12.仏の世界(観音・地蔵・不動)

 

 以下、「観音・地蔵・不動」(速水侑 吉川弘文館 2018)の要旨をご紹介いたします。これらを理解しておくと石仏や巡礼の意味が理解しやすくなるでしょう。

 

1.菩薩と明王

 観音や地蔵は如来ではなく、菩薩である。菩薩はサンスクリットのボーディ・サットバを菩提薩埵と漢字で表記し、これを略したもので「悟った人」「悟りを求める人」という意味。

 他者の救済に無関心で出家者のみの救済をはかる「小乗」の教えとして旧来の仏教を批判した極めて在家色の濃い人々が生み出した大乗仏教はおよそ2000年前に成立した。彼らは在家、出家や身分の上下を問わず、真の悟りを求めて慈悲の教えを実践する菩薩道に励む者たちは誰であっても菩薩であるとの観念を生み出す。

 現世での救済者としての性格を持つ観音菩薩はそうした大乗仏教成立の動きの中で1世紀の末頃には登場してきた。仏(如来)が遠い過去に悟りを開き、遠く離れた仏の国(浄土)に住んで説法しているのに対し、菩薩は六道に輪廻し苦悩する一切衆生の救済のために自ら六道にあって衆生の願いに応えてくれる身近な存在とされた。

 鎌倉時代の仏教説話集「沙石集」(無住一円)にも「・・釈迦は信者の能力が備わった時にはじめて現れ、阿弥陀は信者の臨終の際にはじめて来迎するというが地蔵は信者の能力を問わず、いつでも六道のちまたに立ち、生きとし生けるものたちに交わって縁無き衆生をも救い給う」とある。

 

 明王の多くは恐ろしげな憤怒相を示す点で穏やかな表情の如来や慈悲深い表情の菩薩とは際だった違いが見られる。明王はことごとく密教の元で生み出された仏達であり、密教はインドにおけるヨーガの伝統と民間の呪術的信仰の上に7世紀頃、「大日経」(大毘盧遮那仏=大日如来を根本仏とする。図示したものが胎蔵界曼荼羅)及び「金剛頂経」(大日如来の悟りの智を得ることで仏と一体となれると説く。図示したものが金剛界曼荼羅)としてインド南西部で体系化された。体系化される以前の密教は雑密(ぞうみつ)といい、体系化された純密と区別する。

 大日如来は全宇宙の絶対的真理=法(ダルマ)そのものであり、凡夫が容易に感知できるものではない。真理そのものである仏の身を「自性輪身(じしょうりんじん)」と称する。凡夫にも感知できるよう仏は菩薩に姿を変えて現れた時、菩薩の身を「正法(しょうぼう)輪身」という。しかし凡夫の中には慈悲深い菩薩の説法だけでは目覚めることが出来ず、教えに従わない者もいる。また仏の教えを妨げようとする様々な悪もある。こうした度しがたい衆生を目覚めさせ、仏法を悪から守るのが明王の役割とされる。このため明王は衆生を畏怖させ、悪を破砕する「忿怒」の形相で現れることになる。そして菩薩と同様に明王もまた仏が姿を変えたものとし、明王を「教令(きょうれい)輪身」と呼ぶ。教令とは仏の教えを命令として実行すると言うほどの意味であり、忿怒の形相に秘められた仏の無限の慈愛と衆生救済への意志の力強さが衆生の信頼を集めていくことになる。この三輪身の考えは8世紀、唐の真言宗において唱えられていく。ちなみに京都の東寺講堂の諸仏は三輪身の考えによって構成されている。

 

2.観音

 仏像として年代が確認できる日本における最古の作例は651年の法隆寺献納金銅立像。サンスクリットでは「アバロキティシュバラ」といい、観自在菩薩、観世音菩薩とも漢訳された。観音のご利益を説く経典として最も古いと思われるのが「法華経」観世音菩薩普門品、いわゆる「観音経」。そこでは子供の欲しい女性が観音を礼拝供養するならば福徳と智慧のある男の子、容姿端麗で人々に愛される女の子を産むことが出来るとあり、妊娠や安産を願う女性達、子安講での信仰を集め、普門品(ふもんぼん)は繰り返し読誦された。

