18.市原市内の神社

 

・「市原市内の神社考」小幡重康:「市原地方史研究第13号」1984より

 以下、要旨をご紹介いたします。

 

1.式内社

 「延喜式」神名帳に記載された神社のこと。延喜式は22年かけて927年に完成。全50巻で内、10巻までが「神祇の巻」。そのうち巻9と巻10に全国の3132座、2861所の神社=官社の名が国郡ごとに記載。これらの神社には神祇官か国司が一定の奉幣を行うべきとされた。

①房総の式内社:計22社

 安房:6座

 上総:5座…玉前神社(埴生郡)・橘神社(長柄郡)・姉崎神社、嶋穴神社(海北 

    郡)・飫富神社(望陀郡)

 下総:11座

②国史現在社(国史見在社ともいい三代実録に記載)計7社

 安房:無し

 上総:6社…前広神社・高滝神社・神代神社・建市神社・常代神社・田原神社

 下総:1社

※前之園亮一氏は本書の「関東国造の性格と諸類型」で関東にいた26の国造を以下の

 三つに類型化している。

A.毛野氏のように独立性に富む「君」姓の豪族

B.伊甚国造、上海上国造や菊麻国造のように自立性に富んだ「直」姓の豪族

C.須恵国造や馬来田国造のような伴造系の宗教的性格の希薄な豪族

 房総ではBとCタイプの豪族が存在。Bタイプは宗教的な性格が強く、その支配地には有力な神社(=式内社)がたいてい存在するが、Cにはそうした神社が皆無に近いという。確かに伊甚国造には玉前神社と橘神社、上海上国造には姉崎神社と嶋穴神社が存在する。その一方で須恵、馬来田国造の支配地には大きな古墳群があっても式内社はわずか飫富神社の一つに過ぎない。しかも同社は馬来田国造とは無関係で太臣一族の神社と前之園氏は捉えている。

 だとしても菊麻国造の領内に式内社や国史現在社が一つも存在しないのは不思議である。菊間八幡や飯香岡八幡は「八幡社」と捉える限り、国造の存在した時代まではさかのぼれない。ただし市内では大きな古墳群を擁する場所柄、菊間八幡は「八幡」となる以前の歴史を有していた可能性が大きいだろう。

 社伝によれば祭神は久々麻国造大鹿国直となっており、菊間国造が祀る氏神と考えられる。とすれば創建は古墳時代までさかのぼれるはずである。にも関わらず菊間周辺に式内社が存在しない理由としては菊間国造一族が何らかの理由でいち早く没落してしまったために、彼らの祀っていた神社が平安時代までの間に有力な神社として存続することが難しくなってしまったせいではあるまいか?

 

2.近世の神社

 戦国時代、多くの神社が社領を失い、衰退。徳川家康が天正19年、主な神社に朱印状を与えて社領を安堵したことで復興。その基準は安房、上総の場合、かつての領主里見氏が与えていた社領であったようだが、必ずしも里見時代と同じ領地が安堵されたわけではない(高滝神社は17石から10石に減らされている)。

 市内トップの社領を誇るのは飯香岡八幡で朱印高150石。房総全体では香取神宮の1000石が突出している。なお社地は朱印状、黒印状により寄進されるか、除地(よけち:中世の支配者より給与されたもので税は免除された)として認められた。社領の大きい神社は飯香岡八幡以下、磯ヶ谷八幡(朱印地50石)、高滝神社(朱印地10石+除地26石余り)、姉崎神社(除地35石)、菊間八幡(朱印地20石)、椎津八坂神社(朱印地10石余り)の順。

 やがて香取神宮などの一部は除き、寺請制が確立すると多くの神社は別当寺の支配下に置かれた。

 神職は京都の吉田家、白川家などから神道裁許状などを与えられ、「和泉正」「近江守」といった受領名を与えられた。慶応元年の記録によると飯香岡八幡の宮司は「市川伊賀」(同社の寛文年間の手水鉢に「伊賀守」の銘がある)、菊間八幡は「根本大隅」、嶋穴神社は「和田豊後」、姉崎神社は「海上(うなかみ)伊予」、佐是村神主は「鶴岡大和」、今津朝山の鷲神社は「始関山城」、青柳若宮八幡は「小倉河内」、山田橋村神主は「野城丹後」、岩崎村神主は「武田左近」、磯ヶ谷八幡は「柏伊勢」(社家に馬立出雲)であった。

