118.畑木の見どころ(前編)

 左の迅速測図(歴史的農業環境システムの比較図より)で赤い印がついている地点に三山仮祭祀場跡があり、馬乗り馬頭観音の道標が祀られているが、ここに道標があるのは場所的にやや不自然。もう少し北(上)の旧露崎半四郎宅近く(右の現在の地図で左上の黄色線の道沿い)にあったのではないか。

 畑木は医王寺に14世紀の宝篋印塔が残っており、少なくとも中世には集落が形成されていたのだろう。市原では丘陵地帯と臨海の平野部が接する地域で谷津地形が多く見られる。谷津は飲み水と農業用水の確保が比較的容易であり、古くから集落が形成されやすい地形の一つである。

 集落が細長く展開する谷津を見下ろす丘陵の上には鎮守(畑木神社)や三山塚、丘陵の斜面には寺や墓地が見られるのも、谷津に形成された集落の典型的な姿である。

 

・畑木墓地(かつて妙経寺の末寺)

 

徳川義軍梶塚成志墓

表面は「友人江原素六書

  江原素六(1842~1922)は戊辰戦争時、徳川義軍府(当時、真里谷に本拠を置いて官軍に抵抗していた)第一大隊隊長であった。また江原の先祖は梶塚と同じ幡豆(はず)郡であった。江原は徳川方の為に戦い、五井戦争に先立つ市川・船橋戦争で自ら重傷を負った経緯もあり、戊辰戦争などで犠牲になった人々には極めて同情的だった。また維新後も勝海舟の庇護のもとにキリスト教徒、衆議院議員として旧幕臣の困窮を救うために奔走し、子弟の教育(麻布学園創設…)にも専心した。福沢諭吉らと同様、旧幕臣として生涯を在野で送った人物の一人である。

裏面の碑文

「一死報恩」

  梶塚成志君碑陰記  枢密院顧問官従二位勲一等男爵大鳥圭介題額

慶応三年十月、大将軍徳川慶喜公 上表辞職奉還政権 群下不暁公意所在挙兵団恢復 梶塚君成志時在撒兵隊 其長生島萬之助率隊 脱走寓上総市原郡畑木村露崎半四郎家 将有所為君亦随焉 会官軍来攻放火発砲 我防戦甚力然衆寡 不敵及潰圍遁走望陀郡 君曰人孰無死是吾死所也 乃止戦終死是役死者六人實四年閏四月七日也 

君本姓高瀬氏 通称為三郎 小字増次郎 後改岩吉 父曰勇右衛門 文政8年(1825年)6月15日生 三河幡豆郡友国村 十余歳時 江戸修文講武又善俳句為人矮而寝卓榮負気幕府士梶塚定右衛門養為嗣子娶岡本氏 挙三男二女 長曰大次郎 次曰暎太郎 倶夭季即武松君也承後女長適富山虎童小適伊藤長次郎皆亡 岡本氏賢而有淑徳守節自誓以教育子女為己任武松君既長及共過上総索君遺跡得之畑木村村有一小丘曰小山合葬五人碑石既壊而所題 五人之墓及年月日等字 猶存村民所建当時村吏大野真十郎

検死屍死者六人 近澤岩五郎負傷鼠逃斃于他村 是用別葬所謂 

五人者除君之外姓氏不詳 然是時死屍傍有帖子遺棄由 是知其二為木村清勝 

川崎善太郎 爾餘二人竟不能知其誰云 武松君恐其遺跡湮滅乃更建碑来告曰 

是先妣志也 願子記之仰予徳川遺臣也 

今讀君行状不堪俯仰今昔之感 乃為叙其梗概書於石以貼後之人

 明治41年8月 上瀚  東京  平井参 撰  稲川春 書 伊藤米年?

 

碑文(裏)の概要

「1867年に慶喜公が大政奉還をされて後、幕府方のなかで官軍に抗しようとする者たちが撒兵隊という組織を作り、梶塚君はその一員であった。が、(彼の部隊は官軍に追われて)市原の畑木村の露崎半四郎の家に逃げ込んだ。そこにも官軍が来て攻撃を受け、多勢に無勢、一部を残して多くはさらに望陀郡(本拠地真里谷がある)に向かい敗走していった。しかし梶塚君らはここに踏みとどまって6人が戦死してしまった。慶応4年(1868)閏4月7日の事である。

 梶塚君は元の苗字を高瀬といい、文政8年(1825)、三河幡豆(はず)郡友国村に生まれた。十余歳で江戸に出て文武に励み、俳句を良くした。やがて幕府に仕える梶塚定右衛門の養子となり、岡本氏の娘を娶った。三男二女を設けたが、長男と二男は早く亡くなってしまった。三男の武松君は母と共に上総の地で亡き父梶塚君の遺品を捜し出し、畑木村に梶塚君の消息を訪ねた。

 村には小さな丘があり、当時、五人の死者を葬ったという碑が建てられていたが既に壊れてしまっていた。ただ当時の村役人大野真十郎氏によると6人の死者が出たという。一人は近澤岩五郎であり、負傷し、他村で亡くなったという。残りの五人は梶塚君以外の姓名が分からなかったが、死体の傍らにあった書きつけから木村清勝、川崎善太郎の二人は判明した。残りの二人は不明のままである。

