111.八幡稱念寺(浄土宗)の見どころ

※瓜本権八の墓石

 門の左側に祐天の名号塔が建てられ、右手には瓜本家の墓石が立ち並ぶ。瓜本権八は市原の石工が宮物(神社の石造物)を手掛けた最初期の名工である可能性がある人物。私の調べでは瓜本権八(三代目?)の根田神社鳥居(寛政9年:1797 ただし銘文には八幡の権八とだけあるので断定はできない)が今のところ市原の石工によるものと判明した宮物では最古になる。墓地では初代瓜本権八と思しき墓石(宝暦11年=1761)と二代目と思しき瓜本権八の墓石(明和7年=1770)を確認できた。いずれの墓石にも「石屋」と刻まれている。

 

創建:天正3年(1575年)、大巌寺第二世安誉上人開基。

  千葉市 蘇我にある大巌寺は天文22年(1553)、北小弓城主原胤栄の発願で道誉上人が開山。当時、八幡は原氏の勢力下にあり、稱念寺は無量寺とともに浄土宗の拠点とされた。原氏は豊臣勢によって1590年、北条氏とともに滅亡したが、関東に移封してきた徳川家康も引き続き大巌寺を保護した。

 本末関係では知恩院―増上寺―大巌寺―稱念寺となる。五井の守永寺(当時は理安寺)も大巌寺の末寺である。堂宇は明治26年と28年の大火でことごとく焼失。その後再建されたもの。檀家には著名な日本画家山口達がいた。福岡生まれだが東京芸大卒業後は市原中学校(現市原高校)の教員を経て千葉大の助教授となり、八幡観音町に居を構えていた。当時の住職と懇意だったため本堂に彼の作品が30点も残っている。なお八幡の公民館にも彼の作品が数点、展示されている。

 境内には中世末期のものと思われる小型五輪塔、宝篋印塔が約50基ある(下)。

 

 

祐天名号塔の側面:三界万霊塔も兼ねる。「虎角」は大巌寺二世安誉上人のこと
 

   聖観音像:明暦元年(1655)             祐天名号塔の正面    

祐天上人(1637~1718):陸奥国磐城出身で12歳の時、得度し仏道に入ったが愚昧にして経典が覚えられず。これを恥じて成田山新勝寺に籠ったところ、不動尊から剣を喉に差しこまれる霊夢を見た。以後、不動尊から智慧を授かったとして彼は本領を発揮するようになり、五代将軍綱吉らの帰依も受け、ついには増上寺第36世法主、大僧正ともなった。

 念仏の功徳による数多くのエピソードを残しているが、特に常陸の累(かさね)という女の怨霊を成仏させたことが四代鶴屋南北の脚本による歌舞伎や曲亭馬琴の読本、三遊亭円朝の怪談話(「真景累ヶ淵」)にも取り上げられ、江戸時代後期には全国的にその名が知れ渡った。

 

左 地蔵菩薩立像:明暦2年(1656)、江戸小船町念仏講衆らの寄進で造立。高さ153㎝。

右 聖観音菩薩立像:元禄5年(1692):地元の念仏講が逆修菩提の為寄進

 

角柱宝塔型宝篋印塔:享保18年(1733)

真言宗寺院以外で確認できた角柱宝塔型宝篋印塔はここと椎津の瑞安寺(浄土宗)の二か所。他にも

馬立の龍源寺(曹洞宗)にあるが、近くで廃寺となった寺から移してきたとのこと。

 

六地蔵石幢:元禄6年(1693)笠石は後補

 

阿弥陀如来像:元禄10年(1697)