その3.地図を読む

 

 さて、地図を読むと言っても、一体どんな地図が歴史散歩に役立つのでしょう。

もちろん、散歩するコースの地域に該当する村の、江戸時代に作成された絵図があれば、いかにも歴史散歩らしくて良いのですが、市原市の場合、村絵図をネットで見つけ出すのは極めて難しいと思います。しかも、村絵図は現在の地図とは対応していないため、村絵図で自分が今いる場所を見つけ出すことさえ、難しいでしょう。

 そこでオススメなのが歴史的農業環境閲覧システムが提供している迅速測図(1880年代に陸軍が作成)と現在の地図との「比較図」です。幸いにも市原では明治維新後もしばらくは大きな道路建設等が一部を除いてほとんど見られません。したがって迅速測図は市原市の場合、ほぼ江戸時代末期の村の様子や道筋を現在の地図並みの正確さで推定できるのです。しかも比較図の場合、右側には現在の地図が同時に見られるので、調べたい場所にポインターを合わせれば、過去と現在の地図上の場所を両方とも確認できます。

 迅速測図では当時の土地利用の様子から、家並みまで確認できるので便利この上ない地図であり、歴史散歩には絶対に欠かせない情報源となるのです。

 皆さんは上の比較図を見てどんなことを読み取れるでしょう。次回、この隣村の比較図を私なりに読み取ってみますので、どうかお楽しみに。 

 

 もう一つ、役立つのが戦後まもなく撮影された白黒の空中写真(国土地理院)。こちらは特に海浜部の集落を探索する上で役立つでしょう。下の写真を見てください。

 養老川の河口部とデルタ地帯を中心とするこちらの写真からも沢山のことが読み取れます。ただし、読み取っていくためには予め、多少の知識の蓄えがどうしても必要となります。これも後日の配信で読み取っていくことにしましょう。

 注目ポイントは真ん中、上の部分の不自然な白っぽい場所。さらに河口部沖合に見える灰色のゾーン

2.市内歴史散歩の着眼点

 

 千葉県市原市はとりあえず都内まで電車で40分余りの通勤圏にありますが、「千葉都民のベッドタウン」という性格はそれほど強くありません。何せ養老川の上流まで市域が南部(内陸部)深く、細長く伸びていますので、養老渓谷など、緑豊かな景観も広がります。ただ北部(湾岸部)の平野では都市化が進み、五井などは今も子供の数が増えている地域があり、それなりに人口の多い地域になります。

 市の特色は湾岸部に工場地帯が広がり、その労働者の居住区として平野部、及び平野をのぞむ丘陵部の縁辺から1960年代以降、大規模な団地が続々と造成されました。

団地や新興住宅地は次第に内陸部、牛久周辺まで及んでいます。しかし牛久よりも南は少子高齢化が急速に進み、小中学校の統廃合が次々と行われてきました。

 こうした市原ですので、湾岸部には自然豊かな歴史的景観は少なく、かつて半農半漁の田舎だった市原の面影を見る事は難しくなっております。また県内の他の市町村同様、国指定重要文化財が少ないため、分かりやすい見所も限られております。加えて緑豊かな南部でも丘陵上は数多くのゴルフ場となっていて、空中写真を見ますとゴルフ場開発で蚕食された様子がよく分かります。かつて丘陵上に祀られていた三山塚や石造物の多くが開発によって失われてしまったと考えられるのです。

 実はかつて数多く存在していた北部の貝塚や古墳なども団地造成などの開発によって既に多くが失われております。

牛久周辺のゴルフ場(グーグルマップより)

チバニアンで有名な田淵付近で写真右側がゴルフ場(2011.5.19撮影:国土地理院空中写真より)

 

 山間部に限らず、産業廃棄物処理場が数多く存在し、市原の特色は実際、「工場、ゴルフ場、ゴミ捨て場」と揶揄されてしまうような側面があることは否定できないでしょう。自然豊かな中をゆったりと歴史散歩を楽しみたい…という希望は一見すると実現できないように思えます。しかし…

 

 そんな市原の歴史散歩を楽しむためのつのポイントをご紹介いたしましょう。

 

1.地図を読む訓練

  先人たちの川と海とのかかわり、古道と村の成り立ちを知るためにも最も大切な

  ポイント。次の配信で地図を読むコツを伝授いたします

2.お寺と神社の基礎知識を知る

  宗派と経典、神仏習合、尊王攘夷と神道などは特に。

3.江戸時代の民間信仰を知る

  稲荷・庚申・子安・修験道・冨士講などは特に。

4.石造物の世界を知る:上記の2と3の基本さえ分かれば実は何とかなります。

 

 以上、4つのポイントを押さえておきますと、一見、ただの新興住宅街であったとしても何かが違って見えてくるでしょう。どこにでもありそうな何気ない風景ですら、いかにもその土地の由緒、歴史を雄弁に語り掛けてくるように感じてくるはずです。

 

 さぁ、皆さんも以上の知識をたずさえ、地元の歴史散策に出かけてみませんか。

 

参考動画

「ほーりーとお江戸、いいね!」

 堀口氏の解説は分かりやすく、親しみやすい。時刻、お金の単位、浮世絵、歌舞伎、長屋の暮らし、庶民の旅、各種興行…郷土史の基礎となる江戸時代の民衆の生活文化、娯楽などが楽しく学べる、イチオシの動画。10~15分ほどに収まる視聴時間がほとんどなので授業でも使える動画は多い。

【スーツ登場!】YouTubeでの勝ち方ぶっちゃけ&おすすめ旅行術・スポット紹介

 【趣味を持つには?】 ReHacQ−リハック−【公式】  2023/10/25  35:02

【スーツvsひろゆき置いてきたP】旅マニアおすすめ㊙︎テクニック【旅行の楽しみ

 方】 ReHacQ−リハック−【公式】 2023/10/31  37:45

 NHKの「ブラタモリ」や「くもじい」、「くもみ」が登場するテレ東の「空から日本を見てみよう」が好きな人だったら、この動画が示している観光のポイントと郷土史への関心の持ち方とが極めて似通っていることに気付くだろう。

 グーグルマップなどを多用して地形などから町の歴史を推理する、遠くの観光地ではなく、地元のさりげない風景から面白さを見出す…世界中を旅する人気ユーチューバーの「スーツ」氏とテレ東で旅番組を担当してきた高橋氏との刺激的な対談。

1.鎌倉街道を歩く会とは

 

 「鎌倉街道上総道」は文化庁が指定した「歴史の道百選」に選ばれている貴重な文化遺産です。私たちの団体「鎌倉街道を歩く会」はこの貴重な遺産を広く市民に紹介し、文化財や歴史的景観の保護と郷土市原への関心を高めていただこうとの目的から2010年に発足いたしました。

 以後、幾度か数多くの参加者と共にあずの里から深城の御所覧塚まで歩き、姉崎神社への枝道も歩きました。一部バスを利用して移動し、袖ケ浦郷土博物館や国分尼寺資料館で座学をするパターンが多かったように記憶しています。時には高校生(東葛飾高校、姉崎高校)を主体に炎天下、15㎞以上の長距離を歩いたこともありました。

 歩き始めた当初は知名度が低かったせいか、「鎌倉街道」という言葉に目を奪われたある高齢者の方がバスツアー直前まで神奈川県の鎌倉に行くものとすっかり勘違いされていた・・・という、あまり当事者としては笑えぬ話もございました。

 現在、会員10名で今年度は市原市有秋公民館で年1回の郷土史講座、年3回の郷土史散策、八幡公民館や南総公民館でのそれぞれ年1回の郷土史講座、年1回の歴史散策(バスを用いての終日)、計9回の主催事業を計画。個人的には千葉市千城台公民での歴史散策(今年度は11月に千葉寺を歩きます)も引率する予定です。

 

 会長は歴史地理を専門としていて、現在にも一部残されている古道を散策し、各種の地図などから過去の景観とその変化、集落の成り立ちを探ることを活動の軸として会を運営してきました。私も会の一員として市原市をフィールドにしながら、江戸時代の石造物の探索を中心に活動してまいりました。

 2020年3月、鎌倉街道を歩く会結成10周年を記念し、「鎌倉街道を歩く・見る・学ぶ~鎌倉街道を歩く会10年の記録~」を刊行し、市原市内の公共施設、学校等に寄贈しております。

 

 これまで会としてのホームページを設けていなかったので、会の活動を紹介し、併せて市原の郷土史に関わる内容を個人的に発信するためにもこのブログの一部を充てた次第です。このブログの多くは社会科教師にとって役立つ授業素材をyoutubeの動画やネット記事から探し出し、ほぼ素材のまま教師に提供する、という内容なのですが、§6だけは教師対象としての性格は薄く、郷土史を趣味としている方向けを強く意識した内容を発信していきます。

 

 ということですので、特に市原市の歴史散歩にご興味のある方、これまで鎌倉街道を歩く会の活動に参加された皆様方、ブログ方々、今後とも長いお付き合い、よろしくお願いいたします。

 

 次回からは郷土史のネタで次々と発信していきますのでお楽しみに。

 続々「千と千尋の神隠し」より 

 

3.再び千と千尋の神隠しより 

 前回は宮沢賢治の世界をざっとご案内いたしました。今回はそれを踏まえてもう一度「千と千尋の神隠し」を深読みしていきます。場面は中盤にさしかかり、ハクが傷ついた白竜の姿で千尋の前に現れたあたりから見てまいりましょう。千尋に対して優しく接するハクの、もう一つの顔は強力な魔法の力をゼニーバから盗み出そうとする強欲なユバーバの手先としての、少し残念なハクです。

 さてハクはなぜユバーバの手先になってしまったのでしょう?それはもちろんゼニーバが言うように、ユバーバに本当の名前を奪われてアイデンティティを喪失してしまい、彼女に操られるようになってしまったからではあります。

 しかし実はハク自身が本質的に野心的な心を宿していてそこにユバーバがつけ入った…とも考えられませんか?ハクにはもともとユバーバの手先になる素質、心のスキがあったと思うのですが、いかがでしょう?

 私は授業でこの疑問に対してこう説明いたします。ハクは多くの男の子が持つ、他から抜きん出ようとする心性を体現していると。

 サル山のサルを考えてみましょう(人は猿から進化した「裸のサル」なのですから、サルを観察すれば人間の本性の一端が見えてくるはず)。オスザルはボスの地位を巡ってオス同士で激しい争いを繰り返します。これはオスの本性なのです。もちろんメスにも同様の傾向は多少見られますが、それはオスほど根深いものではないように思われます。

 男の子のハクにも同様の本性が働いているはず。他から抜きん出た存在になるために、手っ取り早く魔法を使えるようになりたい。これは多くの少年たちが密かに夢見ている大いにヤマシイ、それでいて強力な願望の一つではありませんか。「ハリーポッター」シリーズの人気を支えているのは多くの少年たちに共有されているこうしたヤマシイ願望だと私は推理しています。

 かくいう私だって実際、魔法を使えたら…と少年時、繰り返し夢想してきたのですから。しかもこのヤマシイ願望もまたハクの魅力の一つであり、宮崎駿はこの願望を決して排除してはいません。ですから「魔女の宅急便」や「ハウルの動く城」などでも魔法が主要な役割を与えられているのです。

 ハクが普通の男の子としてより強い魔法を使いたいという野心を募らせたとしても不思議ではありません。ただし魔法には必ずある種の「いかがわしさ」と「やましさ」が秘められている。だから安易に利用してはならない、まして濫用することはもってのほか。

 便利で高機能なものほど人間を堕落させてしまう恐れがあるのです。高度に発達を遂げた現在の科学技術はそのメカニズムを理解できない多くの人にとってすでに魔法そのもの。ではその科学技術の発展は本当に人類を幸福にしてきたのでしょうか?

 原爆や原発事故の悲惨さを思い出すまでもなく、科学技術の危険性はその便利さと表裏一体のものです。この主題は「ハウルの動く城」でも受け継がれていると思います。実際ハウルは戦争を避けるべく魔法を用いますが、そのために自らを傷つけていたのです。

 かつて宮崎駿は「もののけ姫」でこの疑問を鋭く私たちに問いかけました。もののけ姫に登場するエボシ御前は科学技術を駆使して差別を排し、より平等な国作りを目指す女性革命家の側面とともに裏切りをも辞せぬ非情さ、人々の自然への畏怖を馬鹿にする傲慢さを併せ持ちます。

 このため彼女はもののけ姫の憎しみを買い、物語の最終局面で「しし神様」に右腕を食いちぎられてしまいました。自然世界からの手痛い反撃を受けた彼女はこれまでの自然を軽視した傲慢な考えの修正を迫られることになるのです。

 ネット社会の産物のような妖怪「顔無し」のキャラクターもまた私たちに同じ疑問を突き付けているように思います。魔法を使えることが果たして私たちを本当に幸福にするのか、今、改めて厳しく問い直すべきでしょう。

 ゼニーバは千尋らを温かく迎え入れます。そしてみんなで一緒に時間をかけて髪を結わう紐を手作りで編みます。その際、魔法を使うことを禁じたのは、人と人との絆を象徴するその紐がとりわけ魔法を嫌うから。そこには人と人を結ぶ絆は手作りでなければならない…という宮崎駿の確固とした信念がうかがわれるのです。

 確かに誰かの魔法にかけられたために誰かを好きになってしまうというシチュエーションはおぞましくて考えたくもありませんものね。絆を魔法で作ることは絶対に厳禁です。千尋と両親との絆は魔法で作られたものではないからこそ、物語の最後の場面で千尋は魔法にかけられたブタの群れの中に両親がいないことを見抜けたとも考えられます。そして千尋が見抜けた瞬間にユバーバによって両親にかけられた魔法は完全に解かれたはずなのです。

 逆に顔無しが魔法を使って千尋との絆を作り出そうとしても千尋はそのアプローチをかたくなに拒否するのは当然です。だからこそ顔無しはゼニーバのもとで当分の間、魔法を使わない禁欲生活を余儀なくされるに違いないのです。彼が立ち直る方法はそれしかない。これがゼニーバの賢明な判断でした。

 ネット社会の匿名性の中で一方的に快楽を手に入れる生活スタイルから抜け出すには、ネットから離れてみる必要があるのです。幸せは素顔と素顔の見える、肌と肌の触れ合える関係の中でシェアする、そして絆はそうした手作りの関係性の中でしか形成できない…この大原則を決して踏み外してはなりません。

 ゼニーバ(銭婆?)が登場したのでゼニーバに関する質問をしましょう。「ゼニーバ」と「ユバーバ」(湯婆?)は双子の魔女でゼニーバが姉になります。彼女は妹のユバーバと違って沼の底でひっそりとつつましい生活を送っています。

 一方、ユバーバの支配する油屋という場所は賑やかで欲望渦巻く俗世間を表しているかのよう。

 ならばゼニーバの住む土地が「沼の底」というのは解せません。もっと聖なる土地にふさわしい名であったほうが良いと思いますが、いかがでしょう。なぜ宮崎駿はゼニーバのいる場所を「沼の底」という陰湿な地名にしたのでしょう?

 またゼニーバという名も解せません。「銭婆」なら強欲なユバーバの方が相応しいはず。しかも双子なのに真反対の性格になるなんて不自然ですよね?これはどうみても宮崎駿の露骨なまでの作為が感じられる設定なのです。その作為とは何でしょう?

 「千と千尋の神隠し」は三つの柱から構成されていると私は今のところ考えています。一つは「自立」というテーマ。これは経済的な自立につながる就職と精神的な自立につながる恋愛とに分けて既に触れました。二つ目は「絆」。これもすでに触れましたが、もう一度要点を振り返っておきましょう。

 幸せはまず自分の感覚で捉えるものです。しかし手と手をつなぎ、目と目を見つめあうことで幸せの感覚はシェアできます。絆は幸せをシェアする手作りの精神から生まれてくるもの。そしてその人の生涯にわたる大切なセーフティネットを構成していきます。

 「孤独死」がささやかれる現在、絆を作り、保つことの意義は大きいのです。そして絆は四次元的にも捉えることが必要です。親世代はいずれ死滅します。横の絆、夫婦関係や友人関係もやがては櫛の歯が抜けるように一つまた一つと絆は断たれていくでしょう。最後に残るのは多くの場合、次世代との絆になります。

 やはり自分のすぐ近くに子供や孫がいる場合、高齢者の幸せ度は比較的高いといいます。もちろん老親の介護に疲れた子供が親を殺害する悲劇が後を絶ちませんが、これはもっぱら政治の問題。福祉が充実すれば解決できるはず。

 でも心の絆は政治だけでは十分な保障ができないでしょう。幸せをシェアする精神を大勢で共有していくコミュニティ作りがどうしても必要であり、宮崎駿もこれはかねがね強調してきたことです。

 実際、「もののけ姫」では野心的なエボシ御前がこの心豊かなコミュニティ作りに必死で取り組んでいたのです。エボシコミュニティではエボシは女性たちから圧倒的な支持を受けていました。また当時最も差別されていたライ病患者たちもエボシに深く感謝していたのです。

 三つめは何でしょう?これも宮崎駿のアニメにほぼ一貫してみられる大原則。私は「多様性を尊重する」という価値観だと捉えております。千尋は大人から見ればかなりウザイ、キモイ存在のはずの顔無しを決して見捨てません。ブラック企業の社長のようなユバーバにも「どうもありがとうございました」とお礼を言って別れを告げます。決して絆を自ら断とうとしてはしていないのです。

 引っ越しによる転校と神隠しによって一旦、すべての絆が断たれてしまったような千尋にとってたとえ誰であろうと一たび結ばれた絆はおそらく「命綱」に等しかったのでしょう。けれども千尋はもともと友達想いの子だったに違いありません(だからなおさら転校が千尋の心を憂鬱にさせていたと思われます)。

 絆が千尋を支え、絆の中でたくましく成長し、そして絆の力で千尋は現実世界に戻れました。人を差別し、軽蔑する言動は絆の力を弱め、絆を自ら断ってしまうことにつながりかねません。ですから千尋はただの一度もそんな言動をとっていないのです。

 子供の純真な心は優劣を論じて人を軽蔑し、差別する言動を嫌います。この子供の持つ純真さを保ちつつ、千尋は成熟への道を堂々とたどっているのでしょう。

 最後の場面で髪を結わいた紐がキラリと光りました。つまり彼女は「あやかし」たちとの絆は保ちつつ、現実世界に帰還したのです。この絆はけっしてハクだけとの絆ではないはず。顔無しやユバーバをも含めた「不思議の国」全体と現実世界とをつなぐ絆でもあるはずなのです。

 ゼニーバという卑しい名前、沼の底という陰湿な名前を敢えて静謐な、正義の側につけることで宮崎駿はゼニーバの世界を決して押し付けず、美化したり絶対化することを巧妙に避けているように思えます。またゼニーバの世界はあまりにも孤独で寂しい世界。少し近寄りがたい世界にも見えます。

 この世界はかなりズレるところもありますが、宮沢賢治が「告別」で生徒たちに告げた冒頭の言葉を思い出させます。

 

  云わなかったが

  おれは四月はもう学校には居ないのだ

  恐らく暗くけわしいみちをあるくだろう

 

 やはりゼニーバの世界は「暗くけわしいみち」の先にあるように思えます。列車に乗るための切符すら滅多には手に入らない…一体、どれだけの人がゼニーバの世界にアクセスできるのか?あの人気のない寂しさの漂う世界はまさに冥界に近い彼岸の世界であり、悟りの境地に近い気配を感じます。ポピュラーな世界ではないのです。だからこそ宮崎駿はこの世界が理想化されるのを避けるために、敢えて陰湿な名をつけたのではないでしょうか?