 内、現在も宮司を世襲しているのは飯香岡八幡、嶋穴神社、姉崎神社、佐是村神主などに過ぎないという。明治以降、太政官の布告によって神職の世襲が好ましくないとされたことや、身分制度の解体と職業選択の自由化、経営面での悪化などが重なったのであろう。多くの神社は神職不在となり、有力な神社の宮司が場合によっては十以上もの神社の神職を兼任するようになってきている。

 なお菊間八幡は宮司以外に社家(特定の神社の神職を世襲してきた一族)が5家(市川主膳、天羽主計、菊地庄司、宮崎主水、市川掃部)も挙げられている。当神社の歴史の古さと重要性を示唆しているのかもしれない。

※吉田家:室町期の吉田兼倶の代から神道裁許状を出していた(1482年~)。

 寛政時代には吉田家を本所とする神職は20万人近くに及んだ。

 

 以上です。次からはカッパのデータを示します。

 

3.千葉県宗教法人名簿(昭和48年)に基づくカッパの分析

 市原市内の神社総数は225社(摂社、末社を除く)。おそらく江戸時代には500社以上あったはずだが、明治以降の廃社、合祀の進展によって半減してしまったと思われる。祭神として多いのは1位大山祇神(オオヤマツミノカミ:山の神とされ、加茂、南総地域に圧倒的に多い)、2位スサノオノミコト(素盞鳴尊:八坂神社系)、3位応神天皇(八幡神社系)。他に平野部では江戸時代、最大の流行神であった稲荷神社の倉稲魂命(ウカノミタマノカミ)も目立つ。

 

※参考:「全国の神社(約12万)の内訳」:「知っておきたい日本の神様」(武光誠)

1位

稲荷社

約2万

2位

八幡社

約1万5千

3位

天神社

約1万

4位

諏訪神社

5700

5位

熊野神社

3300

6位

春日神社

3100

7位

八坂神社

2900

8位

白山神社

2700

9位

住吉神社

2100

10位

日吉神社

2000

11位

金比羅神社

1900

12位

恵比寿神社

1500

 

・「市内の神社(228法人)の内訳」…宗教法人名簿よりカッパ作成

熊野

八幡

八坂

大宮

稲荷

日吉

(日枝)

大山祇

白幡

(白旗)

25

21

14

12

10

10

10

諏訪

浅間

白山

天神

春日

三嶋

玉前

 

 全国統計と比べて目立つ市原の特色は法人数1位に「熊野神社」(全国では5位)がきていること。八坂神社が3位(全国では7位)、大宮神社が4位、浅間神社が10位(全国では12位以内にはランクインしていない)に来ている点も注目されよう。

 熊野神社の多さは黒潮に乗って紀州の影響を強く受けている房総各地に共通の特色でもある。 

 八幡神社の多さは中世以降、近世に至るまで、市原を含めて房総が長く源氏の支配を受けてきたことに起因するだろう。鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の将軍は基本的に八幡神を守護神としてきた源氏の末裔が世襲してきた。このため白幡神社(…平家は紅旗、源氏は白旗)と八幡神社を足すと総数は30となり、熊野神社を抜いて神社数1位となってしまう。また源頼朝にまつわる伝説は八幡神社や白幡神社に限らずとも沿岸部中心に数多くの神社が伝えているところである。

 八坂神社(祇園、八雲、天王社…)の多さは大都市江戸に近く、五大力船が沿岸部を頻繁に行き交い、かつ幾つもの街道が交差する市原の地理的特徴に由来するものと推察している。物資や人々が行き交う交通の要所は疫病の伝染も頻繁だったと思われる。疱瘡や麻疹などの流行が繰り返す中で庚申信仰と並行するように病魔退散を祈願する八坂神社が近世を中心に数多く創建されたのではないか?

