続々「千と千尋の神隠し」より 

 

3.再び千と千尋の神隠しより 

 前回は宮沢賢治の世界をざっとご案内いたしました。今回はそれを踏まえてもう一度「千と千尋の神隠し」を深読みしていきます。場面は中盤にさしかかり、ハクが傷ついた白竜の姿で千尋の前に現れたあたりから見てまいりましょう。千尋に対して優しく接するハクの、もう一つの顔は強力な魔法の力をゼニーバから盗み出そうとする強欲なユバーバの手先としての、少し残念なハクです。

 さてハクはなぜユバーバの手先になってしまったのでしょう?それはもちろんゼニーバが言うように、ユバーバに本当の名前を奪われてアイデンティティを喪失してしまい、彼女に操られるようになってしまったからではあります。

 しかし実はハク自身が本質的に野心的な心を宿していてそこにユバーバがつけ入った…とも考えられませんか?ハクにはもともとユバーバの手先になる素質、心のスキがあったと思うのですが、いかがでしょう?

 私は授業でこの疑問に対してこう説明いたします。ハクは多くの男の子が持つ、他から抜きん出ようとする心性を体現していると。

 サル山のサルを考えてみましょう(人は猿から進化した「裸のサル」なのですから、サルを観察すれば人間の本性の一端が見えてくるはず)。オスザルはボスの地位を巡ってオス同士で激しい争いを繰り返します。これはオスの本性なのです。もちろんメスにも同様の傾向は多少見られますが、それはオスほど根深いものではないように思われます。

 男の子のハクにも同様の本性が働いているはず。他から抜きん出た存在になるために、手っ取り早く魔法を使えるようになりたい。これは多くの少年たちが密かに夢見ている大いにヤマシイ、それでいて強力な願望の一つではありませんか。「ハリーポッター」シリーズの人気を支えているのは多くの少年たちに共有されているこうしたヤマシイ願望だと私は推理しています。

 かくいう私だって実際、魔法を使えたら…と少年時、繰り返し夢想してきたのですから。しかもこのヤマシイ願望もまたハクの魅力の一つであり、宮崎駿はこの願望を決して排除してはいません。ですから「魔女の宅急便」や「ハウルの動く城」などでも魔法が主要な役割を与えられているのです。

 ハクが普通の男の子としてより強い魔法を使いたいという野心を募らせたとしても不思議ではありません。ただし魔法には必ずある種の「いかがわしさ」と「やましさ」が秘められている。だから安易に利用してはならない、まして濫用することはもってのほか。

 便利で高機能なものほど人間を堕落させてしまう恐れがあるのです。高度に発達を遂げた現在の科学技術はそのメカニズムを理解できない多くの人にとってすでに魔法そのもの。ではその科学技術の発展は本当に人類を幸福にしてきたのでしょうか?

 原爆や原発事故の悲惨さを思い出すまでもなく、科学技術の危険性はその便利さと表裏一体のものです。この主題は「ハウルの動く城」でも受け継がれていると思います。実際ハウルは戦争を避けるべく魔法を用いますが、そのために自らを傷つけていたのです。

 かつて宮崎駿は「もののけ姫」でこの疑問を鋭く私たちに問いかけました。もののけ姫に登場するエボシ御前は科学技術を駆使して差別を排し、より平等な国作りを目指す女性革命家の側面とともに裏切りをも辞せぬ非情さ、人々の自然への畏怖を馬鹿にする傲慢さを併せ持ちます。

 このため彼女はもののけ姫の憎しみを買い、物語の最終局面で「しし神様」に右腕を食いちぎられてしまいました。自然世界からの手痛い反撃を受けた彼女はこれまでの自然を軽視した傲慢な考えの修正を迫られることになるのです。

 ネット社会の産物のような妖怪「顔無し」のキャラクターもまた私たちに同じ疑問を突き付けているように思います。魔法を使えることが果たして私たちを本当に幸福にするのか、今、改めて厳しく問い直すべきでしょう。

 ゼニーバは千尋らを温かく迎え入れます。そしてみんなで一緒に時間をかけて髪を結わう紐を手作りで編みます。その際、魔法を使うことを禁じたのは、人と人との絆を象徴するその紐がとりわけ魔法を嫌うから。そこには人と人を結ぶ絆は手作りでなければならない…という宮崎駿の確固とした信念がうかがわれるのです。

