14.新四国八十八か所

 

市原市内の新四国八十八か所

 空海の千年忌(1834年)を前に流行した四国八十八か所の札所めぐり、「お遍路」は四国から遠く離れた東国の民衆にとっては大変厳しいものだった。そこで近隣の真言宗寺院を中心に八十八か所の札所を四国に倣って設置し、手近に「お遍路」を体験できるようにする事が江戸時代後期、東国中心に始まる。同時に教勢の挽回を図る狙いも寺側にはあったようで各地で八十八か所の設置が進んだ(千葉県内では40箇所)。市原でも能満の釈蔵院を一番札所として札所塔の設置が始められている。

 

「市内の新四国八十八か所」一覧表

市原

四国

市原

四国

能満釈蔵院

霊山寺

廿五

●山田正覚院

津照寺

荻作満光院

極楽寺

廿六

二日市場大光院

金剛頂寺

勝間龍性院

金泉寺

廿七

※土宇東光院

神崎寺

●小田部法泉寺

大日寺

廿八

馬立佛眼寺

大日寺

★郡本正光院

地蔵寺

廿九

牛久円明院

国分寺

●郡本多聞寺

安楽寺

三十

西国吉医光寺

安楽寺

※藤井神主院

十楽寺

三十一

中高根常住寺

竹林寺

西広西廣院

熊谷寺

三十二

※佐是神光寺

禅師峰寺

糸久円乗院

法林寺

三十三

※西国吉愛染寺

雪蹊寺

海士有木長谷寺

切幡寺

三十四

栢橋医養寺

積間寺

十一

●相川晋門院

藤井寺

三十六

寺谷玉泉寺

清龍寺

十二

山倉仙蔵院

焼山寺

三十七

※寺谷清蔵寺

岩本寺

十三

※五所明照院

大日寺

三十八

●佐是明性院

金剛福寺

十四

●浅井小向真蔵院

常楽寺

三十九

南岩崎南蔵寺

延光寺

十五

分目慈眼寺

国分寺

四十

●上高根宝性寺

観自在寺

十六

◆権現堂満蔵院

観音寺

四十一

白塚徳蔵院

竜光寺

十七

◆大坪福楽寺

井戸寺

四十二

△葉木地蔵院

仏木寺

十八

★引田蓮蔵院

恩山寺

四十三

※七日市場円寿院

明石寺

十九

西野徳蔵院

立江寺

四十四

◆上原光徳寺

大宝寺

廿?

今富円満院

鶴林寺

四十五

風戸日光寺

岩屋寺

廿一

◆浅井小向正善寺

大竜寺

四十六

豊成不動院

浄瑠璃寺

廿二

宮原明照院

平等院

四十七

不入斗薬王寺

八坂寺

廿三

◆高坂薬王寺

薬王寺

四十八

方又木法蓮寺

西林寺

廿四

●安須正壽院

最御崎寺

四十九

※海保円明院

浄土寺

五十

畑木医王寺

繁多寺

七十

◆廿五里恵光院

本山寺

五十一

海保遍照院

石手寺

七十一

※菊間観音寺

弥谷寺

五十二

※畑木千手院

太山寺

七十二

※菊間月光院

曼荼羅寺

五十三

※中谷観照院

円明寺

七十三

市原光善寺

出釈迦寺

五十四

下河原東泉寺

延命寺

七十四

※菊間東漸院

甲山寺

五十五

今津能蔵院

南光坊

七十五

君塚明光院

善通寺

五十六

※深城上之坊

泰山寺

七十六

岩野見自性院

金倉院

五十七

※青柳飯福寺

栄福寺

七十七

※村上宝光寺

道隆寺

五十八

◆今津金蔵院

仙遊寺

七十八

菊間戒誓寺

郷照寺

五十九

柏原持宝院

国分寺

七十九

八幡満徳寺

高照寺

六十

◆青柳養福寺

横峯寺

八十

惣社国分寺

国分寺

六十一

青柳正福寺

香園寺

八十一

村上観音寺

白峰寺

六十二

◆島野宝前院

宝寿寺

八十二

五井善養院

根香寺

六十三

島野三光院

吉祥寺

八十三

山木常徳院

一宮寺

六十四

今津延命寺

前神寺

八十四

五井龍善院

屋島寺

六十五

青柳光明寺

三角寺

八十五

五井千光寺

八栗寺

六十六

出津神光寺

雲辺寺

八十六

菊間福寿院

志度寺

六十七

◆平田長福寺

大興寺

八十七

大厩延命寺

長尾寺

六十八

※八幡若宮寺

神恵寺

八十八

菊間千光院

大窪寺

六十九

五所満蔵寺

観音寺

 