 逆に強欲なユバーバの支配する世俗の脂っこい油屋はむしろ人間臭く、活気に満ちた楽しそうな側面がきっちりと描かれています。人間らしい、懐かしささえ漂う世界。実際、そこは八百万の神々が集いけがれをはらうお湯屋。そしてけがれをはらった神々が宴を催して元気を取り戻す、実は沼の底よりも神聖な場所、と言ったら言い過ぎでしょうか。

 この作品、決して世俗の世界を否定しているわけではありません。

 強固な絆を作り、多くの人とつながるためにはこうした「多様性を尊重する」姿勢こそ必要不可欠なのです。たとえ敵対するように見えていても異質な他者を排除せず、必死に共存を試みる。これはどうやら「もののけ姫」において、一見野蛮に見えるもののけ姫も否定せず、文明の先端を行くようなエボシ御前も否定しない、自然と文明との共存共栄を目指す、あのアシタカの立場と似通っているでしょう。

 残念ながら世界は今、強い不信感の中で対立を深めつつあります。キリスト教世界vs.イスラム教世界、中国・北朝鮮vs.韓国・日本・アメリカ。とりわけ残念なのは肝心な指導者層がウケを狙って対立をあおるような、不信と憎しみを隠さぬ物言いを続けていることでしょう。とくにトランプの存在は世界中を不安定にしていくに違いありません。日本もアメリカに追従し続ける限り、北朝鮮の有力な仮想敵国なのです。いつミサイルが突っ込んでくるのか、不安は当分ぬぐい去れません。

 唯一絶対の神をのみ拝み、神の教えに逆らうものは決して許容しない。キリスト教やユダヤ教、イスラム教といった一神教世界における異教徒に対するこうした不寛容な教えもまた戦争の火種を播いてきたように思えます。愛や平和を説くこれらの宗教こそが残酷な宗教戦争を繰り返してきた張本人ではないでしょうか?

 これに対して仏教や神道は多神教であり、多くの日本人は唯一絶対の基準で人を裁くような神を奉じてきませんでした。神道にはこれといった教典が存在せず、確かにいい加減と言えばいい加減、原始的といえば原始的です。人間臭さを残した八百万の神様たちがひしめくその世界はまさに油屋のような猥雑な趣さえあります。

 しかし多神教の包容力を甘く見てはいけないのです。実際、日本は宗教対立による大規模な宗教戦争を過去まったく経験したことがありません。加えて多神教だからこそ日本は大した抵抗感もなく海外から様々なものを次々と受容してこられたのではないでしょうか?

 油屋の猥雑な世界が持つ許容力、包容力の魅力にもぜひ注目しましょう。そこは強欲なユバーバが支配するただのブラック企業ではありません。でなければ千尋はこの油屋の世界でたった一人の人間としてみんなからいじめられ、働くことさえ不可能だったでしょうから。

 最後に坊とユバーバの関係について考察してみます。坊はユバーバの最愛の息子(?)なのですが、どうやらユバーバの過保護によって成長が止まっているようです。外出を許さずにひたすら自室に閉じ込めたまま偏愛し続ければ人はどうなるのでしょう?しかも坊をユバーバは魔法を使って世話しています。明らかに手抜きの育児でしょう。おそらくこのまま時間が経てば坊は顔無しと同様、自分の欲望を満足させるためだけに魔法を使う、厄介な妖怪と化していたかもしれません。

 世話は確かに育児の一つですが、世話だけで子供は育つのでしょうか?当然、社会性を身に付けるには世話に加えて何らかの訓練や経験の積み重ねが必要です。危険を伴いますが、それは親としても覚悟のうえです。

 「かわいい子ほど旅をさせよ」というではありませんか?もしも千尋と出会わなければ全くの甘えん坊として坊はいつまでも自立できないまま、しかも赤ん坊の姿のまま終生、生きていくところだったのかもしれません。それではまさに「永遠の引きこもり」になってしまいます。しかし幸いにも千尋に出会い、坊はユバーバの手を借りずに危険を伴う冒険の旅に出ます。

 坊はやがて自らの足で立って歩く喜びを知り、千尋の肩にとまることを拒否するほどに自己主張できるようになったのです。坊と顔無しとは孤独であるか否かを除くとけっこう近しい存在に思えてなりません。教育の問題に引き寄せて考えると無難路線ばかりをたどり、危険を回避することばかりにあくせくしている今の教育行政の在り方に不安を感じてしまうのは決して私だけではないでしょう。

 この続きは次回ということにしてここで失礼いたします。ではまた。

 

「千と千尋の神隠し」を深読みしてみる その3

1.映画「おくりびと」(2008)の意味すること

 倫理で「千と千尋の神隠し」に関する試験を受けて頂く前に必ず映画「おくりびと」を鑑賞することになっています。問題を解いていく上で欠かせないヒントが一杯詰め込まれた日本映画の傑作だからです。音楽もこれは偶然かもしれませんがジブリ作品を数多く手がけた久石譲が担当。

 あらすじを簡単に紹介いたします。

 主人公は東京のオーケストラ団員でチェロ奏者の小林大悟(本木雅弘)。結婚しているが子はいない(年齢は30歳前後?)。彼は苦労の末に就職した楽団で頑張るため、1800万円もの大金をはたいてチェロを購入したばかり。ところが楽団が瞬く間に解散となり、大悟は失業者になってしまう。

 お金が無い小林夫婦はチェロを売却した後、大悟の実家がある山形に移住を決意。大悟の父親は彼が6歳の時に愛人と友に家を出てしまい、現在、行方不明。母親は大悟が出国中の2年前に亡くなっていた。空き屋となっていた実家に引っ越してきた大悟は早速、就職先を探すが、新聞の折り込み広告のキャッチフレーズに目がとまる。好待遇で正社員、業務は「旅のお手伝いをする・・・」、しかも未経験者大歓迎・・・旅行代理店と勘違いした大悟は早速受験してみることに。

 社長面接もおざなりのまま採用された大悟はそこがお葬式を請け負う会社であることを知り、一瞬、ためらう。しかし月給50万円を提示され、あっけなく入社。最初は戸惑う大悟であったが次第に仕事の魅力と社長(山崎努)の人柄に惹かれ、納棺という仕事への思いが深まっていく。ところが妻(広末涼子)や幼なじみの友人(杉本哲太)らは納棺師への根深い差別感(葬祭にかかわる人々は「けがれている」という観念)から大悟を避けるようになる。妻が自分の実家に戻ってしまったことに加え、仕事中にも差別的な言動を受けて大悟は仕事への意欲を失いかけるが、かろうじて社長の説得を受けギリギリのところでふみとどまる。

 やがて銭湯を一人で切り盛りしていた幼なじみの友人の母親(吉行和子)が亡くなる。駆けつけた妻と友人の前で大悟は納棺師としての仕事を見事に成し遂げ、二人とも納棺の仕事の意義に気づいていく。これを機に大悟の一旦壊れかかった人間関係は次第に修復されていったが、一つだけ修復できない関係があった。6歳の時に自分や母親を捨てて家を出て行った父親を大悟はどうしても許せずにいたのである。

 しばらくして父親の訃報が大悟のもとへ届く。大悟は父親の遺体に直面することを避けようとするが、周囲のすすめでしぶしぶ遺体の引き取りに向かう。父親の遺体を事務的に扱おうとする業者に腹を立てた大悟は自分の手で納棺を行うことになる。清拭の途中で父親の手に握られていた石ころが転がり落ち、大悟は父親が自分を最後まで気にかけていたことを知る。

 

 この作品は当時、大きな反響を呼び、納棺師という聞きなれない仕事が一躍注目されるようになりました。葬式関係に携わる人々への偏見は今も根強く残っています。映画でも社長と大悟が遺族に「人の死をメシのタネにしている連中」とさげすまれる場面が出てきます。しかし納棺師は遺体を荘厳し、故人への遺族の思いを深め、故人と遺族との絆をいっそう深める貴重な役割を果たせる仕事でもあります。「ひとは誰でもいつか、おくりびと、おくられびと」と映画のキャッチコピーにもあるように社会から必要とされている仕事なのです。実際、大悟は数々の感動的な別れのシーンに関わり、納棺の仕事に一生を捧げる覚悟を固めていきます。

 いうまでもなく愛する人を失った悲しみは一時的に遺族を精神的に追い詰めていきます。遺族の心のケアを専門にしている精神科医があるテレビ番組でこんなことを言っていました。「愛する人を失った悲しみはどんなに歳月が経とうとも決してなくなるものではありません。またその悲しみは無くそうとしたり、減らそうとすることはできません。そもそも故人を忘れること自体がどだい無理なのです。ではどうしたらいいのか?悲しみを乗り越えて前に進めるようになるためにはたっぷりと時間をかけて自分の心をできるだけ広げていくしかありません。自分の心を少しでも広げられれば心の中で占める悲しみの割合は次第に小さくなっていくのです。」

 ところで「心を広くする」とは一体どういうことなのでしょう?私はそれが人間の心の理解を深めることと価値観の多様性を受け入れることとで可能となると考えています。心の在り方をつかんでいくことで自分を肯定できるようになれれば気持ちは少し楽になれます。さらに自分とは異なる価値観や視点を受け入れ、徐々に理解を深めていくことで心は少しだけでも広がるはず。深い悲しみは広い心で包んでいくしかないとすれば、かつて愛する人を失った人は多様な他者を受け入れられる素地をすでに持っていると考えられるのです。この映画の社長がそうであったように。

 この映画では千尋の髪を結わえる紐に相当するのがかつて河原で父と子がそれぞれ拾い、お互いに交換した石ころでした。愛する人との別離は必ずしも絆を失うことではありません。深い悲しみを乗り越える過程でむしろ故人との絆は強まり、残された人を支え続けるはずです。石ころはむしろ父親の死後、父親の生前以上に大悟と父親との絆を強めていく縁(よすが)になっていくに違いありません。

 人は二度死ぬといいます。一度目は肉体の死。二度目は忘れられてしまうことによる精神的な死。故人の精神的な死はいつか必ず訪れるものの、せめてそれは遺族の肉体的な死の後に訪れてほしいと願わずにはいられません。

 さて以上みてきたように「働くこととは?」、「家族の絆とは?」、「差別を乗り越えるには?」(=多様性の尊重)といったテーマが「おくりびと」でも扱われています。この映画と「千と千尋の神隠し」とがおなじような問題意識をもって制作されていることを十分に感じることが出来るでしょう。

 

 続「千と千尋の神隠し」より

 

イーハトーボ通信第四号 春と修羅

 修学旅行で行く雫石スキー場のすぐ近くに、小岩井農場という有名な観光名所がある。宮沢賢治は農学校の教師になって一ヶ月後(1922年1月6日)、初めてそこを訪れた。それから四ヶ月後の5月にもやってきている。詩集「春と修羅」に出てくる長編「小岩井農場」の舞台である。1891年創業の近代的な総合農場として当時の最先端をいく充実した施設を誇っていたため、農学校教師の賢治としても興味深かったのだろう。見学の成果は早速、授業に生かされただろうが、賢治の目的はそれだけにとどまらない。

 詩集「春と修羅」は小岩井農場来訪の年から書き始められた。彼の生前唯一の刊行詩集(1924年4月自費出版)である。試作の材料探しという狙いもあったのである。ただし賢治は自分の作品を詩とは考えなかった。

 詩集の序にこうある。

 

 わたくしという現象は

 仮定された有機交流電灯の

 ひとつの青い照明です

 (あらゆる透明な幽霊の複合体)

 風景やみんなといっしょに

 せわしくせわしく明滅しながら

 いかにもたしかにともりつづける

 因果交流電灯の

 ひとつの青い照明です

 (ひかりはたもち その電灯は失われ)

 これらは二十二箇月の

 過去とかんずる方角から

 紙と鉱質インクをつらね

 (すべてわたくしと明滅し

  みんなが同時に感ずるもの)

 ここまでたもちつづけられた

 かげとひかりのひとくさりづつ

 そのとおりの心象スケッチです

 

 彼は詩集発行の時にも友人にこう書き送っている。「・・・これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、・・・機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません」

 したがって賢治の詩の作法は、机の前で言葉をひねりだすという、普通の形をとらない。常に鉛筆とメモ帳を携帯し、いつでもどこでも主観の働くままに感じたことを猛烈なスピードで言葉にしていく(もちろん語句の修正、補足などの推敲は後日、しつこいくらいに繰り返された)。初めて賢治が小岩井農場を訪れた時も、その心象スケッチが詩集の最初におかれた「屈折率」となって残されている。二度目はずばり「小岩井農場」という題でかなりの長編となっている。

 まずは詩集の題名ともなっている「春と修羅」の一部を紹介してみよう。

 

春と修羅

 心象のはいいろはがねから

 あけびのつるはくもにからまり

 のばらのやぶや腐植の湿地

 いちめんのいちめんのてんごく模様※

 (正午の管楽よりもしげく

  琥珀のかけらがそそぐとき)

 いかりのにがさまた青さ

 四月の気層のひかりの底を

 唾し はぎしりゆききする

 おれはひとりの修羅なのだ

 (風景はなみだにゆすれ)

                       ※媚びへつらうさま

   以下略

 

 普段のあの穏やかな賢治とは思えないほどの激しい表現。修羅とは仏教用語で嫉妬や猜疑の心が強く、争いを好む世界を指している。賢治もまた修羅の住人としての、悪鬼にも似たもう一人の自分を自身の心の中に見出したのだろう。自分の心のじめじめした暗さとは対照的に外界はまばゆいほどの明るい春の景色である。その外界の明るさに賢治の心が次第に感応し、詩の後半では外界の風景に賢治の身体が共鳴しだしたかのような表現となっている。

 

 あたらしくそらに息つけば

 ほの白く肺はちぢまり

 (このからだそらのみじんにちらばれ)

 いちょうのこずえまたひかり

 Zypressen(ツィプレッセン)※ いよいよ黒く

 雲の火ばなは降りそそぐ

                   ※ヒノキの学名

 

 この終わり方は「小岩井農場」の終わり方とよく似ている。

 

 もうけっしてさびしくはない

 なんべんさびしくはないと云ったとこで

 またさびしくなるのはきまっている

 けれどもここはこれでいいのだ

 すべてさびしさとかなしさを焚いて

 ひとは透明な軌道をすすむ

 ラリックス※ ラリックス いよいよ青く    ※カラマツの学名

 雲はますます縮れてひかり

 かっきりみちは東へまがる

 二つの詩とも前半では、賢治の内面が、理想に燃える求道者としての側面と、陰鬱な情念のくすぶる俗人としての側面とに分裂しかかって苦しみながらも、後半で自然の美しさに体が浄化され、寂しさに耐えながらも求道者として生きていく決意を示すような形で終わっている。

 では賢治の理想とは何か?

 それは晩年の最も有名な詩に、無残な挫折感とともに吐露された。

 

 雨にもまけず

 風にもまけず

 雪にも夏の暑さにもまけぬ

 丈夫なからだをもち

 慾はなく

 決して怒らず

 いつもしずかにわらっている

 一日に玄米四合と

 味噌と少しの野菜をたべ

 あらゆることを

 じぶんをかんじょうに入れずに

 よくみききしわかり

 そしてわすれず

 野原の松の林の蔭の

 小さな萱ぶきの小屋にいて

 東に病気のこどもあれば

 行って看病してやり

 西につかれた母あれば

 行ってその稲の束を負い

 南に死にそうな人あれば

 行ってこわがらなくてもいいといい

 北にけんかやそしょうがあれば

 つまらないからやめろといい

 ひでりのときはなみだをながし

 さむさのなつはおろおろあるき

 みんなにでくのぼーとよばれ

 ほめられもせず

 くにもされず

 そういうものに

 わたしはなりたい

 

 賢治の晩年を思う時、この詩はあまりにも残酷に響いてくるのだが…なにはともあれ理想に燃えていた彼の心を満足させるほどには彼の体は丈夫ではなかった。あまりにも自分の体を酷使し過ぎたのである。しかも食事には無頓着で、トマトやジャガイモ一つで済ましてしまうような粗食を平然と続けていたのだからたまらない。

 どんなに自然の美しさが賢治の心を慰めようと、体の方はあっという間に病に蝕まれていった。「じぶんをかんじょうに入れずに」といってもほどがある。さらに「このからだそらのみじんにちらばれ」とか「かっきりみちは東にまがる」とか、妙に淡白で思い切りが良かった。そして安逸を極端に嫌う生来の真面目さ。

 悲劇は早晩、彼に訪れるだろうが、それはまたの機会に。

 

イーハトーボ通信第五号 童話とファンタジー

 なによりも童話作家として知られる賢治であるが、その作品の多くは絵本となったものを除くと子供にとってやや難し過ぎるように思える。賢治作品の場合、わかりやすさを優先した「童話」というよりも、思春期から大人までを対象とした、結構、高度で上質の「ファンタジー」と捉えたほうが誤解されなくて済みそうだ。

 なまじ「童話」と分類されてしまうから青年期の人は馬鹿にして読もうとせず、また子供が読んでも、方言やら隠喩やらが難しくてたちまち敬遠されてしまったりする…折角の魅力あふれる賢治ワールドがそんなことで入り口から閉ざされてしまったとしたらあまりにももったいない。ぜひ、少しでも多くの人に賢治作品の魅力を知っていただきたいと切に願うものである。

 では賢治のファンタジーにはどんな魅力があるのだろう。賢治は生真面目な一方でかなりユーモアのある人だったようである。実際、「注文の多い料理店」や「どんぐりと山猫」などには大人までが喜びそうな、気の利いた、それでいてどこかとぼけたような不思議なユーモアが満ちている。

 

 おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。

  かねた一郎さま、九月十九日

  あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこうです。

  あした、めんどなさいばんしますから、おいでん

  なさい。とびどぐもたないでくなさい。

                      山ねこ 拝

 この「どんぐりと山猫」の書き出しなぞは実に巧妙である。主人公の一郎に届いたハガキの、この珍妙な文面が、たちまち読者をおかしな世界に連れ出してくれる、あたかも案内状としての役割を果たしている。小学生の一郎に「とびどぐ」など持てるはずもないのに「もたないでくなさい」と書いてくる山猫の姿を想像しただけで、妙におかしくなってしまうのだ。

 「とびどぐ」を持ってきてしまった大人が森でどうなってしまうかをユーモアたっぷりに描いたのが「注文の多い料理店」である。都会から来た二人の紳士づらの猟師が森の中で迷い、すっかり腹をすかして「山猫軒」という料理屋に入ってみたものの、まんまと山猫にだまされ、逆にあやうく食べられそうになる。そこにいたる過程が実に滑稽、かつ痛快なのである。

 しかし同じ「とびどぐ」を持った大人でも、熊捕名人の小十郎なら話はちがってくる。

 

 …すると森までががあっと叫んで熊はどたっと倒れ、赤黒い血をどくどく吐き、鼻をくんくん鳴らして死んでしまうのだ。小十郎は鉄砲を木に立てかけて、注意深くそばへ寄って来て、斯う言うのだった。

 「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事をしてえんだが畑はなし、木はお上のものにきまったし、里に出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生まれたが因果なら、おれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生まれなよ」 

 

 この「なめこと山の熊」という作品は、ユーモアに満ちた「注文の多い料理店」とは対極に位置する作品で、重々しく哀切なトーンに終始している。遊び半分で動物を撃ち殺している都会の紳士と違い、猟師を生活の糧とする山育ちの熊捕は仕留めた獲物にいちいち詫びを入れる。

 他の命を奪って生活せざるをえない人間の業が、真正面に据えられて描かれているのだ。自然と人間との関係を深く考えさせる作品である。

 今あげた三作品を読み比べただけで、賢治の自然観や宗教観までうかがうことはできよう。そうした作品の寓話性を探る理論的な読解作業も楽しいには違いない。しかし賢治作品の最大の魅力はそんな理屈っぽいところにはないと私は考える。

 私が感じる賢治の圧倒的な魅力はどこか?それは理屈を超えて迫ってくる、賢治の五感が捉えた「自然」の姿そのものなのだ。賢治の自然に対する全身的な共鳴力とその表現力にはまったく脱帽するしかない。まずは「やまなし」の一節をみてほしい。

 

  二匹の蟹の子供らが青じろい水の底で話していました。

  「クラムボンはわらったよ。」

  「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」

  「クラムボンは跳てわらったよ。」

  「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」

  上の方や横の方は、青くくらく鋼のように見えます。そのなめらかな天井を、つ

  ぶつぶ暗い泡が流れて行きます。

 

 「クラムボン」という謎の言葉が響かせる水中の、川底の流れの音。何か重いものが水中に落ちてたてた音。「かぷかぷ」が二度繰り返され、何かが川面に浮いて流されていく様子。それを二匹の蟹が川底から眺めてまだあどけなさの残る幼い言葉遣いで話している。いつの間にか読者まで蟹になってしまったかのような錯覚をおぼえるほどの迫真の描写力、絶妙なオノマトペ、リアルな身体感覚、これこそ賢治作品の最大の魅力であろう。

 「鹿踊のはじまり」もそうしたみずみずしい描写に富んだ作品である。そこでは主人公の嘉十が鹿の仕草をじっと息を殺して見守っているうちに嘉十が鹿なのか鹿が嘉十なのかわからなくなるほどにのめりこんでしまう一瞬がでてくる。

 その一瞬こそ自然と一体化した至福の瞬間、自他の区別もなく宇宙と融合した一瞬なのだと賢治は言いたいのだろう。何はともあれ、その一瞬、読者も不思議なほどに幸福な時間を享受できるはずである。これは理屈ではない。理屈ではないから、もはや口では説明がつかない。読むしかないのである。

 ぜひ読んでください。

 

最終号(第六号) 賢治 その生と死

 わずか三十七年の生涯を賢治はどのように駆け抜けていったのだろう?