 浅間神社は幕末の内房における富士信仰の急速な盛り上がりがあったことと関連しよう。大宮神社の多さは江戸時代の後半、伊勢参りがブームとなった点に由来するのではないか?伊勢講の存在を示す五井若宮八幡の鳥居に見るまでもなく、江戸期後半、多くの人々が富士山、相模大山、秩父御嶽、出羽三山、善光寺、そして伊勢神宮に参拝した。また近場では各種の札所があり、人々は頻繁に出かけては物見遊山を兼ねて神仏に祈願するようになる。そうした伊勢神宮に限定されない巡礼ブームがあって、伊勢参りのついでに熊野神社、金比羅様や京都の八坂神社、諏訪大社、富士山などにも立ち寄ったことが多かったようである。

 実際、社として独立して祀られなくとも石祠の形でこれらの神々は市内各地に数多く、祀られている。また出羽三山も市内では多くの三山塚に見られるように数多く参拝されてきた。出羽に行くついでに白山、筑波山、大杉神社(あんば様)などにも立ち寄ることが多かったようで、やはり摂社、末社の形でこれらの神々が数多く祀られている。

 ただ市内の特色としては浅間神社や出羽三山、相模大山(石尊大権現)、御嶽、白山、諏訪神社などの山岳信仰に関わる神社、祠、塚(富士塚、三山塚)が極めて多いという点であろう。47都道府県中、最も起伏が少なく、高い山が無い房総の地に熱烈な山岳信仰が近世後半から近代において深く根付いていったということは大いに注目される現象といえよう。

 

・石祠に祀られた神々

江戸時代の石祠に祀られている神々一覧(祠数の多い順)

道祖神

25

大六天※2

1

子安大明神

21

馬頭観音

1

稲荷大明神

17

鈴木大明神(詳細不明)

1

疱瘡神(痘瘡神)

12

羽黒大権現

1

天神(天満宮)

11

御嶽神

1

仙元大菩薩(浅間宮)

9

清正公大神祇

1

金毘羅大権現

8

地神※3

1

牛頭天王

8

姥祖神(詳細不明)

1

山神(大山祇神社)

7

姫大神(詳細不明)

1

大杉大明神

6

白山神社

1

庚申

5

十二所権現※4

1

妙正大明神

4

高良・武内大明神

1

水神宮

4

大宮大権現※5

1

天照大神

4

白鳥大明神※6

1

石尊大権現(雨降神社)

3

天王神社※7

1

山王大権現

3

大日天子※8

1

神明神社

3

日之宮(詳細不明)

1

弁財天

3

月読之命

1

八幡

2

月天子※9

1

淡嶋大明神※1

2

三夜講(詳細不明)

1

二十三夜

2

榛名山満行宮※10

1

麻疹神

2

大天狗・小天狗※11

各1

※1:和歌山市の神社で婦人病に霊験ありとされる。人形供養や針供養でも有名。

※2:面足(おもだる)神社と同じ。

※3:国つ神、地祇のこと。またはその土地の神のこと。

※4:熊野権現と同じ。

※5:山王大権現と同じ。

※6:白鳥大明神は宮城県刈田嶺神社のことで、同社は式内社であり、名神大社とされ

 た。日本武尊を主祭神とし、791年、坂上田村麻呂が祀ったことに始まると言う。

※7:午頭天王を祀る八坂神社、祇園社、八雲神社、津嶋神社と同じ。

※8:日天子はバラモン教の神で太陽を神格化したもの。観音菩薩の変化身ともされ

 る。

※9:月天子はバラモン教の神で月を神格化したもの。勢至菩薩の変化身ともされる。

※10:現在は榛名神社(群馬県高崎市)。

※11:ともに相模大山雨降神社に祀られている。富士塚にはこれらの祠以外に石尊大

 権現、仙元大菩薩(浅間宮)などの祠が祀られている場合がある。

 

 以上はあくまでもカッパの調査によるもので、調査数はまだまだ不十分であることをご了承ください。