 また観音は救うべき相手に応じて姿を変え、説法するとして三十三種の姿を列挙したため、観音霊場を三十三箇所とすることが多かった。

 法華経はインドで紀元100年前後に成立したと考えられる。阿弥陀信仰に関わる「無量寿経」や「観無量寿経」では極楽浄土に住む菩薩の中で観音菩薩(右脇にあって阿弥陀の慈悲の徳を体現、蓮台を捧げる姿)と勢至菩薩(左脇にあって阿弥陀の智慧を体現、合掌する姿)が阿弥陀の脇侍(きょうじ、あるいは脇士:わきじ)として最高の地位にあるとされ、観音と普賢を左右に従えた阿弥陀三尊像が数多く造像された。こうした浄土教経典によって観音は現世だけでなく、来世での救済にもご利益があるとされるようになり、現当二世安楽を祈る対象となっていった。

 「華厳経」では観音は補陀落(ふだらく)山(光明山)に住んでいるとされる。日本では補陀洛渡海で有名な熊野那智や日光二荒山が補陀落山になぞらえている。「観無量寿経」では観音の宝冠に化仏があるとされ、水瓶や蓮華を手にするという。外見上よく似た勢至菩薩との区別のためによく宝冠の化仏の有無が見極めのポイントとされる。なお勢至菩薩の宝冠には水瓶があるとされる。

 観音は当初、聖観音のみであったが6~7世紀から種々の変化(へんげ)観音が派生してくる。十一面観音、千手観音蓮華王とも。手は実際には42本で造像されることが多い。慈悲の力が他の観音を圧倒するとされたため、西国三十三ヵ所のうち16箇所が本尊としている)、不空羂索観音(鎮護国家のご利益が尊ばれたため大寺に祀られる事が多く、民衆へはあまり浸透しなかった)など多面多臂の姿が目立つ。ヒンドゥーの多面多臂の神々の影響で、インド仏教が密教化していく過程で登場してきたと思われる。実際、変化観音はいずれも6世紀以降に造像されている。

 なお馬頭観音は観音の中で例外的に忿怒相をとるため「馬頭(めず)明王」とも呼ばれた。その忿怒相によって罪障を破砕し、煩悩を断つとされたが、古代においてはなじまれなかった。しかし江戸時代以降、旅の安全を祈る対象として、あるいは馬など家畜の守り神として急速に普及し、数多く造像された。

 如意輪観音は8世紀に登場し、座像で六臂、右手を頬にあてて衆生救済の思いにふけり、他の手で如意宝珠などを持つ。法輪を転じて煩悩を破砕し、富や智慧を願いのままに授ける観音で江戸時代は女性の守護神的存在とされ、月待ち塔(十九夜)の主尊や女性の墓石に多用された。

 観音霊場の参詣が急増するのは10世紀後半律令国家の衰退によって国家からの経済的な支援を期待できなくなった寺院は貴族の私的支援を当てにするようになった。本尊の霊験を宣伝し、貴族等の一族安泰、子孫繁栄などの現世利益の期待に応えようとすることで石山寺や清水寺、長谷寺、粉河寺などへの参詣者が目立って増えてくる。これらの寺院には国家的祈祷の霊場としてだけではなく、貴族参詣の霊場としての新たな性格が加わってきたことになる。

 藤原道長や藤原実資らの日記にも石山寺への参詣が度々記されているが、「蜻蛉日記」、「和泉式部日記」、「更級日記」、「源氏物語」にも取り上げられており、石山寺が当時の貴族社会ではもっともポピュラーな観音霊場であったと考えられる。石山参詣は一泊の旅程ですむ気安さから、幾度も通う参詣者が多かった。

 しかし霊験著しいことで名声の高かった長谷寺は往復に数日を要するため、日帰りできる清水寺や一泊ですむ石山寺のような気安さはなかった。「源氏物語」や「蜻蛉日記」には道のりの険しさ、遠さを嘆く記述がある。他方で「聖」と呼ばれる教団から離れた布教者が修行を兼ねて人里離れた山寺や岩窟に住み着いていった。後に聖の名声が高まると山寺や岩窟もまた従来の貴族参詣の霊場に加え、新たな霊場として参詣人を集めた。こうして三十三ヵ所の霊場と巡礼の基礎が築かれていくことになる。

