が拡大。江戸では明暦以降、針供養が行われるように。淡島様は女性の守り神、特に婦人病の神として崇敬された。
2月15日は涅槃会で釈迦が入滅した日。現在は3月15日に行われる。江戸ではさらに春と秋の彼岸には「六阿弥陀参り」が盛んだった。
3月18日は浅草の三社権現のお祭りで「浅草祭り」、「観音祭り」と呼ばれていた。628年のこの日に、隅田川から小さな観音が網にかかり、お堂を建てて祀ったのが浅草寺の始まり。観音の縁日が18日で重なっていることもあって、山車が繰り出す大きな祭礼となった。ただし現在は「三社祭り」と呼ばれて5月17,18日に行われている(明治時代、神仏分離によって浅草寺と浅草神社が分離したため、今は浅草神社の祭礼となっている)。
毎月18日、28日は鬼子母神の縁日。ただし初鬼子母神というのは無い。安産子育ての神として信仰を集め、縁日には女性の参拝客が多かった。他人の子をさらって食べてしまう鬼女だったが仏法に帰依。「鬼」の角を取った漢字を当てる事も多い。江戸では入谷真源寺(明治以降、入谷の名物となった7月6・7・8日の朝顔市でも有名)と雑司ヶ谷法明寺(江戸時代、子供の玩具として人気だった「すすきみみずく」でも有名)が有名で、太田蜀山人の狂歌「恐れ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師さま」も人口に膾炙している。鬼子母神は天女のような姿で子どもを抱き、右手に吉祥果(石榴:ざくろ)を持っている。ざくろは沢山の実を持っていることから多産の象徴。
3月3日は上巳の節句。五節句の一つである。元来は三月最初の巳の日という意味だが、江戸時代には三日に限定されている。古来、紙で作ったひな人形を飾っていたが、やがて人形師の作る人形を飾るように。元禄以降、庶民にもひな人形が普及し、狭い町屋にも飾れるように「ひな壇」が使われだした。日本橋に「十軒店」のひな市が開かれ、2月下旬になると多くの人が日本橋を訪れた。今は4月にあたるので花見のシーズンであり、上巳の節句が終わるとやがて潮干狩りのシーズンとなった(品川、高輪、洲崎など)。
2.夏の縁日
4月から6月が夏(現在の5月から7月)。四月一日から衣替えで薄手の袷を着るようになる。さらに暑さが増す端午の節句(五月五日)頃からは裏地の無い単衣の着物に衣替えする。5月28日は両国の川開きで三ヶ月間、屋形船が出て花火も打ち上げられる。これは享保年間に飢饉やコレラの流行があり、両国橋付近で除霊と厄払いの打ち上げ花火を上げたのが始まりという。
4月初めに取れ始める鰹は「初鰹」と呼ばれて江戸っ子に珍重された。文化9年には鰹一本に三両(庶民にとっては二カ月分の収入に相当)もの値がついたという。江戸っ子の夏の挨拶は「もう鰹は食ったか?」であった。ホタル狩りも流行し、谷中の蛍沢や目黒には団扇持参で人が集まり、虫籠に入れて家に持ち帰った。蛍を売る行商人もいたという。江戸中期以降は金魚も流行した。
江戸の夏祭りは日枝神社山王権現の祭礼が有名。将軍も城内で山車を見物したことから「天下祭り」と呼ばれ、9月の神田明神の祭礼とともに江戸の二大祭りと言われた。
4月8日は灌仏会(誕生会、仏生会などとも)といい、釈迦の誕生を祝った。灌仏会では境内に花を飾った小堂を建てた。これを花御堂という。その中に「浴仏盆」という水盤を設置し、上に釈迦の誕生仏を置いた。参拝客はこの像に小さな柄杓で甘茶を注ぐ。甘茶はユキノシタ科の木の葉を煮だしたもので、釈迦誕生時、九匹の龍が現われ、天から清浄の水を降らせて産湯としたとの説話がもと。参拝後は甘茶をいただくことができた。境内や門前では青竹の小筒が売っており、甘茶の持ち帰りもできた。これで墨をすり、「五大力菩薩」と三行書いたものを箪笥に入れておくと衣類に虫がつかない、と言われた。この日は「とうきたり」と呼ばれた乞食が現れ、灌仏像を持って家々を銭乞いして回った。また別の起源を持つ風習がこの日にはあった。卯の花を戸口に飾るもので山の神を田に迎え入れる行事が起源と考えられる。ただ灌仏会の陰に隠れて次第に簡略化されていったという。
