17.神道と神社
・「江戸時代の神社」(高埜利彦日本史リブレット86 山川出版 2019)より
本の要旨を以下に、ご紹介いたします。
大日本帝国憲法では政教一致
→主要な神道儀礼や皇室祭祀を国民の祝日として祝う
紀元節、神嘗祭
国家が神社や神事に国費を支出:官幣大社・中社・小社etc
→1879年、靖国神社を別格官幣社に列し、大正年間には明治神宮創建、1920年、
官幣大社に列した。
律令国家でも祭政一致
→「延喜式」(905年~927年:ほぼ完全な形で残っている唯一の格式)神名帳(じんみょうちょう)に記載された官幣社737座、国幣社2395座、合計3132座を「式内社」と呼ぶ。祈年祭に際して官幣社の神官を神祇官に招集し、弊物(へいもつ)を与えて地元に持ち帰らせ、五穀豊穣を祈らせた。国幣社の神官は国衙に招集されて弊物を与えられた。
摂関政治の時代になると神祇官による祈年祭(2月4日)が衰退し、代わって1081年から近畿の有力な神社二十二社に祈念穀奉幣使が派遣されるように。これも応仁の乱以降、廃絶した。
地方では神祇官の衰退と共に国幣社の制度が意味を失い、代わって国司が一宮、二宮といったように神社に序列をつけて保護管理するように。鎌倉室町期には国司に代わって守護が主体となった。また有力な神社を総社として他の神々を勧請し、国内の神社を代表させることも見られた。
国造家の子孫が引き続き祭祀を継承する地方の大社としては出雲大社(千家、北島家)の他に紀伊の日前(ひのくま)・国懸(くにかかり)宮(紀氏)が挙げられるが紀氏が1584年、小牧長久手の戦いで紀氏が豊臣秀吉側に敵対したため、社殿は破却され、領地も没収された。後に紀州藩によって社殿は再興。宇佐八幡宮も国造の宇佐氏が大宮司家であったがやはり秀吉による九州平定によって広大な領地が没収されている。これら以外の地方大社(※)も豊臣政権時の検地の際に所領は一旦没収され、改めて限られた朱印地を与えられている。太閤検地と刀狩りによって大神社の領主的権限は否定され、その保護者であった在地領主の多くは兵農分離によっていなくなり、近世では村落の民衆によって神社は支えられるようになった。
※地方の大社で一宮となった神社:鹿島神宮、香取神宮(両社とも藤原氏の氏神春日
大社に勧請された)、諏訪大社など。
一宮にはならなかったが有力だった大社:熱田神宮(伊勢神宮に次ぐ社格として一宮より遙かに上。平安末期に藤原氏が大宮司、国造の尾張氏が権宮司)、熊野大社など。
・江戸時代の神社
寺請制度によって神職も仏教徒として檀那寺に属した。
天皇家も四条天皇が1242年に葬られて以降、泉涌寺(御寺と呼ばれるように)を菩提寺としていた。徳川将軍家は芝増上寺(浄土宗)と上野寛永寺(天台宗)を菩提寺とした。
仏教の統制のために寺院や僧侶の組織化を進め、寺院法度で宗派ごとに本末制度(本山・本寺と末寺)を確立し、1665年、諸宗寺院法度を出して僧侶全体の統制を確立。同時に諸社禰宜神主法度五箇条を出して禰宜、神主は専ら神祇道を学び、神事祭礼に務める事とされた。神仏習合を否定した吉田神道の立場を幕府はとったのである。この結果、1668年、出雲大社は造営に際して大日堂や三重塔などを移転させ、別当寺(鰐淵寺)との関係を切ることになり、いち早く神仏分離を実行に移すことになった。
また地方の大多数の神職は吉田家の取り次ぎがないと無位無冠を意味する白装束(狩衣)しか身につけられないものとした。吉田家はこれを足がかりにして次第に全国の神社への影響力を強めた。実は諸社禰宜神主法度の制定に吉田惟足が深く関わっていた。白川家や吉田家のように朝廷と神社との間を取り持つ神社伝奏の公家は1794年で23家に達したが、その中で吉田家の立場は次第に突出していったのである。
・僧侶、神職以外の宗教者
修験道:祈祷、丸薬の製造、先達、御師
天台宗系の本山派は聖護院、真言宗系の当山派は醍醐寺三宝院を中心
陰陽師:家相図の作成、姓名判断、日取りの決定、花押作成
