地名・人名の由来

 

地名・人名の由来:その1 

はじめに

 大昔の人々はどんなことを考えながら様々な事柄に言葉=名前を付けたのだろう?「山」はなぜ「やま」と呼ばれたのだろう?素朴に考えても言葉の由来には不明な点が多い。「やま」や「かわ」といった太古からの大和言葉の多くはもはやその起源を知る由もないようである。しかし地名や人名のなかにはそれなりに由来を探れるものも少なからずあるらしい。地名や人名の由来を調べ始めると私たちの先祖の苦労や願いが伝わってくることも多い。今回のテーマは一見地味に見えるが、一たびその世界に足を踏み入れると病み付きになりそうなくらい、面白かったりする。地元にはどんな歴史があったのか、先祖はどんな歴史を歩んできたのだろう…。これほど歴史的推理力と想像力をかきたてられる刺激的テーマはめったにあるまい。実際、由緒ある地名、人名はその土地や先祖の歴史を偲ぶことのできる、いわば身近な文化遺産なのである。

  しかし、地名に関してはその保存が叫ばれてきたにもかかわらず、厳しい受難の時代が続いている。まず全国各地で急速に進んでいる市町村の合併により、由緒ある市町村名が次から次へと消えつつある。加えて高度成長期以降の大規模な宅地開発による新地名の増殖。そういえば最近、「・・・台」とか「・・・が丘」といった地名がやたらと目立ってきた。この周辺でも辰巳台、青葉台、光風台、国分寺台、あすみが丘、桜台、松が丘…など諸君もよく知っている地名がすぐに浮かんでこよう。これらの地名の多くは新興住宅地(ニュータウン)であり、ごく最近になって付けられた場合が多い。実は宅地開発した業者等が「台」や「丘」を地名に付けることで「                 」絶好の居住条件を印象付けようとの商魂から全国各地のニュータウンでよく似た地名が濫造されてきたのである。そしてそのかげで多くの歴史ある地名が失われてきたのである。一千万以上存在するといわれる地名だが、その一つ一つにかけがえのない歴史が隠されているに違いない。そこで今回は身近な歴史的文化遺産としての地名や人名を見直すことで、名前の持つ歴史的、今日的意味を考えてみようと思う。

1.地名・人名クイズ

 ①日本で多い人名トップテンを順に挙げてみよう。

  1位(    )2位(    )3位(    )4位(    )

  5位(    )6位(    )7位(    )8位(    )

  9位(    )10位(    ) 

※以上を十大姓と言い、これだけで全人口の一割を占める。

  なお千葉県では(    )や石川が多いのが特色。「石井」は下総国石井郷の土豪、あるいは相模国三浦家の支流の石井(神奈川県にも石井は多い)の流れか。「石川」は常陸大掾家(桓武平氏)の支流か。

②日本にはどの位の数の名字があるのだろう?         約(    )

 中国ではおよそ(    )、韓国ではわずか(    )程度しか名字は存在しない。特に韓国では「金」さんだけで何と(    )人もいる。同じ東アジアでも日本は突出して名字が多い(「    」といわれる)のである。

 ただし日本の場合、名字の数え方はとても難しい。たとえば「山崎」は「やまざき」と「やまさき」の二通りの読み方がある。読みの違いを勘定に入れるかどうか、さらには「齋藤」と「斉藤」のように字体の違いを勘定に入れるかどうか、迷うところである。勘定に入れれば名字の総数は約「30万」、入れなければ約「10万」と、かなりその数に開きが出てしまうらしい。

③天皇家の人々の名字は?                名字は(    )

④全国の郡市町村名(約3800余)で多い地名トップスリーを挙げよ。

   1位(    )2位(    )3位(    )4位山田、5位中野

   6位上野、7位大野、8位中山、9位大谷、10位本郷

⑤全国の郡市町村名に多く使われている漢字トップスリーを挙げよ。

  1位(   )2位(   )3位(   )4位「山」、5位「野」

  6位「島」、7位「東」、8位「津」、9位「上」、10位「原」

 ※地名にはどういう場所に集落が形成されていくのかが示されている場合がある。

.日本の地名・人名

(1)地名の由来

 まずは自分たちの先祖がどういう地理的条件を「居心地良し」と判断して住み着いていったかを考えてみよう。当然、人が住み着きもしないような場所では地名はまばらにしか付けられない。人が集まりやすい場所に地名は数多く、付けられることになるのである。ではどんな所に人は住み着くのだろう。

