110.近世五井の街並み形成史 試論

~房総往還と川岸の役割を軸に~

 

 五井の街並みが本格的に形成され始めたのは16世紀末、徳川家康の関東移封以降のことと思われる。それまでの五井は養老川の氾濫原として一面に芦原が広がる低湿地の所々に松林や竹やぶが生い茂る低い砂山や池沼が点在しているような、人家のまばらな土地に過ぎなかったようだ。実際、私の記憶でも60年ほど前まで駅周辺の町中ですら池や蓮田が点在するような土地であった。天領や譜代大名、旗本の領地としての歴史が長い五井周辺は関東でも有数の暴れ川として悪名高い養老川の洪水が相次ぎ、幕府にとってはきわめて厄介で、代官泣かせの土地だったはずである。

 ※古くは「武松」という地名もあったというが、詳細は不明。1424年に造られた鎌倉の円覚寺の梵

  鐘に「上総州御井庄」とあり、当地のことかもしれないという。古語では「ゴウ」や「ヰ」は川を

  意味するので、川近くの土地の意かも。

 

 五井にあるどの寺社を探索しても中世にさかのぼれるような古い石造物が一切、見当たらない点から見て、江戸時代後期には市原郡最大の人口を擁していた五井は集落としての歴史に限れば近世以降急速に発展を見た比較的新しい町と考えられる。もちろん、JRの線路近く、低い砂堆列上には小さな古墳(波渕~君塚間)が点在しているので線路近くに古東海道が通っていたであろう8世紀以前からそれなりの集落はあったに違いない。しかし度重なる養老川の洪水もあって中世以前の集落の痕跡はなかなか確認できていない。どうやら五井は長期にわたり集落が安定して繫栄できるような、恵まれた自然環境ではなかったと思われる。

 

 徳川家康の関東移封が行われた1590年以降、房総の地は多くの要所を徳川一門、譜代の家臣たちが支配する所となり、五井は当初、松平家信が5000石の領主として五井を支配していた。慶長6年(1601)には松平氏が移封されて五井藩は廃藩とされ、天領に組み込まれて代官の支配下にはいる。

 承応元年(1652)、五井の代官として神尾守永がやってくる。五井の街並みの土台が本格的に築かれたのはおそらくこの神尾守永の時からであろう。神尾氏は松平氏の菩提寺だった理安寺を、沼地を埋め立てて現在地に移し、万治元年(1658)、守永寺(浄土宗)と名称を改めて守永寺を町の中心とする街並みの整備に取り掛かったようだ。実際、房総往還は守永寺を迂回するようにして「枡型」が設けられている。また神尾氏は塩田開発をも進め、五井大市を開くなどして五井の経済的な発展を計画的に推進していったという。

 なお五井の歴史はたとえ近世以降でもその詳細を辿るのは決して容易ではない。肝心の龍善院が焼失したことで過去帳まで失われ、守永寺も繰り返し暴風雨などによって倒壊し、今日まで残された史料はそれほど多くない。また北五井で代々名主を務めてきた中島家は明治の「北五井の大火」でほぼ灰燼に帰してしまったため、古文書などで裏付けをとることが難しく、南五井の進藤家も火災に遭っている。したがって五井の歴史を辿る作業はわずかな状況証拠を頼りに推理を重ねていく、手探りの面が生じてしまうことは避けられない。勢い、仮設の上に仮説を積み上げる危うさがこの試論にもあることを予めご理解いただきたい。

※市原の製塩は戦国時代に本格化し、万治元年(1658)には市原郡内沿岸の村々には製塩家220戸余

 りあり、農業の合間に塩を焼いて茂原など山間の村に売りに行っていたらしい。神尾氏の塩田開発は

 川岸地区を中心としたもののようで、高澤恒子氏によると摂津の人勘兵衛が地引網と製塩業を当地に

 もたらし、その墓石(正徳元年=1711年没。子孫は君塚の細野家で屋号は今も勘兵衛。かつては川

 岸のなかでも最も海に近い八軒町に住んでいたらしい)が川岸の老戸墓地に今も残されている。

 

歴史的農業環境システムの「比較図」より

 

