23.野城廣助について
・野城廣助について
「野城廣助の事蹟―主として足利木首事件を中心に―」:谷島一馬(市原地方史研究第13号:1983年)より、以下、カッパが抜粋。
野城家は山田橋村で江戸後期には代々名主を務めた有力農民。同時に村の神主を務めていた家柄もあってか、国学を家学とするほどに代々、野城家の当主は国学の習得に励み、幕府領が多いこの市原地域には珍しい勤皇家であった。
良右衛門のとき、跡取り息子がいるにも関わらず、福永昌須(高鍋藩江戸詰めの医師)の次男廣助と大桶(おおおけ)村伊東荒雄の二人を養子に迎え、文久2年(1862)、共に平田鉄胤(かねたね)の気吹舎(いぶきのや)に入門させた。この年の12月、鉄胤が秋田藩物頭役として上洛することになると、廣助ら門人もこれに同行した。
当時、京都では尊王攘夷派の志士が相次いで「天誅」事件などを引き起こし、騒然たる情勢であった。一行は京都で尊攘派志士に慕われた松尾多勢子らと交流し、幕府批判の姿勢を強めていった。ちょうどこの頃、将軍家茂の上洛に備えて、各勢力に様々な動きが見られた。
彼らは倒幕の動きを煽るため、文久3年(1863)2月23日の夜、9人で洛北の等持院に押し入って足利将軍三代(尊氏、義詮、義満)の木像の首と位牌を奪い、斬奸状を添えて三条河原に晒した。廣助はこれに直接加わっていなかったが、同志といってよい立場ではあった。斬奸状を通じて公然と幕府を批判した彼らの行為は幕府方にとって由々しき問題と捉えられ、9人の内の一人大庭恭平(会津藩士で京都守護職側の密偵だった)の通報によって2月26日、一斉に検挙された。
しかし大庭はなぜか廣助の名は洩らさなかったため、彼は捕縛されずに済んだ。捕縛を免れた廣助らは同志の赦免を訴え、長州藩の尊攘派を動かして藩主から宥免の嘆願書を出してもらった。また土佐の山内容堂も同様の嘆願書を提出するなど、大きな動きを作り出した。そうした結果、6月、捕縛された者の多くは「御預け」などの処分となり極刑は免れることになった。
廣助は鉄胤らとともにいったん江戸に戻ったが、一カ月ほどで再び尊攘運動に加わるべく京都に赴いた。そこで真木和泉や中山忠光らと倒幕の動きに加担。尊攘運動の活発だった讃岐で同志を増やそうと丸亀に向かった。
丸亀の日柳燕石(くさかえんせき)と協力して四国での同志募集の活動に取り組み始めた矢先、船中で高熱を発し、丸亀に戻って臥したが9月19日、21歳の若さで急死してしまった。尊攘派同志の手によって彼は当地で手厚く葬られた。彼の日記が同志だった武蔵の豪農斎藤実平の家に保管されていたため、彼の動きがある程度掴めてきている。
島崎藤村の小説「夜明け前」には足利木首の一件がかなり詳細に触れられている。「…同志九人、その多くは平田門人あるいは準門人であるが、等持院に安置してある足利尊氏以下、二将軍の木像の首を抜き取って、二十三日の夜にそれを三条河原に晒しものにしたという。…略…平田門人、三輪田綱一郎、師岡正胤なぞのやかましい連中が集まっていたという二条衣の棚―それから、同門の野代広助(野城廣助のことか?)、梅村真一郎、それに正香その人をも従えながら、秋田藩物頭役として入京していた平田鉄胤が寓居のあるところだという錦小路―…」(第一部上P.293及びP.295:新潮文庫)
なお野城家は慶応4年(1868)、旧姓の「若菜」に復し、現在に至る。
※若菜家は現在、山田橋から転居していて墓仕舞いしている。
石灯籠:安政6年(1859)野城吉兵衛奉納
松ヶ島養老神社の扁額:慶応3年(1867)3月15日「源有長」
※「源有長」=綾小路有長(1792~1881)は公卿で歌人としても有名。宇多源氏の
末裔にあたるため源氏を称する。なぜこの時期にこれほどの人物が揮毫した額がこ
こにあるのかは不明だが、野城や鉄胤らの尊皇倒幕にむけた文久年間以降の活発な
動きがもたらしたものであることはほぼ間違いなかろう。なお同社には野城良右衛
門によって平田鉄胤の揮毫した額が奉納されたという。同社本殿が市内では珍しい
神明造りとなっていることや嘉永年間に集中的に鳥居、石灯籠が奉納されているこ
とと、野城良右衛門らの活動とはつながりがありそうである。
なお平田鉄胤揮毫の「正一位 養老神社」の額は野城良右衛門が信州佐久の角田
忠行(「夜明け前」では暮田正香)を通じて依頼したものらしいがカッパは残念な
がら見たことが無い。