 八歳年下の弟清六はこう述べている。「私は永い間兄の傍にいて、ある人には立派な資格だと言われ、ある人たちには嘲笑され、或る人々にはどうしても理解されないで、しかも自分にとってはこの世では、まことに不幸でもあったこの持って生まれた性格を弟として何とも出来ず全く気の毒でしかたなかったのである。」

 1933年9月20日、夜7時、死の床にあった賢治を農家の人が肥料の相談に訪れた。死の前日のことである。賢治は快く相談に応じ、夜遅くまで時間をかけて懇切丁寧に指導助言したという。翌日、無理がたたって高熱が出た。

 弟は証言する。「…二十一日の昼ちかく、二階で南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経という高い兄の声がするので、家中の人たちが驚いて二階に集まると、喀血して顔は青ざめていたが合掌して御題目をとなえていた。父は遺言することはないかと言い、賢治は国訳妙法蓮華経を一千部おつくりください…と言った。父はお前もたいした偉いものだ、後は何も言うことはないかと聞き、兄は、後はまた起きてから書きますと言ってから、私どもの方を向いて、おれもとうとうお父さんにほめられたとうれしそうに笑ったのであった。それから少し水を飲み、からだ中を自分でオキシフルをつけた脱脂綿でふいて、その綿をぽろっと落としたときには、息を引きとっていた。九月二十一日午後一時三十分であった」

 彼の絶筆となった短歌二首。

  方十里 稗貫のみかも稲熟れて み祭り三日 そらはれわたる

  病(いたつき)のゆえにも くちん いのちなり

   みのりに棄てばうれしからまし

 

 詩と音楽という共通の趣味で固く結ばれていた親友の藤原嘉藤治は賢治の死から二週間後、賢治を偲んでこんな詩を発表している。

 

      或る日の「宮沢賢治 

 突拍子のリズムで賢さんがやってくる

 カーキ色の服をはずませてやってくる

 午前の国道街は気を付けいだ

 あの曲り角まで来た

 雲の眼と風の変り様で

 どっちへ曲るかゴム靴に聞いてみろ

 

 草藪の娘から借りてきた帽子だ

 野葡萄の香りがして来た

 一体あのユモレスクな足どりは

 おれの方を差しているではないか

 それ用意だ

 おれの受信局しっかりしろ

 

 象の目つきをして戸口に迫って来た

 三日月の扉からまつげが二三本出ている

 地球の切線の方へと向いている前歯

 唇でおおいかくせるものか

 アザラシに聞いてみるがいい

 何だ挨拶などしている

 ほほ

 頑丈な手だ

 スケッチブックを振り回している ああ

 その回転速度を少しゆるめてくれ

 その放射量を減らして貰いたい

 おれはすでにでんぐりかえっている

 八畳の部屋は賢さんで一ぱいだ

 野良の風景であふれている

 よろしい聴こう

 ブレストだってビバアチェだって構わん

 

 ああ少し待った

 とてもたまらない

 そう引っ張り回されておれは分裂する

 

 ぎらぎら光る草原を

 プリズム色彩で歌わされる

 松の葉の先端を通り抜け

 雲の変化形を一々描き分け

 銀河楽章のフィナーレだ

 

 おれのセロはうなり通しに疲れ

 賢さんのタクト棒だってへし折れている

 アメーバの感触と原生林の匂いから

 四次元五次元の世界へだ

 とんでもない心象スケッチだ

 

 賢さん行こう

 ベエトウベエンの足どりで

 イギリス海岸を通って行こう

 イーハートブの農場へ

 トマトの童話でも聴きに行こう

昭和8年10月6日「岩手日報」掲載

 

 生前の賢治を彷彿とさせる、まさに親友ならではの深い想いのこもった詩である。冒頭での「くる」と「来た」の繰り返しと最後のフレーズでの「行こう」の繰り返しに心が揺さぶられます。

 

 最後に賢治自身の詩「告別」の一節を紹介してこの通信を終わらせたい。

 

云わなかったが

 おれは四月はもう学校には居ないのだ

 恐らく暗くけわしいみちをあるくだろう

そのあとでおまへのいのちのちからがにぶり

きれいな音が正しい調子とその明るさを失って

ふたたび回復できないならば

おれはおまえをもう見ない

なぜならおれは

すこしぐらいの仕事ができて 

そいつに腰をかけているやうな

そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

 

 賢治の優しい笑みの裏側にある子供の持つ純真さへの厳しいほどのこだわり、多くの大人の持つ計算高いずるさを激しく拒絶する賢治の純真さ…

 ハッとさせられませんか?

 

「千と千尋の神隠し」より

 

「千と千尋の神隠し」より

はじめに

 「千と千尋の神隠し」を観た人は多いでしょう。もしも観たことがないなら、今すぐにでも君たちには観てほしい。私は大好きなこの作品を倫理の授業で生徒たちに繰り返し鑑賞させています。このアニメ、子供が精神的に成長し親から自立していく=「大人になる」(本質的に引きこもりがちな現代の青年にとって、このテーマは重大だと考えています)には何が必要かを考えていく上で最も核心に触れる教材の一つと捉えています。ですから私の授業では例外的に二度も繰り返し見せることでしっかりと「鑑賞」していただくのです。

 あらすじはご存知のこととは思いますが・・・転校によってやや意欲喪失気味の千尋が両親のきまぐれな行動によって突然、不思議の国、「あやかし」たちの蠢く世界へと神隠しに遭います。しかしハクやリン、釜じいらの支えによってたくましく成長していく…つまりこれは一人の女の子の成長物語です。話の展開を追いながらその意味するところを一緒に考えていきましょう。

 冒頭、千尋が両親からの支えを完全に失う(両親はブタにされてしまう)という、子供からすればショッキングな場面から始まります。しかも不気味な「あやかし」たちの世界に一人ぼっちで迷い込むのです。作者の宮崎駿は子供にとって恐ろしすぎるこの展開をひどく大げさでユーモラスなタッチで描くことによって心理的な抵抗感を弱める工夫を施してはいますが、それでも子供からすれば相当引いてしまう展開といえましょう。だからこそなおさらハクという頼もしくて優しい存在がクローズアップされてきます。

 ならばハクとは一体千尋にとってどういう意味を持つ存在なのでしょう?子供が親から自立していく際に二つのイベントが必要不可欠だと私は考えています。一つは就職。これは言うまでもなく親からの経済的な自立を果たす上で欠かすことのできないイベントです。千尋が「油屋」で働くことになった…という設定の意味するところもこれでお分かりいただけるでしょう。

 もう一つは恋愛。間違いなく千尋は優しく導いてくれるハクに恋をしています。初恋でしょうか。恋愛は親からの精神的な自立を促します。もちろん恋愛の先に待つ結婚が親からの自立を決定づけるイベントになることは言うまでもないでしょう。

 ただ小学生の千尋に結婚のイベントは早すぎるので、ここではその入り口に位置する恋愛を取り上げたのです。確かに就職と結婚は青年期の人にとって大きなテーマですよね。結婚するかしないかはプライベートな問題なので他人からとやかく言われたくない、とは思われるでしょうが…

 さて40歳、50歳になっても親のスネをかじり続けるニートが大勢いるこのご時世。宮崎は真剣にニートの問題をとらえているようです。その証拠が「顔無し」という妖怪。お金さえあれば何でも手に入りそうな拝金主義の現代社会ですが、顔無しもまた偽物の砂金と交換に自らの欲望を満たそうとします。

 しかし砂金と交換で手に入れたものはどれだけたくさん手に入れてもまったく顔無しの欲望を満たすことができません。仮面をつけた顔無しはネット社会で素顔を隠したまま自分の欲望を満たそうとするだけの、孤独な現代青年の一部を象徴した妖怪だと思われます。顔無しが本来求めてやまないもの、それは顔無し自身も十分には意識できていないものです。では一体、それは何でしょう?

 もちろんそれは「幸福」なのですが、ならば幸福とは一体何でしょう?

 メーテルリンクの書いた幸せの青い鳥はどこにいましたか?世界の果てまで冒険してもそれは見つかりません。幸福とはあくまでも主観的な体験であり、心の現象に過ぎないのです。物体のように確固として存在するものではなく、ただの主観的な現象なのです。ですから自分の心をこそ「感じる」べきなのです。

 この映画の主題歌「いつも何度でも」の歌詞はこの点できわめて示唆的です。短いので全文紹介いたしましょう。ポイントとなる歌詞を太字にしておきました。般若心経の現代語訳と重なり合うような認識論を感じ取れます。

 

             いつも何度でも

    呼んでいる 胸のどこか奥で いつも心踊る夢をみたい

    悲しみは数え切れないけれど その向こうできっとあなたに会える

    繰り返すあやまちのそのたび ひとはただ青い空の青さを知る

    果てしなく道は続いて見えるけれど この両手は光を抱ける

    さよならのときの静かな胸 ゼロになるからだが耳をすませる

    生きている不思議 死んでいく不思議 花も風も街もみんなおなじ

    呼んでいる 胸のどこか奥で いつも何度でも夢を描こう

    悲しみの数を言い尽くすより 同じくちびるでそっとうたおう

    閉じていく思い出のそのなかに いつも忘れたくないささやきを聞く

    こなごなに砕かれた鏡の上にも 新しい景色が映される

    はじまりの朝の静かな窓 ゼロになるからだ充たされてゆけ

    海の彼方にはもう探さない 

    輝くものはいつもここに わたしのなかに見つけられたから

 

 感覚があてにはできない幻であるとしても幸せは五感を通じて感じ取るものです。目と耳と鼻と舌と皮膚で感じ取るものこそ幸せの土台となるものです。自分を愛してくれる人の眼差しは温かく感じられます。愛し合う二人がお互いを見つめあうとき、とろけるような幸せを感じることができるでしょう。

 愛するものを見つめるとき瞳孔は自動的に拡大し、黒目がちになります。人は黒目がちの眼を見ると反射的に快感を感じてしまいます。だから赤ちゃんの眼も黒目がち、恋人の眼も黒目がち、さらにはそれを見つめるあなたの眼も黒目がちなのです。見つめあうことで幸福はシェアされるのです。もちろん美味しいものを食べたらそれなりに幸せです。好きな音楽を聴いているときも幸せ。

 でもここで私が強調したいのは五感の内で最も原始的な感覚でありながら人の幸福感を根底で支えている感覚です。それはどの感覚だと思いますか?

 答えは触覚です。触覚は生物がまだ単細胞の時代に早くも芽生えてきた最も原初的な感覚と言われます。ハーローのサルを用いた代理マザーの実験は乳幼児における触感の果たす重大な役割を示唆しました。母親から離された子ザルは授乳する針金製の代理マザーよりも授乳してくれない布製の代理マザーの方に抱きつくことが多いのです。カンガルー抱っこというのを御存知ですか?親が仰向けに寝て赤ちゃんを胸の上で抱っこするのです。いわゆる親子のスキンシップ。肌と肌とのぬくもりのある触れ合いは乳幼児の心を安定させます。スキンシップは人への基本的な信頼感を養うのです。ハーローの先ほどの実験でも針金製の代理マザーに育てられた子ザルは孤立しがちでやがて長期的な神経症を患い、生殖行動にも異常をきたしてしまいました。

 ですから私も自分の娘が幼い頃、カンガルー抱っこをし、2歳ころからは添い寝をしていました。弟が生まれて精神的に不安定になりがちな4歳ころからは寝る間際に娘の手を握り、「あっちゃん 大好き、大好き」を繰り返した後に「夢の中まで一緒だよ」とキザなセリフを耳元でささやいて寝ることを習慣化しました。

 彼女が中学生の頃は…時折ですが、こんなおまじないを枕元で何度もしました。まず彼女の片方の手を私の両手で挟んで少し調子を取りながら「手のひらサンドイッチ、サンドイッチ、愛情パワー フル充電」と唱え、最後は「あっちゃん大好き、あっちゃん大好き」と添えます。私は結構な親バカなんです。でもそれらの恒例行事が予想以上に私に対してもかけがえのない幸福感を与えてくれたのです。

 かつて「愛は惜しみなく奪う」と有島武郎は書きましたが、愛は惜しみなく与え合うものだと私は思います。いかがでしょう。顔無しに決定的に欠けているのはこの気持ちをシェアする、分かち合うという精神です。ですから顔無しは大好きな千尋にも一旦冷たくあしらわれてしまうのです。

 ところで快感は二種類に大別されるようです。一つはβエンドルフィンというホルモン(=神経伝達物質)が関わる激しい高揚感を伴う快感で、麻薬のような、しびれるような強い快感です。しかしこの快感はたちまち消失する、瞬間的なものでもあり、さらなる強い刺激を求めて私たちを次の行動へと駆り立ててしまいがち。つまり麻薬性があるので安定した幸福感は期待できない側面があるのです。

 顔無しが当初求めていた快感はこのβエンドロフィンがもたらすものにかたよっていたようです。これに対して効き目は穏やかですが持続性のある快感をもたらすのがセロトニンという物質。ノルアドレナリンと同様、うつ病の治療薬にも使われる有名な物質です。このセロトニンを薬に頼らずに脳内で活性化させる試みが今、医療現場で各種、行われていますので後日必ずこのシリーズで紹介いたしましょう。

 孤独な顔無しが本来求めるべきはセロトニンのもたらす穏やかな幸福感だったのではないでしょうか?この幸福感は安定した人間関係、強固な絆からもたらされるものです。千尋は引っ越しや転校で一度断たれてしまった大切な絆、安定した人間関係を取り戻すべく、異界に降り立ちました。また顔無しは絆を手に入れるため、静謐なぜにーばの家でしばらく暮らさねばなりません。

 さて人の触覚は唇と手のひら(サルと違って移動の手段から解放されたヒトの手は道具を作る器用さを発達させるとともにコミュニケーションに関わるべく触覚を鋭敏にしていきます)が特に敏感と言われます。口づけ、キスは世界共通の愛情表現ですが、たしかに幸福感を最も得られる行為でしょう。

 手と手をつなぐことは人と人とをつなぐ「絆」のありがたさを実感させます。「手当」という言葉があるように、人は信頼できる他者から直接肌に手を当てられたり、手と手をつなぐだけで癒されるのです。

 目と目を見つめあい、肩を抱いて口づけをすることで二人は無上の幸福をシェアすることができます。手と手をつなぐことで人は「信頼感」をシェアすることができます。「愛」は幸福を分かち合う行為そのものなのです。ハクは千尋と出会った時からからまっすぐに千尋の眼を見つめます。そして幾度も心細くて震える千尋の肩を抱きます。千尋がハクに魅かれてしまうのも道理なのです。

 さて本題に戻ります。恐ろし気な「ゆばぁば」の下で「千」として働くことになった千尋は油屋(それにしてもなぜ宮崎は「湯屋」と表記すべきこの銭湯を「油屋」と表記したのでしょう?)で貴重な体験を重ねていきます。まさに「油屋」は千尋にとって見知らぬ大人の世界そのものであり、最初は戸惑いの連続。それでも持ち前の率直さ、子供らしい純粋さで様々な試練を乗り越えていきます。

 そうなんですね。大人になっていくことは子供らしさのすべてを捨てていくことではありません。宮崎はおそらく率直で物おじしない、子供の純粋さを千尋に保たせながら、なおも千尋を大人の世界に導いていく、その道筋を示そうとしているのです。

 リンという頼もしい姉御肌の先輩も実に魅力的です。職場にこんな先輩がいたらとても勇気づけられますね。それに釜じいの存在も大きい。彼は大勢の「すす」たちをこき使う一方で時折、千尋に豊富な経験値から導き出される桁外れの洞察力を示します。そして千尋に「ぜにーば」に会えるよう、大切にしまってあった切符を渡します。千尋がハクに恋をしていることを見抜き、その恋が成就することを真剣に応援しているのです。

 

2.宮沢賢治の世界

 「千と千尋の神隠し」の深読み、解読に欠かせないのは宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」という童話です。要所に出てくる水辺を走る電車は明らかに「銀河鉄道の夜」から着想を得ているからです。「千と千尋の神隠し」という物語の構成自体も大きなインスピレーションをこの作品から得ていると思われます。なぜなら異界に旅する過程で様々な経験を積んだ少年(少女)が「本当の幸せ」を目指して大人に向かって大きく一歩を踏み出す・・・という展開は二つの作品に共通するモチーフだからです。

 そもそも「千と千尋の神隠し」に登場する「油屋」や電車、駅周辺に登場する人物の服装は多くの場合「銀河鉄道の夜」が書かれた昭和初期のものと同じなのです。ですからこの作品を作るにあたって宮崎駿の頭の中に「銀河鉄道の夜」がかなり大きな地位を占めていたと考えられます。

 しかし「銀河鉄道の夜」は子ども向けの読み物とはいえ、実は非常に難解であることで有名。まさに「諸説あり」の現状なのです。そこで理解しやすくするためにも作者である宮沢賢治の大雑把な全体像をつかんでおきましょう。

 実は20年近く前、私が某高校に勤めていたときですが、岩手県(賢治は岩手県花巻出身)でのスキー体験学習をかねて東北が修学旅行先になっていました。その際、宮沢賢治記念館や小岩井農場など賢治に関わるスポットも訪れることになっていました。比較的物わかりの良い生徒が多かった選抜クラスの担任をしていた私は、これ幸いに自分の好きな宮沢賢治を特集した学級通信を6号まで出したことがあったのです。生徒たちの多くは内容をほとんど理解していなかったようですが・・・

 何はともあれ20年余り前に私が書いたものではありますが、読み返してみるとここで使えそう。そこで今回は「イーハトーボ通信」と題した学級通信(2000年7月の第一号から始まり、12月に第6号を出して終了)に少し手を加えて2号といたします。「千と千尋の神隠し」の深読みシリーズはこの先も幾度か寄り道を繰り返しながらまだまだ続きますよ。

 

イーハトーボ通信第一号(2000.7.19)