 武松君は父の遺跡が今後亡くなってしまう事を恐れ、母の意を汲んでここに石碑を建て、後世に残すこととした。」  明治41年(1908)8月

※墓地に隣接する旧家、倉持氏によれば祖母から聞いた話として曾祖母が言うには、当時、官軍が裏山

 の竹を伐って義軍の首に突き刺し、意気揚々と引きあげていったという。官軍は義軍の所持していた

 大金が目当てであったと倉持氏は語っていた。

大鳥圭介(1833~1911):播磨赤穂の医者の家に生まれ、適塾で蘭学を習う。ジョン万次郎にも英

 学の手ほどきを受ける。勝海舟と知り合い、幕府に出仕。やがて旗本となる。戊辰戦争では最後まで

 官軍に抗して函館で降伏。後、赦されて明治政府の高官となり活躍、日本の工業、教育の発展に努め

 る。日清戦争勃発時は朝鮮公使。

 

題目塔:天明6年(1786)

 

基礎(願主畑木村女中講):宝暦14年(1764)

 

・三山仮祭祀場跡

小さな古墳かもしれない。

 

馬乗馬頭観音道標:安永9年=1780  「うしく」「あねさき」

 

                      馬頭観音:嘉永2年(1849)

 

庚申塔:元禄7年=1694

 

「仙元(?)大神」祠:天保8年(1837)

本来ならば富士塚に祀られる祠であるが…なぜここに?

 

塚上に「三山祭典仮斎場」の碑(大正15年=1926)

畑木の三山塚はここからさらに細い山道を登った所にあるため、便宜上、ここを舞台にして三山講(八日講)を開いていたのかもしれない。なお医王寺にも三山供養碑があるので細長い集落だった畑木ではかつて三山講を南北に分けて行っていた時期があったと推察するが、いかがだろう。

117.八幡満徳寺と観音町の石造物

 

左側の迅速測図(歴史的農業環境システムの比較図より)でみると八幡がもっぱら港町として発展してきたことがよく分かるだろう。もちろん飯香岡八幡の門前町として、また房州往還の継立て場としても発展してきた側面はあるものの、ここが水運の拠点として古くから重要な役割を果たしてきたことは間違いない。

 

満徳寺は右側の地図ではJR内房線八幡宿駅の北側、郵便局の近くに位置する。観音町の稲毛神社は満徳寺の北北東に位置している。路傍の石造物群は稲荷神社からさらに北北東、かつての房州往還(黄色線)に面し、左の迅速測図では八幡の集落の北端に当たることが分かる。庚申塔の多くが集落の外れ、入り口付近に祀られており、ここの庚申塔もかつてはそうした立地条件に該当していたのである。

 

満徳寺(真言宗豊山派):新四国八十八か所第七十九番

 飯香岡八幡の別当寺霊応寺の塔頭(たっちゅう)首座であった。明治維新期の廃仏毀釈で霊応寺が廃寺となった後も檀家がいたため、満徳寺だけが存続。菊間若宮八幡の別当を兼任したので若宮寺とも呼ばれてきた。なお霊応寺の跡地は今、八幡宿駅となっている。

 

     不動明王像:寛文6年=1666          六地蔵石幢:延享3年=1746

 

不動明王の基礎部分に寛文6年の年号が読み取れる。市内ではこれほど大きくて古い不動明王の石仏は見当たるまい。

 

  札所塔「七十九番」:天明4年(1784)        川上南洞句碑(昭和6年

 

角柱宝塔型宝篋印塔:享保11年(1726)

表面には宝篋印塔陀羅尼経の文言の一部が刻まれている。

 「経云 況有衆人 或見塔形 或聞鐸声 或聞其名 或当其影

  罪障悉滅 所求如意 現世安穏 後生極楽」

 「経にいわく いわんや衆人ありてあるいは塔形を見、あるいは鐸声を聞き、

  あるいはその名を聞き、あるいはその影に当たらば 罪障ことごとく滅し、

  求めるところ意のごとし 現世安穏にして後に極楽に生ずと」

裏面には回向文(えこうもん)が刻まれている。江戸時代の石造物には頻繁に登場するのでこれも紹介しておく。

 「願以此功徳(がんにしくどく) 普及於一切(ふぎゅうおいっさい)

  我等與衆生(がとうよしゅじょう) 皆共成佛道(かいぐじょうぶつどう)」

 

観音町の石造物

 稲荷神社

 

石灯籠:宝暦12年(1762)

笠石の反りがまだ小さく、全体的にすっきりとしたフォルムは大抵17~18世紀のものである。

 

稲荷大明神祠:天明2年(1782)

やや縦長で奥行きが少ない18世紀中頃~後半の形態

 

 痘瘡(=疱瘡:天然痘)神祠:年代等不明

 

・観音町路傍の石造物群

 

     庚申塔:安永7年(1778)          馬頭観音:寛政9年(179

116.不入斗(いりやまづ)薬王寺(新義真言宗)の見どころ

~新四国八十八か所第四十七番~

入口右手に並べられた石仏群:かつては別の場所に祀られていたものも含む

 

    六地蔵石幢:寛永21年(1644)           庚申塔:文化8年(1811)

 

馬乗り馬頭観音:天保9年(1838)・・・剥落の恐れ大

 

      地蔵菩薩:正徳4年(1714)        廻国供養塔:享保16年(1731)

 

  札所塔「四十七番」:天明3年(1783)   石尊大権現・浅間大明神:天保13年(1842)

                        かつては近くの富士塚に祀られていたのだろう

 

 

背後の崖が崩れかけているのが心配

 

角柱宝塔型宝篋印塔:享保19年(1734)

 

光明真言塔:安永3年(1774)

 

子安地蔵:寛政6年(1794)

 

薬師堂石段塔:寛保元年(1741)

 

      水神祠:文化8年(1811)        薬師堂手水鉢:享保10年(1725)

 

如意輪観音逆修塔:寛文6年(1666)

 

4月8日薬師堂御開帳:左 薬師如来坐像(平安後期)・右 薬師堂棟札:文化14年(1817)

 