 おそらく急速に人口が増えて小国が分立し、地名も数多く付けられたであろう(    )時代を想定してみよう。当時の人が生きてゆくのに不可欠なものといえばまず「  」である。飲み水はきれいな水でなければなるまい。山奥の湧き水や清流は飲み水として最適だが、食料確保の点を考えると山奥は好ましいとはいえない。やはり後背地には山や台地があってきれいな泉が湧くとともに前面には平野が広がっていて(    )耕作に適するような土地。もちろん水稲農耕のために大量の真水を必要とするから、川や池、湖に面した場所、さらには少し下れば海に出る場所こそ理想的となる。

 後背地の山や台地からは山の幸と燃料となる薪を得て、海からは海産物を得る。田畑では各種の農産物が作られる。こうした環境であるならば餓死するおそれも相当少なくなる。というわけで海からさほど遠くない山地と平野部の境目に集落が多く作られる。後背地が山や台地であることに注目すればその村は岡本、(    )、山崎、岡崎、山下、根本、高根などとなる。その山などに生えている木に注目すれば、松本、杉本、竹本、楠本、榎本などという名前になろう(ただし「梅」の付く地名は梅の木とはほとんど無関係で「埋め」に通じ、地滑りなどで埋まった地や埋立地であることの方が多いという)。さらに泉や池、沢地、あるいは泉や池等から流れる川に注目すれば泉、小泉、小池、小沢、小川、大川、清水、池辺、川辺などの名になる。海に近ければ「  」、「浦」、「浜」などが付く地名が多くなろう。

 村が形成されると地名にもそのことが反映されて「~村」とか「~  」という地名になることがある。上記の地名に合体させて岡村、岡田、山村、山田、松村、松田、杉村、杉田、竹村、竹田、楠田、榎田、沢田、沢村、池村、池田、川村、川田、など。

 なお「村」や「田」と同様、よく地名、人名の語尾についてくる「  」は島国日本を象徴するような名前に思えるが、多くの場合、「島」は「    」からきており、「なわばり」「領分」を意味したらしい。したがって「岡島」は岡のある島を意味するよりも岡の上に立地した村や個人の領地を意味しているようである。

 さて前述したような好条件の土地は人口が急増するなかで次第に手狭となり、希少となる。やがて村人の一部は本来の村から出て周辺を開墾し、そこへ移住するようになる。開墾したのが野原であれば、野村、野田、原村、原田、野島などとなり、岡や山の中であれば岡村、岡田、岡島、山田、山中、高田、高島などとなる。石だらけの土地を苦労して田畑に作りかえれば、その労苦を記念して石村、石田、石井、岩田、石原、石野、林や森に分け入って開墾すれば、林、小林、森、森田、森村などとなる。元の村との名が紛らわしかったりすれば、新しい村はズバリ、新田、新村とすることもあったろう。逆に元の村の方を改名して本来の村、あるいは村の中心部を意味する本村、本田、中村、中田、田中、中島、古田などとする場合もありうる。

 以上のようなわけで地名、人名にはやたらと「村」や「田」、あるいは「島」のつくものが目立つことになる。こうした地名に方角(東西南北)、大中小、上下などのバリエイションを加えれば相当数の地名人名をカバーできるだろう。なお、これまでの観点は人が集まり、集落を形成する自然地理的条件に基づく地名が中心であったが、古代以降、(    )的な条件で集落が形成される場合も出てくる。橋本、大橋、八幡、山王、宮前、宮田、寺下、市川、国府台、甲府、府中、関、蘇我、総社、八日市場、吉野ヶ里、新免、堀の内、垣内、船橋、…。これらは人が大勢集まる有名な寺社の門前、主要な街道の関所や宿場、大きな橋のたもと、定期市が開かれた交通の要所、部民制の名残、国府の所在地、条里制や荘園制の名残、武家屋敷、環濠集落、船着場等、集落形成のバライエティーに富んだ経歴を示しているのである。