巻頭言

 まず「イーハトーボ」とは、かの宮沢賢治(1896~1933)が造った言葉である。それは岩手県の花巻あたりを念頭に置いた、賢治の原風景が幻灯のごとく明滅する作品中の架空の地名なのである。…途中略…とりあえず今回は創刊号なので、賢治のおおまかな人間像と代表作を、誤解と偏見を恐れずに解説しておこう。夏休みの読書感想文で何を読むか困っているあなた、せっかくだからこの際、賢治を読もう。

宮沢賢治という人

 賢治は今から100年余り前の1896年、岩手県の花巻でかなり裕福な商家(古着商兼質屋)の長男として生まれた。もっとも彼はこの裕福な家の出であることを終生、恥じていたようである。盛岡中学校(旧制)を経て、19歳で盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)に首席で入学。このころ法華経に出会い、感銘を受ける。賢治作品の特色となる宗教性と科学との融合は、この農学校時代に端を発するようである。

※法華経:大乗仏教においては最も重視されたお経で「大乗妙典」とも呼ばれ、日本ではどの宗派であっても尊重された。特に日蓮は法華宗を開き、法華経以外を退けて「南無妙法蓮華経」と唱えるお題目を奨励した。

 1918年、22歳で卒業後、賢治は童話の創作も手掛けるようになったが、家業への嫌悪感(主に貧しい人から搾取する質屋の仕事を特に毛嫌いしていた)や信仰上での対立(父親は熱心な浄土真宗の信者であったが彼は法華宗に傾倒。日蓮は浄土真宗を特に嫌って「念仏無間」という言葉を残している)から父親とは折り合いが悪くなってしまった。1921年1月、ついに彼は家出を決行し、東京に出てアパートの一室を借りて法華宗の教団の一つ、国柱会の一員として布教に励むとともに、猛烈な勢いで童話を書きまくった(ひと月に三千枚のペース!)。

 ところが半年も経たぬうちに妹トシの病状が悪化し、帰郷して稗貫農学校(1923年花巻農学校に改称)の教師となった。以来、1926年までの4年と4か月の間、彼は教員生活を送ったが、この間、父とも和解し、詩集「春と修羅」、童話集「注文の多い料理店」を出版するなど、公私ともに充実した日々を過ごしている。ただし生徒たちには「立派な農民になれ」と教えていながら、自分では農業をやらずに給料取りとなっていることへの心苦しさが募り、1925年、教職を辞して独居自炊の生活に入った。そして羅須地人協会を設立して農業を営むかたわら無料で農民の芸術活動を支援し、肥料相談にも応じた。

 もともと丈夫ではなかった賢治にとって慣れぬ農作業と休む間の無い協会での活動、さらに極端なまでの粗食は確実に彼の体を蝕んでいった。とうとう1928年、肋膜炎で倒れて協会を辞し、翌年、採石場の技士となったがやはり無理がたたり、たちまち病床に臥して2年余りの闘病の果て、1933年9月21日、永眠した。享年37歳、独身のままの生涯であった。

オススメの作品

 「どんぐりと山猫」「なめとこ山の熊」「鹿踊りのはじまり」「やまなし」

 「銀河鉄道の夜」

賢治ワールドの魅力

 賢治の熱狂的なファンを「ケンジアン」と呼んだりするのだそうだが、このケンジアン、意外なほどに多い。なぜ賢治ワールドに多くの人が魅了され、そのとりこになってしまうのか?詳しくは次号以降で触れるが、まずはその迫真の描写力に参ってしまうからだろう。

 鳥山敏子は「賢治の学校」(サンマーク出版1996)の中でこう書いている。

…宇宙のなかでは、すべてがひとつにつながっている。賢治のからだがそう感じる。賢治が自然と同化し、自然のなかに棲息する生きものや、土塊、風や光たちにこころを通わせるのは、賢治のからだがそうさせるのだ。世間の人々は自然と交感するそういう賢治を見て、大人になってない…変わっている…そんなことありえない…などというかもしれない。

 

 だが、「何と云はれても」と賢治はいう。

 

 何と云はれても

 わたくしは ひかる水玉

 つめたい雫

 すきとほった雨つぶを

 枝いっぱいにみてた

 若い山ぐみの木なのである

 

 この詩に体ごと感ずるものがあった人はすでに賢治ワールドの住人なのである。オススメの作品として挙げたものはいずれも賢治の自然を体感してしまう「異能」によって今も光り輝いている。

 

イーハトーボ通信第二号 異界からきた教師

 宮沢賢治は花巻農学校で1921年12月から1926年3月までの4年余りを教師として過ごし、その間、英語、数学、化学、気象、作物、土壌、肥料、農業実習などの授業を受け持っている。全校生徒わずか70人の小さな学校で二十代後半の賢治がいったいどんな教師生活を送っていたのか…当時生徒だった人たちの証言から農学校時代の賢治の異才ぶりをかいまみてみよう。

 まず彼は授業を始めるにあたって次の三つのルールを話したという。

   一つ 先生の話を一生懸命に聞くこと

   二つ 教科書は開かなくていい

   三つ 頭で覚えるのではなく、身体全体で覚えること。そのかわり大事なこ

      とは身体に染み込むまで何回もおしえる

 

 さて、実際に行われた授業の一例を挙げてみる。

 

 しめ縄に細いわらを二、三本下げる風習があるでしょう。あれはね、君たちなぜだか分かりますか?

 太いしめ縄は雲、細く下がっているのは雨を表しています。そして白い紙でできている御幣は稲妻だったのですね。

 ではなぜここに稲妻が出てくるのでしょう?

 実は、稲妻は空気中の窒素を固定して、雨といっしょに肥料となる窒素を地中に染み込ませる働きがあるのです。千葉県の船橋にある無線電信局の塔の下に麦畑があります。で、その畑は以前からなぜかちっとも肥料をやらなくとも麦がよく実ったのです。これは稲妻と同じ原理で、高圧線の放電現象による空中窒素の固定によるもの…窒素は作物にとって最も重要な肥料の一つですが、空気の八割も占めているくせに普段はガスのままとどまり、地上には降りてきません。

 しかし放電現象などにより、窒素と酸素が化合して酸化窒素となり、その酸化窒素が雨に溶けて硝酸となって地上に降る。つまり雷雨の中には多くの窒素肥料が含まれているのです。そういえば雷の多い年は豊作だといわれているし、しめ縄も、もともとは五穀豊穣を祈念するものであったらしい。とすると雷が「稲妻」とも言われる理由がわかろうというものですね…

 

 「わかりやすく ためになる」これが授業に対する賢治のモットーであった。誰よりも早く学校に来た賢治は授業の前に必ずその日の教材に目を通した。授業の始まりもこんな様子だった。まず小使い室から出てきた小使いさんが鐘を鳴らす。ひたひたひたひたと早足の足音が聞こえて鐘が鳴り終えると同時に賢治がドアを開けて入ってくる。やや出っ張り気味の歯を隠すために、少し無理して上唇で下の唇を押さえている。その顔がなぜだかいつも微笑しているようにみえる。きっちりとまず自分の方からおじぎをする。そして軽い冗談をいってわらわせ、上記のような綿密に設計された授業が展開されていくのである。

 もちろんどんなに工夫していても、生徒たちのなかには飽きてしまうものがでてくる。すると授業時間の終わりの方、5分か10分、自分が創作した童話や詩を読んで聞かせることもあった。また黒板を前にしての講義ばかりでは退屈してしまうので、実験や実習もたっぷりおこなっている。

 特に賢治は野外にでるのが好きで、北上川の川岸に彼が名付けたイギリス海岸という箇所があり、賢治だけでなく皆のお気に入りのスポットとなっていた。そこで土壌学の実習と称しては化石を採集したり、雑談にふけったり、ときには茶目っ気のある悪戯もしたり…こんなエピソードが残っている。

 宮沢賢治式スイカ失敬作戦というのがあった。北上川で遊んでいるとき、岸辺の笹竹を切ってその茎をストロー状に細工する。川の向こう岸にはスイカ畑があって、そこまでストロー加えて泳いで渡り、うまそうなスイカを見つけてはぐさっとストローをさして吸う。農家の人がそれを見つけておこって生徒を追いかけてくる。まるっきりスイカ泥棒のようだが、実は前日、賢治がこっそりと畑の持ち主にかけあって、あらかじめスイカを買い切っていた…いかにも芝居好きの賢治らしい、大掛かりで演出の凝った「スイカ泥棒ごっこ」といえよう。

 遠出もよくしたらしい。生徒を引き連れて岩手山や周辺の温泉などに泊りがけで行く。たいていが賢治の気まぐれから始まるから時間は問わない。「先生は夜、家を出てどこかまで歩き、一睡もせずに翌朝帰り、そのまま授業に出る。たびたびそんなことをされた。くたくたに疲れたときほどいい詩が書けるといった。最もよく詩を書かれたのは夜半のようであった。うれしいときはアカシアの花の下、クローバの花咲く野で踊り、秋は白い萱穂のなかに飛び込み、稲田の向こうから月が出るのを見るとホホホホーと叫ぶ。…左手をポケットにいれ、首にペンシルをぶらさげてね。それで実習の列の先頭に立って、猫背にしてこう歩くんですよ。麦藁帽子で、歯出してね。それが突然、天から電波でも入ったかのように、さっさっさっと生徒を取り残して前の方へ駆けていくのですよ。そうして跳び上がって、ほっ、ほほうっと叫ぶのですよ。叫んで体をコマのように空中回転させて、素早くポケットから手帳を出して何か物凄いスピードで書くのですよ…

 今なら中学生に当たる当時の少年たちにとっては変人とも見られかねない賢治の奇行ぶりなのだが、宮沢先生の評判は周辺の小学校まで知れ渡っていた。農業に興味のない子までが宮沢先生に教わりたくて花巻農学校を受験したほどであったという。

 教師賢治の魅力を示すエピソードはまだまだある。授業中、ノートもとらずにふざけていた二人の生徒に対し、賢治は黙ってみていたかと思うといきなり持っていたチョークをガリガリとかじりはじめた。皆、しいんと静まり返ったという。

 また生徒の一人が盗みで警察沙汰になったことがあった。職員会議で退学処分となったが、賢治は吹雪をものともせずに警察へ行き、三日続けて説得を試みた末、どうにか不起訴処分とした。さらに校長たちを説得して退学処分を取り消させたうえ、就職の世話までして卒業の時には新調の背広まで持たせてやったという。

 まったく欲も無ければ骨身を惜しむこともない。全身全霊で教師生活に打ち込んでいたのであろう。そしてそれが賢治にとって途方もなく幸せであったようだ。教壇を去るとき、彼は生徒たちにこう言い残している。「この四か年が私にとってどんなに楽しかったか、私は毎日を鳥のようにうたってくらした。誓っていうが私はこの仕事で疲れを覚えたことはない・・・」

 だからこそ生徒たちも賢治のあとをついていったのだろう。思春期の男ばかりの農学校で劇や合唱など、普通は恥ずかしがってやれっこない。しかし賢治は幾度となくそうした催しを試みている。1924年の夏、「ポランの広場」など自作の劇を二日間にわたり四作も上演した時には、夏休みの内二十日間も練習に費やし、終わりの一週間は何と学校に泊りがけで稽古した。公開だったので練習は相当厳しかったらしいが、脱落する生徒は一人もいなかった。きっと生徒をひきつけてやまない魅力が賢治にはあったのだ。結局、公演は三百人もの観衆を集め、大好評のうちに幕を閉じたという。

 もっともすべての生徒が彼を慕ったわけではない。なかには「授業中、四次元の世界ということをよく聞かされた。私には実に希代なことをいう先生だと思った。また先生はよく作品の朗読をしたが、昔ばなしでもないし、小説でもないし、現実離れしていてよくわからなかった…私らとは考え方がかけ離れていて、理解できなかった面が多い」と回想する人もいる。

 確かに賢治は時々何かにとり憑かれたかのようになって自己の世界に没入してしまい、周囲を驚かせることが多かった。特に詩作のインスピレーションを感じたときの賢治の言動には異様とも受け取れる奇抜さがある。さらに日蓮宗への傾倒ぶりは常軌を逸していた側面があったことも事実だろう。そういえば彼の中学時代のあだ名に「変人」というのがあった。

 ただこの「変わっている」という評価は必ずしも賢治にとって、またその教え子にとってマイナスばかりではなかった。良くも悪しくも強烈なインパクトを生徒たちの脳裏に焼き付けたのだ。もう六十年も経とうというのに、あの時のことをまるで昨日のことのように彼らの多くは生き生きと思い出すことができる…

 一体、私たちは自分のかつての担任をこれほどまでに鮮明に思い出すことができようか?一年前ですら覚束ないのではないか?賢治の教師生活はたったの四年と三か月ほどにすぎない。十年、二十年と教師生活を送ったところで普通の教師には決してなしえないことを彼はやってのけた。まさに「異界」から来た「異能」の人なのである。

参考文献

 「証言 宮澤賢治先生~イーハトーブ農学校の千五百八十日~」佐藤成

   農文協 1992

 「教師宮沢賢治のしごと」畑山博 小学館 1988

 

イーハトーボ通信第三号 タイタニックと銀河鉄道の夜

 大ヒットを記録した映画「タイタニック」、覚えている人も多いと思う。監督はジェームズ・キャメロンで、実際にあった事件をもとにしながらも巧妙なフィクションを織り交ぜて感動的なストーリーを作り上げていた。特にレオナルド・ディカプリオ演ずる青年が恋人を助けるために最後は水中に沈んでいくシ-ンなどは涙なしでは見られない。私もついビデオまで買ってしまった。

 映画で取り上げられたタイタニック号沈没事件は1912年4月の出来事であった。不沈の豪華客船とうたわれたタイタニック号はあっけなく処女航海で氷山と激突して北大西洋の深海に沈み、1523人もの人命が失われてしまった。海難史上、最悪の事件として瞬く間に世界中に知れ渡ったこのニュースを宮沢賢治は一体どんな思いで受け止めたのだろう。1896年生まれの賢治は当時、15歳。旧制盛岡中学校の生徒として多感な思春期の真っ只中を過ごしていた。その彼がどれほどの衝撃をこの事件から受けたのかは、事件の十年後に書かれ始めた「銀河鉄道の夜」を読めばわかるだろう。その一節にこうある。

 …いえ、氷山にぶっつかって船が沈みましてね、…霧が非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗り切らないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死になって、どうか小さな人たちを乗せてくださいと叫びました…

 救命ボートの不足により、この事件の悲劇性はいっそう深まった。と同時に誰がボートに乗り、誰が乗れないかをめぐる命がけの壮絶なドラマが展開した。キャメロン監督のみならず、賢治もまたここに注目したのである。「グスコーブドリの伝記」でも描かれた、他者のために自己の命までも犠牲にするというモチーフは賢治作品を理解する上で欠かすことのできないものである。タイタニック号事件はまさに賢治がとびつきたくなる様な、崇高な自己犠牲のドラマにみちみちていた。

 したがってタイタニック号事件に触発されて書き始めた「銀河鉄道の夜」に対する賢治の入れ込みようにもすさまじいものがあった。彼はその原稿をまさにライフワークであるかのように、死ぬまで手を加え続けたのである。つまり厳密にいえばこの作品は賢治の死によって未完のまま、彼の代表作という評価を得ている。まさに執念の産物である。短編の多い賢治にとって原稿用紙で83枚という長さもそのことを物語っていよう。ただ全力で取り組んだ作品だけにあれもこれもと欲張った印象があり、作品の解釈をいっそう難しいものにしているようである。ここでは簡単なあらすじを紹介するにとどめよう。

 ジョバンニとカムパネルラは無二の親友だったが、あるお祭りの夜、川に流された意地悪な同級生ザネリを救うためにカムパネルラは川に飛び込んで行方不明となってしまう。そのことを知らないジョバンニは一人寂しく、夜の野原に寝ころび、いつの間にか異次元の世界に入り込んでいた。気が付くと列車に乗っていたジョバンニは宇宙を旅するというカムパネルラと再会を果たす。さっきまでの寂しさを忘れてジョバンニはカムパネルラとともに銀河鉄道の行程を楽しむことになった。幻想的な光景が車窓に繰り広げられる中、やがてタイタニック号の犠牲者として3人の人物が乗り込んでくる。この列車は何処に向かって走っているのか…不安がよぎる中、突然、天上界に向かうと言い出したカムパネルラとの別れが訪れる。しかし一人残されたジョバンニは「本当の幸福」を、勇気をもって追い求める決心を固めていた。やがて草むらで目を覚ましたジョバンニは家に帰る途中、カムパネルラの死を知ることになる。

 この作品の最大の魅力は銀河鉄道で彼らが出会う、深遠なインスピレーションに満ちた幻想の世界にある。しかも壮大でユーモラスな場面もある一方で、常にどこか哀し気な彩りがつきまとっている。この作品の主題が深く死の世界と関わっているからだろう。銀河鉄道の幻想界で生者はおそらくジョバンニただ一人である。彼が出会う死の世界と死者たちが、彼に「本当の幸福」とは何かを暗示してくれているのだ。それにしてもジョバンニとカムパネルラの別れのシーンは哀切きわまりない。別れは直ちにカムパネルラの死を意味するからである。

 映画「タイタニック」で最後まであきらめずに恋人ローズを励まし続けた青年ジャックが、ついには力尽きて海の底へ沈んでいくシーン。一人残されたローズは凍えながらもジャックが命がけで残してくれたメッセージをつぶやく。君に与えられた人生を僕の分まで思う存分生き抜いてほしい…

 ジャックがローズに託した想いとカムパネラがジョバンニに託した想いとは一見似ているようでいて重大な違いがあるように私には思われる。映画「タイタニック」の主眼はジャックとローズの二人の関係に置かれているが、「銀河鉄道の夜」は個人と社会との関係性を問う。決してジョバンニとカムパネルラの友情が物語の核心ではない。確かに「タイタニック」でも最後まで乗客たちの不安を慰めるために演奏を続け、船とともに沈んでいった楽団員たちの崇高なエピソードが紹介されてはいる。ただこれも映画全体からすれば一つのエピソードに過ぎない。すなわち沈没事件の悲劇性を盛り上げ、ローズとジャックの別れの場面を効果的に盛り上げる材料の一つとして扱われただけである。しかし「銀河鉄道の夜」は二人の友情をはるかに超える広大な世界をテーマとしている。だからこそ列車は宇宙を走らなければならぬかのように…二つの作品の間に横たわる世界観の違いは決定的に大きい。

 映画ではその後のローズの生きざまが簡単に触れられる。お金持ちの婚約者とは結婚せず、様々なことに雄々しくチャレンジするたくましい女性の生涯。いかにも個人主義のアメリカらしい結末である。最近、プラバタイゼーション(私事化と訳されることが多い)という言葉がよく使われるようになった。プライベートなことばかりに関心を持ち、公共性に乏しい現代人を批判する文脈で登場してきた言葉なのである。映画「タイタニック」はそうした現代人の心のありようにぴったりとフィットしていたのだろう。世界中で記録を塗り替える大ヒットとなった。しかし二人の枠を超えた人類的広がりをもつ絆を構築しようと試みる賢治の真摯な姿勢は、こういう時代だからこそ、もっともっと評価されてもよいのではないか。いかがでしょう。

 

 

地名・人名の由来

 

地名・人名の由来:その1 

はじめに

 大昔の人々はどんなことを考えながら様々な事柄に言葉=名前を付けたのだろう?「山」はなぜ「やま」と呼ばれたのだろう?素朴に考えても言葉の由来には不明な点が多い。「やま」や「かわ」といった太古からの大和言葉の多くはもはやその起源を知る由もないようである。しかし地名や人名のなかにはそれなりに由来を探れるものも少なからずあるらしい。地名や人名の由来を調べ始めると私たちの先祖の苦労や願いが伝わってくることも多い。今回のテーマは一見地味に見えるが、一たびその世界に足を踏み入れると病み付きになりそうなくらい、面白かったりする。地元にはどんな歴史があったのか、先祖はどんな歴史を歩んできたのだろう…。これほど歴史的推理力と想像力をかきたてられる刺激的テーマはめったにあるまい。実際、由緒ある地名、人名はその土地や先祖の歴史を偲ぶことのできる、いわば身近な文化遺産なのである。

