§6市原の郷土史.128.岩崎開村300周年資料②

 

3.岩崎の開村とその後の開発

 1981年の「広報いちはら」に掲載された「農協組合の村々」(落合忠一氏執筆)シリーズの31~39に「岩崎村」の歴史が取り上げられている。岩崎村の歴史は八代将軍徳川吉宗の改革によって享保7年(1722)に町人請負新田が許可されるようになった時に下谷金杉の下村清兵衛が養老川河口に可耕地があることを知り、下見に来て開墾を決意したことから始まる。清兵衛は払下げ代金を添えて代官に新田開発の許可を申し出た。この開墾話を聞きつけた人々が岩崎に大勢集まり、清兵衛の指図のもとに開墾が進められたという。

 当時は寄洲の葭山を中心にまず屋敷を構え、周辺に田畑の開墾を行っていったようで2~3年かけて徐々に屋敷地と耕地が拡大し、享保13年(1728)2月、「清兵衛新田」としてほぼ完成した。幕府による検地後に清兵衛の私有地とされ、年貢は3年間、猶予された。3年後の享保15年(1730)、村名は「岩崎新田」に改められ、五井一万石の大名有馬氏倫(初代伊勢西条藩藩主で現在の五井駅に陣屋が置かれた)の領地とされた。

 歴史的農業環境システムより

 江戸時代、養老川は関東有数の「暴れ川」として恐れられていた。岩崎新田成立後も幾度か決壊して流路を変え、大きな被害を下流域(特に町田・廿五里周辺から下流域)の農村に及ぼしている。たとえば延享4年(1747)、養老川は出津辺りで大規模な川欠けを起こした。以後、天明8年(1788)までの40年余り、養老川は出津八雲神社のすぐ傍を流れ、松ヶ島村の端を抜けて北青柳との境あたり字塩場(メガドンキの裏手)で海に注いでいた。

 洪水が収まるとかつての川床や河川敷に対して周辺の村々は先を争って開墾を行うことになる。当然その所有権を巡って訴訟沙汰に発展することもあった。また天明年間に河口が元に戻った後も川筋のわずかな変化によって「寄洲」が生じたため、そこでも開墾が行われている。

 ご存知の通り、養老川下流部の土地支配は今も飛び地が多く、錯綜していて分かり辛い。その理由の一つとして、かつて養老川の度重なる氾濫とその都度繰り返された開発の歴史があったのである。

 岩崎の浜辺では潮除け堤防が整備されていき、葭(葦)の生い茂る海辺の土地も一部は農地として開墾されていった(葭場⇒小字名「葭田」・「亥ノ起」)。こうした苦労の積み重ねがあって村の石高と人口は徐々に増加していった。

赤枠が寄洲(卯の起)、草色の枠内が葭場(亥の起):中村家所蔵村絵図(寛政11年=1799)

 葭場の開墾が行われた後しばらくして享和元年(1801)、岩崎は領主有馬久保(ひさやす)の検地を受けている(この時の検地帳が中村家に残る→下の写真)。久保は初代の氏倫から七代目に当たるが、彼だけは五井の陣屋に住んでいたらしい(従来は家来だけが陣屋に遣わされていた。陣屋跡地は今の五井駅に相当)。検地の際には代官の伴宗蔵と早川佐太郎を検地役人とし、立会人に横目役の三神友之進と書記の坪才助とが岩崎に来たという。田畑半々で合計7反6畝27歩(76アール余り)の開墾地が確認されている。

 鎗田家に伝わる名寄せ帳(検地帳の写し:下の写真)は虫食いが酷く、欠損も多いが、その後の土地所有関係の変化が追える点で有意義な資料。「寄洲禹起」と「洲崎亥起」が享和元年(1801年)に有馬氏検地の対象となった開墾地と思われる。何れもやはり地味が悪かったようで耕地のランクはほとんどが「下畑」である。

 

 岩崎村は迅速測図(1881年)によると集落として三つのブロックに分かれている事が確認できる。村の中心部は会所の置かれた中村家のある地区。小字名で「中町」である。文字通り村の中心を意味する字地名となっている。弁天様を挟んで道沿いに細く連なる集落は小字名で「上洲崎」から「向山」にかけて。川の堤防に沿う道から岩崎地区に向かって坂道を下り、最初に入るブロックは「本山」、「元新山」。集落の字地名に「山」が多く付いていると言うことはそこが相対的に微高地であった証拠であろう。低湿地における居住地としては当然の選択であり、松ヶ島地区も同様の形で微高地中心に集落が展開している。