算額:寛政元年(1789)奉納 県内最古で市内唯一の算額

 

115.今津朝山鷲神社・延命寺の見どころ

迅速測図(歴史的農業環境システムの比較図より)で見ると今津の街並みがまず鷲神社の参道に沿って直線的に形成されていることが分かる。12月の酉の市では明治末年まで参道から境内まで安行(愛知県)の植木屋などがはるばるやってきて露店を構え、お正月用品を買いに近隣から客が列をなして連日押し寄せていたという。相撲興業や見世物小屋もあってその賑わいぶりは遠く江戸まで届いていたらしい。今津の集落は房総往還(右側の現在の地図では右下隅の黄色線)からかなり離れており、五井とは違って港町としての性格が当初から強かったことが分かる。またかつては海岸部に大きな塩田があり、海とのつながりの深さも見えてくるだろう。

補足資料:松ヶ島永井家所蔵品より

・相撲(角力)興業願済届:明治20年(1887)12月29日、鷲神社での相撲興業の許可は既に警察署から許可されている旨を郡役所に届け出たもの。

・麻薙氏(始関氏の中で鷲神社の宮司を務めてきた一族が明治維新期に本来の名字である麻薙氏に改姓していた)から明治19年(1886)11月7日に菓子製造販売のため新たに山形幸吉を雇う旨、郡役所に届け出た書類。なお鎌倉街道を歩く会の小関会長の調べによるとこの書類で押されている印を保三氏の子孫の方が今も保管されているとのこと。

 

 

今津の繫栄は主に五大力船や押送り船が江戸との間を行き交う水運でもたらされた。海岸線は凹凸の少ない美しい砂浜が続き、内湾のため比較的、波が穏やかであった。しかも養老川の河口部ほどには浅瀬が沖合まで伸びていないことから船が座礁する危険性も少なく、市原郡内では八幡と並んで良好な港町として江戸幕府草創期から多くの海運業者が活躍していたと思われる。北側には江戸前寿司のネタ、深川丼のネタで有名な「アオヤギ」(現在はアサリをネタとしているが、かつてはアオヤギを用いていたという)の産地である青柳村、南側にはやはり港町として栄えた姉崎が隣接し、海浜部一帯が経済的に活気のある地域であった。五大力船が係留されていた澪は現在の今津川の河口部、左の迅速測図では赤い+印辺りと思われる。ただし、このような地形のため高潮の被害は大きく、大正6年の被害は甚大であったようだ。したがって石造物を除くと鷲神社を含めて今津には残念ながら古いものがあまり残っていない。

 

鷲神社

 

 

  従軍記念碑(昭和53年)      日露戦役記念碑        凱旋記念碑(明治32年)

 始関伊平(衆議院議員)揮ごう                     樺山資紀揮ごう

 

手水鉢:文久元年(1861)

 


講頭:始関半左衛門


石灯籠:文久2年(1862)

 

文字が読みにくいので片栗粉を擦り付けて解読。

石工 江戸鎌倉河岸 三吉・由五郞 ※鎌倉河岸は千代田区内神田1・2丁目

高さ3.5メートルほどもある、立派な造り。竿柱や笠石などに曲線が目立つ江戸後期の様式。

 

拝殿の鳳凰の彫り物も悪くは無い

 

本殿脇障子の弁天様の透かし彫り:非常に贅沢な造りである

 

本殿奥の石祠群

 

琴平神社祠:文政3年(1820)

 

雨降神社(相模大山の神で石尊大権現と同じ)祠:文化13年(1816)

 

疱瘡神祠:安政4年(1857)

 

大杉大明神(あんば様)祠:安政3年(1856)

 

 

麻疹神祠:文久2年(1862)

この年の麻疹流行の様子は島崎藤村の小説「夜明け前」でも描写されている。

 

延命寺(真言宗豊山派):鷲神社と隣接

 

 大日如来(湯殿山供養塔):寛文2年(1662)      宝篋印塔:安永8年(1778)

 市内では飯沼の三山塚のものと肩を並べる優品    相輪部や隅飾りなどは個性的なデザイン

        

  馬乗り馬頭観音:寛政4年(1792)       聖観音(十九夜塔):享保3年(1718

   西上総で良く見られる馬乗りタイプ     十九夜講の主尊は普通、如意輪観音であるが…

 

庚申塔:享保3年(1718)

風化が進んでいて文字が読みにくくなっている。

 

補足資料「今津の酉の市について」(野崎馨「上総市原第3号」昭和54年)より

 今津の酉の市は近郷近在に知れ渡っており、11月の末から20日余りは大勢の人出で賑わった。今津は五大力船による運送業やバカ貝、ハマグリなどの海産物、製塩業などで江戸時代後半、経済的に繁栄し、江戸とも深いつながりを持つ港町となっていたのである。市には多くの露店が立ち並び、芝居小屋(五井の竹沢興行)までたった。正月用品の露店も多く、地元のハマグリやバカ貝は「サシレン」(天日干しされ、竹串に刺したもの)にされて露店に並べられ、好評を博していた。しかもそれらの貝殻は貝灰にして漆喰や藍染めに用いられるなど、各地で有効活用されていた。

 明治26年に鷲神社本殿の屋根を銅板葺きに葺き替えた際に寄付したのは八手網中、安行植木商(数か所に出店)、東京駿河屋久蔵などで、明治36年の鳥居は浅草の富士屋伊左衛門の寄贈によるものである。五大力船によって東京を中心に各地の商人らとの結びつきがいかに強かったか伺えよう。なお製塩業は大量の薪を必要とするため、今津には馬や荷車に載せられて君津、長生方面からも続々と薪炭が運ばれてきていた。また隣村の青柳は名産の瓦を焼く上で大量の松葉がやはり必要とされ、近郷の豊成などからも運び込まれていた。今津や青柳はこうして大消費都市江戸の玄関口となって山間部の村々にも富をもたらしてきたのである。