  しかし、地名に関してはその保存が叫ばれてきたにもかかわらず、厳しい受難の時代が続いている。まず全国各地で急速に進んでいる市町村の合併により、由緒ある市町村名が次から次へと消えつつある。加えて高度成長期以降の大規模な宅地開発による新地名の増殖。そういえば最近、「・・・台」とか「・・・が丘」といった地名がやたらと目立ってきた。この周辺でも辰巳台、青葉台、光風台、国分寺台、あすみが丘、桜台、松が丘…など諸君もよく知っている地名がすぐに浮かんでこよう。これらの地名の多くは新興住宅地(ニュータウン)であり、ごく最近になって付けられた場合が多い。実は宅地開発した業者等が「台」や「丘」を地名に付けることで「                 」絶好の居住条件を印象付けようとの商魂から全国各地のニュータウンでよく似た地名が濫造されてきたのである。そしてそのかげで多くの歴史ある地名が失われてきたのである。一千万以上存在するといわれる地名だが、その一つ一つにかけがえのない歴史が隠されているに違いない。そこで今回は身近な歴史的文化遺産としての地名や人名を見直すことで、名前の持つ歴史的、今日的意味を考えてみようと思う。

1.地名・人名クイズ

 ①日本で多い人名トップテンを順に挙げてみよう。

  1位(    )2位(    )3位(    )4位(    )

  5位(    )6位(    )7位(    )8位(    )

  9位(    )10位(    ) 

※以上を十大姓と言い、これだけで全人口の一割を占める。

  なお千葉県では(    )や石川が多いのが特色。「石井」は下総国石井郷の土豪、あるいは相模国三浦家の支流の石井(神奈川県にも石井は多い)の流れか。「石川」は常陸大掾家(桓武平氏)の支流か。

②日本にはどの位の数の名字があるのだろう?         約(    )

 中国ではおよそ(    )、韓国ではわずか(    )程度しか名字は存在しない。特に韓国では「金」さんだけで何と(    )人もいる。同じ東アジアでも日本は突出して名字が多い(「    」といわれる)のである。

 ただし日本の場合、名字の数え方はとても難しい。たとえば「山崎」は「やまざき」と「やまさき」の二通りの読み方がある。読みの違いを勘定に入れるかどうか、さらには「齋藤」と「斉藤」のように字体の違いを勘定に入れるかどうか、迷うところである。勘定に入れれば名字の総数は約「30万」、入れなければ約「10万」と、かなりその数に開きが出てしまうらしい。

③天皇家の人々の名字は?                名字は(    )

④全国の郡市町村名(約3800余)で多い地名トップスリーを挙げよ。

   1位(    )2位(    )3位(    )4位山田、5位中野

   6位上野、7位大野、8位中山、9位大谷、10位本郷

⑤全国の郡市町村名に多く使われている漢字トップスリーを挙げよ。

  1位(   )2位(   )3位(   )4位「山」、5位「野」

  6位「島」、7位「東」、8位「津」、9位「上」、10位「原」

 ※地名にはどういう場所に集落が形成されていくのかが示されている場合がある。

.日本の地名・人名

(1)地名の由来

 まずは自分たちの先祖がどういう地理的条件を「居心地良し」と判断して住み着いていったかを考えてみよう。当然、人が住み着きもしないような場所では地名はまばらにしか付けられない。人が集まりやすい場所に地名は数多く、付けられることになるのである。ではどんな所に人は住み着くのだろう。

 おそらく急速に人口が増えて小国が分立し、地名も数多く付けられたであろう(    )時代を想定してみよう。当時の人が生きてゆくのに不可欠なものといえばまず「  」である。飲み水はきれいな水でなければなるまい。山奥の湧き水や清流は飲み水として最適だが、食料確保の点を考えると山奥は好ましいとはいえない。やはり後背地には山や台地があってきれいな泉が湧くとともに前面には平野が広がっていて(    )耕作に適するような土地。もちろん水稲農耕のために大量の真水を必要とするから、川や池、湖に面した場所、さらには少し下れば海に出る場所こそ理想的となる。

 後背地の山や台地からは山の幸と燃料となる薪を得て、海からは海産物を得る。田畑では各種の農産物が作られる。こうした環境であるならば餓死するおそれも相当少なくなる。というわけで海からさほど遠くない山地と平野部の境目に集落が多く作られる。後背地が山や台地であることに注目すればその村は岡本、(    )、山崎、岡崎、山下、根本、高根などとなる。その山などに生えている木に注目すれば、松本、杉本、竹本、楠本、榎本などという名前になろう(ただし「梅」の付く地名は梅の木とはほとんど無関係で「埋め」に通じ、地滑りなどで埋まった地や埋立地であることの方が多いという)。さらに泉や池、沢地、あるいは泉や池等から流れる川に注目すれば泉、小泉、小池、小沢、小川、大川、清水、池辺、川辺などの名になる。海に近ければ「  」、「浦」、「浜」などが付く地名が多くなろう。

 村が形成されると地名にもそのことが反映されて「~村」とか「~  」という地名になることがある。上記の地名に合体させて岡村、岡田、山村、山田、松村、松田、杉村、杉田、竹村、竹田、楠田、榎田、沢田、沢村、池村、池田、川村、川田、など。

 なお「村」や「田」と同様、よく地名、人名の語尾についてくる「  」は島国日本を象徴するような名前に思えるが、多くの場合、「島」は「    」からきており、「なわばり」「領分」を意味したらしい。したがって「岡島」は岡のある島を意味するよりも岡の上に立地した村や個人の領地を意味しているようである。

 さて前述したような好条件の土地は人口が急増するなかで次第に手狭となり、希少となる。やがて村人の一部は本来の村から出て周辺を開墾し、そこへ移住するようになる。開墾したのが野原であれば、野村、野田、原村、原田、野島などとなり、岡や山の中であれば岡村、岡田、岡島、山田、山中、高田、高島などとなる。石だらけの土地を苦労して田畑に作りかえれば、その労苦を記念して石村、石田、石井、岩田、石原、石野、林や森に分け入って開墾すれば、林、小林、森、森田、森村などとなる。元の村との名が紛らわしかったりすれば、新しい村はズバリ、新田、新村とすることもあったろう。逆に元の村の方を改名して本来の村、あるいは村の中心部を意味する本村、本田、中村、中田、田中、中島、古田などとする場合もありうる。

 以上のようなわけで地名、人名にはやたらと「村」や「田」、あるいは「島」のつくものが目立つことになる。こうした地名に方角(東西南北)、大中小、上下などのバリエイションを加えれば相当数の地名人名をカバーできるだろう。なお、これまでの観点は人が集まり、集落を形成する自然地理的条件に基づく地名が中心であったが、古代以降、(    )的な条件で集落が形成される場合も出てくる。橋本、大橋、八幡、山王、宮前、宮田、寺下、市川、国府台、甲府、府中、関、蘇我、総社、八日市場、吉野ヶ里、新免、堀の内、垣内、船橋、…。これらは人が大勢集まる有名な寺社の門前、主要な街道の関所や宿場、大きな橋のたもと、定期市が開かれた交通の要所、部民制の名残、国府の所在地、条里制や荘園制の名残、武家屋敷、環濠集落、船着場等、集落形成のバライエティーに富んだ経歴を示しているのである。

 ※ちなみに 地名は漢字二文字で表記されるものが圧倒的に多いが、これは奈良時代

  初頭、「     」編纂(713年命令)の際に地名を漢字二文字に改めるよう

  命令されたことが大きな要因だとされる。 

(2)由来探求の落とし穴

.漢字が当て字のケース

 地名は地形等に由来する(    )地名と人為的なものに由来する文化地名に分類されるが、漢字での表記は以下のように変えられてしまうことも多い。その結果、本来自然地名であったものがまったく自然地名とは思えない地名に変容してしまうケースも出現する。

 たとえば湿地で葭(よし=葦)が多く生えていた地に「葭田(よしだ)」ないしは「芦田(あしだ)」という地名が当初は付けられる。しかしやがて佳字が当てられ「   」と表記が変わる(場合によっては読みまでが変わる)場合。同じパターンで川が湾曲した部分や丸い池を開拓して「丸田」とか「輪田」とされた地名が「和田」に変えられ、四角い土地を「枡田」と表記したが「   」ないしは「益田」に変えられる、など…。他に有名なものとしては福島のラーメンで有名な「喜多方」は実は本来、会津からみて北方だったので「北方」と表記されていた。

 国と国との境なので「境」であったのが「酒井」…等、このパターンによる表記の変更ケースは非常に多い。また榛の木が茂る沢だったので「榛沢」であったのが、漢字を易しくして「半沢」とか、由来がわかりづらくなるような表記の変更が多々ある。

.大和古語のケース

 大和(   )に語源が求められる場合、漢字の表記があてにはならないことはよくある。「千葉」の語源が大和古語の「ツバ」であるとの説はすでに紹介したが、これ以外にも多くの地名が大和古語に由来するとの考え方があるのだ。たとえば「広島」。「ヒロ」は古語で「低い」という意味があるらしい。太田川の河口にできたデルタ地帯に毛利輝元が築城し、「広島」と命名したが、本来は「土地の低い島」という意味であったという。したがって各地にある「広岡」、「広田」という地名も「広い」という意味合いではなく、「低い」という意味で名付けられた可能性が高い。「萩」や「椿」も草花の名に由来すると思いきや、「ハグ」という、土砂崩れや河川による崩落が起こる場所を意味する古語に由来するという。

 

地名・人名の由来:その2 

(  )組(  )番(          

(3)人名の由来

.名字の歴史

 東アジア世界で最初に一般レベルまで氏名を名乗ることが普及したのは中国で、(   )の時代からだという。漢王朝は広大な地域、異民族を支配した。その支配を固め、統一的な(    )、兵制を確立する上で、(    )の作成を思いついたのである。

 戸籍の作成上、個人名だけでは同名が多過ぎて一人一人の把握が難しくなるため、一部の支配階級に限られてきた姓を名乗ることを庶民にも要求したのである。ほぼ同じ頃、(    )帝国でも、まったく同じ理由から庶民レベルまで氏名を名乗らせるようになっていった。

 日本では(    )年、中国の影響下、初めての本格的な戸籍(「庚午年籍」と呼ばれた)が造られた際、氏名を名乗ることがようやく一般化したようである。なお

豪族層は天皇から「氏姓(うじ・かばね)」を授けられて、大和政権に服属したことを示し、大和政権の権威を背景に地方の支配に臨む一方、天皇家は「氏姓」を持たずに突出した存在として周囲に君臨する体制を作り上げていた(→氏姓制度)。

 ちなみに豪族の氏の名は(   )(蘇我、葛城、春日…)ないしは職掌(物部、大伴、膳…)に基づいて付けられていたようである。

 ※氏の名と各豪族のランクなどを示す姓とは本来、区別されるべきものであったが、氏姓制度が官人

  制に移行し、位階でランクが示されるようになると混同されていった。しだいに氏の名と姓名とは

  同じものを指すようになっていったのである。

 ではそれまで姓を持たなかった庶民はどんな基準で自分の姓を名乗ることになったのだろう。まず庶民には姓を自分で選ぶ権限は無かったようである。多くの場合、何らかの(    )(「べのたみ」あるいは「ぶみん」)であった彼らはそれにちなんだ名を上から一括りで押し付けられたらしい。

 部民はそれぞれの職業別に編成されて政府や豪族に奉仕していた。職業の名を付けた服部(はとりべ←「はたおり」)、錦織部、犬飼部、海部、磯部、田部、饗部(あえべ→「   」)、渡部、山部などは現在も姓としてその名残が見られる。

 蘇我氏に仕えた部民は蘇我部(そがべ)のように、奉仕していた豪族等の名を冠した部民もいた。拉致事件で一躍有名になった曽我さんはおそらくそうした部民の子孫、ないしは蘇我部のいた村の出身である可能性があろうし、他に「曽我部」ないしは「曽我辺」という名の人も少なくない。

 「日下」や「大友」、「友部」、「佐伯」、「長谷部」なども部民制に由来する名前である。この時代に起源が求められる代表的な名前は他に「三宅」(←「屯倉」)などがある。 

 ※ちなみに「部」は後に「辺」と変えられるか、無くなることも多い。

 平安時代になると戸籍に基づく民衆支配が崩れ、庶民は再び姓を名乗らなくなる。しかし支配層は多様な名字を産み出していった。まず貴族では(    )氏が圧倒的な力を誇るようになり、平安中期には摂関政治が全盛期を迎える。

 やがて平安後期にはあまりにも繁栄した藤原氏の中で混同を避けるとともに、家格の差を明確にするためにまず分家筋がニックネームを使うようになった。朝廷で名乗るときには相変わらず「藤原」姓を名乗るが、私的には屋敷が面している(   )の名(「一条」「二条」「三条」「九条」「姉小路」「万里小路」…)等を名乗るようになったのである。

 藤原以外の古代の四大姓(源氏、平氏、橘氏)も同様で、特に武士化した地方の源氏や平氏などはかつて先祖が土着した記念の土地の名を名乗ることが一般化(源氏→「足利」「武田」、平氏→「北条」「千葉」etc)した。朝廷で名乗る際には「源…」「平…」と称したが、普段は「       の地」=「    の地」を「名字」として名乗っていたのである。それだけ地方に土着化した彼らにとっては都で「姓」によって結ばれる天皇家との関係よりも「名字」で結ばれる地元とのつながりが重要となってきたのだ。

 「名字」は「姓」と違って通称に過ぎなかったので、支配する土地が変わればすぐにその土地の名に乗り換えることもしばしばであったため、「武士の時代=中世に名字の数は激増した。歴代の幕府は戦乱時の武功にたいして新たな領地を恩賞として分け与えたから、武士の所領は時代とともに各地に分散し、庶子の独立を招いていった。そして独立した一族が次々と新たな所領の地名を名乗っていったのである。

 藤原氏の中でも地方に土着し、武士化する一族が現れた。彼らは名門藤原の出身であることにもこだわったため、土地の名に「藤」をつけた合成名を作り出した。 

 「    」は武将として名高い藤原秀郷の領地、佐野(栃木)にちなんでその子孫が名乗りだしたものという。家紋も藤原にちなんで「下がり藤」を伝えている場合もある。同様の例では他に「伊藤」(←   )、「加藤」(←   )、「武藤」(←武蔵)、「遠藤」(←    )、「近藤」(←近江)などがある。

 また役職等と「藤」を合体したのが「工藤」(←木工助)、内藤(←内舎人)、「齋藤」(←斎宮頭)などである。他に他氏とのつながりで「安藤」(←安倍氏)、「江藤」(←大江氏)なども出現した。何れも大姓で、いかに藤原氏が繁栄したかがわかろうというものだ。

 しかし名前に「藤」が付くからといって必ずしも「藤原氏」とは限らない。そもそも「佐藤」の先祖の藤原秀郷の場合、本来の姓は鳥取氏であったが、藤原の権勢にあやかるために「藤原」を名乗ったという説もある。こうした名字の「詐称」は混乱した戦国時代にはかなり見られたに違いない。源氏を名乗るあの徳川氏も吉良家の系図を拝借して源氏の末裔を「詐称」したとする説もある。庶民も朝廷の権威が低下するなかで、武士に習って勝手に名字を名乗ることが多くなったという。

 しかし江戸時代には「      」が武士の特権とされて庶民は200年以上にわたって公式の場では名字を名乗れなくなってしまった。そのため一部の庶民は名字を忘れたまま、明治時代を迎えることとなった。

 明治政府は欧米の制度に習い、近代的な税制や兵制の確立を目指して約1200年ぶりに全国的な戸籍の作成に乗り出した。その際、名字の無い庶民の場合、あまりにも同名が多くて混同が避けられぬことに政府(特に陸軍省)は気付いた。そこで1875年、「         」が出され、すべての国民が名字を名乗ることになったのである。名字をなくしてしまった人々は急遽、名字を作ることになり、所によっては様々な混乱も生じたという。

 たとえば富山県新湊市のように戸籍担当の役人が手当たりしだい目に付くものを材料にして相談に来た人々に名字を与えてしまったため、「魚」「釣」「海老」「網」「波」「米」「酢」「飴」「菓子」「屋根」「瓦」「壁」「風呂」「山」「横丁」「牛」「鹿」「菊」「草」「大工」「旅」…といった珍名が誕生してしまった例もあった。一方、庶民の方でも縁起をかついで「鶴亀」とか「とんち」をきかせて「小鳥遊」(鷹がいなければ小鳥は安心して遊べる→「たかなし」と読む)、「一口」(入り口や出口が一つしかないとそこに人が殺到してしまう→「       」と読む)などといった奇名を作り出している。

 武士の時代に激増した日本人の名字は明治に入った1870年代、さらに珍名、奇名の裾野を広げて増加(江戸時代は名字の数はおよそ1万余りだといわれる)し、今日の世界トップの座を築き上げたというわけである。

.個人名の由来

 プロ野球の投手で「松坂大輔」という豪腕投手がいた。彼が高校生のときに甲子園をわかせていた頃、「~大輔」という名の野球選手が他にも甲子園で活躍していてその名前自体が注目されたことがあった。実は彼らが生まれる頃、「荒木大輔」という選手がやはり甲子園をわかせていたのである。野球好きの父親が当時、生まれたばかりの自分の息子に、人気絶頂だった「荒木大輔」にあやかろうとしてか、好んで「大輔」という名を付けていたのであった。

 個人名はさほどの制約が無い一方で、流行に左右される要素もあった。「昭和」時代が始まったばかりの頃は男で「昭」「和夫」「昭一」「昭二」、女で「和子」「昭子」が上位を占めていた。太平洋戦争中は男で「勝」「勇」「勝利」「勲」「武」「功」などの勇ましい名前が上位を占め、女も「勝子」や「節子」のような名が増えた。

 また1970年代までは女は「子」の付く名前がトップテンのうちの半数以上を占めていた。が、最近ではほとんどランクインしていない。戦後、個性尊重の気風が広がるにつれてある意味で名前は(    )し、個性化してきたようである。今や「松坂大輔」がどんなに活躍しようと、「大輔」の名はかつてほどにははやるまい。

 古代の戸籍等から個人名は身体的な特徴から付けられたり、特定のものに宿る(    )にあやかろうとして名付けられていたことがわかる。万葉歌人で有名な山部赤人は赤ら顔の人物であったのか、それとも赤という色に備わる霊力にあやかろうとして名付けられたのか…。何はともあれ、およそ古代には「馬子」とか「入鹿」とか「貝蛸皇女(かいたこのひめみこ)」とか「糞麻呂」とかの「へんてこ」な名前が目立つ。

 しかし奈良時代以降は仏教文化や中国文化の影響が強まり、名前も漢文学の素養をうかがわせる名が登場する。「順(したごう)」「融(とおる)」「信実」「清行」「道長」「高明」「道真」…等、仏教や儒教の徳目を取り入れた名前が多くなり、中には現在でも通用するような名まで出てきた

 しかし一方で中国の影響もあってか、女性の名は伏せられることが多かった。平安時代を代表する女流歌人や作家の名前は「清少納言」「紫式部」「菅原孝標女」「小野小町」など宮中での「ニックネーム」か父親、あるいは夫の名を冠して呼ばれているに過ぎない。

 古代から女性の名は(    )信仰によって見知らぬ他人に知れてはならぬものと考えられていたからである。名前にはその人の魂が宿っており、その名を知られると魂まで相手に奪われかねない。摂関政治の時代に政争の道具と化した貴族の女性たちはとりわけ政敵に自分の本当の名を知られてはならなかったのであろう。