 三つのブロックの中央部は弁天様を除くと建物は無く、明治中頃までは専ら水田として利用されていたことが迅速測図で確認できる。村を分断するようにして集落の中央部を耕地が帯状に細長く横断しているのはやや不自然であろう。おそらくこのゾーンは相対的に低地であるため、川の洪水が起きると浸水しやすかったのではあるまいか。もしかするとかつてここを川が流れていた事があったのかもしれない。とすれば当初の集落は自然堤防上に細長く展開していたと考えられる。

戦後まもなく撮影された空中写真:水色の線がかつて川の流れていたと思しき箇所。岩崎と玉前の集落は赤線のようにかつての川跡にそって帯状に形成されている。かつての自然堤防は道となり、人家が建ち並んでいったが、川跡はもっぱら水田に利用されていたようだ。黄色のゾーンは松ヶ島と北青柳の境辺りで海に注いでいた養老川が元の河口に戻った際に形成された川沿いの寄洲でここはやがて村の共有地となったようだ。

§6.127.岩崎開村300周年資料①

 

1. 近世五井の歩みから

 徳川家康の関東移封が行われた1590年以降、房総の地は多くの要所を徳川一門、譜代の家臣たちが支配する所となり、五井は当初、松平家信が5000石の領主として五井を支配していた。慶長6年(1601)には松平氏が移封されて五井藩は廃藩とされ、天領(幕府直轄地)に組み込まれる。
 承応元年(1652)、五井の代官として旗本の神尾守永がやってくる。五井の街並みの土台が本格的に築かれたのはおそらくこの神尾氏の時からであろう。神尾氏は松平氏の菩提寺だった理安寺を、沼地を埋め立てて現在地に移し、万治元年(1658)、守永寺(浄土宗)と改めてここを町の中心とする街並みの整備に取り掛かったようだ。実際、房総往還は守永寺を迂回するようにして「枡型」が設けられている。また神尾氏は塩田開発をも進め、五井大市を開くなどして五井の経済的な発展を計画的に推進していったという。

 上の図中の赤い星印が守永寺で五井の街並みが守永寺を中心にして形成されているのが分かる。緑の線は房総往還で街並みの両端には五街道の宿場町などに時折見られる、「枡形」、「鍵形」などと呼ばれる、直角に道が折れ曲がるクランク地点が残っていた。五井は房総往還における継立て場(継場とも:五街道では宿場町に相当する町で「下宿」「上宿」といったような、旅籠の存在を示す地名が残っている)として近世に入ってから整備されていたのである。

 不自然に道が直角に折れている箇所、黄緑の四角はかつて陣屋がおかれていた場所で、現在はJR内房線の五井駅となっている。中世から繫栄していた八幡宿もやはり継立場であったが房総往還は五井ほどはっきりとした鍵形は見られず、町中の道も五井ほどは直線的に伸びていない。すなわち五井の町は八幡宿などとは違い、17世紀になって急遽、代官指導の下、極めて計画的に造られた人工的集落だったのだ。

 五井は暴れ川として知られていた養老川の氾濫原に位置しており、江戸時代以前は湿地帯が多かったため、人家がまばらに存在するのみの寒村であったという。だからこそ江戸時代に入って町は特定の目的に沿ってほぼゼロ状態から人工的に創り上げることが可能だったともいえるだろう。計画的な街づくりの結果、五井は急速な発展を遂げ、江戸時代後期には市原郡最大の町となる。中世には港町として既に繁栄を遂げていた八幡宿や姉崎、椎津を差し置いて、寒村に過ぎなかった五井の町が発展できた背景には代官となった神尾氏の優れた街づくり構想があったと思われる。

 五井町発展のカギはおそらく神尾氏が開発した川岸地区の水運の要としての役割にあった。まず黄色の線に注目したい。五井の町から不自然なほどに北に向かって直線的に伸びる道路。現在の五井病院から先は川岸の集落に至るまでほぼ直線である。この道、おそらく江戸時代からあったと考えられる。まずはこの道が果たした役割を考えてみたい。

 なお赤線は久留里街道の「殿様道」として18世紀中ごろに整備されたもの。こちらは既に五井の町並が形成された時期に街道とされたため、住宅地を避けるようにして道は曲がりくねっている。直線的な道路は一見すると新しく敷設された現代の自動車道に思えるが、実は五井の場合、直線道路が必ずしも新しい道とはいえないのだ。

 

2.川岸の開村と発展

 

 まず細長い集落の展開に注目。さらに不自然なほどに直線的な二本の道(黄色線)と二つの水路(紺色の線:左側が旧澪、右側が新澪)に注目。川と海の表玄関として川岸は五井の代官神尾氏によって17世紀後半、計画的に造成されていったと推測するが、いかがだろう。