端午の節句も本来は月初めの午の日であった。5日に固定された理由については「午」と「五」が同音だから、など諸説ある。中国伝来の風習で薬草を摘んだり、ヨモギで作った人形を魔除けとして門にかけたり、菖蒲湯や菖蒲酒を飲む風習があった。日本ではこの時期、梅雨時で疫病が流行する季節であり、台風の被害もあって五月は「物忌み月」とも言われていた。また早乙女が身を清めて田植えの神を迎える儀式もあった。日本の風習と中国の風習が合体して現在の行事に発展していったものと考えられる。本来は女性の節句だったが、武士の時代が続くうちに菖蒲が「勝負」「尚武」に通ずるため、男子の行事に変っていった。鯉のぼりは江戸中期からで「後漢書」の登竜門の故事にある、鯉が黄河の急流を上りきれば龍となる、という話に基く。
6月1日は富士山の山開きで、江戸中期から流行した富士信仰から山頂の富士権現社へ参拝するため、大勢が富士山登頂を目指した。特に食行身禄(伊藤伊兵衛)が富士山中で1733年、断食の末に亡くなって以降、弟子たちの布教もあって江戸市中に次々と富士講が作られ、「江戸八百八講」と言われた。また実際に登山できない人々の為に富士塚が神社の境内に築かれ、この日に参拝することも流行した。富士参りのお土産として代表的な麦わら細工の蛇は疫病除け、火事除けに効験があると言われた。
6月15日は山王権現の祭礼で、江戸っ子の氏神様の大祭礼として熱狂的なお祭りとなった。山車の行列が町を練り歩き、見物人は家の入口や軒先に席を設けて見物した。奢侈が目立ってきたため、天和年間(1681~84)以降、神田明神の祭礼と一年交代で行われるようになった。
6月の晦日は「夏越しの祓え」が行われる。半年間の穢れや厄を払う行事で12月の大晦日に行われる「年越しの祓え」と対になっている。この二つを「大祓え」といい、大宝律令に宮中の年中行事として規定されている。各神社では茅の輪くぐりが行われる。
6月末から7月上旬(6月28日~7月17日)にかけて「大山詣で」が行われる。江戸からは富士山を背にきれいな三角の大山がよく見えた。大山講は鳶や職人、棒手振、歌舞伎役者などが多かった。女人禁制の山だったことから男性中心の講であった。江戸からは二、三泊で参拝できる手軽な距離であった事も手伝い、男中心に大勢の参拝客が押し寄せた。参拝後は江ノ島や鎌倉見物、あるいは品川遊郭などに立ち寄るなど、娯楽性も強かった。あらかじめ両国などで先達の法螺貝の音と共に「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱えて水垢離をした。その際、木太刀(奉納大山石尊大権現と書かれた)を携え、山頂の阿夫利神社に奉納し、代わりに他人が納めた木太刀を持ち帰って家の守りとする風習もあった。なお7月14日はその年上半期の節季で支払いの決算期だったので、大山詣でに名を借りて江戸より借金取りから逃げる者もいたという。
3.秋の縁日
江戸の秋はお盆から始まる。旧暦の7月は今の8月であり、まだまだ暑いが7月1日から軒下に盆提灯をつるして故人の供養が始まった。7月15,16日は「藪入り」で奉公人は新しい着物と小遣いが渡され、親元に帰ることが許された。閻魔様の縁日とも重なり、親元に帰る前に奉公人は芝増上寺や品川東海寺へ立ち寄る者もいた。お盆が終わると本格的な実りの季節。8月15日にはお月見があり、畑作物の豊作を祈願した。またこの日は問屋や材木商が集まる深川の富岡八幡で大きな祭礼があった。