 しかし大勢の参詣客で賑わった今津の酉の市は明治30年代後半になると突然活気を失い始めた。芝居小屋が満員のために桟敷が倒壊し、大勢の負傷者を出してしまって営業停止になったこと、製塩業が明治44年の官業化を前に衰退してしまった事、日露戦争の影響(不況etc)を受けた事など多くのマイナス要因がこの時期、不幸にも重なってしまったのである。また明治末年、鉄道開通によって駅の置かれた五井や姉崎に経済の中心が移っていったことも市の衰退に追い打ちをかけたのだろう。

 ところで今津の始関半左衛門家は何代も続く豪商だった。五大力船を幾艘も所有し、運送業中心に活躍してきた。幕末、姉崎浦で佐久間象山の指揮のもと、大砲の試射が行われたのも始関家の協力あったからこその事である。

 その始関家に明治5年(1872)、25歳の若者が実業の世界に身を投ずるため、東京本郷からやってきた。後に一代にして財閥を築き上げた浅野総一郎(1848~1930)である。浅野は始関家に一年ほど身を寄せた。そして君津から大量の竹皮(味噌を入れる包装に使っていた)を仕入れ、始関家の五大力船で東京に輸送した。また木炭の仕入れのため豊成の間野家へも幾度か訪れていた。翌明治6年、横浜に居を移した浅野はチョンマゲを切って結婚し、石炭商に転じていくなかで政商の一人として大きな転機を迎えることになる。

浅野総一郎(1848~1930):富山県氷見の医師の子として生まれるが、長ずると周囲の反対を押し 

 切って商人の道を志す。1871年に上京し、本郷で氷水屋やおでん屋として成功。1873年、石炭の廃

 物だったコークスを燃料として活用する方法を開発し、深川の官営セメント工場に燃料としてコーク

 スを納めて巨万の富を築いていく。やがて近い将来セメントが建築資材の柱となるを見越して深川セ

 メント工場の払い下げを受け、浅野セメント(現在の太平洋セメント)の基礎を築く。真黒になって

 職人らの中で働く浅野の姿に感銘を受けた渋沢栄一の助言を受け、同郷の安田善次郎の支援も受ける

 ようになった浅野は渡欧した際の経験から1890年代後半、東京から横浜にかけての臨海工業地帯の造

 成を思いつき、日本初の臨海工業地帯の造成を手掛ける。後の京浜工業地帯である。埋め立ては難航

 し、15年の歳月を要して昭和初期に終了した。この間、第一次世界大戦の好景気もあって浅野の財力

 は飛躍的に増大し、一代にして新興財閥を築き上げていた。

  小湊鉄道設立に資金を提供した安田善次郎も富山出身、そして一代で財閥を築き上げた二人が共に

 市原と何らかの関わりを持っていたとは…浅野が築いた京浜工業地帯は戦後、湾をはさんで内房にも

 波及し、現在の京葉工業地域が形成されていったと考えると何やら感慨深いものがある。そして1960

 年代、工場地帯造成のための今津周辺の海岸埋め立てに先立って、漁業権の放棄と漁師たちへの補償

 問題の交渉にあたったのが、何と始関半左衛門一族の末裔で当時国会議員だった故始関伊平氏であっ

 た点もまた何やら因縁深いものを感じてしまう。

114.千種庚申塚及び青柳台西共同墓地の見どころ

 

千種庚申塚

 

                                                                          青面金剛尊庚申塔:文化12年(1815)

 

三猿庚申塔:延宝8年(1680)「庚申」の年

笠付き角柱塔の形態をとる庚申塔は古いものが多い。

 

     庚申塔:寛文8年(1668)            三猿庚申塔:年代等不明

       笠付き角柱塔

 

三猿部分を拡大

なかなかユーモアのある秀逸な浮彫で、名のある石工の手になるものか。海保三王山の路傍にある庚申塔を兼ねた道標明和元年=1764)にも似たような浮彫があり、そちらは瓜本権八の作品(下)。

 

 

・青柳台西共同墓地

 

供養塔上の大日如来(=湯殿山供養塔):嘉永3年(1850.)

 

大日如来下の基壇部分:寛永7年(1630) 三山塚上の石造物としては市内最古

 

三山供養塔:文政7年(1824)

 

大日如来(=湯殿山供養塔):享保6年(1721)

 

     大日如来:宝暦3年(1753)          墓石:延享5年(1748)

                        供養塚内の墓石は「行人墓」などと呼ばれる

 

「市原の海 いまむかし」(市原市歴史と文化財シリーズ第13輯 平成20年度歴史散歩資料 市原市地方史研究連絡協議会)の谷島一馬氏によるとこの塚は四隅突出型で県下唯一の形態を持ち、宝龕式三山供養塔(宝篋印塔の一部?)は県内最古であるという。この供養塔には右隅に「奉造立湯殿山大権現御宮」左隅には「于時寛永7年庚午十月 日啓言 上総国青柳村成光院」とあるが、「成光院」という寺は青柳の伝承や史料には一切登場しないらしい。

113.今津朝山能蔵院(真言宗豊山派)の見どころ

 

十九夜塔:正徳5年(1715)

正面に如意輪観音、側面に六地蔵が浮き彫りにされている。

 

基礎に近い部分に女性の名前(おみの、おたんなど)が列挙

 

角柱宝塔型宝篋印塔:享保18年(1733)

 

  札所塔(四国八十八か所「五十五番」)      西賀翁筆塚(文化14年=1817)