 巡礼が民衆的な広がりを持ち始めたのは15世紀中頃。おそらくこの時期の巡礼行者(江戸時代には三十三度行者ともいい、西国霊場を三十三回巡礼すると満行満願となって引退した職業的巡礼者)、勧進聖、熊野比丘尼、修験山伏などの民衆への布教活動が実を結び、次第に地方の地侍や名主、商工業者らが巡礼に加わるようになってきたのだろう。ローカル色の強い秩父札所は15世紀後半には成立したが、16世紀には西国、坂東の札所との一体化を目指して三十四ヵ所とし、観音霊場は合計百箇所の札所となっている。

 江戸時代になり、元和偃武以後の社会の安定と農業や商工業の発達、交通網の整備などによって17世紀後半、民衆の巡礼は爆発的に活発化する。巡礼の大きな波はさらに18世紀後半(宝暦、明和、安永)と19世紀初頭(文化、文政)にも訪れる。民衆化した巡礼は信仰目的に加えて物見遊山的色彩も帯びるようになり、東国では西国三十三ヵ所や四国八十八カ所の巡礼に伊勢参宮や金毘羅参り、善光寺参りもセットにした「巡礼案内記」が登場してきた。江戸時代に新たに形成された地方霊場は164箇所を数える。観音の縁日は18日、縁年は午年とされていた。浅草寺観音の居開帳は18日ともなれば大勢の人でごったがえし、午年の秩父巡礼は年間で20万人近くに達することもあったという。

 

3.地蔵菩薩

 サンスクリットで「クシチガルブハ」。クシチは大地を表し、ガルブハは胎内あるいは包蔵することを意味するため、合わせて地蔵と漢訳された。「地蔵十輪経」では「よく善根を生ずることは大地の徳のごとし」と記され、インド古来の地神信仰が起源と考えられる。

 飲食を満たし、病を除き、水火の災いを除くなどの日常的な、多種多様な現世利益に加え、六道抜苦の利益があるとされる。釈迦が滅して弥勒が下生するまでの五濁悪世(ごじょくあくせ)、無仏の時代の衆生救済を仏に委ねられた菩薩であり、末法の世の救済者として六道をくまなく巡りあらゆる場所に出現しては六道輪廻に苦しむ衆生を救うとされた。特に地獄での救済が地蔵の本願であり、民衆にとって最も身近な菩薩と考えられるようになる。

 宝珠と錫杖を持つ比丘(僧)の姿、声聞(しょうもん:仏の声を聞く者、つまり仏の教えを聞いて悟る者のことで従来は釈迦の弟子を指していた)形をとるのが一般的。衆生済度を容易にするため、人々の前では親しみやすい僧侶の姿で現れると考えられた。末法の世の救済者とされた如く、末法思想が台頭した唐の時代に地蔵信仰も盛んとなる。しかし日本では地獄での救済を最大の御利益とする地蔵は現世利益の実現を主とする貴族層にはあまり浸透しなかった。

 他方で「今昔物語集」の地蔵説話には地方の神官や武士、庶民が登場していた。彼らは自分たちが十悪の身として来世では地獄に落ちる運命であるとの自覚が強く、次第に地獄の救済者である地蔵への信仰を強めていた浄土への憧れから阿弥陀信仰に傾斜していく貴族層とは違い、自力作善から遠ざけられ、前世での因縁から地獄への深刻な恐怖に直面していた民衆は極楽浄土への諦めを強める一方で急速に地蔵信仰に傾斜していったとも考えられる。つまり現世で民衆として生きていること自体が来世で地獄に落ちることを必然にしているという、厳しい諦念が末法の世に生きる民衆の実感だったのかもしれない。梁塵秘抄に唄われた「はかなきこの世を過すとて 海山稼ぐとせしほどに よろずの仏にうとまれて 後生わが身をいかにせん」という切ない自覚こそ、「ただ悪趣を以てすみかとし、罪人を以て友とする」地蔵への民衆の帰依を生み出していたのだろう。中世、地蔵は「身代わり地蔵」の霊験譚などを通じて現当二世安楽に通じる仏として一層、武士や民衆の間に浸透していく。