 確かに誰かの魔法にかけられたために誰かを好きになってしまうというシチュエーションはおぞましくて考えたくもありませんものね。絆を魔法で作ることは絶対に厳禁です。千尋と両親との絆は魔法で作られたものではないからこそ、物語の最後の場面で千尋は魔法にかけられたブタの群れの中に両親がいないことを見抜けたとも考えられます。そして千尋が見抜けた瞬間にユバーバによって両親にかけられた魔法は完全に解かれたはずなのです。

 逆に顔無しが魔法を使って千尋との絆を作り出そうとしても千尋はそのアプローチをかたくなに拒否するのは当然です。だからこそ顔無しはゼニーバのもとで当分の間、魔法を使わない禁欲生活を余儀なくされるに違いないのです。彼が立ち直る方法はそれしかない。これがゼニーバの賢明な判断でした。

 ネット社会の匿名性の中で一方的に快楽を手に入れる生活スタイルから抜け出すには、ネットから離れてみる必要があるのです。幸せは素顔と素顔の見える、肌と肌の触れ合える関係の中でシェアする、そして絆はそうした手作りの関係性の中でしか形成できない…この大原則を決して踏み外してはなりません。

 ゼニーバ(銭婆?)が登場したのでゼニーバに関する質問をしましょう。「ゼニーバ」と「ユバーバ」(湯婆?)は双子の魔女でゼニーバが姉になります。彼女は妹のユバーバと違って沼の底でひっそりとつつましい生活を送っています。

 一方、ユバーバの支配する油屋という場所は賑やかで欲望渦巻く俗世間を表しているかのよう。

 ならばゼニーバの住む土地が「沼の底」というのは解せません。もっと聖なる土地にふさわしい名であったほうが良いと思いますが、いかがでしょう。なぜ宮崎駿はゼニーバのいる場所を「沼の底」という陰湿な地名にしたのでしょう?

 またゼニーバという名も解せません。「銭婆」なら強欲なユバーバの方が相応しいはず。しかも双子なのに真反対の性格になるなんて不自然ですよね?これはどうみても宮崎駿の露骨なまでの作為が感じられる設定なのです。その作為とは何でしょう?

 「千と千尋の神隠し」は三つの柱から構成されていると私は今のところ考えています。一つは「自立」というテーマ。これは経済的な自立につながる就職と精神的な自立につながる恋愛とに分けて既に触れました。二つ目は「絆」。これもすでに触れましたが、もう一度要点を振り返っておきましょう。

 幸せはまず自分の感覚で捉えるものです。しかし手と手をつなぎ、目と目を見つめあうことで幸せの感覚はシェアできます。絆は幸せをシェアする手作りの精神から生まれてくるもの。そしてその人の生涯にわたる大切なセーフティネットを構成していきます。

 「孤独死」がささやかれる現在、絆を作り、保つことの意義は大きいのです。そして絆は四次元的にも捉えることが必要です。親世代はいずれ死滅します。横の絆、夫婦関係や友人関係もやがては櫛の歯が抜けるように一つまた一つと絆は断たれていくでしょう。最後に残るのは多くの場合、次世代との絆になります。

 やはり自分のすぐ近くに子供や孫がいる場合、高齢者の幸せ度は比較的高いといいます。もちろん老親の介護に疲れた子供が親を殺害する悲劇が後を絶ちませんが、これはもっぱら政治の問題。福祉が充実すれば解決できるはず。

 でも心の絆は政治だけでは十分な保障ができないでしょう。幸せをシェアする精神を大勢で共有していくコミュニティ作りがどうしても必要であり、宮崎駿もこれはかねがね強調してきたことです。

 実際、「もののけ姫」では野心的なエボシ御前がこの心豊かなコミュニティ作りに必死で取り組んでいたのです。エボシコミュニティではエボシは女性たちから圧倒的な支持を受けていました。また当時最も差別されていたライ病患者たちもエボシに深く感謝していたのです。

 三つめは何でしょう?これも宮崎駿のアニメにほぼ一貫してみられる大原則。私は「多様性を尊重する」という価値観だと捉えております。千尋は大人から見ればかなりウザイ、キモイ存在のはずの顔無しを決して見捨てません。ブラック企業の社長のようなユバーバにも「どうもありがとうございました」とお礼を言って別れを告げます。決して絆を自ら断とうとしてはしていないのです。