 

左 阿弥陀如来塔:年代判読困難…「無縁講」の文字が読める。足元には女性の名前がやはりびっしりと刻まれている。どうやら三塔とも女性中心の講(多くは月待講で市内では十九夜講や二十三夜講が確認されている)が造立したようだ。古くて立派な造りであり、今津朝山地区の豊かさが偲ばれる。

 

    阿弥陀如来塔:元禄3年(1690)      十九夜塔(如意輪観音):享保4年(1719)

 

享保4年の仏塔の下部に列挙された女性名

 

元禄3年の仏塔の下部にも女性名が列挙

 

無縫塔:正徳年間  

ただし僧侶の墓石ではなく、「奉納萬当為父母諸願成就所」とある。父母の「所願成就」のために万燈を奉納したことが記されている。万燈とはこの場合、仏前にともしびを供えて罪を懺悔する法会(ほうえ)の一つと考えられる。

 

 

補足資料:今津共同墓地近くの一画に庚申塔と石祠が祀られている。庚申講は徹夜をして日の出を待つ日待講の一種で多くの場合、男の講。年に6回のペースで庚申の日に行われ、3年続けると貯めてきた18回分の講金をつかって庚申塔を建てる風習が大流行していた。この庚申塔は笠付き角柱塔に三猿が浮き彫りにされた、古くて立派な造りである。市内の庚申塔の中でも優品に属するもの。

 

  庚申塔:寛文4年(1664)          石祠:嘉永5年(1852)

 

補足資料:本堂棟札の内容

能蔵院棟札 表面

梵字でタラーク(宝生如来か虚空蔵菩薩)

「一切日皆善 一切宿皆賢 諸仏皆威徳 羅漢皆断□ □□誠實□ 願我成吉祥」

奉再建殿堂一宇 右為 令法久住利益人天 天下泰平国土安穏

殊者助成檀越施主自他平等二世安楽供養導師法然山(=能満釈蔵院)主盛運

 文政二己卯(1819)十月朔日(一日)

 上総国市原郡今津朝山村

  能蔵院

  発願主 法印快山 法印栄岳 

  現住  法印快見

 同国同郡同村

   大工 吉三郎

 

棟札 裏面

 

112.五井守永寺(浄土宗)の見どころ

由緒

 養老年間に行基の開いた光明寺を五井城主松平(形原)家信が慶長13年(1608)に亡くなった母親(家康の母於大の方の姉にあたる)の菩提を弔うため、知恩院第三十二世霊巌大和尚に中興させ、理安寺と名を変えた。かつては字古屋布にあったと記録にある。やがて五井は天領となり、神尾五郎大夫守永の支配するところとなった。 

 1657年の「振袖火事」(明暦の大火)によって神尾の江戸屋敷も焼失したため、理安寺の本堂を江戸に移して屋敷とするようになったが、夜な夜な奇異なことが生じ、翌年に正室が亡くなると恐れをなした神尾は当時、沼地だった現在地を埋め立てて正室の菩提寺として寺を再建し、寺名を守永寺と改称した(万治元年=1658)。

 明治維新期の廃仏毀釈運動によって一時、経済的に困窮し、寺の修理もままならない時期がここでもあったようだ(下、松ヶ島永井家所蔵の明治4年の典券)。明治4年(1871)、守永寺は寺の修復費をねん出するため双盤(法具の一種で念仏などを唱える際に打ち鳴らされる)二面を担保にして松ヶ島の永井家から6円を借りている。

 

 

 大正6年(1917)9月の暴風雨(「大正の大津波」とも呼ばれ、高潮が東京湾沿岸を襲い、特に行徳、浦安などで大きな被害が生じた)で本堂、庫裡が倒壊し、翌7年に再建されたが、さらに昭和47年、五井地区の都市計画事業に伴い、現在の鉄筋コンクリート建て本堂と木造の庫裡が再建された。     

 なお神尾五郎大夫守永は五井の発展にも熱心で町並みの整備も守永寺を中心に町並みを区画したという。たしかに房総往還は波淵のところでいったん左に折れ、まっすぐになったか思うとかつての保健所前バス停のところで右に折れていた。まるで守永寺の境内を迂回するように道は造られていたのである。また神尾氏は塩田の開発を促し、12月の五井大市も彼の時に守永寺境内で始まったという(ただし50年前の記憶では大市は駅前の千光寺境内で開かれていたが)。

 境内には下の写真で示したように商人の奉納した非常に立派な造りの手水鉢「金麗水」(弘化2年=1845)が残されている。なお寺院の手水鉢の場合、このように独自の名前が付けられることがある。

 

 

 

学制頒布後、五井ではもっぱら寺院が小学校とされた。

 

一石六地蔵:延宝4年(1676)

笠付き角柱塔の浮彫によるもので市内では大型の優品に属するだろう。

 

    地蔵廻国塔:宝永6年(1709)          廻国塔:寛政5年(1793)

 

      読誦塔:年代判読困難            読誦塔:享和2年(1802)

 

阿弥陀如来:延宝5年(1677)

市内では大きさもある、古風な優品として注目される。

 

阿弥陀如来の台座に多数の名前が刻まれている。「鈴木、長嶋」は読めるが他は判読困難。しかし工夫次第では読めるかもしれない。17世紀後半の五井の住人を知る上では極めて貴重な遺産だろう。

 

高さ3mほどもある家信の母の供養塔(宝篋印塔)1697年

相輪部が肥大し装飾的になりつつ高層化していった17世紀の宝篋印塔の特色が良く表れている。

 

 