7月7日は「七夕」。中国の伝説と日本の「棚機女(たなばたつめ)」の信仰が融合したもの。奈良時代から宮中で儀式があったが、民衆へは江戸時代に広まった。里芋の葉にたまった朝露で墨をすると字が上達すると言われ、その墨で短冊に願い事を書いて竹に結んだ。江戸の街中では竹売りの行商が出た。竹には短冊だけでなく、ホオズキや紙製の硯、筆、算盤、大福帳なども吊るされ、竹は屋根の上に立てられていたという。年に一度の井戸浚えも行われた。墓や仏具の掃除を行うところもあり、盆に入る前の禊の意味を持つ風習であろう。竹飾りは祭りが終わるとすぐに川に流された。
7月9日、10日に浅草寺にお参りすると四万六千日お参りしたのと同じ功徳があると言われている。室町時代には正月元旦にお参りすると百日分、11月7日は六千日分の効果があるとされた。功徳日と呼ばれる特定の日にお参りする風習は江戸時代に一層広まった。観音様の功徳日として一番効果的なのは7月10日の四万六千日分。この数は一升枡に入る米粒が四万六千粒で、一生と一升をかけて長寿を祈ったもの。
七月早々から江戸では盂蘭盆会に備えて苧殻(おがら:迎え火を焚くために使う。繊維原料となる麻の茎から繊維を取った後の殻で、焚きつけに用いられた)売りや竹売りが歩き回る。当時は仏壇が無いので、盆の時だけ魂棚(たまだな)を飾りつけた。菰の上に位牌などを置き、竹を立てて菰縄で囲み、野菜や栗、米を供えた。15日は中元といって祖先をお迎えするかたわら、子どもの奉公先に贈り物を届けた(→「お中元」)。盆踊りも江戸時代から広まり、佃島では13日の夜から15日の夜まで佃踊りで露店まで出て賑わった。
八月朔日(ついたち)は「八朔」といい、五穀豊穣を祈願した。農家では田の実りを祈り、田の実=「頼み」にかけて、普段、頼りにしている人に初穂などの贈り物をする風習が鎌倉時代に広まった。徳川家康は八朔に江戸城に入ったので、江戸時代、八朔を祝って諸大名が白帷子(しろかたびら)を着て登城する習慣が生まれた。
吉原の遊女もこれを真似して白無垢を着るように。なお吉原の遊女は借金のかたなどで売られてきた少女だった事が多く、十年間の奉公で、上客に連れ出されなければ病気療養以外に吉原を出ることは許されなかった。小さな時は「禿(かむろ)」、14歳くらいで「新造(しんぞ)」。年季があけるのは28歳くらいで、その時までに伴侶として引き取ってくれる(身請け)ことができれば吉原の外に出られた。年季があけても引き取り手が無ければ遊女を仕切る「遣手(やりて)」となった。死んだ場合は身寄りが無ければ近くの浄閑寺に埋葬された。しかし無縁仏は大きな穴に投げ込まれたので「投げ込み寺」とも呼ばれた。
7月26日は「二十六夜待ち」が行われた。夜中の二時頃まで芝高輪の海岸や湯島、九段、日暮里の高台に大勢が出かけ、飲めや歌えの大騒ぎが続いたという。高輪の近くは岡場所で有名な品川宿があり、ついでに…ということもあったという。
8月15日は仲秋の名月にあたる。また深川富岡八幡の祭礼の日でもあった。山王祭り、神田祭りと並んで三大祭りに数えられる大きな祭り。深川らしい庶民的な性格と威勢の良さがあり、大勢が押し掛けた。とくに豪華な神輿は見もので文化4年(1807)、あまりにも大勢の人が一斉に永代橋を渡ろうとして橋が落下し、次から次へと人々が転落して千人以上が溺れ死んだという。このため明治まで祭礼が禁止されてしまった。永代橋は大川橋、新大橋と並んで江戸の「三橋」と呼ばれた。この日には放生会(本来は仏教上の儀式)が行われ、魚や鳥が放たれた。