 引っ越しによる転校と神隠しによって一旦、すべての絆が断たれてしまったような千尋にとってたとえ誰であろうと一たび結ばれた絆はおそらく「命綱」に等しかったのでしょう。けれども千尋はもともと友達想いの子だったに違いありません(だからなおさら転校が千尋の心を憂鬱にさせていたと思われます)。

 絆が千尋を支え、絆の中でたくましく成長し、そして絆の力で千尋は現実世界に戻れました。人を差別し、軽蔑する言動は絆の力を弱め、絆を自ら断ってしまうことにつながりかねません。ですから千尋はただの一度もそんな言動をとっていないのです。

 子供の純真な心は優劣を論じて人を軽蔑し、差別する言動を嫌います。この子供の持つ純真さを保ちつつ、千尋は成熟への道を堂々とたどっているのでしょう。

 最後の場面で髪を結わいた紐がキラリと光りました。つまり彼女は「あやかし」たちとの絆は保ちつつ、現実世界に帰還したのです。この絆はけっしてハクだけとの絆ではないはず。顔無しやユバーバをも含めた「不思議の国」全体と現実世界とをつなぐ絆でもあるはずなのです。

 ゼニーバという卑しい名前、沼の底という陰湿な名前を敢えて静謐な、正義の側につけることで宮崎駿はゼニーバの世界を決して押し付けず、美化したり絶対化することを巧妙に避けているように思えます。またゼニーバの世界はあまりにも孤独で寂しい世界。少し近寄りがたい世界にも見えます。

 この世界はかなりズレるところもありますが、宮沢賢治が「告別」で生徒たちに告げた冒頭の言葉を思い出させます。

 

  云わなかったが

  おれは四月はもう学校には居ないのだ

  恐らく暗くけわしいみちをあるくだろう

 

 やはりゼニーバの世界は「暗くけわしいみち」の先にあるように思えます。列車に乗るための切符すら滅多には手に入らない…一体、どれだけの人がゼニーバの世界にアクセスできるのか?あの人気のない寂しさの漂う世界はまさに冥界に近い彼岸の世界であり、悟りの境地に近い気配を感じます。ポピュラーな世界ではないのです。だからこそ宮崎駿はこの世界が理想化されるのを避けるために、敢えて陰湿な名をつけたのではないでしょうか?

 逆に強欲なユバーバの支配する世俗の脂っこい油屋はむしろ人間臭く、活気に満ちた楽しそうな側面がきっちりと描かれています。人間らしい、懐かしささえ漂う世界。実際、そこは八百万の神々が集いけがれをはらうお湯屋。そしてけがれをはらった神々が宴を催して元気を取り戻す、実は沼の底よりも神聖な場所、と言ったら言い過ぎでしょうか。

 この作品、決して世俗の世界を否定しているわけではありません。

 強固な絆を作り、多くの人とつながるためにはこうした「多様性を尊重する」姿勢こそ必要不可欠なのです。たとえ敵対するように見えていても異質な他者を排除せず、必死に共存を試みる。これはどうやら「もののけ姫」において、一見野蛮に見えるもののけ姫も否定せず、文明の先端を行くようなエボシ御前も否定しない、自然と文明との共存共栄を目指す、あのアシタカの立場と似通っているでしょう。

 残念ながら世界は今、強い不信感の中で対立を深めつつあります。キリスト教世界vs.イスラム教世界、中国・北朝鮮vs.韓国・日本・アメリカ。とりわけ残念なのは肝心な指導者層がウケを狙って対立をあおるような、不信と憎しみを隠さぬ物言いを続けていることでしょう。とくにトランプの存在は世界中を不安定にしていくに違いありません。日本もアメリカに追従し続ける限り、北朝鮮の有力な仮想敵国なのです。いつミサイルが突っ込んでくるのか、不安は当分ぬぐい去れません。

 唯一絶対の神をのみ拝み、神の教えに逆らうものは決して許容しない。キリスト教やユダヤ教、イスラム教といった一神教世界における異教徒に対するこうした不寛容な教えもまた戦争の火種を播いてきたように思えます。愛や平和を説くこれらの宗教こそが残酷な宗教戦争を繰り返してきた張本人ではないでしょうか?

