その10.お寺の基礎知識(中編)
・宗派について(概論)
日本に仏教が公式に伝来したのは6世紀のこと。インドからシルクロードさらに中国・朝鮮半島を経由して伝来しましたからいわゆる「北伝仏教」と呼ばれます。北伝仏教は個人の救済を前提とする上座部仏教(=南伝仏教)と違い、一時に大勢の人々を救済しようとする大乗仏教です。このため、上座部仏教での仏(=解脱した者)とは違って一時に大勢の人々を救済できる不可思議なパワーを持つ人間離れした存在が大乗仏教の仏とされていきました。結果的に大乗仏教で崇拝される諸仏は、特に菩薩や明王などの場合、異形の形(千手観音、十一面観音…)をとることが多いです。
大乗仏教の根本聖典とされたのが法華経でした。このため法華経を「大乗妙典」と呼んで特別に尊崇する流れが出てきます。8世紀に入りますと「南都六宗」(三論・成実・法相・倶舎・華厳・律)と呼ばれる宗派のような存在が出てきますが、これはどのお経を主として学ぶのかによって分かれた僧侶の学習グループのようなものであって、独自の教団を持つ宗派とは異なります。
多くの場合、郷土史においては南都六宗に触れる必要はあまりないのですが、鎌倉時代になると律宗から忍性らが出てきて積極的に社会事業に取り組んだこともあり、鎌倉幕府から招かれて関東にも進出しています。忍性は鎌倉に極楽寺を創建していますが、関東進出の際、宋の寧波出身の石工の流れを引く職人たちを率いていました。大蔵派と呼ばれたその石工集団は相模、常陸を中心に新しい様式の石造物を関東各地に残しており、影響は房総にも及んでいます。
平安時代には二つの宗派が「平安仏教」と呼ばれて大きな影響力を持ちます。天台宗と真言宗です。最澄が唐からもたらした天台宗は兼学・兼修の立場(様々な仏典に学び、様々な修行方法を通じて仏の世界に迫る)から仏教の「総合大学」的な存在となります。鎌倉新仏教の開祖たちが皆、一度は天台宗で修業し、学んだ経歴を持つのも、天台宗の持つ教えの幅広さ、包容力があったからかもしれません。
空海が唐からもたらした真言宗は密教と呼ばれるグループに属します。それまでの日本の仏教は顕教と呼ばれて南都六宗のようにお経から学び取る側面が大きく、学問的性格が強かったと言えます。しかし顕教の場合、文字だけで語りつくせない仏教の深遠さを実感する上でどうしても物足りない側面があるのは否めません。
文字では十全に示せない教えの本質を重視する立場を密教と言い、不可思議な儀式や真言(お釈迦様の時代の言葉)を唱えることなどを通じて仏と一体となる(=即身成仏)ことを目指します。当時の貴族たちはその目新しい儀式や聞きなれない真言の響きに驚嘆し、現世利益的魅力もあって瞬く間に真言宗の虜になったといいます。
真言宗の修行における中心は和歌山の金剛峯寺に置かれました。房総は黒潮の流れも手伝って弥生時代の終わりごろから既に和歌山や阿波などから人々が新しい文物を携えて移住してきましたから、真言宗もたちまち房総に伝来し、定着していきます。これが千葉県で真言宗寺院が最大の多い理由だと考えられます。
やがて天台宗でも密教の魅力を取り込もうとして次第に密教化していきます。
平安仏教は平安時代後半に入りますと、寄進地形荘園の拡大も手伝って次第に世俗化していき、様々な腐敗が目立つようになってきます。12世紀以降、武士が政治勢力として急激に台頭してきますと、腐敗し、貴族化した平安仏教を批判する傍ら、武士や民衆をも救済対象とする新しい教えが天台宗の中から続々と登場してきます。
まず念仏系の宗派からまいりましょう。念仏系最初の宗派である浄土宗は10世紀から広がった末法思想によって力を得た浄土信仰が宗派として成立するうえでの土台となります。末法思想によりますと、日本では1052年から末法の世に突入するとされ、末法の世では戦乱や天災が相次いでこの世は地獄の様相を呈してくるだろうと予言します。したがって来世は阿弥陀如来のお導きにより極楽浄土に生まれ変われるよう、造寺造仏に励み、ひたすら念仏「南無阿弥陀仏」を唱えて阿弥陀如来におすがりなさいと説いたのが浄土信仰でした。
法然は浄土信仰の教えをさらに発展させました。貴族らとは違って造寺造仏など論外で、難しい経文を読むこともできない民衆にも慈悲深い阿弥陀如来は救いの手を差し伸べてくれる(他力本願)とし、ただ一言、念仏だけ唱えなさいと法然は説いたのです。
以後、念仏系の流れは誰もが等しく阿弥陀によって救われる、という平等性を徹底して追求していくことになります。
法然の弟子、親鸞は毎日、念仏を繰り返し唱えるゆとりすらない、最下層の人々をも救済の対象に据えていきます。虚飾と不誠実を嫌う親鸞は自ら肉食(にくじき)・妻帯の破戒僧としてふるまうことで阿弥陀の慈悲の力がいかに絶大であるかを身をもって示そうとしました。
有名な「悪人正機説」は破戒を繰り返さなければ生きていけない人びとに対して、阿弥陀にすがる信心さえあれば必ずや救われることを説いたものです。
以上が浄土真宗の基本的考えです。