9月9日は菊の節句で「重陽」と呼ばれた。一番大きな陽(奇数)の数である九が二つ重なるため「重陽」という。中国の行事で五節句の最後に位置し、不老長寿の薬と考えられていた菊の酒を飲んで長寿を願った。平安時代、宮中に取り入れられたが、江戸時代、幕府が重視したため庶民の間にも広まった。菊の栽培も流行し、品種が爆発的に増えた。この日より単衣から袷に着替え、習い事をしているものは師匠へ挨拶に出向くというけじめの日でもあった。
9月13日は「十三夜」といい、8月15日の仲秋の名月だけを拝むのは「片見月」といって忌むべきこととされた。「十三夜」は栗名月、豆名月といわれた。月にすすきや栗、サトイモ、枝豆などを供える点は「十五夜」と変らない。江戸では川船に乗って眺めるのが流行した。
9月15日は神田明神の祭礼。将門を祭神とする二年に一度の大祭。山王神社は百六十町に、神田明神は六十町に氏子を持ち、山車の数も四十五と三十六で他の祭りとは群を抜いていた。家康は江戸に幕府を置いた際、将門を関東の守り神として尊崇し、秀忠の時の1616年には江戸城の表鬼門に位置する現在地に移転させ、江戸総鎮守として保護を加えた。
9月11日から21日まで通称「だらだら祭り」と呼ばれた芝飯倉神明宮(現在は芝大神明宮)の祭礼が行われた。ここは関東の「お伊勢様」とされ、市がたち、興行も行われて大勢の見物客で賑わったという。
4.冬の縁日
十月には大きな法要が二つ営まれる。一つは浄土宗の「お十夜」で、十日間、念仏を唱え続ける。6日から15日までで、芝増上寺のものが有名。もう一つは日蓮宗で日蓮が入滅した13日に「お会式」を行う。日蓮が亡くなった時、冬にも関わらず、桜が咲いたという言い伝えに因んで万燈行列を行う。
十月最初の亥の日は玄猪(げんちょ)といい、摩利支天の縁日。亥の刻(夜の9時~11時)に亥の子の形をした玄猪餅(豆の入った餅)を食べると万病が除かれ、子々孫々繁栄すると言われた。平安時代、宮中で行われたが、江戸時代に庶民にも普及。この玄猪餅が牡丹餅(ぼたもち)となる。「ぼたん」は「いのしし」のことでもあった。江戸では上野の徳大寺の摩利支天が有名でこの日にお参りすれば四万六千日分の功徳が得られる功徳日であった。
10月5日からは十夜法要。13日は日蓮の命日でお会式。池上本門寺が特に祭りのような賑わいを見せた。20日は商人の場合が恵比寿、鍛冶は稲荷、大工が聖徳太子、芝居関係者は客人(まろうど)大明神を祀ってそれぞれ商売繁盛を願い、宴会を開いた。
11月9日はふいご祭り。江戸は神田鍛冶町、鍋町に鍛冶師や鋳物師、釜師が集まり、刃物や鍋釜などの金物がつくられていた。この日だけは職人たちがふいごを休ませ、稲荷にお参りした。鍛冶屋が子どもたちにミカンを配る風習もあった。
15日は七五三。男女三歳(髪置き:短くしていた髪を伸ばすようにする)、男子5歳(袴着:初めて袴をはく)、女子7歳(帯解:幼児用に付いていた紐を取り、帯で着物を着る)を節目に祝い事をした。元々は公家、武家の習わしだったが江戸時代、民衆にも普及。15日はすべての祝い事に良い日とされていたので、この日に定まった。土地の産土神に父親が子どもを肩車してお参りし、子どもはお神酒を飲まされた。元禄から宝永にかけて浅草の飴売り七兵衛という者が「千年飴」という名の飴を売りだしたのが「千歳飴」の始まりという。子どもが引きずるほどの長さがあり、その長さが健康と長寿を願う縁起物として喜ばれた。
酉の日は酉の市。福をかき集める熊手を買い、商売繁盛を祈願する行事で、浅草の鷲(おおとり)神社が有名。隣は吉原であったため神社詣での帰りに立ち寄る人も多かったという。