 これに対して仏教や神道は多神教であり、多くの日本人は唯一絶対の基準で人を裁くような神を奉じてきませんでした。神道にはこれといった教典が存在せず、確かにいい加減と言えばいい加減、原始的といえば原始的です。人間臭さを残した八百万の神様たちがひしめくその世界はまさに油屋のような猥雑な趣さえあります。

 しかし多神教の包容力を甘く見てはいけないのです。実際、日本は宗教対立による大規模な宗教戦争を過去まったく経験したことがありません。加えて多神教だからこそ日本は大した抵抗感もなく海外から様々なものを次々と受容してこられたのではないでしょうか?

 油屋の猥雑な世界が持つ許容力、包容力の魅力にもぜひ注目しましょう。そこは強欲なユバーバが支配するただのブラック企業ではありません。でなければ千尋はこの油屋の世界でたった一人の人間としてみんなからいじめられ、働くことさえ不可能だったでしょうから。

 最後に坊とユバーバの関係について考察してみます。坊はユバーバの最愛の息子(?)なのですが、どうやらユバーバの過保護によって成長が止まっているようです。外出を許さずにひたすら自室に閉じ込めたまま偏愛し続ければ人はどうなるのでしょう?しかも坊をユバーバは魔法を使って世話しています。明らかに手抜きの育児でしょう。おそらくこのまま時間が経てば坊は顔無しと同様、自分の欲望を満足させるためだけに魔法を使う、厄介な妖怪と化していたかもしれません。

 世話は確かに育児の一つですが、世話だけで子供は育つのでしょうか?当然、社会性を身に付けるには世話に加えて何らかの訓練や経験の積み重ねが必要です。危険を伴いますが、それは親としても覚悟のうえです。

 「かわいい子ほど旅をさせよ」というではありませんか?もしも千尋と出会わなければ全くの甘えん坊として坊はいつまでも自立できないまま、しかも赤ん坊の姿のまま終生、生きていくところだったのかもしれません。それではまさに「永遠の引きこもり」になってしまいます。しかし幸いにも千尋に出会い、坊はユバーバの手を借りずに危険を伴う冒険の旅に出ます。

 坊はやがて自らの足で立って歩く喜びを知り、千尋の肩にとまることを拒否するほどに自己主張できるようになったのです。坊と顔無しとは孤独であるか否かを除くとけっこう近しい存在に思えてなりません。教育の問題に引き寄せて考えると無難路線ばかりをたどり、危険を回避することばかりにあくせくしている今の教育行政の在り方に不安を感じてしまうのは決して私だけではないでしょう。

 この続きは次回ということにしてここで失礼いたします。ではまた。

 

「千と千尋の神隠し」を深読みしてみる その3

1.映画「おくりびと」(2008)の意味すること

 倫理で「千と千尋の神隠し」に関する試験を受けて頂く前に必ず映画「おくりびと」を鑑賞することになっています。問題を解いていく上で欠かせないヒントが一杯詰め込まれた日本映画の傑作だからです。音楽もこれは偶然かもしれませんがジブリ作品を数多く手がけた久石譲が担当。

 あらすじを簡単に紹介いたします。

 主人公は東京のオーケストラ団員でチェロ奏者の小林大悟(本木雅弘)。結婚しているが子はいない(年齢は30歳前後?)。彼は苦労の末に就職した楽団で頑張るため、1800万円もの大金をはたいてチェロを購入したばかり。ところが楽団が瞬く間に解散となり、大悟は失業者になってしまう。

 お金が無い小林夫婦はチェロを売却した後、大悟の実家がある山形に移住を決意。大悟の父親は彼が6歳の時に愛人と友に家を出てしまい、現在、行方不明。母親は大悟が出国中の2年前に亡くなっていた。空き屋となっていた実家に引っ越してきた大悟は早速、就職先を探すが、新聞の折り込み広告のキャッチフレーズに目がとまる。好待遇で正社員、業務は「旅のお手伝いをする・・・」、しかも未経験者大歓迎・・・旅行代理店と勘違いした大悟は早速受験してみることに。

