115.今津朝山鷲神社・延命寺の見どころ

迅速測図(歴史的農業環境システムの比較図より)で見ると今津の街並みがまず鷲神社の参道に沿って直線的に形成されていることが分かる。12月の酉の市では明治末年まで参道から境内まで安行(愛知県)の植木屋などがはるばるやってきて露店を構え、お正月用品を買いに近隣から客が列をなして連日押し寄せていたという。相撲興業や見世物小屋もあってその賑わいぶりは遠く江戸まで届いていたらしい。今津の集落は房総往還(右側の現在の地図では右下隅の黄色線)からかなり離れており、五井とは違って港町としての性格が当初から強かったことが分かる。またかつては海岸部に大きな塩田があり、海とのつながりの深さも見えてくるだろう。

補足資料:松ヶ島永井家所蔵品より

・相撲(角力)興業願済届:明治20年(1887)12月29日、鷲神社での相撲興業の許可は既に警察署から許可されている旨を郡役所に届け出たもの。

・麻薙氏(始関氏の中で鷲神社の宮司を務めてきた一族が明治維新期に本来の名字である麻薙氏に改姓していた)から明治19年(1886)11月7日に菓子製造販売のため新たに山形幸吉を雇う旨、郡役所に届け出た書類。なお鎌倉街道を歩く会の小関会長の調べによるとこの書類で押されている印を保三氏の子孫の方が今も保管されているとのこと。

 

 

今津の繫栄は主に五大力船や押送り船が江戸との間を行き交う水運でもたらされた。海岸線は凹凸の少ない美しい砂浜が続き、内湾のため比較的、波が穏やかであった。しかも養老川の河口部ほどには浅瀬が沖合まで伸びていないことから船が座礁する危険性も少なく、市原郡内では八幡と並んで良好な港町として江戸幕府草創期から多くの海運業者が活躍していたと思われる。北側には江戸前寿司のネタ、深川丼のネタで有名な「アオヤギ」(現在はアサリをネタとしているが、かつてはアオヤギを用いていたという)の産地である青柳村、南側にはやはり港町として栄えた姉崎が隣接し、海浜部一帯が経済的に活気のある地域であった。五大力船が係留されていた澪は現在の今津川の河口部、左の迅速測図では赤い+印辺りと思われる。ただし、このような地形のため高潮の被害は大きく、大正6年の被害は甚大であったようだ。したがって石造物を除くと鷲神社を含めて今津には残念ながら古いものがあまり残っていない。

 

鷲神社

 

 

  従軍記念碑(昭和53年)      日露戦役記念碑        凱旋記念碑(明治32年)

 始関伊平(衆議院議員)揮ごう                     樺山資紀揮ごう

 

手水鉢:文久元年(1861)

 


講頭:始関半左衛門


石灯籠:文久2年(1862)

 

文字が読みにくいので片栗粉を擦り付けて解読。

石工 江戸鎌倉河岸 三吉・由五郞 ※鎌倉河岸は千代田区内神田1・2丁目

高さ3.5メートルほどもある、立派な造り。竿柱や笠石などに曲線が目立つ江戸後期の様式。

 

拝殿の鳳凰の彫り物も悪くは無い

 

本殿脇障子の弁天様の透かし彫り:非常に贅沢な造りである

 

本殿奥の石祠群

 

琴平神社祠:文政3年(1820)

 

雨降神社(相模大山の神で石尊大権現と同じ)祠:文化13年(1816)

 

疱瘡神祠:安政4年(1857)

 

大杉大明神(あんば様)祠:安政3年(1856)

 

 

麻疹神祠:文久2年(1862)

この年の麻疹流行の様子は島崎藤村の小説「夜明け前」でも描写されている。

 

延命寺(真言宗豊山派):鷲神社と隣接

 

 大日如来(湯殿山供養塔):寛文2年(1662)      宝篋印塔:安永8年(1778)

 市内では飯沼の三山塚のものと肩を並べる優品    相輪部や隅飾りなどは個性的なデザイン

        

  馬乗り馬頭観音:寛政4年(1792)       聖観音(十九夜塔):享保3年(1718

   西上総で良く見られる馬乗りタイプ     十九夜講の主尊は普通、如意輪観音であるが…

 

庚申塔:享保3年(1718)

風化が進んでいて文字が読みにくくなっている。

 