 

4.不動明王

 サンスクリットで「アチャラ・ナータ」。アチャラは動かないもの、ナータは守護者を意味し、不動尊とも漢訳された。アチャラが基本的には大きな山を指していたため山の守護神ともされた。

 「大日経」では大日如来の使者とされ、使い走りの従僕にふさわしい童子の姿で現れる。智慧の刀(倶利伽羅剣)と羂索を持ち、頭髪は左肩に垂れ、片目をつむり、怒りの表情で身に猛炎あり、盤石の上に座る。額には波のような皺があるとされる。8世紀には大日如来の教令輪身とされたが、広範に信仰された日本とは違ってインド、中国では独立した尊像とされることは極めて稀で不動信仰は民衆的広がりを持たずに終わっている。しかし日本では浄土信仰の高まりのなかでも不動明王への信仰は根強かった。藤原道長は法成寺に「家門に怨をなす怨霊を降さんがため」二丈の巨大な不動尊を祀っている。特に天皇に嫁がせた娘達の出産に際して不動明王に調伏と安産を祈祷することが天皇家との外戚関係を維持する上で必須となっていた。

 中世になると危難の際に不動の姿に変身することで助かるという「身代わり不動」の信仰が武士や民衆の間に広がってくる。不動信仰の拡大に修験道が果たした役割は大きいだろう。修験山伏は峰入り修行を通じて不動明王の力を手に入れようとし、その出で立ちを不動明王に似せていった(・・・歌舞伎の勧進帳での山伏問答で富樫が「して山伏の出で立ちは」と弁慶に問いただす。弁慶は「すなわちその身を不動明王の尊容にかたどるなり」と答える)。室町時代には天台宗の聖護院が熊野修験者を配下において本山派をなす一方で金峯山による修験者は真言宗醍醐寺三宝院に束ねられて当山派と呼ばれるようになる。

 

5.葬式仏教と地蔵信仰

 南北朝期以降、寺社の経済基盤の一つであった荘園が武士階級による激しい侵略にさらされたため、たとえ畿内の大寺社であっても商工業者や有力農民、地方武士への布教に励まざるを得なくなっていった。こうした仏教の底辺拡大、民衆化と不可分の形で進行したのが葬式仏教化と密教化であった。14~15世紀、葬送の民俗を仏教儀礼に取り込み、それを中核として寺檀関係を固めていくことで民衆の生活に地方寺院は密着するようになる。また密教を批判する文脈で登場してきた鎌倉新仏教諸派は民衆の現世利益の欲求に応えるべく密教の修法、加持祈祷の要素を取り込んでいった。

 民衆に葬式追善を勧めるために仏教諸派は地獄への恐怖を煽り、十王信仰を利用して葬式追善の必要性を強調した。初七日にまず秦広王の審判を受け、三途の川を渡った後、十四日目に初江王の審判を受ける・・・といった具合で最後は三年後に五道転輪王の審判を受け、ある者は成仏し、それ以外の者は六道の何れかに送られる。道教に由来するこうした信仰が14世紀以降、各宗派で強調されるようになったのである。これに伴い、地蔵は閻魔王として冥府に現れると考えられるようになった。また賽の河原(三途の川の手前にあるとされた)の物語も室町時代には御伽草子に登場し、地蔵は子供の守護神として性格づけられていく。そして近世初期に「地蔵和讃」として様々なヴァリエーションを派生させつつ人口に膾炙していった。なお「賽(西院)の河原」は「塞(さえ)の神」から出たとする民俗学の説がある。柳田国男は村境や峠に道祖神を祀り、そこを通る人が石を積んで神を祀った民俗信仰が仏教に取り込まれ、「賽の河原」の物語となったと考えている。