111.八幡稱念寺(浄土宗)の見どころ

※瓜本権八の墓石

 門の左側に祐天の名号塔が建てられ、右手には瓜本家の墓石が立ち並ぶ。瓜本権八は市原の石工が宮物(神社の石造物)を手掛けた最初期の名工である可能性がある人物。私の調べでは瓜本権八(三代目?)の根田神社鳥居(寛政9年:1797 ただし銘文には八幡の権八とだけあるので断定はできない)が今のところ市原の石工によるものと判明した宮物では最古になる。墓地では初代瓜本権八と思しき墓石(宝暦11年=1761)と二代目と思しき瓜本権八の墓石(明和7年=1770)を確認できた。いずれの墓石にも「石屋」と刻まれている。

 

創建:天正3年(1575年)、大巌寺第二世安誉上人開基。

  千葉市 蘇我にある大巌寺は天文22年(1553)、北小弓城主原胤栄の発願で道誉上人が開山。当時、八幡は原氏の勢力下にあり、稱念寺は無量寺とともに浄土宗の拠点とされた。原氏は豊臣勢によって1590年、北条氏とともに滅亡したが、関東に移封してきた徳川家康も引き続き大巌寺を保護した。

 本末関係では知恩院―増上寺―大巌寺―稱念寺となる。五井の守永寺(当時は理安寺)も大巌寺の末寺である。堂宇は明治26年と28年の大火でことごとく焼失。その後再建されたもの。檀家には著名な日本画家山口達がいた。福岡生まれだが東京芸大卒業後は市原中学校(現市原高校)の教員を経て千葉大の助教授となり、八幡観音町に居を構えていた。当時の住職と懇意だったため本堂に彼の作品が30点も残っている。なお八幡の公民館にも彼の作品が数点、展示されている。

 境内には中世末期のものと思われる小型五輪塔、宝篋印塔が約50基ある(下)。

 

 

祐天名号塔の側面:三界万霊塔も兼ねる。「虎角」は大巌寺二世安誉上人のこと
 

   聖観音像:明暦元年(1655)             祐天名号塔の正面    

祐天上人(1637~1718):陸奥国磐城出身で12歳の時、得度し仏道に入ったが愚昧にして経典が覚えられず。これを恥じて成田山新勝寺に籠ったところ、不動尊から剣を喉に差しこまれる霊夢を見た。以後、不動尊から智慧を授かったとして彼は本領を発揮するようになり、五代将軍綱吉らの帰依も受け、ついには増上寺第36世法主、大僧正ともなった。

 念仏の功徳による数多くのエピソードを残しているが、特に常陸の累(かさね)という女の怨霊を成仏させたことが四代鶴屋南北の脚本による歌舞伎や曲亭馬琴の読本、三遊亭円朝の怪談話(「真景累ヶ淵」)にも取り上げられ、江戸時代後期には全国的にその名が知れ渡った。

 

左 地蔵菩薩立像:明暦2年(1656)、江戸小船町念仏講衆らの寄進で造立。高さ153㎝。

右 聖観音菩薩立像:元禄5年(1692):地元の念仏講が逆修菩提の為寄進

 

角柱宝塔型宝篋印塔:享保18年(1733)

真言宗寺院以外で確認できた角柱宝塔型宝篋印塔はここと椎津の瑞安寺(浄土宗)の二か所。他にも

馬立の龍源寺(曹洞宗)にあるが、近くで廃寺となった寺から移してきたとのこと。

 

六地蔵石幢:元禄6年(1693)笠石は後補

 

阿弥陀如来像:元禄10年(1697)

 

 

110.近世五井の街並み形成史 試論

~房総往還と川岸の役割を軸に~

 

 五井の街並みが本格的に形成され始めたのは16世紀末、徳川家康の関東移封以降のことと思われる。それまでの五井は養老川の氾濫原として一面に芦原が広がる低湿地の所々に松林や竹やぶが生い茂る低い砂山や池沼が点在しているような、人家のまばらな土地に過ぎなかったようだ。実際、私の記憶でも60年ほど前まで駅周辺の町中ですら池や蓮田が点在するような土地であった。天領や譜代大名、旗本の領地としての歴史が長い五井周辺は関東でも有数の暴れ川として悪名高い養老川の洪水が相次ぎ、幕府にとってはきわめて厄介で、代官泣かせの土地だったはずである。

 ※古くは「武松」という地名もあったというが、詳細は不明。1424年に造られた鎌倉の円覚寺の梵

  鐘に「上総州御井庄」とあり、当地のことかもしれないという。古語では「ゴウ」や「ヰ」は川を

  意味するので、川近くの土地の意かも。

 

 五井にあるどの寺社を探索しても中世にさかのぼれるような古い石造物が一切、見当たらない点から見て、江戸時代後期には市原郡最大の人口を擁していた五井は集落としての歴史に限れば近世以降急速に発展を見た比較的新しい町と考えられる。もちろん、JRの線路近く、低い砂堆列上には小さな古墳(波渕~君塚間)が点在しているので線路近くに古東海道が通っていたであろう8世紀以前からそれなりの集落はあったに違いない。しかし度重なる養老川の洪水もあって中世以前の集落の痕跡はなかなか確認できていない。どうやら五井は長期にわたり集落が安定して繫栄できるような、恵まれた自然環境ではなかったと思われる。

 

 徳川家康の関東移封が行われた1590年以降、房総の地は多くの要所を徳川一門、譜代の家臣たちが支配する所となり、五井は当初、松平家信が5000石の領主として五井を支配していた。慶長6年(1601)には松平氏が移封されて五井藩は廃藩とされ、天領に組み込まれて代官の支配下にはいる。