 川岸の開村はおそらく17世紀後半のことであり、五井守永寺(神尾氏により創建)や八幡円頓寺の檀家が川岸の旧家に見られることから、草分け百姓の一部は五井及び中世からの港町、八幡出身であることも推察できる。

 ゼンリンの住宅地図内にある緑色の★印、八幡円頓寺の檀家である中西家にもたらされた法華曼荼羅(ご本尊)のうち、1680年のものが川岸開村の年代を考える上で大きなヒントになるだろう。

 養老川の上流からもたらされた薪炭、木材、年貢米などの物資は川岸で川船から五大力船に積み替えられ、江戸に輸送されていた。また海産物は押送り船でやはり江戸へ送られていたようだ。川岸の澪はそうした船の発着に利用されていたに違いない。やがて澪は19世紀初頭、新たに追加され、波渕(現在「オリーブの丘」近く)まで五大力船が入り込む。江戸との交易がさらに発展し、五井は市原郡随一の人口を誇る町へと成長を遂げていった。

 五大力船は江戸からの帰途、様々な商品を五井にもたらしてもいた。五井と川岸は17世紀後半にはあの直線的な道によって緊密に結びついたことでお互いに急成長を遂げていったようだ。中世にはおそらく鄙びた寒村に過ぎなかったはずの五井は房総往還の継立て場となったことに加えて、海と川の水上輸送路の結節点となった川岸と強く結びつくことで大きく発展していったものと思われる。五井の繁栄は川岸の存在無くしては語れないのである。

 享保の改革で大岡忠相と肩を並べる活躍を見せたのが有馬氏倫(ありまうじのり)であった。かれは五井の代官として五井の発展に尽くし、川岸の富貴稲荷神社を創建している。なお、大岡の領地も島野など市原郡内に存在している。つまり市原は享保の改革の影響を色濃く受けた土地であった。たとえば足高の制(1723年:大岡越前や有馬氏倫らはこの制度によって一万石を数える領地を持つことになり、旗本から大名へと出世を遂げている)や町人請負新田の許可(1722年:→岩崎新田の成立)といった政策は市原に大きな変化をもたらしていたのだ。

 なお有馬氏倫と同じく紀州藩以来、将軍吉宗に側近として重用された加納久通も上総一宮藩の初代藩主とされ、その子孫久朗は戦後三代目の千葉県知事となっている。

 

§6.126.「房総の石仏百選」に見る市内の石造物

 

 今回は「房総の石仏百選」でとりあげられた市原市内の石造物をご紹介いたします。この本は房総石造文化財研究会編で執筆者はかの「日本の石仏」(青蛾書房)を発行してきた日本石仏協会の会員が中心となっています。

 すでに過去のブログで登場した石造物が多く含まれていますが、千葉県の中でも特に注目された石造物たちです。下表に紹介した順にそれぞれ注目ポイントについて簡単に解説いたしましょう。

 

「房総の石仏百選」(平成11年 たけしま出版)掲載の石造物一覧

飯沼供養塚

大日如来

寛文3年=1663

椎津路傍

馬乗り馬頭観音

安永5年=1776

不入斗医王寺門前

六地蔵(石幢)

寛永21年=1644

飯給真高寺

四国八十八所尊

寛政7年=1795

四天王

寛政7年=1795

菊間若宮八幡

大山権現

天明3年=1783

武士鹿島神社

愛宕権現

元禄7年=1694

八幡妙長寺

日蓮上人

寛文4年=1664

 

飯沼供養塚(三山塚)の大日如来

 京葉高校のすぐ近くの三山塚に祀られた大日如来(湯殿山の本地仏)です。光背などに多少の欠損が見られますが、大きさと古さもあり、県内の供養塚上の大日如来としては傑出した石仏と言えるでしょう。


椎津新田路傍の馬乗り馬頭観音

 西上総や東総地方に数多く祀られているのが馬にまたがる姿のローカル色豊かな馬頭観音。その中でもひときわ秀麗な姿で知られるのがこの石仏です。笠上観音などがある長浦方面に向かう巡礼路に祀られています。詳しくは「房総の馬乗り馬頭観音」(町田茂 たけしま出版 2004)をお読みください。

 

不入斗医王寺門前の六地蔵(石幢)

 六道を輪廻転生する衆生救済のためにそれぞれの世界に表れる地蔵を表現したものが六地蔵となります。こちらは一個の石材に六地蔵を浮き彫りにした一石六地蔵としては市内最古のものとなります。一石六地蔵には石幢型(石材を六角柱に整形し、各面に地蔵を浮き彫りにしたもの)や角柱塔の三面にそれぞれ二体ずつ地蔵を浮き彫りにしたものが市内では数多く見られます。概して石幢型は古い年代のものが多い傾向があり、こちらはその中でも非常に古い作例に属します。ちなみに六地蔵としては一体ずつ丸彫りにされたタイプも多く、その様式はかなりバラエティに富んでいます。