 ※ちなみに 地名は漢字二文字で表記されるものが圧倒的に多いが、これは奈良時代

  初頭、「     」編纂(713年命令)の際に地名を漢字二文字に改めるよう

  命令されたことが大きな要因だとされる。 

(2)由来探求の落とし穴

.漢字が当て字のケース

 地名は地形等に由来する(    )地名と人為的なものに由来する文化地名に分類されるが、漢字での表記は以下のように変えられてしまうことも多い。その結果、本来自然地名であったものがまったく自然地名とは思えない地名に変容してしまうケースも出現する。

 たとえば湿地で葭(よし=葦)が多く生えていた地に「葭田(よしだ)」ないしは「芦田(あしだ)」という地名が当初は付けられる。しかしやがて佳字が当てられ「   」と表記が変わる(場合によっては読みまでが変わる)場合。同じパターンで川が湾曲した部分や丸い池を開拓して「丸田」とか「輪田」とされた地名が「和田」に変えられ、四角い土地を「枡田」と表記したが「   」ないしは「益田」に変えられる、など…。他に有名なものとしては福島のラーメンで有名な「喜多方」は実は本来、会津からみて北方だったので「北方」と表記されていた。

 国と国との境なので「境」であったのが「酒井」…等、このパターンによる表記の変更ケースは非常に多い。また榛の木が茂る沢だったので「榛沢」であったのが、漢字を易しくして「半沢」とか、由来がわかりづらくなるような表記の変更が多々ある。

.大和古語のケース

 大和(   )に語源が求められる場合、漢字の表記があてにはならないことはよくある。「千葉」の語源が大和古語の「ツバ」であるとの説はすでに紹介したが、これ以外にも多くの地名が大和古語に由来するとの考え方があるのだ。たとえば「広島」。「ヒロ」は古語で「低い」という意味があるらしい。太田川の河口にできたデルタ地帯に毛利輝元が築城し、「広島」と命名したが、本来は「土地の低い島」という意味であったという。したがって各地にある「広岡」、「広田」という地名も「広い」という意味合いではなく、「低い」という意味で名付けられた可能性が高い。「萩」や「椿」も草花の名に由来すると思いきや、「ハグ」という、土砂崩れや河川による崩落が起こる場所を意味する古語に由来するという。

 

地名・人名の由来:その2 

(  )組(  )番(          

(3)人名の由来

.名字の歴史

 東アジア世界で最初に一般レベルまで氏名を名乗ることが普及したのは中国で、(   )の時代からだという。漢王朝は広大な地域、異民族を支配した。その支配を固め、統一的な(    )、兵制を確立する上で、(    )の作成を思いついたのである。

 戸籍の作成上、個人名だけでは同名が多過ぎて一人一人の把握が難しくなるため、一部の支配階級に限られてきた姓を名乗ることを庶民にも要求したのである。ほぼ同じ頃、(    )帝国でも、まったく同じ理由から庶民レベルまで氏名を名乗らせるようになっていった。

 日本では(    )年、中国の影響下、初めての本格的な戸籍(「庚午年籍」と呼ばれた)が造られた際、氏名を名乗ることがようやく一般化したようである。なお

豪族層は天皇から「氏姓(うじ・かばね)」を授けられて、大和政権に服属したことを示し、大和政権の権威を背景に地方の支配に臨む一方、天皇家は「氏姓」を持たずに突出した存在として周囲に君臨する体制を作り上げていた(→氏姓制度)。

 ちなみに豪族の氏の名は(   )(蘇我、葛城、春日…)ないしは職掌(物部、大伴、膳…)に基づいて付けられていたようである。

 ※氏の名と各豪族のランクなどを示す姓とは本来、区別されるべきものであったが、氏姓制度が官人

  制に移行し、位階でランクが示されるようになると混同されていった。しだいに氏の名と姓名とは

  同じものを指すようになっていったのである。

 ではそれまで姓を持たなかった庶民はどんな基準で自分の姓を名乗ることになったのだろう。まず庶民には姓を自分で選ぶ権限は無かったようである。多くの場合、何らかの(    )(「べのたみ」あるいは「ぶみん」)であった彼らはそれにちなんだ名を上から一括りで押し付けられたらしい。

 部民はそれぞれの職業別に編成されて政府や豪族に奉仕していた。職業の名を付けた服部(はとりべ←「はたおり」)、錦織部、犬飼部、海部、磯部、田部、饗部(あえべ→「   」)、渡部、山部などは現在も姓としてその名残が見られる。