 武士が台頭してくる10世紀以降、武士特有の名前が登場してくる。まず所領争いに常に直面していた武士たちは兄弟の順を名前に盛り込んで家督相続などの優先順位を明確にしようとした。いわゆる「   」と呼ばれるもので長男は「太郎」、次男は「次郎」、三男は「三郎」というように名付けられるようになった。

 また地方で活躍していた武士たちは都への憧れとともに都の有力者とのつながりを誇示するために、中央の(   )の役職名(左右の衛門府、兵衛府、近衛府など)を付けることも流行した。「~左衛門」「~兵衛」「右近」「左近」などである。さらに地方役人の役職名や四等官の制(かみ・すけ・じょう・さかん)による等級も名前に加え、武家特有の名前を完成させたのである。

 ※四等官では二番目以降が多用され、「すけ」は「介」や「輔」などの字があてられた。「じょう」

  は「尉」「掾」、「さかん」は「目」があてられたが、戦国時代以降、庶民が武士を真似て名乗る

  ようになると「すけ」はもっぱら「助」、「さかん」は「作」が多くあてられた。→「田吾作」

  「太助」…

 さらに「名字」として地名を名乗り始めると出身「姓」を残すために名前に「源」「平」「藤」「  」(←「橘氏」)「清」(←「清原氏」)などを付けたりした。以上の要素を盛り込むとたとえば「源太左衛門介~」などとなる。なお名門一族の当主は代々、名前に最も重要な先祖の名の一字を踏襲することも多かった。有名な例では徳川将軍家の「  」、天皇家の「  」であり、これを通字といった。

 

地名・人名の由来:その3 

市原の地名―「市原地方史研究第18号(1994)」(市原市教育委員会)より―

以下「市原の地名」田中喜作(P.177227)から抜粋、要約。

・「市原」:(     )巻20に(    )歌として市原郡上丁刑部直千国(おさかべのあたいちくに)の作品(「蘆垣(あしがき)隈処(くまと)に立ちて我妹子(わぎもこ)が袖もしほほに泣きしぞ()はゆ」)が載せられている。(    )国の防人歌は755年に献上されており、既に奈良時代には郡名として定着していた由緒ある地名である。由来には諸説あるが、暖地性広葉樹の「(いちい)」(櫟樫のことか)の木がよく茂る土地の意か?なお市原の地名は全国に28箇所あるが、千葉を北限とする櫟樫の分布にほぼ重なるという。

※防人:総勢3000人で、毎年千人ずつ交代。三年間の兵役で主に北九州の防

備にあてられた。年に安房から33人、上総から223人、下総から270人の計526人(防人の過半数は房総から派遣)が難波までを陸路、瀬戸内を舟に乗って筑紫まで移動させられた。

・「郡本(こおりもと)」:市原郡の(    )が置かれていたから。郡本の八幡神社付近に郡衙らしき痕跡がみられるという。

 ※(    )の所在地は?:郡本に(あざ)古甲(ふるこう)」、隣接する藤井にも字「古光(ふるこう)」、門前にも字「古甲(ふるこう)」がある。「ふるこう」は「古国府」の転訛したものと考えられ、いまだ決定的な決め手には欠けるものの、村上、惣社を含めたこの一帯が有力な国府所在地候補とされている。なお菅原孝標娘が国司の任期を終えた父親らと上総国府を発って京都へ向かったのは「    日記」によると102093日のことであった。上総の地は将門の乱以降、安定を欠き、1028年には平忠常の乱が発生している。1011年頃に成立していた「    物語」に憧れていた少女(出立時13歳)も、この日記を書き始めたのは50歳を過ぎた1059年のことであったという。「あづまぢの道のはてよりもなほ奥つ方に生ひ出たるといかばかりかはあやしかりけむと…」という屈折した書き出しには多感な少女時代を過ごした上総時代への複雑な思いが表れているようだ。

・「藤井」:由来は不詳。「フジ」は「フチ」で、国府近くの水を汲み取る場所を

意味していたのかも?字「在長面」があり、これは「在庁面」からきているかもしれない。

・「能満」:「能万」とも書いたが中世以降は長らく「   」と言われていた(能

満にある「府中日吉神社」「府中釈蔵院」はその名残)。「府中」は中世における

国府の所在地をさすが、必ずしも古代の国府と場所は一致しない。なお当地の

府中は能満だけでなく、郡本、藤井、市原一帯を指していたようである。

・「山田橋」:由来は不詳。小字に「大橋」があり、山倉ダムの堰堤に近い所で

古代(    )と思われる道路跡(幅約6m、側溝も伴う。平安期)が見つ

かっている(表道遺跡)ことから、官道を渡す橋が谷に懸けられていたことを

意味するのかもしれない。

・「五所」:小弓公方足利義明がこの地に館=御所を構えた(ジョイフル・ホン

ダ辺り)からか?

・「菊間」:5世紀頃、菊麻(    )が置かれていた。「和名類聚抄」(930

年代成立)によると「ククマ」と発音していたらしい。「クク」は「ククム」の

語幹で「何かに包まれたような地形」か「水もちが悪い地形」に「間」がつい

たものか?村田川が近く、縄文(中・後期の平永遺跡)、弥生(中期の菊間遺跡)

に加え、新皇塚古墳、権現山古墳、姫宮古墳、天神山古墳などの古墳群(市内では

    古墳群に次いで大きな古墳群)が存在し、古くから栄えていたようである。

・「五井」:1590年、松平家信が三河から五井に移され、五井藩が成立した際に

初めて地名として文献に登場。もとは「武松」と称されていたというが不詳。

なお1424年に造られた円覚寺の梵鐘に「上総州御井庄」とあり、当地のことかもしれない。古語では「ゴウ」や「ヰ」は川を意味するので、川近くの土地の意か?

・「君塚」:古墳群があることから。ただし「君」の由来は不詳。

・「加茂」:全国に約60箇所、存在。京都から勧請された賀茂神社に由来。

・「惣社」:平安末期、国司が国内の神々の巡拝を簡略化するため、国府近くに

国内の主な神々を集めて祀ったのを総社(惣社)といった。戸隠神社(信州から勧請)あたりか、あるいは字「十二所」にその所在地をあてる説あり。

・「海士(あま)有木(ありき)」:「海士村」と「有木村」が合体。「海士」は「和名抄」の「海部(あま)

か?「有木」は「アラキ」で新開地の意か?

・「姉崎」:877年、姉前神、島穴神とともに正五位下を授けられる(三代実録)

という記録が初見。「アネ」は「ハニ・ハネ」(埴)の転訛か?つまり台地の海に面した先端部(=埴先)のこと(千葉では亥鼻地形)かもしれない。

・「廿五里(ついへいじ)」:「二十五里」なら千葉市内の若葉区にも二箇所存在するが、いずれも「にじゅうごり」と読む。当地は「ツキヒジ」(湿地帯を土で埋め立ててつき固めた土地→東京の築地)が転訛したものか?漢字を「廿五里」にした理由は不明であるが、藤原文夫はヒジをツク、「ツキヒジ」の連想で肘がゴリゴリするから五里×五里で廿五里となるという、語呂合わせからではないかと推察している。実際、牛久方面などで見られる「百目木(どうめき)」という地名は水が「とうとうと流れる」の「とうとう」が十×十で百になるから「百」の字をあてたようである。

・「養老川」:14世紀初頭の称名寺文書に「与宇呂保」という地名が初出。海保から中高根あたりの地名だったようで、「ヨウロ(正しくはヨホロ)」とは古語で膝の裏側、屈曲部を指す。西広まで北上してきた川がそこで急に向きを変えて西に向かう、その屈曲部が「与宇呂保」であった。そこを流れる川だから「ヨホロ川」であろう。「養老川」の名は江戸期に出現。それ以前は単に「川」かそれぞれの地域の名を冠して「五井川」「加茂川」などと呼ばれていた。

・房総三国(            )の名の由来:もともとは「総の国」と呼ばれていて一つの国であったが、上総と下総に分立。さらに718年、上総から安房が独立して三国となった。平安初期に斎部(いんべ)広成が自家の伝承を記した「古語拾遺」には斎部(忌部)氏の祖、天富命(あめのとみのみこと)が阿波の一族を率いて東国へ向かい、麻を栽培して成功した肥沃な土地が「総の国」(総とは花や実などがふさふさとたわわについて垂れ下がる様を言う)で、斎部氏の居住地には出身の阿波の名をとって安房郡と名付けたのが由来だとしている。黒潮によって強く中央と結びついていた房総の歴史から考えるとただの作り話とはいえぬ説得力を持っていよう。

     

伝統的な日本的美意識・日本らしさとは?

 

   今回も20年近く前に作成した授業プリントのご紹介。データが古いですが悪しからず。また空欄はご自分で埋めてください。

 

伝統的な日本的美意識とは?

  )組(  )番(         

第1章:古典文学に見られる日本的美意識

 古い和歌や随筆(「枕草子」や「徒然草」など)には当時の人々の美意識が色濃く反映されている。国語の時間でも触れられる内容ではあるが、「日本的美意識」とは何かを理解するうえで欠かせない部分なので今回は代表的なものに限定して、ざっと紹介してみよう。

※参考文献;「日本の美の形」神林恒道編 世界思想社 1991

1.歌論

 日本的な美意識を正面に据えた芸術論として最も古く、かつ有名なものは最初の勅撰和歌集「    和歌集」(905年)の序文(仮名で書かれた「仮名序」と漢文で書かれた「真名序」とがある)である。(     )らが書いたとされるこの序文では「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」とある。ここには外在する世界の物象に美があるとして客観的にその美を追求しようとする西洋とは少し異なる考えが示されている。つまり日本では美は外の世界にあるのではなく、人の心の内にあるという(    )、主情的観点が強く見られるのである。したがって外界を表現するよりも、外界の移ろう様を見て動かされる心の方を表現するのが日本の伝統的芸術ということになる。この心を言葉で十全に表現できている歌こそ「よき歌」と貫之らは考えた。

 この表現における主観的、主情的傾向は次の「     和歌集」の時代に入ると一層強まる。鴨長明は「無名抄」の中で「詞に現れぬ余情」、つまり言葉では表現しきれない情趣こそ「   」の美であり、最高の美であると説く。とすればもはや貫之らのように心を言葉で十全に表現する必要はないし、そもそもそれは不可能だ。むしろ表現は控えめにして、奥ゆかしく深い心=幽玄の美をそこはかとなく伝えられる歌こそが最高のものとされる。(      )も「毎月抄」で「心のかけたらんよりは、詞のつたなきにこそ侍らめ」と述べ、言外に感じられる、深い情趣を尊重していた。さらに(    )法師ともなると「      」で「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」と述べ、整った完全なものよりも欠けていて不完全なもののほうがよりすぐれた高度な美であると強調するまでに到っている。

 こうした美意識は後代に連綿と伝えられ、一層洗練されたものとなっていった。たとえば心敬は「ひえさびたる」「枯れる」などの言葉で「幽玄の美」を説明し、能役者(     )も「     花」と言い、「しおれたる」「さびさびとした、ひえたる」美を追求した。この流れは茶の湯にも受け継がれ、侘び茶を唱えた武野紹鴎は侘び茶の心を藤原定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ※」(「新古今和歌集」)にこそあるとしている。これに対して弟子の

     )は藤原家隆の「花をのみ待つらん人に山ざとの雪間の草の春を見せばや」(「新古今和歌集」)をもって茶道の心とした。

※名高い「三夕の歌」の一つで、参考までに他の二首を紹介しておく。

 寂蓮「さびしさはその色としもなかりけり 槙立つ山の秋の夕暮れ」

 (     )「心なき身にもあわれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ」

 

 茶の湯の二人がいずれも「     和歌集」の美意識に拠っている点が興味深い。そこで次に「新古今和歌集」が作られた時代背景を探って、日本的美意識の根源に迫ってみよう。

2.「新古今和歌集」の時代

 日本的美意識を探る上で、大きな鍵を握っている「新古今和歌集」とはどんな時代の産物なのか?ほぼ完成したのが1210年頃のことで、中心となったのが承久の乱をひき起こした(     )院である。主な歌人として先ほどの藤原家隆・定家父子に加え、(    )や寂蓮らがいる。いずれも貴族政治が終わり、武家政権が登場するという大きな時代の変わり目で源平の争乱などの戦乱が続き、浄土信仰の広がりとあいまって人々の間に「    観」がことさら強まっていた頃の歌人である。

  (      )の日記「明月記」には「紅旗征戎(こうきせいじゅう)、吾が事にあらず」という有名な一文がある。そこから政治的には没落の一途をたどっていった(    )が政治の世界から離れ、生き残るすべとして和歌などの芸術や学問の世界に一族の命運をかけて専門化していった状況がうかがえるのである。もはや貴族の天下ではなくなった。武士が大手をふるって歩く時代、中・下級貴族が生きていくには学問・芸能事を家業、家学として独占し、そこから収入を得るしかなかった。宴の余興レベルでも許された「古今和歌集」の優雅な時代ではない。作品の出来具合に生活がかかってくる。勢い、作歌に臨む姿勢は真剣で研ぎ澄まされたものとなろう。作品に高度な技術と芸術性が求められてもくる。

  (   )信仰の広がりと打ち続く戦乱がもたらす(   )観、そして芸術性を高めさせようとする時代の要請、この二つが没落してゆく貴族達の心を唯美的で幽玄な世界へと向かわせ、後の人々の美意識をも左右するほどの作品を生み出したのだと考えられる。

 しかしやがて茶の湯に受け継がれていく「新古今和歌集」の美意識=幽玄の美は日本の美意識すべてを代表するわけではなかった。貴族を退けて時代の表舞台に躍り出てきた武士の質実剛健で(   )的な表現世界、武士の後を追いかけるようにして実力を蓄えてきた町人らの華麗な(   )的表現。時代と芸術の担い手の違いによって日本の美意識も多様な展開を見せたのである。

 

倫理「日本らしさとは?」NO.1

  )組(  )番(        

 下表に見られるとおり、近年、来日する外国からの観光客が急増している。少子高齢化によって内需がしぼみがちな日本において外国人観光客の急増は経済的には大歓迎。特に中国人の「     」は停滞気味の日本経済にとっておおいにカンフル剤の役割を果たしつつある。

 

10年おきに見た訪日外国人観光客数(千人以下は切り捨て)

年度

客数

一番多い国

2番目に多い国

3番目に多い国

1964

35万人

 

 

 

1974

76万人

 

 

 

1984

211万人

 

 

 

1994

346万人

韓国

台湾

アメリカ合衆国

2004

613万人

韓国

台湾

アメリカ合衆国

2014

1341万人

アメリカ合衆国

韓国

中国

国土省観光庁統計

 なお2015年度はダントツで(    )が訪日観光客数一位(約500万人)。では日本のどんな観光スポットを外国人は好んで訪れるのだろう?旅行・観光業界の調査結果を下表に示してみよう。

 

外国人が訪れて印象の良かった観光スポット トップ20

順位

人気の観光スポット

所在地

順位

人気の観光スポット

所在地

(         )

広島

11

(     )寺

東京

広島(     )記念資料館

広島

12

(     )城

兵庫

松本城

長野

13

清水寺

京都

東京(       )

千葉

14

新宿御苑

東京

美ら海水族館

 

15

明治神宮

東京

伏見稲荷大社

 

16

(     )山

山梨・静岡

地獄谷野猿公苑

長野

17

東大寺

 

金沢兼六園

 

18

嵐山モンキーパーク

京都

六本木ヒルズ

東京

19

金閣寺

京都

10

三十三間堂

京都

20

海遊館(水族館)

大阪

  ※7位と18位は日本人からすると意外性あり。「ニホンザル」好き?

  ※逆に日本人が最も多く観光に出かける外国・地域は2010年の統計では

  1位(    )、2位(    )、3位(      )合衆国本土、4位香港、

 5位ハワイ、6位台湾、7位タイ、8位グアム、9位(     )、10位フランス

 

 次に世界で最も外国人観光客数が多い観光大国はどこだろう。2014年度の統計を示した下表の空欄を埋めてみよう。

 

外国人旅行者受け入れ国・地域ベスト10(2014年度)

順位

国  名

人数(千人以下切り捨て

1位

(        )

8370万人

2位

(        )合衆国

7475万人

3位

(        )

6499万人

4位

(          )

5562万人

5位

(        )

4857万人

6位

トルコ

3981万人

7位

ドイツ

3300万人

8位

イギリス

3261万人

9位

ロシア

2984万人

10位

メキシコ

2909万人

 

 なお日本は急速に順位を上げてきているものの、(   )位にとどまっている。アジアでは8位であり、中国、香港(11位)、マレーシア(12位)、タイ(14位)、サウジアラビア(18位)、マカオ(19位)、(    )(20位)が日本よりも上位にある。急増しているとは言え、日本はまだまだ観光大国にはほど遠い現状であろう。おりしもアニメ、能や歌舞伎、すしを中心とする和食、茶道、座禅、武道、邦楽など日本独特の文化が世界から注目されている。

   2020年には(           )を控える今こそ、日本の良さ(おもてなしの精神・・・)を世界におおいにアピールして外国人観光客をさらに増やす絶好のチャンスである。

 ところが日本側に大勢の外国人を受け入れるだけのキャパシティがイマイチ欠けているのでは・・・という残念な指摘もある。経済力はまだまだある日本のことだから宿泊施設の不足程度なら何とかなるだろうが、問題は日本人の外国人に対する観光案内能力の質と量の不足。日本の伝統文化を外国人にわかりやすく説明し、案内できる日本人は京都や奈良、東京などを除くと極端に少ないという。

   近年、アニメ・漫画に登場する地方都市にも外国人が訪れるようになったらしいが、現地では既に案内人の人手不足が表面化しているらしい。とりわけ通訳なしの英語で流ちょうに案内できる日本人となると決定的に不足しているに違いない。そもそも多少の英会話はできても、日本人自身が今、自国の伝統文化に疎いのだから当然である。最近、刀剣や寺社詣でにはまる女子、「歴女」が話題になるなど、幾分、日本の伝統文化に興味を持つ若者が以前よりも増えてきている気はするが、外国人観光客を案内できる数は特に地方においてまだまだ足りないに違いない。

   そこで倫理の授業はこれから頻繁に見かけるようになるはずの外国人観光客に日本の伝統文化をわかりやすく解説できるだけの基礎知識を身につけることも狙いながら、しばらくは「日本らしさ」をテーマにしていきたい。これは日本に住む限りは必須の教養でもある。

   さて現在の日本人、特に若者は実際、日本の伝統文化をどの程度知っているのだろうか?別紙のアンケートに答えてみよう。

 

「海外から理解されにくい日本人の気持ち」5選

  )組(  )番(         

1.「悔しい」

 意外にも英訳しにくい言葉だという。近い表現としては「I am really    

 frustrated !」(ほんと イラツク)あるいは「So, disappointed」(もうガッカリだよ)。しかし「悔しい」は苛立ちと後悔の入り混じった微妙なニュアンスがあり、どちらの英訳も少しずつ違うような気がする。なかなかしっくりとくる訳語は見当たらない。

2.「もどかしい」

 イライラだけでなく、どうにかしたい・・・というじれったさも混じり合う言葉であり、適訳が見当たらない。「frustrated」ではどうみても強すぎてしまうのだ。「slow going」(じれったい)が最も近いか。「もどかしい」はどちらかというと感情をハッキリと表に出さずに抑え目、控え目な表現を好む日本人の伝統的な心性が典型的に反映している表現である。他方、明確な自己表現を好む欧米の心性。両者の心性の違いは語彙にも大きな差となって表れるのだろう。