 塞の神、道祖神信仰と地蔵信仰が習合したため、地蔵も道祖神と同様に村境や四つ辻などに祀られるようになったとも言われる。中世の初めまでは貴族であっても七歳以下の子供が死んだ場合には仏事を行わず、遺体を山野や川に棄てるのが通例であった。しかし15世紀頃から幼児の位牌が現れ始める。幼児についても大人に準じて追善すべきだとの観念が生じてきたのである。さらに古くから存在した地蔵が少年の姿を借りて現れるとの信仰が子供の守護神としての地蔵信仰の土台となったに違いあるまい。

※地蔵和讃の例

 帰命頂礼地蔵尊 無仏世界の能化(のうけ)なり これはこの世のことならず 

 死出の山路の裾野なる さいの河原の物語  聞くにつけても哀れなり

 この世に生まれし甲斐もなく 親に先立つ有様は 諸事の哀れをとどめたり

 二つや三つや四つ五つ  十にも足らぬ幼子が  さいの河原に集まりて 

 苦患を受くるぞ悲しけれ 娑婆と違いて幼子の  雨露しのぐ住処さえ

 無ければ涙の絶え間無し  河原に明け暮れ野宿して

 西に向いて父恋し   東に向いて母恋し  恋し恋しと泣く声は 

 この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を通すなり

 げに頼みなきみどりごが     昔は親のなさけにて

 母の添い寝に幾度の       乳を飲まするのみならず

 荒らき風にも当てじとて  綾や錦に身をまとい  その慈しみ浅からず

 然るに今の有様は        身に一重さえ着物無く

 雨の降る日は雨に濡れ  雪降るその日は雪中に  凍えて皆みな悲しめど

 娑婆と違いて誰一人  哀れむ人があらずなの

 ここに集まる幼子は 小石小石を持ち運び これにて回向の塔を積む

 手足石にて擦れただれ 指より出づる血のしずく からだを朱に染めなして

 一重つんでは幼子が  紅葉のような手を合わせ  父上菩提と伏し拝む

 二重つんでは手を合わし  母上菩提と回向する

 三重つんではふるさとに  残る兄弟我がためと  礼拝回向ぞしおらしや

 昼は各々遊べども  日も入相のその頃に  地獄の鬼が現れて

 幼き者の側に寄り  やれ汝らは何をする  娑婆と思うて甘えるな

 ここは冥土の旅なるぞ   娑婆に残りし父母は

 今日は初七日、二七日  四十九日や百箇日  追善供養のその暇に

 ただ明け暮れに汝らの  形見に残せし手遊びの  太鼓人形風車

 着物を見ては泣き嘆き 達者な子供を見るにつけ

 なぜに我が子は死んだかと 酷や可哀や不憫やと 親の嘆きは汝らの

 責め苦を受くる種となる 必ず我を恨むなと 言いつつ金棒振り上げて

 積んだる塔を押し崩し  汝らが積むこの塔は  ゆがみがちにて見苦しく

 かくては功徳になりがたし とくとくこれを積み直し 

 成仏願えと責めかける

 やれ恐ろしと幼子は  南や北や西東  こけつまろびつ逃げ回る

 なおも獄卒金棒を   振りかざしつつ無惨にも

 あまたの幼子睨み付け    既に打たんとするときに

 幼子怖さやる瀬無く     その場に座りて手を合わせ

 熱き涙を流しつつ      許したまえと伏し拝む

 拝めど無慈悲の鬼なれば   取り付く幼子はねのけて

 汝ら罪なく思うかよ     母の胎内十月の内

 苦痛さまざま生まれ出て   三年五年七歳と

 わずか一期に先だって    父母に嘆きを掛くること

 だいいち重き罪ぞかし

 娑婆にありしその時に 母の乳房に取りついて 乳の出でざるその時は

 責まりて胸を打ち叩く 母はこれを忍べども などて報いの無かるべき

 胸を叩くその音は   奈落の底に鳴り響く

 父が抱かんとするときに 母を離れず泣く声は 八万地獄に響くなり

 父の涙は火の雨と   なりてその身に振りかかり