 蘇我氏に仕えた部民は蘇我部(そがべ)のように、奉仕していた豪族等の名を冠した部民もいた。拉致事件で一躍有名になった曽我さんはおそらくそうした部民の子孫、ないしは蘇我部のいた村の出身である可能性があろうし、他に「曽我部」ないしは「曽我辺」という名の人も少なくない。

 「日下」や「大友」、「友部」、「佐伯」、「長谷部」なども部民制に由来する名前である。この時代に起源が求められる代表的な名前は他に「三宅」(←「屯倉」)などがある。 

 ※ちなみに「部」は後に「辺」と変えられるか、無くなることも多い。

 平安時代になると戸籍に基づく民衆支配が崩れ、庶民は再び姓を名乗らなくなる。しかし支配層は多様な名字を産み出していった。まず貴族では(    )氏が圧倒的な力を誇るようになり、平安中期には摂関政治が全盛期を迎える。

 やがて平安後期にはあまりにも繁栄した藤原氏の中で混同を避けるとともに、家格の差を明確にするためにまず分家筋がニックネームを使うようになった。朝廷で名乗るときには相変わらず「藤原」姓を名乗るが、私的には屋敷が面している(   )の名(「一条」「二条」「三条」「九条」「姉小路」「万里小路」…)等を名乗るようになったのである。

 藤原以外の古代の四大姓(源氏、平氏、橘氏)も同様で、特に武士化した地方の源氏や平氏などはかつて先祖が土着した記念の土地の名を名乗ることが一般化(源氏→「足利」「武田」、平氏→「北条」「千葉」etc)した。朝廷で名乗る際には「源…」「平…」と称したが、普段は「       の地」=「    の地」を「名字」として名乗っていたのである。それだけ地方に土着化した彼らにとっては都で「姓」によって結ばれる天皇家との関係よりも「名字」で結ばれる地元とのつながりが重要となってきたのだ。

 「名字」は「姓」と違って通称に過ぎなかったので、支配する土地が変わればすぐにその土地の名に乗り換えることもしばしばであったため、「武士の時代=中世に名字の数は激増した。歴代の幕府は戦乱時の武功にたいして新たな領地を恩賞として分け与えたから、武士の所領は時代とともに各地に分散し、庶子の独立を招いていった。そして独立した一族が次々と新たな所領の地名を名乗っていったのである。

 藤原氏の中でも地方に土着し、武士化する一族が現れた。彼らは名門藤原の出身であることにもこだわったため、土地の名に「藤」をつけた合成名を作り出した。 

 「    」は武将として名高い藤原秀郷の領地、佐野(栃木)にちなんでその子孫が名乗りだしたものという。家紋も藤原にちなんで「下がり藤」を伝えている場合もある。同様の例では他に「伊藤」(←   )、「加藤」(←   )、「武藤」(←武蔵)、「遠藤」(←    )、「近藤」(←近江)などがある。

 また役職等と「藤」を合体したのが「工藤」(←木工助)、内藤(←内舎人)、「齋藤」(←斎宮頭)などである。他に他氏とのつながりで「安藤」(←安倍氏)、「江藤」(←大江氏)なども出現した。何れも大姓で、いかに藤原氏が繁栄したかがわかろうというものだ。

 しかし名前に「藤」が付くからといって必ずしも「藤原氏」とは限らない。そもそも「佐藤」の先祖の藤原秀郷の場合、本来の姓は鳥取氏であったが、藤原の権勢にあやかるために「藤原」を名乗ったという説もある。こうした名字の「詐称」は混乱した戦国時代にはかなり見られたに違いない。源氏を名乗るあの徳川氏も吉良家の系図を拝借して源氏の末裔を「詐称」したとする説もある。庶民も朝廷の権威が低下するなかで、武士に習って勝手に名字を名乗ることが多くなったという。

 しかし江戸時代には「      」が武士の特権とされて庶民は200年以上にわたって公式の場では名字を名乗れなくなってしまった。そのため一部の庶民は名字を忘れたまま、明治時代を迎えることとなった。