3.「ほっとする」

 「feel relieved」が最も近いそうだが、これも場合によっては適訳が難しいらしい。「安心する」と同意のようにも思えるが、もっと安心感が強いニュアンスを感じる。4の「ほっこり」とならんでいわゆるオノマトペ(擬音語、擬態語)なので、適語を見いだすのが難しい。

4.「ほっこりする」

 江戸時代からある表現らしいが、英訳は困難を極める。「ほっとする」よりもかなり陽性の感情であるが、「happy」というほどでもない。欧米の人にこの言葉のニュアンスを伝えるには長文の説明を加えなければなるまい。

5.「感慨深い」

 「moved」は感動することであり、これではやや大げさ。静かに佇むなかでジワジワと生じてくる、しみじみとした感動というほどの意味だろうが、これを表す英語は見つかりにくい。

 

 

 

 

 

 

能と狂言・日本的美意識の原点

 

 今回も20年近く前に作成した授業プリントのご紹介。データが古いですが悪しからず。また空欄はご自分で埋めてください。

 

・日本の伝統芸能:能と狂言

  )組(  )番(         

始めに

 能や狂言は歌舞伎や落語よりも歴史が古く、一層、理解の難しい芸能である。古語のため解説抜きでは演者のせりふのほとんどがわからない。双方とも国家の保護を受けなければ営業的には成り立たないのも当然である。このところ狂言界では野村萬斎や和泉元彌などの若手が俳優としてテレビドラマにも登場し、人気を集めているが、だからといって狂言自体が大衆芸能として興行的に成り立つとは思えない。俳優の人気が狂言の人気に決して結びついていないからである。結局、能も狂言も国家の保護を受けながら、なんとか文化遺産としてその伝統を絶やさぬように細々と頑張るしかあるまい。

 しかし国家の保護が必要とされることは能や狂言にとって悪いことばかりではなさそうである。能や狂言は他の芸能とは違って時代の変化に合わせる必要もないし、保護のおかげで営業上の成績もさほど気にしなくてよい。生き残りのための熾烈な競争からはとっくに解放され、むしろひたすら伝統を忠実に守り続けることが要請されている、まさに古典的な芸能なのである。とはいえ

 伝統の保守という一事に専念するなかで守るべき伝統とは何かが厳しく問われているのも事実だろう。そうした能楽の世界に、現在、欧米の関心も強く寄せられてきている。おそらく能楽にこそ日本の伝統美が色濃く残っていると彼らは期待しているのであろう。実際、2001年には(      )から能楽が無形文化遺産としては日本で初めて世界遺産に登録されている。

 では世界からも注目された能や狂言において受け継いでいかなければならない日本の伝統美とはいったい何だろう?今回は能を中心にすえてこの疑問の解明を進めてみよう。

1.歴史

 奈良時代に伝来した散楽(曲芸などの雑技の総称)を源流に平安時代になってこっけいな物まね芸や言葉芸が中心の猿楽という芸能が発展してきた。この猿楽に田楽(農村で発生した田植え神事にともなう芸能で歌舞音曲を主体)などの民衆芸能が取り入れられ、歌舞音曲をともなう劇仕立ての「猿楽の能」が鎌倉時代に成立。近畿地方中心に盛んとなり、芸能共同体としての(   )が数多く結成されるようになった。奈良の興福寺、春日大社に所属する大和猿楽四座(現在の流派でいうと金春、金剛、宝生、観世に相当)はそのなかでも特に有名であった。この大和四座の一つ観世座(当時は結崎座)の棟梁であった観阿弥清次(1333~1384)、(     )元清(1364?~1443)父子はすぐれた演技力で他を圧倒し、室町幕府将軍

     氏)の保護を受けつつ、能を単なる芸能から芸術のレベルにまで高めて大成させた。

 彼らはすぐれた役者であっただけでなく、能の創作と理論の両面にわたって多大な貢献をしている。観阿弥は多くの謡曲を創作し、能の基本を完成させ、子の世阿弥は最初の能楽論書である「       」を著した。観阿弥・世阿弥父子の代にいたって「猿楽の能」は(    )の美を追求する芸道へと洗練されていったのである。世阿弥の「        なり」という言葉に象徴される、日本独特の簡潔にして象徴的な美学が余白と省略を重んずる水墨画の隆盛と同時期に完成していったのも偶然ではあるまい。

 この時代は能楽のほかに連歌や茶の湯といった大勢で楽しむ「一座共感」、「寄合」の芸能が生まれ育った時代でもあった。武士とともに民衆も台頭し、上位の敵には(    )を結成して数と団結力で対抗するというこの時代の風潮が芸能の世界にも色濃く反映しているのである。また南北朝の争乱を経て一層没落の途を歩む貴族たちを目の前に、京の人々は「    観」を強めるとともに過去の王朝貴族の優雅な文化を懐古する傾向をも生み出した。王朝文化への懐古趣味と「      和歌集」に見られた幽玄の美意識が混ざり合うなかで能楽の主たるモチーフが形成されているといえよう。

2.能楽鑑賞のための基礎知識

 ①能舞台;初期の能舞台は(   )に奉納するという能楽本来の性質から

    )内に造られ、神殿に面していた。四角い本舞台(約5.4m四方)に橋掛かり(舞台と演者の控え室に相当する鏡の間をつなぐ手すりつきの廊下で舞台の一部でもある。登場や退場の通路としてだけでなく、「あの世」と「この世」、湖と岸、空と地上といったような、本舞台とは別の空間として用いられることもある。歌舞伎の    はこれに由来)、その周囲には白洲(玉砂利がしかれ計5本の若松が植えられている)、本舞台の鏡板(背景として老松が描かれている)など現在の能楽堂に通ずるような舞台が完成したのは室町時代末期であろうと考えられている。

 なお本舞台の床の下には音響効果をよくするために大きな瓶が13個(橋掛かりにも2個)置かれている。歌舞伎の舞台と比べればきわめて(      )な構造であり、舞台上の大道具(→⑥)の素朴さとともに簡潔さを旨とする「幽玄の美」の世界を体現したものとなっている。

②演者;「    」(仕手つまり主役)と「ワキ」(脇役)の二人で演ずるのが基本形態。多くの曲において「シテ」は「ワキ」が仮寝の夢に見た幻として面を付けて出現するパターンをとる。なお「シテ」「ワキ」それぞれに「ツレ」と呼ばれる助演者がつくこともある。演者の他に、地謡(じうたい)(謡を斉唱するコーラス団)や囃子方(はやしかた)(笛、小鼓(こつづみ)、大鼓、太鼓)が舞台の奥や脇に座る。「ヤッ」とか「イヤー」というあの独特の掛け声は囃子方がやっており、きちんとした楽譜が無いなかで息を合わせ、調子をとるために掛けられている。この掛け声はシテやワキの動きにも影響を与え、場面が緊迫の度合いを強めるとともに掛け声も緊迫感を帯びてくる。掛け声と囃子、謡、

舞がお互いに緊張感を高め合い、一体化しながら一種独特の緊迫した舞台空間を現出させていくのである。

 ③演目;約250近くの演目があり、演じられる形式の違いから(    )能と現在能に大別される。世阿弥が考案したという夢幻能は「ワキ」(大抵は旅の僧)の前に「シテ」が化身の姿で現れ、話かけられて「ワキ」が不審に思う内に退場(中入)、後半で「シテ」はその正体を現して生前のことを語り、消えてゆくパターン。現在能は夢幻能のように話が過去へタイムスリップせず、現実の時間通りに劇が進行するもの。

 ④舞;能は「舞う」といい、役者の「」が最大の見所となる。舞は踊りを主とする「舞事」と演技的要素の強い「働事」に大別される。いずれにせよ役者の動きには一定の型(300近くあるという)があり、その組み合わせで舞は構成されている。たとえば「構え」とは軽く膝を曲げ、上体をやや前傾させた立ち姿の型のことで、この姿勢からすべての動きが始まる。またこの「構え」を崩さずに上体を揺らさず、すり足で移動することを「運び」と言い、最も基本的な型である。型には扇を使う型が多く、広げた扇を目、口、胸に当てればそれぞれ「目がくらむ」、「煙にむせぶ」、「胸が痛む」を意味するなど、知っておかないと理解に困るものもある。

 何はともあれすべての所作はあらかじめ決められており、振り付けの決まっている踊りとよく似ている点から「舞う」と言われるのである。

 所作に誇張の多い歌舞伎と違って、きわめてスローで控えめな動きをとるのが能の最大の特色であり、所作を必要最小限に抑えることで逆に無限の広がりを表現しようとしている。まさに「         」の幽玄の世界が追求されているのである。

 ⑤作り物;舞台上の大道具のことで概して簡素かつ象徴的な形をとるため、何を表しているのかわかりにくいものも多い。たとえば「一畳台」と呼ばれる高さ約20cm、畳一枚ほどの台は貴人の座だけでなく、時には橋や鍛冶場、高所を表わすこともある。もっともこうした省略と単純化のはてに幽玄で象徴的な舞台が成り立ってきたわけなので、現代劇のようなリアルな大道具はかえって能には不向きなのであろう。

 ⑥面(おもて);(おきな)(神格化された老人)、(じょう)(老人)、鬼神(神霊)、怨霊

(幽霊)、女、男、その他に分類される。よく「能面のような無表情な顔」と言ったりするが、正確には正反対の感情のどちらともとれる「中間感情」を表現しているのであって決して「無表情」ではない。舞の型によって生ずるわずかな面の傾き(「テル」;やや仰向けにする→笑う、「クモル」;ややうつ向く→泣くetc)で本来無表情のように見えたはずの面に喜怒哀楽などの複雑微妙な表情が多彩に浮かび出る。一つの面のわずかな陰影の変化と傾きだけでこれだけ多様で奥深い感情を表現できるのは世界広しといえども日本の能面以外にはあるまい。能の美学が集約された、まさにそれ自体で鑑賞に堪えうる高度な芸術作品でもある。

 ⑦「      」;物語の「起承転結」に相当するものであるが、ただ単に物語の構成だけでなく、足の運びから囃子のリズム等、能のすべてについてまわるキーワードである。簡単にいえば初めはゆっくり荘重に、やがて徐々にテンポをあげ、最後はきびきびと終結するという基本的な展開をいう。たとえば足の運び一つとっても最初の二三歩はゆっくりと歩き、次第にスピードを上げて止まる直前までいき、最後の一歩でしっかりと止まるという具合。能でよく言われるスローな展開は序の段階に限られるのであり、クライマックスは意外なほどにスピーディーである。確かに最後まで動きは抑制されてはいるが、そのことでかえって内面の激しさが伝わるように工夫されているのである。したがって舞が終わった瞬間はあたかも一陣の激しいつむじ風が通り過ぎていったかのような感慨を覚える。嵐の過ぎ去った後の静けさに一層、無常観が深まり、奥深くから「幽玄の美」がたち現れる…そうした展開が「序破急」という構成によって目指されているのである。

3.VTR鑑賞「能・狂言鑑賞入門」3ch 日本の伝統芸能より

 「八島(屋島)」その一「いでその頃は元暦元年」 

 ※元暦元年は1184年、ただし「吾妻鑑」によると元暦2年(1185年

 「八島」は世阿弥時代から上演されていた夢幻能。武将の死霊が登場するので「修羅能」とも分類される。シテは観世元昭あらすじ;讃岐国屋島である夜のこと、月が昇り始めた頃に一人の旅の僧(ワキ)が浦へやってきた。そこに二人の漁師が現れて僧は塩焼き小屋に泊めてもらえることになった。屋島は源平の古戦場として名高い。僧は老いた漁師(マエシテ)に源平の戦話をしてくれるよう頼んだ。すると漁師は

     )の出で立ちや奮戦振りをまるで昨日のことのように生き生きと語り始め、最後に自分こそが義経であるとほのめかして姿を消した。そこへ塩焼き小屋の持ち主(アイ)が現れ、僧がこれまでの不思議な体験を伝えると、それは義経の亡霊であろうと告げ、那須与一の話などを聞かせて去った。夜半過ぎ、僧が待ち受けていると義経の霊(アトシテ)が甲冑姿で現れ、屋島の合戦の様子を身振り手振りまじえて再現してみせるうちに夜明けとなり、忽然と消え失せてしまった。

 解説;平家物語の一節を元につくられた曲で主に屋島の戦いを義経の立場で描いている。源義経は屋島の戦い等で平氏側を追い詰め、最後は壇ノ浦で1185年、これを滅ぼすが、兄の(    )にうとまれ、1189年、非業の死を遂げた。「判官(ほうがん)びいき」と言う言葉があるように悲劇の英雄扱いされた義経はさまざまな文芸作品に繰り返し取り上げられ、能や歌舞伎等の芸能でも人気の伝説的ヒーローである。その義経が死後、(    )の世界に落ちて屋島に戻っては修羅の戦いに明け暮れるという、苦患に満ちた英雄の死後の姿を描いたのがこの「八島」なのである。武将を扱って能としては珍しく激しさが前面に出る内容ではあるが、逆にその激しさが去った後のひときわ深まる海辺の静けさに「    観」が一層色濃く漂う仕掛けになっている。

 なお今回の場面は老いた漁師が自らを義経とほのめかして消え去るところまでの前段を収録している。

 

参考文献

 ・「能楽への招待」梅若猶彦 岩波新書 2003年 

 ・「能 狂言鑑賞ガイド」羽田 昶監修 小学館フォトカルチャー 1999年

 ・「お能の見方」白洲正子・吉越立雄 新潮社とんぼの本 1993年   

 ・「こんなにも面白い古典芸能入門」博学こだわり倶楽部編 

   kawade夢文庫 2003年                            

 ・「能のわかる本」夕崎麗 金園社ハウブックス 1988年 

 

 

日本的美意識の原点;国風文化=藤原時代

  )組(  )番(         

始めに

 古代における日本文化はあらゆる点において大陸の文化、特に中国文化の圧倒的な影響を受けて成立してきた。いわゆる(    )文化=中国風文化が長らく日本を支配してきたのである。しかし平安時代の中頃、だいたい9世紀を境にして、それまで中国一辺倒だった日本の文化が次第に「日本らしさ」を強く帯びてくるようになる。中国文化の単純な物まねの域を脱し、日本風味をアレンジした、いわゆる

       )が登場してくるのである。この国風化の動きは文化の様々な側面で進行していった。

 その最も重要で代表的な例が(    )と(    )の二種類の「仮名」の成立であろう。「仮名」は漢字の「つくり」や「へん」を使ったり、草書体風に崩して書かれるうちに作られた、日本独自の(    )文字(漢字から派生したものではあるが・・・)である。それまでの日本は自分たちの文字を持たず、「漢文」で表記してきた。「和歌」の表記も万葉集などはいわゆる「万葉仮名」と呼ばれるような、漢字の読みを日本語にあてはめただけの非常に不便なもので表記してきたのである。

 しかし9世紀頃に登場した「仮名」のおかげでこれ以降は日本語を漢文のルールに制約されずに自由に表記できるようになった。この結果、中国とは微妙に異なる日本独自の美意識を文字通り「日本語」で表現し、記録することも可能となったのである。「仮名」は国文学の世界をすでにあった和歌の枠から散文の世界まで押し広げ、10世紀から11世紀にかけて「    物語」や「枕草子」といった日本の誇る古典文学を成立させる上で決定的な役割を果たした。この国風化の動きをさらに推し進めたのが894年、菅原道真の建議による(      )の廃止であった。日本がこれまで休む間も無く受容し続けてきた大陸文化がこれにより一旦、断絶することで、外来の文化はようやく「日本的」に熟成される時間を得たのである。

 日本的な美意識の台頭は御所の植木が、中国で愛でられてきた(  )を中心とするものから、9世紀になって次第に(  )中心に植え替えられていったことにもうかがえる。(    )氏を中心とする貴族が都でその「桜」のごときはかなくもあでやかな文化を花開かせた藤原時代こそ、時の移ろいに心を動かす、まさに日本的美意識の原点なのである。今回は藤原時代の優雅な貴族文化を代表する、宇治の平等院鳳凰堂をとりあげ、日本的美意識の原点とは何かを考えてみることにしよう。

1.時代背景;藤原時代の絶頂期を築き上げた(       )が亡くなって(1027年没)四半世紀がたち、ようやく藤原氏の栄華にかげりが見え始めた1052年、道長の子、頼通が宇治にあった別荘を寺にして「平等院」と名づけた。

 1052年は(    )の世に突入する最初の年にあたる。当時、現世に悲観的な末法思想が大流行し、多くの人々が現世をあきらめて来世で極楽往生を遂げようとする(     )信仰にはしっていた。西方極楽浄土を支配する(     )如来をまつり、「南無阿弥陀仏」と唱える(    )を繰り返すこの信仰は、とりわけ現実逃避的で脆弱になっていた貴族の心をとらえ、頼通も深く帰依してこの年にわざわざ別荘を寺に造り替えたのである。しかも彼自身、父道長の没年(62歳)に達していた。自らの老いと末法の世の双方に直面していたのである。

 おりしもこの年は末法の世の初年度にふさわしく、(     )の役が陸奥国で発生。貴族たちが都で優雅な生活に浸り、浄土信仰に現を抜かしているうちに、政治の乱れた地方では戦乱の世が始まろうとしていた。その戦乱の巷からやがて貴族に取って代わる(    )達が台頭してくる。中世がすぐそこまで訪れてきているのだ。この絶妙なタイミングをとらえて、無常な時の流れに「もののあわれ」を感じ取る日本の美意識と現世のはかなさを説く浄土教の教えとが溶け合い、華麗で繊細な芸術が満開の桜のごとく花開いたのである。

2.(    )院鳳凰堂;1053年、完成。「極楽いぶかしくば宇治の御寺をうやまえ」とうたわれたごとく、現世に極楽浄土を再現したかのような豪華絢爛で優美な阿弥陀堂建築。母屋は方形でその両側から翼廊が、後方からは尾廊が伸び、あたかも鳳凰が翼を広げたように見え、かつ母屋の棟の両端には銅製の鳳凰が飾られているため、後に「鳳凰堂」と呼ばれることになった。貴族の邸宅の様式であった

     )と似通い、阿弥陀堂の前には蓮池を中心とするいわゆる浄土庭園が広がっていて自然との一体感をかもし出す、開放的な構造(日本建築の特色の一つ)となっている。

 また建物の随所に見られる実用性を無視し、美的効果のみをねらったかのような装飾性も日本的美意識の表れであろう。

3.(     )如来坐像;鳳凰堂本尊で仏師(    )作。丈六の坐像(像高約2m半)でそれまでの神秘的で近寄りがたい仏像の作風(弘仁・貞観時代の仏像の特色)とは異なり、彫りが浅く、均整のとれた温和な作風。いかにも人々の救済にあたる仏にふさわしい、柔和な容貌。まさに貴族好みの仏像で、定朝の作風は一世を風靡し、後の時代の模範ともなった(=定朝様式)。また全体的に落ち着き、調和のとれた優美な造形は日本的美意識の反映したものとされ、「和様」彫刻の完成品としても知られる。

外国人に人気の観光名所

 

 今回も20年近く前に作成した授業プリントのご紹介。データが古いですが悪しからず。また空欄はご自分で埋めてください。

 

・日本らしさの文化史より

  )組(  )番(         

§1.外国人は日本のどこに興味を持つか?