 母の涙は氷となりて  その身をとずる嘆きこそ  子故の闇の呵責なれ

 かかる罪とがある故に  さいの河原に迷い来て  長き苦患を受くるとぞ

 言いつつまたもや打たんとす

 やれ恐ろしと幼子が  両手合わせて伏し拝み  許したまえと泣き叫ぶ 

 鬼はそのまま消え失せる 河原の中に流れあり 娑婆にて嘆く父母の

 一念届きて影映れば  のう懐かしの父母や

 飢えを救いてたび給えと   乳房を慕いて這い寄れば

 影はたちまち消え失せて   水は炎と燃え上がり

 その身を焦がして倒れつつ  絶え入ることは数知れず

 峰の嵐が聞こえれば     父かと思うて馳せ上がり

 辺りを見れども父は来ず   谷の流れの音すれば

 母が呼ぶかと喜びて     こけつまろびつ馳せ下り

 辺りを見れども母は無く 走り回りし甲斐もなく 西や東に駆け回り

 石や木の根につまづきて  手足を血潮に染めながら

 幼子哀れな声をあげ     もう父上はおわさぬか

 のう懐かしや母上と この世の親を冥土より 慕い焦がれる不憫さよ

 泣く泣くその場に打ち倒れ 砂をひとねの石枕 泣く泣く寝入る不憫さよ

 されども河原のことなれば  さよ吹く風が身にしみて

 まちもや一度目をさまし 父上なつかし母ゆかし ここやかしこと泣き歩く

 折しも西の谷間より   能化の地蔵大菩薩

 右に如意宝の玉を持ち 左に錫杖つきたまい ゆるぎ出てさせたまいつつ

 幼き者のそばにより      何を嘆くかみどりごよ

 汝ら命短かくて        冥土の旅に来るなり

 娑婆と冥土はほど遠し     いつまで親を慕うとぞ

 娑婆の親には会えぬとぞ  今日より後は我をこそ  冥土の親と思うべし 

 幼き者を御衣(みごろも)の 袖やたもとに抱き入れて  

 哀れみたまうぞ有難や

 いまだ歩まぬみどりごも   錫杖の柄に取り付かせ

 忍辱(にんにく)慈悲の御肌(おんはだ)に  泣く幼子も抱(いだ)き上げ  

 なでさすりては地蔵尊 熱き恵みの御涙(おんなみだ)袈裟や衣にしたりつつ

 助けたまうぞ有難や   大慈大悲の深きとて   地蔵菩薩にしくはなく

 これを思えば皆人よ   子を先立てし人々は  悲しく思えば西へ行き

 残る我が身も今しばし  命の終るその時は

 同じはちすのうてなにて    導き給え地蔵尊

 両手を合して願うなり

 南無大悲の地蔵尊       南無阿弥陀仏阿弥陀仏

 

6.民衆の巡礼熱

 17世紀後半、社寺参詣の風潮が強まったとは言え、個人的な遠隔地への巡礼は一般民衆にとって金銭面でも決して容易なことではなかった。そこで様々な参詣講が設けられていった。下野国東水沼村の伊勢講では1748年当時、講員が42人で一人あたり年に三百文を積み立て、毎年正月に2人の代参者が伊勢詣でに出ている。代参者一人に六貫三百文が渡されていた。経費捻出のために村共有の田畑を講田としてあてるケースも各地で見られたという。相当の長旅である。それなりの出費は覚悟しなければならなかったのである。

 講の中には村の枠を超えて結成されるものもあり、富士講や成田不動講は江戸の町人によるものも多かった。江戸の町人にとって秩父の巡礼や成田山参詣、大山詣で、富士登拝、江の島弁天詣では身近で物見遊山を兼ねたレクリエーションでもあった。式亭三馬の「浮世風呂」(1808年)には「おまえかたは大山参りに御神酒を納めに行くか、成田様への旅くれえが関の山だらう」とある。幕末には江戸を中心に二百を越える成田不動講ができていた。通算で12回を数えた本尊不動明王の江戸での出開帳の成功に加え、歌舞伎の隆盛のなかで圧倒的な人気を博していた市川團十郎家が代々、成田山への信仰篤く、度々成田不動明王を舞台で演じて「成田屋」を号したことの宣伝効果は絶大だったようだ。

 こうして日本独自の不動信仰が発展してきたのである。