 明治政府は欧米の制度に習い、近代的な税制や兵制の確立を目指して約1200年ぶりに全国的な戸籍の作成に乗り出した。その際、名字の無い庶民の場合、あまりにも同名が多くて混同が避けられぬことに政府(特に陸軍省)は気付いた。そこで1875年、「         」が出され、すべての国民が名字を名乗ることになったのである。名字をなくしてしまった人々は急遽、名字を作ることになり、所によっては様々な混乱も生じたという。

 たとえば富山県新湊市のように戸籍担当の役人が手当たりしだい目に付くものを材料にして相談に来た人々に名字を与えてしまったため、「魚」「釣」「海老」「網」「波」「米」「酢」「飴」「菓子」「屋根」「瓦」「壁」「風呂」「山」「横丁」「牛」「鹿」「菊」「草」「大工」「旅」…といった珍名が誕生してしまった例もあった。一方、庶民の方でも縁起をかついで「鶴亀」とか「とんち」をきかせて「小鳥遊」(鷹がいなければ小鳥は安心して遊べる→「たかなし」と読む)、「一口」(入り口や出口が一つしかないとそこに人が殺到してしまう→「       」と読む)などといった奇名を作り出している。

 武士の時代に激増した日本人の名字は明治に入った1870年代、さらに珍名、奇名の裾野を広げて増加(江戸時代は名字の数はおよそ1万余りだといわれる)し、今日の世界トップの座を築き上げたというわけである。

.個人名の由来

 プロ野球の投手で「松坂大輔」という豪腕投手がいた。彼が高校生のときに甲子園をわかせていた頃、「~大輔」という名の野球選手が他にも甲子園で活躍していてその名前自体が注目されたことがあった。実は彼らが生まれる頃、「荒木大輔」という選手がやはり甲子園をわかせていたのである。野球好きの父親が当時、生まれたばかりの自分の息子に、人気絶頂だった「荒木大輔」にあやかろうとしてか、好んで「大輔」という名を付けていたのであった。

 個人名はさほどの制約が無い一方で、流行に左右される要素もあった。「昭和」時代が始まったばかりの頃は男で「昭」「和夫」「昭一」「昭二」、女で「和子」「昭子」が上位を占めていた。太平洋戦争中は男で「勝」「勇」「勝利」「勲」「武」「功」などの勇ましい名前が上位を占め、女も「勝子」や「節子」のような名が増えた。

 また1970年代までは女は「子」の付く名前がトップテンのうちの半数以上を占めていた。が、最近ではほとんどランクインしていない。戦後、個性尊重の気風が広がるにつれてある意味で名前は(    )し、個性化してきたようである。今や「松坂大輔」がどんなに活躍しようと、「大輔」の名はかつてほどにははやるまい。

 古代の戸籍等から個人名は身体的な特徴から付けられたり、特定のものに宿る(    )にあやかろうとして名付けられていたことがわかる。万葉歌人で有名な山部赤人は赤ら顔の人物であったのか、それとも赤という色に備わる霊力にあやかろうとして名付けられたのか…。何はともあれ、およそ古代には「馬子」とか「入鹿」とか「貝蛸皇女(かいたこのひめみこ)」とか「糞麻呂」とかの「へんてこ」な名前が目立つ。

 しかし奈良時代以降は仏教文化や中国文化の影響が強まり、名前も漢文学の素養をうかがわせる名が登場する。「順(したごう)」「融(とおる)」「信実」「清行」「道長」「高明」「道真」…等、仏教や儒教の徳目を取り入れた名前が多くなり、中には現在でも通用するような名まで出てきた

 しかし一方で中国の影響もあってか、女性の名は伏せられることが多かった。平安時代を代表する女流歌人や作家の名前は「清少納言」「紫式部」「菅原孝標女」「小野小町」など宮中での「ニックネーム」か父親、あるいは夫の名を冠して呼ばれているに過ぎない。

 古代から女性の名は(    )信仰によって見知らぬ他人に知れてはならぬものと考えられていたからである。名前にはその人の魂が宿っており、その名を知られると魂まで相手に奪われかねない。摂関政治の時代に政争の道具と化した貴族の女性たちはとりわけ政敵に自分の本当の名を知られてはならなかったのであろう。

 武士が台頭してくる10世紀以降、武士特有の名前が登場してくる。まず所領争いに常に直面していた武士たちは兄弟の順を名前に盛り込んで家督相続などの優先順位を明確にしようとした。いわゆる「   」と呼ばれるもので長男は「太郎」、次男は「次郎」、三男は「三郎」というように名付けられるようになった。