 

 

 

 35番がどの寺なのかカッパは今のところ掴んでいない。数字を□で囲ってあるのは札所塔を確認できた寺院(計52基)。廃寺(※)になっていても札所塔だけ他所に移されて現存しているケースもある(寺谷清蔵寺、中谷観照院、土宇東光院等)。

 ▲印の葉木地蔵院は表向き妙見寺と号している。また★印の郡本正光院は個人の住宅を兼ねており、入口も完全に普通の民家と同様になっているため、参拝するには事前に住職へ連絡しておく必要があるだろう。文化財を擁する引田蓮蔵院は住職が常駐していないため、管理を委託されている付近の住民に断ってからでないと不審者と間違われるかもしれない。

 ◆印の島野宝前院、権現堂満蔵院、高坂薬王寺、大坪福楽寺、浅井小向正善寺、相川晋門院、今津金蔵院、青柳養福寺、廿五里恵光院、上原光徳寺、平田長福寺は外見がほとんど公民館の体裁となっており、見落としがち。特に今津金蔵院は地図検索上では内出公民館となっているので寺院名を検索してもネットで見つからないかもしれない。

 さらに●印の小田部法泉寺、郡本多聞寺、浅井小向真蔵院、山田正覚院、佐是明照院、上高根宝性寺、安須正壽院などはほぼ無人の状態であり、特に佐是明照院は境内立ち入り禁止である。上高根宝性寺も境内に入ること自体に困難を感じるであろう。安須正壽院は安須日枝神社の鳥居脇にいくつかの石造物が残されているので神社参拝と併せて訪れることは可能である。同様に中谷観照院も廃寺となっているが幸いにして中谷公民館脇(海保熊野神社と隣接)に巡拝塔を含む石造物がかなりの数が残されている。

 このように市原の新四国八十八か所の札所を検証してみると真言宗寺院に限らず現代の地方寺院が時代の大きなうねりの中に呑み込まれつつあるという極めて危機的な状況がよく見えてくる。高度成長期以後、日本人の宗教離れと地域社会の動揺、伝統文化の変質などによって宗派を問わず、地方寺院はその多くが檀家数の減少と僧侶の高齢化及び後継者難に直面している。檀家数が少なく、人口減少と高齢化の進む山間部では一人の僧侶が複数の寺院を兼務するのが常態化している。 

 また都市化の進む地域では寺院を支えてきた隣組や青年団、子安講等の近所付き合いが崩れ、冠婚葬祭上の付き合いすら無くなってきている。中にはお盆前だというのに草取りも行われていないため、外見的には荒れ寺と化している寺院も少なくなかった。ある老住職がこうつぶやいているのを聞いたことがある。「ただでさえ檀家が少なく、最近はお盆前でも境内の草取り等をしてくれなくなった。本音をいうとここから逃げ出したいくらいだ」。

 大切な地域の歴史を連綿と受け継ぎ、担ってきた地方寺院の多くが直面しているこうした問題は実に深刻である。このままでは地域の歴史と伝統の存続自体が危ぶまれるだろう。既に廃寺となった箇所でも公民館として石造物がある程度保存されている所はまだ良い方かもしれぬ。檀家が極端に少ないためであろうか、ここ数年に及ぶ検証の途次、荒れるに任せていた無残な寺院をいくつも見ることになった。

 一方では知名度が高くて参拝客が多く、檀家数も多い、いかにも裕福な巨大寺院がわずかながら存在している。しかしそうした著名寺院は市内では完全な少数派である。多くの寺院が青息吐息の状態であり、いくつかは既に存続の危機を迎えつつある。格差社会は寺社の世界をも巻き込んで、猛烈な速さで地域社会の信仰と歴史的絆の痕跡をも消し去りつつあるのである。

 