 承応元年(1652)、五井の代官として神尾守永がやってくる。五井の街並みの土台が本格的に築かれたのはおそらくこの神尾守永の時からであろう。神尾氏は松平氏の菩提寺だった理安寺を、沼地を埋め立てて現在地に移し、万治元年(1658)、守永寺(浄土宗)と名称を改めて守永寺を町の中心とする街並みの整備に取り掛かったようだ。実際、房総往還は守永寺を迂回するようにして「枡型」が設けられている。また神尾氏は塩田開発をも進め、五井大市を開くなどして五井の経済的な発展を計画的に推進していったという。

 なお五井の歴史はたとえ近世以降でもその詳細を辿るのは決して容易ではない。肝心の龍善院が焼失したことで過去帳まで失われ、守永寺も繰り返し暴風雨などによって倒壊し、今日まで残された史料はそれほど多くない。また北五井で代々名主を務めてきた中島家は明治の「北五井の大火」でほぼ灰燼に帰してしまったため、古文書などで裏付けをとることが難しく、南五井の進藤家も火災に遭っている。したがって五井の歴史を辿る作業はわずかな状況証拠を頼りに推理を重ねていく、手探りの面が生じてしまうことは避けられない。勢い、仮設の上に仮説を積み上げる危うさがこの試論にもあることを予めご理解いただきたい。

※市原の製塩は戦国時代に本格化し、万治元年(1658)には市原郡内沿岸の村々には製塩家220戸余

 りあり、農業の合間に塩を焼いて茂原など山間の村に売りに行っていたらしい。神尾氏の塩田開発は

 川岸地区を中心としたもののようで、高澤恒子氏によると摂津の人勘兵衛が地引網と製塩業を当地に

 もたらし、その墓石(正徳元年=1711年没。子孫は君塚の細野家で屋号は今も勘兵衛。かつては川

 岸のなかでも最も海に近い八軒町に住んでいたらしい)が川岸の老戸墓地に今も残されている。

 

歴史的農業環境システムの「比較図」より

 

 上の地図を見るとまずは房総往還(右側の黄色線にほぼ該当する)の継立て場(継場ともいい、街道の宿場町と同じ役割を果たしていた集落のこと)として道沿いに細長く人家が建ち並ぶ宿場町風の街並みが町の成立当時から徐々に形成されていったことが推察できるだろう。

 さらに五井の町の急速な発展を支える上で中心的役割を果たしたのは川のみならず海の水運をもつかさどる湊新田として、かつ塩田地帯として開発された川岸(17世紀後半に成立)の存在であろう。川岸と五井とを直線的につなぐ道路(黄色い矢印)、および五大力船を五井、房総往還近くまで招き入れる新澪(青い矢印:19世紀初頭に完成)の存在が五井の発展の上で重要な役割を果たしていたことは確実である。五井は水運を通じて江戸と緊密に結ばれた川岸という物資の大動脈を擁することで18世紀以降、市原郡における海及び川の水上輸送及び房総往還を軸とする陸上輸送双方の要となり、郡内最大の町としての急速な発展を見たのである。そして川岸の新田開発を推進した中心人物もまた神尾守永であると推察できよう。実際、川岸には今も五井の守永寺や龍善院の檀家が複数、存在している。神尾氏は八幡円頓寺の檀家から水運に長けた檀家を引き抜いて川岸の水運を担わせるとともに、五井の宿場からも新田開発のためにかなりの農民を川岸に送り込んでいたのだろう。

※川岸についての詳細は本ブログの§6市原の郷土史4と5を参照。なお五井は1726年に天領から有馬

 氏の西条藩(伊勢)に取り込まれ、1781年には有馬氏が本拠を伊勢から五井に移して五井藩一万石

 を立藩し、1838年まで有馬氏の領地となる。岩崎や玉前などの新田開発を進めて養老川河口周辺の

 生産力を高め、さらに新澪を完成させて川岸に富貴稲荷神社の豪華な社殿を造営し、五井と川岸との

 連携をいっそう盤石なものとしたのは有馬氏の力に負うところが大きい。有馬氏転封後は明治維新ま

 で前橋藩や鶴巻藩、旗本の大沢氏などが支配する相給の地とされた。

 

 加えて18世紀後半、久留里街道中往還「殿様道」(下の地図では緑線)が下宿において房総往還と接続し、久留里藩の参勤交代に使われるなど、旅人の往来が一層激しくなったことも宿場としての五井を栄させたに違いあるまい。

 

 以下、さらに地図を拡大して見てみよう。

 

 

 有馬氏が陣屋を置いたとみられる場所が現在は五井駅の敷地、迅速測図では黄色い矢印の不自然な四角い区画が残る所と考えられる。地図中の印は赤線で示した房総往還がほぼ直角にクランクする、いわゆる「枡形」とか「鍵形」、「鍵の手」などと呼ばれる地点。城下町や宿場町で良く見られるもので、ここから先が旅籠などの立ち並ぶ宿場、中心街となる。宿場の入口にあたる印の地点には六地蔵や馬頭観音などが祀られている(→補足資料参照)。

 黒い枠は若宮八幡と大宮神社の位置を示している。若宮八幡は北五井の鎮守で北五井の名主を代々務めてきた中島甚五左衛門(屋号は「甚内」)が奉納した手水鉢や鳥居などがある。またクランク地点に加えてここにも川岸の石工根本甚太郎の石造物がある。どうやら中島家は五大力船の所有者でもあったことから、澪のある川岸と強いつながりが古くからあったようだ。

 17世紀に遡れる古い石造物は守永寺(印)、龍善院(下の赤枠)、下谷墓地(上の赤枠)、大宮神社(左下の黒枠)、中瀬墓地にある。ただし私は墓石の多くをこれまで十分に調査してこなかったので、ここでは墓石以外の石造物をもっぱら考察の対象としていることにご注意いただきたい。墓石を確認できていないため、この考察に大きな限界があることは否めないのだ。もちろん北五井の善養院や千光寺にも17世紀の石造物はあっただろうが、今はほとんど確認できない(実はつい最近まで千光寺に天和2年=1682の墓石があったことだけは確認している)。