 また地方で活躍していた武士たちは都への憧れとともに都の有力者とのつながりを誇示するために、中央の(   )の役職名(左右の衛門府、兵衛府、近衛府など)を付けることも流行した。「~左衛門」「~兵衛」「右近」「左近」などである。さらに地方役人の役職名や四等官の制(かみ・すけ・じょう・さかん)による等級も名前に加え、武家特有の名前を完成させたのである。

 ※四等官では二番目以降が多用され、「すけ」は「介」や「輔」などの字があてられた。「じょう」

  は「尉」「掾」、「さかん」は「目」があてられたが、戦国時代以降、庶民が武士を真似て名乗る

  ようになると「すけ」はもっぱら「助」、「さかん」は「作」が多くあてられた。→「田吾作」

  「太助」…

 さらに「名字」として地名を名乗り始めると出身「姓」を残すために名前に「源」「平」「藤」「  」(←「橘氏」)「清」(←「清原氏」)などを付けたりした。以上の要素を盛り込むとたとえば「源太左衛門介~」などとなる。なお名門一族の当主は代々、名前に最も重要な先祖の名の一字を踏襲することも多かった。有名な例では徳川将軍家の「  」、天皇家の「  」であり、これを通字といった。

 

地名・人名の由来:その3 

市原の地名―「市原地方史研究第18号(1994)」(市原市教育委員会)より―

以下「市原の地名」田中喜作(P.177227)から抜粋、要約。

・「市原」:(     )巻20に(    )歌として市原郡上丁刑部直千国(おさかべのあたいちくに)の作品(「蘆垣(あしがき)隈処(くまと)に立ちて我妹子(わぎもこ)が袖もしほほに泣きしぞ()はゆ」)が載せられている。(    )国の防人歌は755年に献上されており、既に奈良時代には郡名として定着していた由緒ある地名である。由来には諸説あるが、暖地性広葉樹の「(いちい)」(櫟樫のことか)の木がよく茂る土地の意か?なお市原の地名は全国に28箇所あるが、千葉を北限とする櫟樫の分布にほぼ重なるという。

※防人:総勢3000人で、毎年千人ずつ交代。三年間の兵役で主に北九州の防

備にあてられた。年に安房から33人、上総から223人、下総から270人の計526人(防人の過半数は房総から派遣)が難波までを陸路、瀬戸内を舟に乗って筑紫まで移動させられた。

・「郡本(こおりもと)」:市原郡の(    )が置かれていたから。郡本の八幡神社付近に郡衙らしき痕跡がみられるという。

 ※(    )の所在地は?:郡本に(あざ)古甲(ふるこう)」、隣接する藤井にも字「古光(ふるこう)」、門前にも字「古甲(ふるこう)」がある。「ふるこう」は「古国府」の転訛したものと考えられ、いまだ決定的な決め手には欠けるものの、村上、惣社を含めたこの一帯が有力な国府所在地候補とされている。なお菅原孝標娘が国司の任期を終えた父親らと上総国府を発って京都へ向かったのは「    日記」によると102093日のことであった。上総の地は将門の乱以降、安定を欠き、1028年には平忠常の乱が発生している。1011年頃に成立していた「    物語」に憧れていた少女(出立時13歳)も、この日記を書き始めたのは50歳を過ぎた1059年のことであったという。「あづまぢの道のはてよりもなほ奥つ方に生ひ出たるといかばかりかはあやしかりけむと…」という屈折した書き出しには多感な少女時代を過ごした上総時代への複雑な思いが表れているようだ。

・「藤井」:由来は不詳。「フジ」は「フチ」で、国府近くの水を汲み取る場所を

意味していたのかも?字「在長面」があり、これは「在庁面」からきているかもしれない。

・「能満」:「能万」とも書いたが中世以降は長らく「   」と言われていた(能

満にある「府中日吉神社」「府中釈蔵院」はその名残)。「府中」は中世における

国府の所在地をさすが、必ずしも古代の国府と場所は一致しない。なお当地の

府中は能満だけでなく、郡本、藤井、市原一帯を指していたようである。

・「山田橋」:由来は不詳。小字に「大橋」があり、山倉ダムの堰堤に近い所で

古代(    )と思われる道路跡(幅約6m、側溝も伴う。平安期)が見つ

かっている(表道遺跡)ことから、官道を渡す橋が谷に懸けられていたことを

意味するのかもしれない。

・「五所」:小弓公方足利義明がこの地に館=御所を構えた(ジョイフル・ホン

ダ辺り)からか?