12月13日は煤払い。古くから正月を迎えるための準備が始まる日であった。一年間の煤を払い落すのと同時に一年間の穢れ、厄を払うという神事でもあった。掃除道具として当時は笹竹を良く用いたので、笹竹売りの行商人が町に出た。歳の市もこの頃から各地で開かれた。江戸では14日の富岡八幡を皮切りに新年を迎えるために必要な品々が売られた。最大の歳の市は17・18日の浅草観音市。門松、羽子板(邪気を払う力があるとして江戸時代に子どもへの贈り物となっていた。羽の方の玉は「無患子(むくろじ)」といって子の無病息災のお守りでもあった)、凧、火箸、注連縄などあらゆるものがそろい、大勢の客で賑わった。
節分は年末の12月12,13日。家の軒下に柊と鰯の頭を吊るし、魔除けとした。家の主人が神前仏前に灯りをともし、かまどを清めて鬼打ち豆を煎る。煎った豆は枡に入れて三方へ載せ、その年の歳男が恵方に向かって豆を打ち、次に神棚、部屋へ豆をまく。そして自分の年齢よりも一粒多い豆を食べて健康を祈った。鬼王権現を祀っている新宿の稲荷鬼王神社では「鬼は内、福は内」と唱える。一般に節分の日には里芋、大根、牛蒡、焼き豆腐、黒豆、蓮根の煮物、田作りの重と数の子を肴に酒を酌み交わす習いだった。これがお節料理の起源という説もある。また「年取り物」といってお年玉のようなものを家の主人は家内全員に配っていた。浅草寺の節分会は盛大で大勢の人が集まった。
大晦日は除夜の鐘を聞きながら一年の厄を落とす。108回鳴らされる鐘は107回までを年内に鳴らし、108回目は新年に撞く。手打ちそばは宝暦年間に始まったと言われ、年越し蕎麦を食べる風潮も江戸時代に始まった。
・鬼子母神:縁日は8日、18日、28日。法華経護持の神。鬼神ハシシカの妻で千人とも万人ともいわれるほど子沢山であったが他人の子供を奪って食べてしまう鬼女でもあった。そこで仏は鬼子母神が最も愛していた末っ子を隠して、子どもを失った母親の悲しみを悟らせた。以後、鬼子母神は仏法の守護神となり、安産・育児の守り神となった。訶梨帝母とも呼ばれる。法華経信者の守護神でもあるため、中山法華経寺にも鬼子母神堂があり、日蓮が自ら彫ったという鬼子母神像が祀られている。
・歓喜天(かんぎてん):16日が縁日。インドの神でシヴァ神の子といわれるが、仏教に取り込まれ、護法神となった。人身象頭の姿で四本(六本)の腕を持つ。日本では男女二体が抱擁した姿の像が多い。本来の歓喜天は乱暴な神であったが、それを治めるために十一面観音が天女に姿を変えて抱擁することで歓喜天の衝動を抑えたと言われ、その姿が抱擁像の由来という。この姿から夫婦和合、子宝の神として信仰を集めた。また単身での歓喜天は摩神を支配する神とされ、事業の成功を祈願するためにも祀られる。基本的には秘仏扱いにされる事が多い。
なお、ガネーシャ(サンスクリット語)が象頭なのはシヴァ神が誤って頭を切り落としてしまって、頭が見つからなくなってしまったので代わりに象の頭をつけたという。浅草の通称「待乳山(まつちやま)聖天」本龍院が有名。境内では大根と巾着がいたるところで目に入る。大根は健康、良縁、夫婦和合を、巾着は商売繁盛を祈願する縁起物。浴油祈祷が毎朝、行われ、聖天の煩悩を落として聖天の徳や力を増す。さもなくば本来持っている荒々しい聖天の欲望がたちまち、復活してしまうので毎日、清め続けなければならないという。「日本三大聖天」は他に奈良生駒の寶山寺(通称「生駒聖天」)、埼玉妻沼の歓喜院(通称「妻沼聖天」)が有名。
・水天:5日が縁日。十二天の一つでヴァルナといい、インドでは水の神、龍神であった。水難除けや雨乞いの祈願が行われ、漁業・水運業・水商売の関係者に崇敬された。また安産にも御利益があるといわれる。妊娠五カ月目の戌の日に岩田帯という腹帯を締めて安産を願う風習が古くからあり、水天宮でも戌の日に安産祈願の祈祷を行う。総本社は福岡久留米の水天宮で、ここには安徳天皇が祀られている。東京の中央区にある水天宮は1818年に久留米藩主有馬頼徳が久留米から江戸屋敷内に分霊し、祀ったことに始まる。1872年、現在地に移転。