・新四国八十八か所導入のいきさつについて

 「市原市菊間周辺の遺跡と文化財」(市原市地方史研究連絡協議会編 2001)の「七.菊間地区の石造物」(安藤登)によると菊間千光院は寺伝では犬成(別の伝承では喜多)に正応5年(1292)に創建されている。しかし長享2年(1488)、妙満寺派の日泰に帰依した土気城主酒井定隆の命によって法華宗への改宗を迫られた(→七里法華)。住職はこれを拒み、急いで仏像経巻を夜中に持ち出して夜逃げ同然に菊間へ寺を移転したという伝承が残されている。こうした経緯からも七里法華地帯に隣接する菊間において千光院は強大化の一途を辿る法華宗への危機感と対抗心を強く持ち続けていたと思われる。そして市原郡内真言宗寺院の橋頭堡のような役割を担って江戸期、懸命に教勢の維持拡大に努めてきたと推察される。

 とすれば空海(弘法大師)千年忌(1834年)が迫る18世紀後半、真言宗の隆盛を至上命題として釈蔵院と共に真っ先に新四国八十八番札所の市原郡内への導入に動いたのはおそらく千光院であろう。既に空海900回忌の無縫塔が享保19年(1734年)、千光院に設けられている。千光院が次の950回忌(1784年)、1000回忌(1834年)を強く意識していたことは間違いなかろう。

 他方で日蓮宗寺院は開祖日蓮(1222~1282)の450回忌(1731年)、500回忌(1781年)、550回忌(1831年)を祈念した供養塔(顕本法華宗・妙満寺派の場合には派祖日什の供養塔も)を各地に建てていた(有木泰安寺、野毛法泉寺、根田根立寺、姉崎妙経寺、久々津本照寺等)。

 日蓮宗開祖の法要が真言宗のそれよりもわずか3年、先行して行われているのであるから、千光院のような立場ならこれを強く意識しないわけにはいくまい。むしろ日蓮宗の動きに激しい対抗心を燃やしながらそれなりの策を講じつつ、空海の千年忌を待ち構えていたに違いない。

 実は千光院の巡拝塔(下 写真)は天明4年(1784)に造られている。天明3年(1783)に巡拝塔を設けた寺院は分かっている限り七か所で、千光院はその後となる。札所導入の中心にいたとする割には遅い印象も受けよう。しかし「八十八番」という「しんがり」を務める札所になっているところに当寺院の真言宗活性化への並々ならぬ意欲と自負が感じられるのである。

 実際、千光院や釈蔵院の巡拝塔には天明2年(1782)、釈蔵院51世住職の栄寛を軸に君塚明光院の開演、菊間千光院の宥證(残念ながら宥證はこの話が始まってすぐの天明3年=1783に世を去っている←千光院筆子塚)の三人が天明3年(1783)以降、天明の大飢饉における民心の救済を図るとともに来るべき弘法大師950回忌(天明4年=1784)を期して新四国八十八か所の札所を近郷に設けることにしたとある。八十八か所の霊場設置は寛政6年(1794)に終了し、これを記念して釈蔵院の札所塔が同年、設けられたのである。

 ※栄寛は1774年の分目慈眼寺、1775年の君塚明光院の宝篋印塔銘文によると釈蔵院住職として造塔

  に関わっている。開演も1788年の能満緑苑通り三山塚の三山供養塔、1795年のクワノ木古墳上の

  三山供養塔では釈蔵院の52世住職となっているが、かつては君塚明光院中興の祖とされ、その供養

  塔が明光院と釈蔵院の二寺に残されている。

 

 900回忌、そして950回忌…記念すべき空海の1000回忌にむけて着々と千光院は釈蔵院と連携しながら市原郡内での真言宗発展に向けての布石を打っていたのであろう。

 しかし七十八番の菊間戒誓寺の巡拝塔は寛政9年(1797)のものであり、七十二番の月光院は天保4年(1833)と遅い。新四国八十八か所札所設置に意欲満々の千光院配下であっても巡拝塔は必ずしも札所の番号順に、かつ早い時期に建てられてはいない。おそらく教勢の維持拡大に積極的でかつ有力な寺院ほど時期的に早目に建てたのだろうが、檀家数が少なく経済的に困難だった寺院などは天明の大飢饉が加わったこともあったためか、かなり造塔が遅くなってしまったようである。

 実際、弘法大師950回忌(1784)までに間に合わなかった寺院も多い。また札所寺院の現状をみると、昭和に入っても巡礼が続いた北総地域に比べて市原の新四国八十八か所札所の「お遍路」は期待されたほど数多くの巡礼者を生みだせなかった可能性

がある。造塔が19世紀まで遅れた寺院が五箇所はあり、早目に設置していてもやや貧相な巡拝塔が散見される。千光院や釈蔵院の熱意はどうやら少しばかり空振り気味だったようである。ただし高坂薬王寺の巡拝塔は明治期のものであるから、市原でも明 治時代まではお遍路が続いていたと考えられよう。