一遍は一層、阿弥陀の慈悲の力を絶対視し、既にすべての人々は阿弥陀によって来世、極楽浄土にいく(=往生)ことは約束されていると説きました。したがって人々は慈悲深い阿弥陀にただ感謝すればそれで良い…これが時宗です。一遍の教えは極楽往生のためには信心すら不要と説く点で宗教の枠すら超えかねない、究極の平等思想に到達した教えと言えましょう。
念仏系宗派の教えにあからさまな嫌悪感を表明したのが日蓮でした。日蓮は法華経の教え以外は不要とし、ひたすら法華経に学び、お題目「南無妙法蓮華経」と唱えることを説きます。そして鎌倉の辻に立ち、「四箇格言」のような激しい表現で他の宗派を攻撃しました。ちなみに「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」という言葉から、当時の鎌倉で流行していたのが真言宗、禅宗、念仏系、律宗であったことが分かります。
法華経の教えに基づく政治改革を唱えてどんな迫害をも恐れず、鎌倉幕府に「立正安国論」を突き付けた戦闘的な日蓮からすれば、現世を諦めて来世での極楽往生を願う念仏系はとりわけ無気力で堕落した教えと見えたのでしょう。
現世での社会のあり方を重視する現実的な性格から日蓮宗はもっぱら都市部の商工業者の間で広がり、次の室町時代には京都で大きな力を持ちます。仏教嫌いの織田信長が京都の宿泊所に日蓮宗の本能寺を選んだ背景には日蓮宗のもつ現実的でチャレンジングな性格が寄与したのかもしれません。また日蓮宗寺院の多い千葉県で念仏系宗派の寺院が妙に少ない理由も察せられますね。
ちなみに日蓮が四箇格言から外した天台宗では「朝題目、夕念仏」といわれ、「南阿妙法蓮華経」は決して日蓮の専売特許ではありません。もちろん「南無阿弥陀仏」も念仏系の専売特許ではなく、座禅すら、天台宗の修行の一つだったのです。天台宗が鎌倉新仏教の生みの親的存在だったことがよく分かるエピソードです。
しかし天台宗と鎌倉新仏教には決定的な違いがあります。様々なお経や修行方法の功徳を説く兼学兼修の天台宗に対して鎌倉新仏教は的をピンポイントに絞る「選択・専修」の教えだった、ということです。沢山のお経を読んだり、様々な修行をするゆとりや力の無い民衆をも対象に救済を唱えるには「選択・専修」の教えは必須だったのでしょう。
振り返りますと天台宗はあらゆるお経を読解し、様々な修行を試すことが出来る専業の仏教従事者である僧侶と造寺・造仏が可能な貴族層といったエリート層、上流階級限定の教えだった…といえるかもしれません。
最後は禅宗です。念仏系や日蓮宗は日本でかなり独自の発展を見せた宗派といえるのでしょうが、こちらは宋からもたらされた宗派です。特に臨済宗はその厳しい教えが武士の精神修養に役立つとの観点から歴代の武家政権によって手厚い保護を受けたため、急速に広まりました。
禅宗は曹洞宗の「只管打坐」という表現に見られるように座禅による修行を最重視し、徹底的な出家主義をとって厳しい戒律を課す点で他の宗派とは際立った違いを見せます。ある意味で超エリート主義であり、その禁欲性の強さからも、決して一般民衆向けとは言えないでしょう。しかし次の室町幕府も臨済宗を重視し、世俗化する中でたちまち全国に広がります。なお江戸時代には曹洞宗が急速に力をつけて臨済宗を逆転し、現在に至ります。
栄西の書いた「興禅護国論」の題名から察せられるように、禅宗も大乗仏教に属するのですが、修行を通じて個々人の悟りを深めていくことを重視する点で上座部仏教と似通った性格が伺えます。
中世に入ると鎌倉新仏教に押されて平安仏教がやや衰退気味となり、天台宗でも、真言宗でも守旧派と改革派に分かれて激しく対立しました。そのうち真言宗では高野山金剛峰寺の守旧派から分かれ出た改革派の勢力が根来寺を創建。やがて根来寺が大きな力を持ち始め、戦国時代には鉄砲衆も加わって一大勢力となります。
しかし豊臣秀吉によって焼き討ちに会い、大勢の僧侶らは一旦散り散りになりますが、京都の智積院に再結集した勢力と奈良の長谷寺に再結集した勢力とにほぼ二分されました。それぞれ智山派、豊山派とよびますが、本質的な教えの違いは見られないといって良いでしょう。また根来寺に戻り、再興させたグループは真義真言宗と呼ばれます。市原市内ではこの三つのグループを知っていれば十分です。
また日蓮宗でも14世紀、京都妙満寺を拠点とするグループが日什を頂点に妙満寺派(顕本法華宗…日蓮原理主義的な強硬派からなる日蓮宗内のグループ)を結成しています。
15世紀末、妙満寺派の日泰が土気の領主酒井定隆に重用され、酒井の命令で「七里法華」(酒井氏の領地の寺をすべて日蓮宗に改宗させた?)が実現していったといわれます。また江戸時代、キリスト教と同様に危険視された不受不施派も妙満寺派の流れに属し、幕府から処刑されたり、島流しになった信者や僧侶が「七里法華」地帯から出ています。他の宗派を排撃した日蓮の流れを強く引くのが妙満寺派(顕本法華宗)と見てよいでしょう。この辺りは千葉県の郷土史の基本的知識となります。