・愛宕権現:24日が縁日。火の神で防火に御利益がある。京都の愛宕大権現が中心。役行者が火之迦具土神(破壊と生成の両極を象徴。イザナミはこの神を生み、焼け死んだので、イザナギによって殺されたという)を祀ったことに始まる。徳川家康は防火の守り神として江戸の愛宕山に祀り、諸大名もこれに見習って国元で愛宕神社を創建させたため、全国に流布。「火迺要慎(ひのようじん)」のお札で有名。港区の愛宕神社は6月24日が功徳日で千日分の御利益があるとされ、前日には「ほおずき市」がたつことでも有名。また急こう配の石段は「出世の階段」とも呼ばれ、曲垣平九郎という武士が馬に乗って階段を上がったことで三代将軍家光に称賛されたという故事で知られる。
・天神:25日が縁日。江戸では亀戸天神と湯島天満宮が有名。亀戸天神は1662年に太宰府天満宮より勧請したもので、「東の大宰府」と呼ばれたほど大勢の参拝客を集めた。梅だけでなく、藤の花でも有名。初天神の1月25日には「鷽替え」の神事(1820年から始まったという)も行われる。木彫りの「鷽」を奉納し、古いものと交換する神事で、今までの悪いことはすべて「ウソ」となり、良い方に「とりかえる」事で良運をもたらす神事。8月25日は例大祭で二十五基の神輿が氏子の町内をまわり、四年に一度の渡御祭では神輿を黒牛にひかせる、最大の祭りとなる。湯島天満宮は幕府公認の「御免富」という富くじの販売が認められていた(他には感応寺、目黒不動)。ここの例大祭は5月25日。
・摩利支天:亥の日が縁日。インドではマリシという神(太陽や月の光を意味)だったが仏教に取り込まれて、護身の御利益がある守護神として武士の間に広まった。楠木正成の信仰もあり、江戸時代には大黒天、弁天とならんで三天と称されるほど人気があった。多くは天女の姿だが男の場合もある。上野徳大寺は上野寛永寺の門前に位置し、「気力・体力・財力」を与え、開運の御利益がある徳大寺への参拝も欠かさなかったという。11月最初の亥の日は功徳日であり、厄除け黒札が配られる。京都東山建仁寺禅居庵も三大摩利支天の一つ。1333年に摩利支天堂が建てられたという。元の高僧がもたらしたという摩利支天像は七匹の猪に乗っており、ここから猪が摩利支天の使いとされるようになった。境内には狛犬のように猪の像が対になっている。
・大黒天:甲子の日が縁日(年6回)。シヴァの別名マハーカーラ(マハーは大いなる、カーラは黒)から。本来は破壊、戦闘の神だが大国主命と習合してからは豊穣の神、田の神として信仰されるように。ネズミが使い。神田明神の一宮には「オオナムチノミコト」=大黒天が祀られる。
・毘沙門天:寅の日が縁日。インドの神クヴェーラが起源。すべてを聞き洩らさぬ知恵者だったが、戦い、勝運の神となる。四天王の一つの場合には北を守る多聞天と呼ばれる。江戸では神楽坂の毘沙門天として知られる善国寺が有名。
・金毘羅:10日が縁日。ガンジス川のワニが神格化されたものでクーベラ。仏教に取り込まれて十二神将の筆頭宮比羅大将となった。
・恵比寿:縁日は地方によって異なる。兵庫県の西宮神社、大阪の今宮戎神社が有名。1月10日を中心とする今宮の十日戎の縁日では「商売繁盛で笹もってこい」という掛け声が響き、縁起物の福笹などを持ち帰る。
・弁天:己巳の日が縁日。インドではサラスヴァティという川、水の神。日本では芸能の神でもある。宇賀神(人頭蛇身)と習合し、蛇を従える。鎌倉の銭洗い弁天=宇賀福神社は北条時頼がここの水で銭を洗い、一家繁栄を祈ったという話に基き、洗ったお金が倍になって還ってくるという信仰になったという。