本所として土御門家(安倍晴明の子孫)
漫才、盲僧(かまど占い)、虚無僧、座頭、梓巫女(死者の口寄せ、祈祷)、猿引
(猿回し:馬の安全息災、小児の疱瘡除け)
日光東照宮の造営:1616年、久能山に埋葬後、一周忌後の1617年、日光東照宮造営。神号は金地院崇伝ら「大明神」を推す吉田神道側を退けて山王一実神道の天海の主張する「東照大権現」に決定。1636年、家光は金56万8千両、銀100貫目などを費やして白木造りの社殿を建て替えた。さらに1646年から日光例幣使を毎年送るように。
・地方の神社
検地の進展によって村切りされた近世村落は6万を超える数となった。それぞれの村には氏神、鎮守、産土、産神などと呼ばれた村を代表する神社が存在した。また一つの村は小集落がいくつかまとまって形成されていたが、小集落ごとにも小さな神社が祀られていた。それらの神社には神職を専業とする者が不在である場合が多く、「鍵取(かぎとり)」と呼ばれた有力な農民が神事や祭礼以外の管理を任されていた。
地方では神官は幾つもの神社の宮司を兼任することが普通であった。村を代表する神社には境内地などを年貢免除地とすることでその維持を図った。
・白川家と吉川家
白川家:神祇官の長官(神祇伯)を平安末期から世襲。花山天皇の子から始まり「伯
王家」とも呼ばれた。江戸時代の家領200石。
吉田家:二十二社の一つ京都吉田神社の神職を務める一族。白川家に次ぐ家柄で神祇
官の大福(次官)の地位に就くことが多かった。吉田兼倶が反本地垂迹説の立場か
ら唯一神道を創始。1484年に吉田神社内に大元宮(たいげんきゅう)と呼ばれる
斎場を設けて天神地祇を祀り、「宗源宣旨」の形式で各地の神社に神位階を与える
事を通じて影響力を及ぼすようになった。
その孫の兼右(かねみぎ)は1590年に神祇官八神殿を大元宮の背後に再興し、神
祇官代と称して独自に地方の神職に対して神道裁許状を与え、神社に神号、社号を
発給してきた。徳川政権内にも食い込み、諸社禰宜神主法度制定に関わって、江戸
後期には地方神社の多くに突出した影響力を行使した。
なお地方の社家が上京して吉田家から官位や神道裁許状を得るには多くの費用
(1813年の例では総額で55両)が必要となったため、その負担に耐えうる余力が
生じる江戸後期までは吉田家の影響力が全国的に浸透するには至らなかった。また
門跡寺院を仰ぐ修験道とつながった神社や東照宮などは吉田家の影響を免れ神仏習
合したまま明治維新を迎える。
なお吉田家が「宗源宣旨」を通じて神位階を与えることは1739年に見直されて
1747年からは神位階の発給は勅裁によるものとされ、吉田家の独占は廃された。ま
た八神殿も1751年、勅命によって白川家が再興し、以後白川家が吉田家の対抗勢力
として台頭してきた。
ただし御師や鍵取、社守(しゃもり)らが神道裁許状を得ることで姓氏を持つ身
分に上昇し、神事祭礼に携わる特権を得ようとする動きが江戸後期に生じてくると
多額の支出を覚悟して吉田家の配下になる者も続出したため、吉田家の影響力は拡
大する流れにあった。
・幕末の朝廷神事と神仏分離
天皇の行幸は禁中並公家諸法度で禁止されてきたが、1863年、孝明天皇は将軍家茂や諸大名を供奉させて賀茂社に行幸し、さらに石清水八幡宮にも行幸して攘夷を祈願した。この時点で朝廷と幕府との力関係が逆転したことがあからさまに示された。
以降、朝廷では王政復古に向けての動きが早まる。1867年12月9日に王政復古の大号令が出され、翌年の3月には祭政一致を目指して神祇官の復活を図る。神職につくものはすべて神祇官に属することとし、4月に神祇官が再興され、1871年、神祇官によって官国幣社制がスタートし、全国の神社が神祇官の下におかれて官社扱いとなった。また1868年3月以降、神仏分離を進めていく。神社を支配した別当や社僧の還俗や、神社に祀られていた仏像、仏具等の排除を命じた。4月には八幡大菩薩の称号を禁じた。