 どうやら北五井の発展は川岸の成立と発展とに支えられていたようで、現状では18世中頃以降から北五井にも石造物が目立ってくる。すなわち北五井の場合、南五井と比べれば17世紀の石造物は明らかに乏しいと言えるだろう。

 推察するに南五井の大宮神社には17世紀の庚申塔が祀られており、街並みの拡大と人口増大に伴い、五井が南北に分離される前は大宮神社が五井全体の鎮守であったと考えられる。そして17世紀の石造物が南五井にかなり偏って存在することから、17世紀、最初の五井の街並みはまず大宮神社と守永寺との間あたりを中心として形成されていった経緯が想定される。宿場であることを示す字地名である上宿(龍善院の周辺)と下宿(大宮神社の南,東)の位置が五井の街並みの南西側にかなり偏っているのもこうした歴史的経緯が反映したものと考えるがいかがだろう。

 

 参考までに五井の17世紀における石造物を以下、年代順に列挙してみよう。

 

   1.龍善院 宝篋印塔 寛永7年(1630)

   2.龍善院 宝篋印塔 寛永13年(1636)

   3.大宮神社 庚申塔 寛文9年(1669)

   3.下谷墓地 宝篋印塔 寛文9年(1669)

   5.下谷墓地 馬頭観音 延宝4年(1676)

   5.守永寺 六地蔵 延宝4年(1676)

         7.守永寺 阿弥陀如来 延宝5年(1677)

   7.大宮神社 二十三夜塔 延宝5年(1677)

    ※現存はしていないが、千光寺に天和2年(1682)の墓石があった。

   9.中瀬墓地 無量寿仏 貞享4年(1687)

   10.大宮神社 逆修塔 元禄5年(1692)

    ※川岸最古の石造物は老戸墓地の聖観音で同じく元禄5年(1692)

   11.守永寺 宝篋印塔 元禄10年(1697)

   12.龍善院 六地蔵石幢 元禄12年(1699)

 

 五井の宿場の人々の多くは龍善院や善養院、千光寺といった真言宗寺院の檀家となっていたと思われ、年代が判明しているもののうち最も古い石造物が残されているのは龍善院である。

 なお「千葉県市原郡誌」(大正5年)によるとかつてこの地域一帯に地蔵堂と昌蔵院の二寺が存在したが、元禄2年(1689)に欠所となり、やがて神尾氏によって地蔵堂の境内の半分は守永寺に、本尊・法具・田畑は善養院に、檀家は龍善院に下され、また昌蔵院はことごとく千光寺に下されたという。千光寺は本来、釈蔵院の末で自心坊にあった坊だが、このとき一寺となり、千光寺と号したという。また善養院は村上観音寺の一坊を移して創建されたという。

 当初は地蔵堂と昌蔵院の二寺が五井の寺院だったとすると、この記述からもかつての寺の立地が五井の街並みの中央からやや南西よりに偏って存在し、五井の街並みの北東側は17世紀後半まで民家がまばらだったことが想像されよう。やがて川岸の発展にともなって五井の北東側にも集落が伸びていき、印の守永寺があたかも街並みの中心に位置するような景観も実は18世紀以降になって形成されていったのではあるまいか。

 

補足資料:波渕のクランク地点に祀られている石造物群

左:香箱型角柱塔 年代等は不明だが「石工 根本甚太郎」とある(2021.5.10.写す)。

 

馬頭観音二体:いずれも風化がひどく、年代等判読困難。様式から見て左は18世紀末から19世紀前半、右は18世紀後半のものと推察する。

 

 

右側石塔に「奉納北五井」、左側石塔「嘉永2年」(1849)とあるので立派な六地蔵石は北五井の依頼によって嘉永2年(1849)に川岸の名工根本甚太郎が造ったと推察できる。若宮八幡の豪華な石造物や大きな富士塚と併せて考えると18世紀後半以降の北五井の経済的成長ぶりがこうした石造物からもうかがえるだろう。また富士講に関しても南五井が多数派の「山包講」であるのに対して敢えて北五井が「山水講」に加わっているのも、南五井と肩を並べるほどに成長を遂げていた北五井のある種の自負を感じてしまうのだが、いかがだろう。

109 .五井若宮八幡の見どころ

 社伝によると貞観年間(9世紀)に大佐々気命(=仁徳天皇)を祀る。建久、永正年間に社殿を建てる。永禄、享保年間に改築。源頼朝が戦勝祈願したとも伝える。しかし昭和62年、火災で社殿は焼失、翌63年に再建している。焼け残った部材を一部使っているようである。

 

鳥居:天保3年(1832) 

市内に伊勢講の寄進した石造物が意外にも少なく、これは数少ない伊勢講の遺物

 

手水鉢(宝暦6年=1756):施主は中嶋甚五左衛門(北五井の名主)

 

石灯籠一対:弘化4年(1847) 石工は川岸の根本甚太郎

 

狛犬:明治41年に修繕されたことが記されているが造像年代は不明。おそらく幕末だろう。ズングリした体型で目が小さく、毛が長い。市内でこの時期のものとしてはサイズがかなり大きい。

 

火災で焼け残った部材の一部が脇障子などの彫り物

 

社殿の右奥に大きな富士塚(山水講)、背後に摂末社が並ぶ。いずれも贅沢な造り。

 

 

 

征清従軍碑:明治30年(1897)揮毫は6代目県知事阿部浩