 社長面接もおざなりのまま採用された大悟はそこがお葬式を請け負う会社であることを知り、一瞬、ためらう。しかし月給50万円を提示され、あっけなく入社。最初は戸惑う大悟であったが次第に仕事の魅力と社長(山崎努)の人柄に惹かれ、納棺という仕事への思いが深まっていく。ところが妻(広末涼子)や幼なじみの友人(杉本哲太)らは納棺師への根深い差別感(葬祭にかかわる人々は「けがれている」という観念)から大悟を避けるようになる。妻が自分の実家に戻ってしまったことに加え、仕事中にも差別的な言動を受けて大悟は仕事への意欲を失いかけるが、かろうじて社長の説得を受けギリギリのところでふみとどまる。

 やがて銭湯を一人で切り盛りしていた幼なじみの友人の母親(吉行和子)が亡くなる。駆けつけた妻と友人の前で大悟は納棺師としての仕事を見事に成し遂げ、二人とも納棺の仕事の意義に気づいていく。これを機に大悟の一旦壊れかかった人間関係は次第に修復されていったが、一つだけ修復できない関係があった。6歳の時に自分や母親を捨てて家を出て行った父親を大悟はどうしても許せずにいたのである。

 しばらくして父親の訃報が大悟のもとへ届く。大悟は父親の遺体に直面することを避けようとするが、周囲のすすめでしぶしぶ遺体の引き取りに向かう。父親の遺体を事務的に扱おうとする業者に腹を立てた大悟は自分の手で納棺を行うことになる。清拭の途中で父親の手に握られていた石ころが転がり落ち、大悟は父親が自分を最後まで気にかけていたことを知る。

 

 この作品は当時、大きな反響を呼び、納棺師という聞きなれない仕事が一躍注目されるようになりました。葬式関係に携わる人々への偏見は今も根強く残っています。映画でも社長と大悟が遺族に「人の死をメシのタネにしている連中」とさげすまれる場面が出てきます。しかし納棺師は遺体を荘厳し、故人への遺族の思いを深め、故人と遺族との絆をいっそう深める貴重な役割を果たせる仕事でもあります。「ひとは誰でもいつか、おくりびと、おくられびと」と映画のキャッチコピーにもあるように社会から必要とされている仕事なのです。実際、大悟は数々の感動的な別れのシーンに関わり、納棺の仕事に一生を捧げる覚悟を固めていきます。

 いうまでもなく愛する人を失った悲しみは一時的に遺族を精神的に追い詰めていきます。遺族の心のケアを専門にしている精神科医があるテレビ番組でこんなことを言っていました。「愛する人を失った悲しみはどんなに歳月が経とうとも決してなくなるものではありません。またその悲しみは無くそうとしたり、減らそうとすることはできません。そもそも故人を忘れること自体がどだい無理なのです。ではどうしたらいいのか?悲しみを乗り越えて前に進めるようになるためにはたっぷりと時間をかけて自分の心をできるだけ広げていくしかありません。自分の心を少しでも広げられれば心の中で占める悲しみの割合は次第に小さくなっていくのです。」

 ところで「心を広くする」とは一体どういうことなのでしょう?私はそれが人間の心の理解を深めることと価値観の多様性を受け入れることとで可能となると考えています。心の在り方をつかんでいくことで自分を肯定できるようになれれば気持ちは少し楽になれます。さらに自分とは異なる価値観や視点を受け入れ、徐々に理解を深めていくことで心は少しだけでも広がるはず。深い悲しみは広い心で包んでいくしかないとすれば、かつて愛する人を失った人は多様な他者を受け入れられる素地をすでに持っていると考えられるのです。この映画の社長がそうであったように。

 この映画では千尋の髪を結わえる紐に相当するのがかつて河原で父と子がそれぞれ拾い、お互いに交換した石ころでした。愛する人との別離は必ずしも絆を失うことではありません。深い悲しみを乗り越える過程でむしろ故人との絆は強まり、残された人を支え続けるはずです。石ころはむしろ父親の死後、父親の生前以上に大悟と父親との絆を強めていく縁(よすが)になっていくに違いありません。

 人は二度死ぬといいます。一度目は肉体の死。二度目は忘れられてしまうことによる精神的な死。故人の精神的な死はいつか必ず訪れるものの、せめてそれは遺族の肉体的な死の後に訪れてほしいと願わずにはいられません。

 さて以上みてきたように「働くこととは?」、「家族の絆とは?」、「差別を乗り越えるには?」(=多様性の尊重)といったテーマが「おくりびと」でも扱われています。この映画と「千と千尋の神隠し」とがおなじような問題意識をもって制作されていることを十分に感じることが出来るでしょう。