特に巳の日は数十倍、数百倍、数千倍になって還ってくるといわれ、特に初巳の日は多くの参拝客で混み合う。江の島弁天=江島神社は大山詣での帰りに立ち寄る人も多く、賑わった。八臂弁財天は鎌倉初期のもの。妙音弁財天は鎌倉中期のもので琵琶を抱えた裸体の坐像。特に音楽芸能の上達を願う人がお参りする。4月の巳の日に例大祭が行われる。
・稲荷:初午は2月最初の午の日。伏見稲荷の祭神が稲荷山に現われた日とされる。今は三月中頃に当たり、春の行事であった。伏見稲荷の一万にものぼる鳥居は江戸時代以降、願いが「通る」あるいは「通った」お礼に鳥居を奉納する習わしから。江戸では千束稲荷(台東区)が有名で初午の日には地口行灯が百余り飾られた。地口と戯画がかかれた行灯で江戸中期に流行したという。
・元三(がんさん)大師:1月3日が縁日。延暦寺を再興した良源(慈恵大師)は985年の1月3日に没したので。伝説も多く、三匹の鬼を法力で退散させたということから鬼の描かれたお札(魔除け札)がある。「角大師」「厄除け大師」とも呼ばれる。また「おみくじ」の創始者とも言われる。栃木の佐野厄除け大師(惣宗寺)は関東三大大師(川崎大師と西新井大師は弘法大師)の一つで慈恵大師を祀る。正月には百万人以上が訪れる。
・妙見菩薩:1日と15日が縁日。中国古代の星宿思想に由来。北極星、北斗七星への信仰と仏教とが習合。明治期に神仏分離が進められた結果、多くの妙見宮、北斗宮が消えていった。奈良の斑鳩にある法輪寺は江戸時代、寶祐上人が荒廃した寺の復興のため聖徳太子が信仰したという妙見菩薩の信仰を復活させて勧進を進めた。大阪の能勢妙見山は日蓮宗。その別院が東京墨田区にある。1774年に創建され、庶民にも信仰されるようになった。勝海舟の父が犬にかまれた海舟の全快のために水垢離をそこで行ったという。
・薬師如来:8日が縁日。バイジシャジヤグル。東方の薬師如来の浄土である浄瑠璃世界の主。瑠璃光をもって無明の世界から衆生救済をはかる。日光・月光(がっこう)菩薩を従える三尊形式も多い。江戸では新井薬師(中野区)=梅松院が有名で二代将軍秀忠の娘が眼病にかかった際、ここで祈願したらたちまち治ったということで「眼の薬師」としても信仰された。高尾山薬王院(八王子)も川崎大師、成田山新勝寺と並んで関東三本山の一つ。飯綱権現も祀られ、薬師信仰とともに霊山として知られる。徳川家からも手厚い保護を受け、たびたび出開帳がおこなわれた。
・虚空蔵菩薩:縁日は地方によって異なる。宇宙の如く無限の智恵と福徳を蔵した仏。
・観音菩薩:18日が縁日。アヴァローキテシュバラ。世界の出来事を自在に観察することができるという意味。救いを求める者の心に合わせて自在に変化することができることから三十三の姿に変化した三十三観音が各地で祀られている。中世、観音霊場の巡礼が流行。坂東三十三ヶ所、秩父三十四か所、西国三十三ヵ所、あわせて百か所、百観音を巡礼することもあった。浅草寺、京都清水寺が有名。
・不動明王:28日が縁日。アチャラナータで不動の守護者を意味する。空海がもたらした明王の一人。成田山新勝寺の不動明王は五代将軍綱吉の母、桂昌院の希望で大奥での開帳が行われたこともあった。立春の前日に「福は内」の掛け声だけの豆まきが行われる。不動明王の慈悲は大きく、不動明王の前では鬼も鬼ではなくなるから、という。出開帳の場所として深川永代寺内の富岡八幡の境内に不動堂が建てられた。明治になって神仏分離により永代寺が廃寺になった際、不動堂が正式に新勝寺の別院として深川不動堂となった。
・地蔵菩薩:24日が縁日。クシチガルバ。大地と胎内を意味する言葉の合成語。
江戸では「とげぬき地蔵」で知られる高岩寺の本尊、延命地蔵が有名。毛利家に仕えていた女中が呑み込んだ針を抜いたことに由来するという。かつては上野(下谷屏風坂)にあったが、明治24年(1891)に豊島区巣鴨に移った。。