補足資料「今津の酉の市について」(野崎馨「上総市原第3号」昭和54年)より

 今津の酉の市は近郷近在に知れ渡っており、11月の末から20日余りは大勢の人出で賑わった。今津は五大力船による運送業やバカ貝、ハマグリなどの海産物、製塩業などで江戸時代後半、経済的に繁栄し、江戸とも深いつながりを持つ港町となっていたのである。市には多くの露店が立ち並び、芝居小屋(五井の竹沢興行)までたった。正月用品の露店も多く、地元のハマグリやバカ貝は「サシレン」(天日干しされ、竹串に刺したもの)にされて露店に並べられ、好評を博していた。しかもそれらの貝殻は貝灰にして漆喰や藍染めに用いられるなど、各地で有効活用されていた。

 明治26年に鷲神社本殿の屋根を銅板葺きに葺き替えた際に寄付したのは八手網中、安行植木商(数か所に出店)、東京駿河屋久蔵などで、明治36年の鳥居は浅草の富士屋伊左衛門の寄贈によるものである。五大力船によって東京を中心に各地の商人らとの結びつきがいかに強かったか伺えよう。なお製塩業は大量の薪を必要とするため、今津には馬や荷車に載せられて君津、長生方面からも続々と薪炭が運ばれてきていた。また隣村の青柳は名産の瓦を焼く上で大量の松葉がやはり必要とされ、近郷の豊成などからも運び込まれていた。今津や青柳はこうして大消費都市江戸の玄関口となって山間部の村々にも富をもたらしてきたのである。

 しかし大勢の参詣客で賑わった今津の酉の市は明治30年代後半になると突然活気を失い始めた。芝居小屋が満員のために桟敷が倒壊し、大勢の負傷者を出してしまって営業停止になったこと、製塩業が明治44年の官業化を前に衰退してしまった事、日露戦争の影響(不況etc)を受けた事など多くのマイナス要因がこの時期、不幸にも重なってしまったのである。また明治末年、鉄道開通によって駅の置かれた五井や姉崎に経済の中心が移っていったことも市の衰退に追い打ちをかけたのだろう。

 ところで今津の始関半左衛門家は何代も続く豪商だった。五大力船を幾艘も所有し、運送業中心に活躍してきた。幕末、姉崎浦で佐久間象山の指揮のもと、大砲の試射が行われたのも始関家の協力あったからこその事である。

 その始関家に明治5年(1872)、25歳の若者が実業の世界に身を投ずるため、東京本郷からやってきた。後に一代にして財閥を築き上げた浅野総一郎(1848~1930)である。浅野は始関家に一年ほど身を寄せた。そして君津から大量の竹皮(味噌を入れる包装に使っていた)を仕入れ、始関家の五大力船で東京に輸送した。また木炭の仕入れのため豊成の間野家へも幾度か訪れていた。翌明治6年、横浜に居を移した浅野はチョンマゲを切って結婚し、石炭商に転じていくなかで政商の一人として大きな転機を迎えることになる。

浅野総一郎(1848~1930):富山県氷見の医師の子として生まれるが、長ずると周囲の反対を押し 

 切って商人の道を志す。1871年に上京し、本郷で氷水屋やおでん屋として成功。1873年、石炭の廃

 物だったコークスを燃料として活用する方法を開発し、深川の官営セメント工場に燃料としてコーク

 スを納めて巨万の富を築いていく。やがて近い将来セメントが建築資材の柱となるを見越して深川セ

 メント工場の払い下げを受け、浅野セメント(現在の太平洋セメント)の基礎を築く。真黒になって

 職人らの中で働く浅野の姿に感銘を受けた渋沢栄一の助言を受け、同郷の安田善次郎の支援も受ける

 ようになった浅野は渡欧した際の経験から1890年代後半、東京から横浜にかけての臨海工業地帯の造

 成を思いつき、日本初の臨海工業地帯の造成を手掛ける。後の京浜工業地帯である。埋め立ては難航

 し、15年の歳月を要して昭和初期に終了した。この間、第一次世界大戦の好景気もあって浅野の財力

 は飛躍的に増大し、一代にして新興財閥を築き上げていた。

  小湊鉄道設立に資金を提供した安田善次郎も富山出身、そして一代で財閥を築き上げた二人が共に

 市原と何らかの関わりを持っていたとは…浅野が築いた京浜工業地帯は戦後、湾をはさんで内房にも

 波及し、現在の京葉工業地域が形成されていったと考えると何やら感慨深いものがある。そして1960

 年代、工場地帯造成のための今津周辺の海岸埋め立てに先立って、漁業権の放棄と漁師たちへの補償

 問題の交渉にあたったのが、何と始関半左衛門一族の末裔で当時国会議員だった故始関伊平氏であっ

 た点もまた何やら因縁深いものを感じてしまう。