 上の地図を見るとまずは房総往還(右側の黄色線にほぼ該当する)の継立て場(継場ともいい、街道の宿場町と同じ役割を果たしていた集落のこと)として道沿いに細長く人家が建ち並ぶ宿場町風の街並みが町の成立当時から徐々に形成されていったことが推察できるだろう。

 さらに五井の町の急速な発展を支える上で中心的役割を果たしたのは川のみならず海の水運をもつかさどる湊新田として、かつ塩田地帯として開発された川岸(17世紀後半に成立)の存在であろう。川岸と五井とを直線的につなぐ道路(黄色い矢印)、および五大力船を五井、房総往還近くまで招き入れる新澪(青い矢印:19世紀初頭に完成)の存在が五井の発展の上で重要な役割を果たしていたことは確実である。五井は水運を通じて江戸と緊密に結ばれた川岸という物資の大動脈を擁することで18世紀以降、市原郡における海及び川の水上輸送及び房総往還を軸とする陸上輸送双方の要となり、郡内最大の町としての急速な発展を見たのである。そして川岸の新田開発を推進した中心人物もまた神尾守永であると推察できよう。実際、川岸には今も五井の守永寺や龍善院の檀家が複数、存在している。神尾氏は八幡円頓寺の檀家から水運に長けた檀家を引き抜いて川岸の水運を担わせるとともに、五井の宿場からも新田開発のためにかなりの農民を川岸に送り込んでいたのだろう。

※川岸についての詳細は本ブログの§6市原の郷土史4と5を参照。なお五井は1726年に天領から有馬

 氏の西条藩(伊勢)に取り込まれ、1781年には有馬氏が本拠を伊勢から五井に移して五井藩一万石

 を立藩し、1838年まで有馬氏の領地となる。岩崎や玉前などの新田開発を進めて養老川河口周辺の

 生産力を高め、さらに新澪を完成させて川岸に富貴稲荷神社の豪華な社殿を造営し、五井と川岸との

 連携をいっそう盤石なものとしたのは有馬氏の力に負うところが大きい。有馬氏転封後は明治維新ま

 で前橋藩や鶴巻藩、旗本の大沢氏などが支配する相給の地とされた。

 

 加えて18世紀後半、久留里街道中往還「殿様道」(下の地図では緑線)が下宿において房総往還と接続し、久留里藩の参勤交代に使われるなど、旅人の往来が一層激しくなったことも宿場としての五井を栄させたに違いあるまい。

 

 以下、さらに地図を拡大して見てみよう。

 

 

 有馬氏が陣屋を置いたとみられる場所が現在は五井駅の敷地、迅速測図では黄色い矢印の不自然な四角い区画が残る所と考えられる。地図中の印は赤線で示した房総往還がほぼ直角にクランクする、いわゆる「枡形」とか「鍵形」、「鍵の手」などと呼ばれる地点。城下町や宿場町で良く見られるもので、ここから先が旅籠などの立ち並ぶ宿場、中心街となる。宿場の入口にあたる印の地点には六地蔵や馬頭観音などが祀られている(→補足資料参照)。

 黒い枠は若宮八幡と大宮神社の位置を示している。若宮八幡は北五井の鎮守で北五井の名主を代々務めてきた中島甚五左衛門(屋号は「甚内」)が奉納した手水鉢や鳥居などがある。またクランク地点に加えてここにも川岸の石工根本甚太郎の石造物がある。どうやら中島家は五大力船の所有者でもあったことから、澪のある川岸と強いつながりが古くからあったようだ。

 17世紀に遡れる古い石造物は守永寺(印)、龍善院(下の赤枠)、下谷墓地(上の赤枠)、大宮神社(左下の黒枠)、中瀬墓地にある。ただし私は墓石の多くをこれまで十分に調査してこなかったので、ここでは墓石以外の石造物をもっぱら考察の対象としていることにご注意いただきたい。墓石を確認できていないため、この考察に大きな限界があることは否めないのだ。もちろん北五井の善養院や千光寺にも17世紀の石造物はあっただろうが、今はほとんど確認できない(実はつい最近まで千光寺に天和2年=1682の墓石があったことだけは確認している)。