 ※下総では団体で巡礼する形式が多く、上総・安房では個人で廻るのが多かったらしい。

 

 何はともあれ角柱宝塔型宝篋印塔(上:表中赤字となっている寺院に存在。緑字は開花高層型の塔がある寺院)の導入も千光院が一番手であることを考え合わせると市原郡内へ「八十八か所」札所巡りを導入した中心は能満釈蔵院、さらには菊間千光院ではないかと推察する。とすれば狭い菊間地区に六つもの札所が設けられている点も首肯できよう。しかし檀家の少ない寺院にまで札所を無理矢理(?)割り当てたせいか、現在、廃寺となっている可能性のある寺院は宗教法人名簿と照らし合わせると17カ寺も存在する。内三つ(月光院、東漸院、観音寺:巡拝塔はそれぞれ1832,1785、1797年に建てられており、いずれも千光院に移されている)が菊間である点に「八十八か所」の設定に、ある種の焦りのような強引さを感じないわけでもない。

 ただ、廃寺とした中には寺院名が変わってしまったケースが考えられる。また廃寺状態となった境内に公民館が置かれて墓石や石仏等は残存しているケース(今津朝山内出公民館=金蔵院など)や石造物が近隣の寺社等に移転されているケースなどもまだ考えられる。もう一度、踏査し直してみる必要はあるだろう。

 ※表中の13の寺院が新義真言宗に属している(現在、宗教法人名簿によると市内の16寺院が新義真言

  宗)。紀州根来寺を本山とする真言宗改革派で13世紀には本山の金剛峯寺と決裂し、真言宗の分派

  として確立。やがて戦国時代には根来衆と呼ばれる鉄砲隊を中心とした強力な武装集団を擁した。

  しかしこのため豊臣秀吉によって壊滅的な打撃を受け、いったん散り散りとなってしまった。江戸

  時代の反豊臣政策の中で復興を遂げるが根来から去った集団は必ずしもすべては戻ってこなかっ

  た。そのうち、奈良長谷寺に拠ったのが豊山派、京都智積院に拠ったのが智山派となる。豊山派は

  幕府の保護を受けて繁栄したため市原市内でも多数派(59)となっている。ただし江戸期の市原郡

  内において真言宗寺院の中核となっていたのはどうやら新義真言宗寺院の方であったようだ。ちな

  みに隣の袖ケ浦は圧倒的に智山派が多い。智山派26に対して豊山派は1、新義真言宗が7である。な

  お市原市内の智山派寺院は13である。

 

 なお廃寺となった寺院の多くが明治初期の廃仏毀釈運動の犠牲になったようである。札所ではないが特に八幡の霊應寺は激しい攻撃の対象となったという。かつては現在のJR八幡宿駅周辺に多くの堂宇が立ち並び広大な寺域を誇っていたが、徹底的に破却されてしまったようだ。駅近くの満徳寺は霊應寺の塔頭の一つでかろうじて破却を免れたらしい。

 札所では藤井の神主院が破却されてしまったが、歴史上極めて重要な寺院であったようだ。かつては飯香岡八幡の柳楯神事に関わるなど、由緒ある寺院で「守公山楊柳寺神主院」という名から国府との関わりを推理する見方もあるらしい。結局、能満釈蔵院の隠居寺であったため、檀家数が少なく、廃仏毀釈の荒波を乗り越えられなかったようである。

 廃仏毀釈で全国の寺院の三分の二は消滅したといわれるが、寺院攻撃の主体となった神官や国学者らはやがて明治政府の欧化政策によって影が薄くなっていく。特に国学者は廃仏毀釈の反動からか、明治維新の表舞台からいち早く追放されていった。その様子は島崎藤村の「夜明け前」にも詳しく描かれている。主人公の青山半蔵は幕末、国学に傾倒していたが、維新の前途に或る重苦しい暗さを感じて絶望の中で正気を失いかけつつ、日本の夜明けが未だ遠いことをつぶやいた。

 どうやら市原における尊皇倒幕の先覚者も一部は青山半蔵と大差のない近代を迎えたのかもしれない。山田橋の野城家にせよ、国吉村の天羽家にせよ、明治以降、しばらくは不遇な時代を過ごしたように見えるのもあながち偶然ではないように思える。