 まずは以下の空欄に適語を埋めていきましょう。

1.ハーバード大学大学院生の注目点

 2016年3月にハーバード大学大学院ケネディスクールの学生48人(米国、フランス、ロシア、リトアニア、ガーナ、スーダン、ブラジル、チリなど計20カ国出身、年齢は20代から50代まで)が訪日した。実はハーバード大学での日本の印象、存在感は薄れつつある一方で、(   )や(    )の急速な台頭ぶりが同大の学生数にも表れている。ハーバード大学全体の学生数は日本人が88人なのに対して中国は

    )人、韓国は(    )人、インドは(    )人、ASEAN諸国全体で254人という。

 今回の訪日の動機を学生に尋ねると「   と復興」「       化」「最先端の       技術」「    と日本酒」「    の古い町並み」「迷路のような東京の     」などといった幅広い回答が得られた。実際に日本を訪れた学生たちが食いついた疑問点は「なぜ日本人は    を使う機会が少ないのか?」「日本はなぜ高齢化の対策として    を受け入れないのか?」「なぜ日本人は全員が    を守れるのか?」等。特に訪日して最初に驚くのが朝の東京駅での通勤、通学風景だったという。日本人からすると見飽きた毎朝の通勤風景が彼らにとっては新鮮そのもの。「ここまで多くの人が    正しく整然と歩く姿を、今まで見たことが無い!」特にメキシコ人には驚きでiPhoneを取り出し、その光景を何枚もカメラに収めたという。中には「渋谷駅前の        交差点で青信号の際に一斉に歩行者が動く様をこの目で見てみたい」という願望を持って訪日した学生までいたらしい。

 

 数多くの学生が支持した日本の特色は「      の質の高さ」だった。企業訪問で訪れたJR東日本テクノハートTESSEI(この企業を紹介したハーバード大学の授業は有名)では新幹線の停車時間7分間で全車両の清掃と点検をこなす職人技に感嘆。飲食店では(    )無用で「      」等の気の利いたサービスが施される。日本社会全体に行き渡っているきめ細やかな「       」に多くの外国人は感動するのである(東京オリンピック誘致の際のIOC総会での「おもてなしスピーチ」は絶大な効果)。ただし(    )系の学生からは「質の高さを求める代わりに日本人は何か大切なものを犠牲にしている」「あまり細かいことを心配しないで。もっと肩の力を抜いて、どうにかなるよ」と日本人がアドバイスされることもあったという。

 何を犠牲にしている?                       

 

 日本の「おもてなし」が海外で高く評価されていることはご存じでしょう。しかしそれが「過労死」やブラック企業を生み出す土壌ともなっている可能性についてしっかりと考えておくべきなのです。

2.外国人に人気の観光名所トップ10(2016年度)

10位:(     )寺・・・京都東山にある舞台造りで有名な寺。東山は京都観

 光のメッカだが、その終点に位置する。

9位:アキバフクロウ・・・東京にあるフクロウばかり飼っているコーナーが今、ブ

 ーム:フクロウに癒される、ユニークな体験ができると好評。

8位:(     )寺・・・京都北山にある寺。(    )幕府三代将軍足利義

 満が創建。ゴージャスな建物と池泉回遊式庭園が見事に調和。

7位:(     )公園・・・有名な寺社の中でたくさんの鹿に出会える。

6位:(     )御苑・・・大都会の中の静けさ。観光スポットの多い東京には

 多くの外国人が殺到するが、ここは別格。

5位:(       )剣舞シアター・・・日本の古典的なイメージ「フジ

 ヤマ、        、サムライ、       」は外国人の間では相変わら

 ず健在。

4位:(     )寺・・・奈良公園の一角にあり、巨大な大仏に驚く。

3位:安芸の(    )・・・広島にある世界遺産の一つで、神社特有の厳かな風

 情に魅かれる。(     )とも呼ばれる。(     )らが納めた豪華絢爛

 なお経は「平家納経」と呼ばれ、平安時代末期の美術工芸品として名高い。海の中

 に建てられた朱色の鳥居がここのシンボルとなっている。

2位:(    )平和祈念資料館・・・(          )として有名

 な(    )ドームを擁し、2016年夏に(     )前大統領が史上初めてア 

 メリカ大統領として訪れた。その際、彼は被爆者をハグしただけでなく自分で作っ

 た(      )を広島にプレゼントして話題に。実は外国人が日本人からプレ

 ゼントされて最も喜ぶ土産としてトップ10に入るのが折り鶴などの折り紙製品。

1位:(       )神社・・・京都の神社で特に朱色の(    )が山上ま

 で連なる光景は幻想的でさえある。ちなみに稲荷とは「稲なり」、すなわち稲を実

 らせる穀霊を祀った神社ということ。江戸時代最も信仰を集めた神社で系列の神社

 数は全国で一万を超える。この山には昔から落雷が多く、古来、神聖な山と仰がれ

 てきた。雷は「     」であり、雷の落ちる場所に神霊は宿るという考えに加

 え、雷=(    )であり、稲妻はズバリ稲を実らすものという意味。コメ作り

 を基本とした江戸時代の農政もあって※2017年のデータでは新たに9位に箱根彫刻 

 の森美術館、10位に高野山奥の院が入り、奈良公園が11位。

 ※2017年のデータでは新たに9位に箱根彫刻の森美術館、10位に高野山奥の院が入り、奈良公園が11

  位、サムライ剣舞シアターが15位となっている。

 

 なおかつては外国人観光客の伸び悩みに直面していた日本でしたが、特に中国からの「爆買い」を目的とした観光客の激増によってここ数年は驚異的な増え方を続けています。1964年にはわずか35万人だった訪日観光客数は1994年には346万人、2004年には613万人、2014年には1341万人。それまでは隣国の韓国やアメリカからの観光客が多かったのですが、2015年度からは中国人が最も多くなっています。そして2016年度は中国人観光客の急増によって何と(     )万人台に達しました。ようやく日本は観光面でも世界の上位をうかがうところまできています。しかし観光大国と言われるフランスは年間8千万人以上、2位のアメリカが7500万人近くを受け入れており、その格差はまだまだ大きいと言えましょう。

 

 同じような内容のものをあと二つ、見てみましょう。

3.「お客は二の次」の(      )から日本が学ぶべきこと

 国末則子(フリーライター)

 日本は何から何まで(      )の行き届いている国として外国からは高く評価されている。特に中国人観光客は日本人の(        )と心のこもった

        」に感動するという。日本人からすれば自明すぎるほどの各種サービスなのだが、外国人から見るとかなり(     )なレベルのようだ。特に

     )系外国人観光客は日本のサービスの徹底ぶりに驚嘆し、絶賛することも多いという。

 しかしまったく別の観点から日本のサービスを(    )であり、行き過ぎであると批判的に捉える外国も少なからず存在する。フランス、イタリア、スペイン、中南米諸国の人々。すなわち(     )系の人々である。ここではフランスの事例を取り上げ、日本が無自覚に自慢してきた「おもてなし」文化をやや冷ややかな目で客観視してみよう。

 フランスでは「お客様は    である」という価値観は存在しない。このため日本人がフランスに行くと随所で不便を感じてしまう。しかしその一方でお客よりも

     )を優先する価値観が共有されている。働く人の権利が十分、守られているのである。実際、働きやすさが手伝って(     )は日本よりも7.5%多い82.7%である(2015 OECD)。日本の(    )問題を考える際、フランスの働き方や価値観は大いに参考になるだろう。

①   パリの地下鉄(メトロ)

 まず(     )で駅員を見かけることが滅多にない。「まもなく電車が参ります・・・」の(       )もなく、(       )も鳴らない。いきなりドアが閉まって発車してしまう。駅名を示すパネルには前の駅や次の駅名はなく、そこの駅名しか表示していない。車内でも(      )を知らせるアナウンスがながれることはほとんどない。路線バスの時刻表もかなり手抜きで、「何時から何時までは~分間隔」とのみ記されていて当然、次の停留所のアナウンスもほとんどない。

②   (    )が働くフランスのスーパー

 スーパーのレジでは客がベルトコンベアーの上に購入する商品をカゴから出して置いていく。すべての商品を並べたら「次の客」と記された仕切りを台に置き、素早くレジに隣接した袋詰めのスペースに移動してスキャンの終わった商品を持参の袋などに詰める。レジ係は品物をスキャンして袋詰めのスペースに置いていくだけ。もちろんほとんどのスーパーは他の店と同様、(  )曜日がお休みである。また開店が10時であってもお客が現れるまではどの店も開店しないのが普通。また商品の品揃えに変化は乏しく、「     」や「季節限定品」などと銘打ったものはほとんど見当たらない。お客の立場からはフランスは不便であるが(     )にとってはとても居心地の良いシステムなのである。

 15歳~34歳の若者の死因のトップが(    )であるのは日本ぐらいなものであり、若者の(        )に至っては日本がダントツの1位である。そんなことを考えると一見いい加減で怠け者に見えるラテン系の人々だが、飛び抜けて

        )そうな暮らしぶりは今の日本の若者から見たらうらやましく思えてこないだろうか?

 フランスのサービスに対する姿勢を日本は学ぶべきかもしれません。日本の「おもてなし」文化をそろそろ批判的に捉え直すべき時でしょう。

4.似ているようで違う日本とドイツ ―来日したドイツ人が驚く日本―

1.どのレストランもおいしい

 ドイツ人は特別な場合を除き、食事に対しては「必要な栄養素を摂る」という感覚でそれほどのこだわりはない。日本は和食のみならず世界のあらゆる食事をとることができ、しかもすべてハイレベル。(       )の星の数が世界で最も多い都市が東京であるように、日本人の食事に対するこだわりは(      )の良さも加わって世界でもトップレベルにある。

2.「      」負けを気にしない

 日本ではグループで飲食する場合、全体の会計を頭数で割り、全員が同額を払うことが何の疑問も持たれずに行われている。しかしドイツでは人によって飲食の量や質に差が出ているにもかかわらず、均等割で支払う・・・ということに抵抗感が強い。

3.自然の豊かさ

 ドイツの自然は日本と比べて単調で海岸線も短い。しかも日本へのイメージはハイテク(     )社会の側面が強いため、実際に日本に訪れたドイツ人は日本の自然の豊かさ、多様性に驚く。

4.お(    )まで親切

 ドイツではサービスを与える側と受け取る側を(    )の関係と見なすため、「お客様を敬う」という発想は無い。レストランなどではチップ(サービス料)が当たり前であり、「サービスは有料」というのが基本的スタンス。特にドイツではお役所を杓子定規の官僚主義の塊とみなして毛嫌いしている。

5.(     )が信用できる

 生真面目で時間通りに動く印象がドイツにはあるが、鉄道に関しては遅れが出るのが普通。このためドイツ人は鉄道を悪口の対象にすることが多い。

6.街がきれい

 意外にもドイツでは観光地や田舎町を除くと(    )の場所は汚く、たばこの吸い殻が散らかっていたり、落書きが目立つ。ドイツ人の多くは確かにきれい好きだが、それはあくまで(    )の住居に限られたものである。

7.(    )のファッションが全く違う

 (     )を重んじるドイツでは女性も(        )でスカートよりもジーンズやスキニーパンツが目立ち、色合いは黒やグレーなどの地味なものが多い。クツはスニーカーやヒールの無いブーツ。日本の女性の方がはるかにカラフルな色使いでエレガント。メイクにも余念が無い。

 

 日本とよく似ているといわれるドイツですが、けっこう違いがあるのです。欧米と比較しますと日本の特殊性がくっきりと浮かび上がってくるでしょう。

 いかがでしたか?異国の視点から日本を眺めてみると、自分たちを相対化出来るはずです。もちろん他者の視点で自分という人間を眺める訓練も必要なのです。自分や自分たちを客観視できることは重要な成熟の条件ですから、こうしたデータを時々、気にしてみましょう。

 

日本美術の特色について

  )組(  )番(         

始めに

 日本人であっても日本の美術の特色を要領よく挙げ連ねるのはきわめて難しいであろう。そもそも現代の日本人は学校で西洋の美術は習うくせに日本伝統の絵画を習うことはめったに無い。ダビンチやゴッホは知っていても、歌川広重や尾形光琳の名から作風まで知る人は少ないに違いない。日本の美術が西洋のものに比べて劣っているならそれも仕方が無いが、19世紀後半から20世紀初頭にかけてヨーロッパで日本美術が一大ブームを引き起こしたことを考えると、それほど卑屈になることもあるまい。世界のなかで日本の美術が占める地位は決して低くはない。ならば誇りを持って語れるはずの日本美術に対してなぜ、現代の我々はこれほどまでに冷淡なのだろう?

おそらく明治時代に政府から植えつけられた「      」論(アジアは遅れた劣悪な地域であり、日本は一刻も早くそうしたアジアから抜け出して文明の進んだ欧米の仲間入りを果たすべきであるとした       らの考え)の呪縛から基本的にはいまだに抜け出せないでいるからだろう。アジア太平洋戦争での敗戦とアメリカによる占領が日本人の欧米に対する劣等感を一層助長させてしまった。我々の先祖が残してきたものなぞ野蛮で時代遅れのものばかりだ・・・この観念に毒されてせっかく先人達が残してくれた芸術的財産を我々は十分に享受できないでいる。まさに宝の持ち腐れである。

 では本来貴重な財産たる日本美術の特色とは一体何か?ここではよく対照的に語られてきた東洋と西洋との比較から日本美術の特色を浮かび上がらせて見ようと思う。(参考文献「日本美術の見方」辻惟雄 岩波書店 1992年)

1.西洋から見た日本の美

 そもそも日本美術に初めて接した欧米人は一体どのような印象を持ったのだろう?江戸幕府が滅亡した1867年、パリで開かれた万国博覧会で初めて本格的に日本美術が紹介された時、ヨーロッパは新鮮な驚きとともにこれをもてはやした。フランスの美術評論家シェスノーは翌1868年、早速、日本の美術についてこう述べた。まず葛飾北斎などに見られる「強調」の技法(ものの特徴を的確に捉え、際立たせていく)は    )に傾く西洋の画風と異なること、さらに西洋で重視されるシンメトリーからはまったく自由で多彩な(    )的表現に見るべきものがあると。ここにすでに日本美術の特色とされる要素、(    )や(      )的法則性(遠近法、シンメトリー…)に拘束されない、    )性や装飾性などが指摘されている。

2.自然と美意識

 矢代幸雄は「日本美術の特色」(1943年)で日本美術の特性を以下の四項目に分けて論じている。

ア.(     );西洋のように自然の客観的真を写すのではなく、自然から感受さ

 れた(    )的印象を描き出す傾向。

イ.(     );合理的な写実性や遠近感を表現するよりも、装飾的効果を重視し

 て事物の大きさや立体感、色彩などを大胆に変形し、様式化・模様化する傾向。

ウ.(     );水墨画や茶道、文人画などに見られる精神主義的傾向。

エ.(     );「もののあわれ」に見られるような、情緒的、感傷的美意識の傾

 向。

 矢代は以上の特性が生じた要因の一つとして日本の自然と(    )を挙げている。まず過酷な自然との対決から文明を発達させてきた中東や欧米と異なり、比較的豊かな自然に育まれてきた日本は、自然との共存をはかり、    )的作為を排した自然さを好む傾向を発達させてきた。また風景も多彩で変化に富み、四季のうつろいそのものへの敏感な美意識(「あわれ」と「おかし」)を発達させてもきた。ただ同じ東洋といってもスケールの大きい自然をもつ中国と比べると、日本の美術が繊細可憐で情感に満ちている反面、部分にとらわれ過ぎて全体の構造をつかむ構想力や(     )の大きさに欠ける傾向があるという。

3.「飾る」美意識と「飾らない」美意識

 歌舞伎研究家の服部幸雄は日本文化の伝統には「飾る」系文化と「飾らぬ」系文化の対極的な二つの潮流があるとして、日光東照宮と(     )をそれぞれの代表例にとりあげている。「飾らぬ」美の系譜は古代の神社建築にさかのぼるが、

    )の「本来無一物」の論理などとも結びついて完成された(     )こそ「飾らぬ」美の極地であろう。

 一見、対極的な両者であるが辻惟雄はこの侘び茶の理念も、裕福な町衆ら贅沢に馴れた者のみに許される、大金を投じて実現した「やつし」=仮構された貧しさの演出、あるいは脱俗の遊戯に過ぎぬ側面があるとし、桂離宮も複雑な技巧をこらして「簡素の美」を演出した人工美の極致であり、決して単純に「飾らぬ」美とは言えぬ複雑さがあるという。むしろ飾り立てた文化に飽きた数寄者が「飾らぬ」美(「簡潔の美、省略の美、静的な美、ぎりぎりのところまで余剰物をそぎ落とし、しぼりにしぼったところに浮かび上がった時空の間を尊ぶ美」服部)をわざとらしく見えないように工夫をこらした点で、「負の飾り」であり「さらなる虚構」であると考えた。 

 「(   )すれば花」(     )とする(    )の美意識もこの「負の飾り」の系列に属すると言えよう。日本美の重要な基本の一つは、「正」から「負」までの振幅があるにせよ、その虚構的(    )性にあると考えられる。

 

参考記事

「悲しい気持ちになりました」「すごく小さくて足りない」 ポルトガル人やドイツ

   人、スペイン人が日本でショックを受けたこととは   Hint-Pot の意見 2025.1.6

 確かに電車の中ではスマホの画面に見入っている日本人を特に多く見かけるだろう。ただ車内では静かに過ごすのが日本の基本的マナーであり、ついついスマホに見入ってしまう日本人をただ単に「冷たい」と思うのもいかがなものか。コンビニの商品の小ささは「今すぐ、少しだけ」消費の需要に応えたコンビニ側のきめ細やかな対応とも見える。もちろん観光公害の問題はあるが、観光地の混雑ぶりに関して言えば日本人は混み合う場所に否定的に感情は必ずしも抱かず、むしろそこに賑やかさを感じ、列の出来る店に並んでしまいがちでもある。外国人がどう思おうと、日本人の国民性まで見直す必要はあるまい。

 授業ではこうした来日外国人の戸惑いに対してどう対応すべきなのか、意見を募り、議論してみたい。

「日本社会の美しいハーモニーを作っている」 フランス人が絶賛 日本の学校教育で

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 「訪日外国人が驚くことのひとつに、日本人がルールを守り、他者を尊重しながら社会生活を送っていること」であり、そうした日本人のあり方を支えてきたのが日本の学校教育だとする論調は根強い支持があるのだろう。ほぼ同じ指摘がこれまでも繰り返されてきた。

 確かに日本の治安はずば抜けて良いし、町はかなり清潔に保たれている。物価が安く「おもてなし文化」、礼儀正しさも健在である。電車やバスはほぼ時刻通りに到着し、公共の場での規律正しさは別格だろう。欧米からすれば異国情緒に満ちた、個性的な日本の文化は強く旅情を誘う。日本は外国人観光客からすれば大きな魅力にあふれた国であるのは間違いない。

 その一方で男女平等度の低さと女性や若者の貧困度が高く、学校ではイジメ事件とその組織的な隠蔽が繰り返され、過労死と自殺、引きこもりがはびこる日本社会の歪みも目立ってきている。外国人観光客の眼差しはどうしても日本社会の明るい側面に注がれがちとなり、その暗黒面、特に日本の学校教育の危機的状況ははおそらく視野に入りにくいのだろう。

 観光はあくまでもショービジネスと同様に日本の良さをアピールすることがメインになるのは当たり前の事である。結果的に外国人観光客からすれば学校での掃除や校則の厳しさが日本社会の規律正しさと清潔さに安直に結びついて見えてしまうのも極めて自然なことだろう。しかしだからといって日本の学校教育が今、抱えている問題がとるに足らないものであるとするわけにはいくまい。

 「他人を尊重する」社会がなぜこうもイジメを生み出すのか…ひどく矛盾してはいまいか。徒に同質性を強いて他者との協調を偏重する日本の学校が児童生徒たちの多様性や個性を十全に育てられてきたのかは極めて疑問である。観光客が目にするのはせいぜいが当たり障りのない日本の表層であり、日本社会の深層に潜む腐敗、危機に気付くチャンスは少ないに違いない。

 日本の観光を考察する際、ただの「日本万歳」のお国自慢では終わらせない視点が必要不可欠であることに生徒たちが自ら気付けるか否かが授業の成否のポイントとなるだろう。