 どうやら北五井の発展は川岸の成立と発展とに支えられていたようで、現状では18世中頃以降から北五井にも石造物が目立ってくる。すなわち北五井の場合、南五井と比べれば17世紀の石造物は明らかに乏しいと言えるだろう。

 推察するに南五井の大宮神社には17世紀の庚申塔が祀られており、街並みの拡大と人口増大に伴い、五井が南北に分離される前は大宮神社が五井全体の鎮守であったと考えられる。そして17世紀の石造物が南五井にかなり偏って存在することから、17世紀、最初の五井の街並みはまず大宮神社と守永寺との間あたりを中心として形成されていった経緯が想定される。宿場であることを示す字地名である上宿(龍善院の周辺)と下宿(大宮神社の南,東)の位置が五井の街並みの南西側にかなり偏っているのもこうした歴史的経緯が反映したものと考えるがいかがだろう。

 

 参考までに五井の17世紀における石造物を以下、年代順に列挙してみよう。

 

   1.龍善院 宝篋印塔 寛永7年(1630)

   2.龍善院 宝篋印塔 寛永13年(1636)

   3.大宮神社 庚申塔 寛文9年(1669)

   3.下谷墓地 宝篋印塔 寛文9年(1669)

   5.下谷墓地 馬頭観音 延宝4年(1676)

   5.守永寺 六地蔵 延宝4年(1676)

         7.守永寺 阿弥陀如来 延宝5年(1677)

   7.大宮神社 二十三夜塔 延宝5年(1677)

    ※現存はしていないが、千光寺に天和2年(1682)の墓石があった。

   9.中瀬墓地 無量寿仏 貞享4年(1687)

   10.大宮神社 逆修塔 元禄5年(1692)

    ※川岸最古の石造物は老戸墓地の聖観音で同じく元禄5年(1692)

   11.守永寺 宝篋印塔 元禄10年(1697)

   12.龍善院 六地蔵石幢 元禄12年(1699)

 

 五井の宿場の人々の多くは龍善院や善養院、千光寺といった真言宗寺院の檀家となっていたと思われ、年代が判明しているもののうち最も古い石造物が残されているのは龍善院である。

 なお「千葉県市原郡誌」(大正5年)によるとかつてこの地域一帯に地蔵堂と昌蔵院の二寺が存在したが、元禄2年(1689)に欠所となり、やがて神尾氏によって地蔵堂の境内の半分は守永寺に、本尊・法具・田畑は善養院に、檀家は龍善院に下され、また昌蔵院はことごとく千光寺に下されたという。千光寺は本来、釈蔵院の末で自心坊にあった坊だが、このとき一寺となり、千光寺と号したという。また善養院は村上観音寺の一坊を移して創建されたという。

 当初は地蔵堂と昌蔵院の二寺が五井の寺院だったとすると、この記述からもかつての寺の立地が五井の街並みの中央からやや南西よりに偏って存在し、五井の街並みの北東側は17世紀後半まで民家がまばらだったことが想像されよう。やがて川岸の発展にともなって五井の北東側にも集落が伸びていき、印の守永寺があたかも街並みの中心に位置するような景観も実は18世紀以降になって形成されていったのではあるまいか。

 

補足資料:波渕のクランク地点に祀られている石造物群

左:香箱型角柱塔 年代等は不明だが「石工 根本甚太郎」とある(2021.5.10.写す)。

 

馬頭観音二体:いずれも風化がひどく、年代等判読困難。様式から見て左は18世紀末から19世紀前半、右は18世紀後半のものと推察する。

 

 

右側石塔に「奉納北五井」、左側石塔「嘉永2年」(1849)とあるので立派な六地蔵石は北五井の依頼によって嘉永2年(1849)に川岸の名工根本甚太郎が造ったと推察できる。若宮八幡の豪華な石造物や大きな富士塚と併せて考えると18世紀後半以降の北五井の経済的成長ぶりがこうした石造物からもうかがえるだろう。また富士講に関しても南五井が多数派の「山包講」であるのに対して敢えて北五井が「山水講」に加わっているのも、南五井と肩を並べるほどに成長を遂げていた北五井のある種の自負を感じてしまうのだが、いかがだろう。