・「菊間」:5世紀頃、菊麻(    )が置かれていた。「和名類聚抄」(930

年代成立)によると「ククマ」と発音していたらしい。「クク」は「ククム」の

語幹で「何かに包まれたような地形」か「水もちが悪い地形」に「間」がつい

たものか?村田川が近く、縄文(中・後期の平永遺跡)、弥生(中期の菊間遺跡)

に加え、新皇塚古墳、権現山古墳、姫宮古墳、天神山古墳などの古墳群(市内では

    古墳群に次いで大きな古墳群)が存在し、古くから栄えていたようである。

・「五井」:1590年、松平家信が三河から五井に移され、五井藩が成立した際に

初めて地名として文献に登場。もとは「武松」と称されていたというが不詳。

なお1424年に造られた円覚寺の梵鐘に「上総州御井庄」とあり、当地のことかもしれない。古語では「ゴウ」や「ヰ」は川を意味するので、川近くの土地の意か?

・「君塚」:古墳群があることから。ただし「君」の由来は不詳。

・「加茂」:全国に約60箇所、存在。京都から勧請された賀茂神社に由来。

・「惣社」:平安末期、国司が国内の神々の巡拝を簡略化するため、国府近くに

国内の主な神々を集めて祀ったのを総社(惣社)といった。戸隠神社(信州から勧請)あたりか、あるいは字「十二所」にその所在地をあてる説あり。

・「海士(あま)有木(ありき)」:「海士村」と「有木村」が合体。「海士」は「和名抄」の「海部(あま)

か?「有木」は「アラキ」で新開地の意か?

・「姉崎」:877年、姉前神、島穴神とともに正五位下を授けられる(三代実録)

という記録が初見。「アネ」は「ハニ・ハネ」(埴)の転訛か?つまり台地の海に面した先端部(=埴先)のこと(千葉では亥鼻地形)かもしれない。

・「廿五里(ついへいじ)」:「二十五里」なら千葉市内の若葉区にも二箇所存在するが、いずれも「にじゅうごり」と読む。当地は「ツキヒジ」(湿地帯を土で埋め立ててつき固めた土地→東京の築地)が転訛したものか?漢字を「廿五里」にした理由は不明であるが、藤原文夫はヒジをツク、「ツキヒジ」の連想で肘がゴリゴリするから五里×五里で廿五里となるという、語呂合わせからではないかと推察している。実際、牛久方面などで見られる「百目木(どうめき)」という地名は水が「とうとうと流れる」の「とうとう」が十×十で百になるから「百」の字をあてたようである。

・「養老川」:14世紀初頭の称名寺文書に「与宇呂保」という地名が初出。海保から中高根あたりの地名だったようで、「ヨウロ(正しくはヨホロ)」とは古語で膝の裏側、屈曲部を指す。西広まで北上してきた川がそこで急に向きを変えて西に向かう、その屈曲部が「与宇呂保」であった。そこを流れる川だから「ヨホロ川」であろう。「養老川」の名は江戸期に出現。それ以前は単に「川」かそれぞれの地域の名を冠して「五井川」「加茂川」などと呼ばれていた。

・房総三国(            )の名の由来:もともとは「総の国」と呼ばれていて一つの国であったが、上総と下総に分立。さらに718年、上総から安房が独立して三国となった。平安初期に斎部(いんべ)広成が自家の伝承を記した「古語拾遺」には斎部(忌部)氏の祖、天富命(あめのとみのみこと)が阿波の一族を率いて東国へ向かい、麻を栽培して成功した肥沃な土地が「総の国」(総とは花や実などがふさふさとたわわについて垂れ下がる様を言う)で、斎部氏の居住地には出身の阿波の名をとって安房郡と名付けたのが由来だとしている。黒潮によって強く中央と結びついていた房総の歴史から考えるとただの作り話とはいえぬ説得力を持っていよう。