 

飯給真高寺四国八十八所尊の笠付き角柱塔と四天王像

 「波の伊八」の彫刻がある山門で知られる真高寺には他にも百八十八か所巡拝塔と三山供養塔を兼ねる笠付き角柱塔(安永7年=1778)があり、18世紀後半には飯給に熱心な巡礼者がいたことが分かります。市内には類例のない石造物であり、「お遍路」の地方における浸透ぶりが伝わる遺物です。

 石造物の四天王像も市内ではやはりここにしかない、貴重な作例となります。石造物の神仏像は圧倒的に浮き彫りが多く、地蔵を除くと丸彫りの像自体が希少です。

 

菊間若宮八幡の大山権現

 「大山権現」、「雨降神社」、「石尊大権現」はいずれも相模大山の神のこと。「大山詣で」は江戸時代に大流行し、大山登拝のついでに鎌倉や江の島弁天を詣でることもあって、江戸の男たちにとっては気晴らしを兼ねた小旅行でした。市内には数多くの祠が残っていますが、神像が刻まれているのはこれだけです。そもそも子安神を除きますと、市内では神像の石造物自体、きわめて希少となります。

 

武士鹿島神社の愛宕権現(勝軍地蔵)

 愛宕権現は秋葉権現とともに火伏の神として江戸時代、篤く信仰されました。しかし市内では極めて珍しく、特に本地仏の勝軍地蔵像は唯一ここだけに存在します。

 

八幡妙長寺の日蓮上人像

 日蓮宗寺院の多い市原ですが、日蓮像自体はかなり少なく、これは貴重な作例の一つです。一時期、地中に埋もれていたそうで、そのためか、保存状態はさほど悪くありません。近年、大きな題目塔などが二基、補修されました。塔の大きさから見て、かつてはかなり有力な寺院だったと思われます。

 

 

 なお2010年には続編となる「続房総の石仏百選」が刊行されており、市内の石造物が新に市原光善寺の石灯籠(15世紀前半)、下矢田・川間お塚の日記念仏塔(寛文6年=1666)、本郷西光寺の結界石(寛政7年=1795)の三点、掲載されております。

 以下、簡単にご紹介いたしましょう。

市原光善寺の石灯籠

 県内最古の石灯籠であり、古い石造物が少ない市原としてはきわめて貴重な石造物。お寺や神社などにも数多く存在する石造物でありながら、地震等で倒壊しやすく、意外にも江戸時代のものですら数は多いとは言えません。

 

下矢田・川間お塚の日記念仏塔

 基本的には女性たちの念仏講で造塔されたもの。日記念仏塔としては県内最古。毎月、特定の日(功徳日)に集まって年に十二回、念仏を唱えていたようです。この念仏塔は聖観音を主尊としていますが、このすぐ近くの墓地には阿弥陀如来を主尊とする日記念仏塔があります。市内にはこのほかに山倉共同墓地内の三山塚上と石塚墓地内に阿弥陀如来を主尊とする日記念仏塔があります。市内で合わせて5基の日記念仏塔を確認しており、希少な石造物です。

 川間お塚は基本的には三山塚(供養塚)ですが、人工的に築かれたとは思えないほどの高さと規模があり、自然の丘陵部を利用しているのかもしれません。テレビのロケ地に使われることがある小湊鉄道の川間駅のすぐ近くにあります。

 

 

本郷西光寺結界石「禁芸術͡賈買輩」

 結界石にはよく「不許葷酒入山門」などと刻まれていて、禅宗寺院に多く見られますが、他の宗派でも結界石は存在します。左手の結界石が上の写真のものですが、右側には「不許葷酒入山門」と刻まれた結界石が建てられています。

 「芸術͡賈買輩」とは旅芸人や物売りなどの俗人を指し、修行の妨げになるとされて彼らが山門内に入り込むことを禁じた石塔になりますので門前に置かれるのが普通。飯給の真高寺などにも同様の文言の結界石がありますが、市内では数が少なく、希少です。なお西光寺という寺は別に日蓮宗のお寺もありますのでお間違えなきよう。

§6.125.市原における石造物の聖地その2

 

 今回は高坂の石造物を見ていきます。高坂の集落には昔ながらの道が残っていて要所要所に江戸時代の石造物が残されております。歴史的農業環境システムの比較図で右側下にある玉前神社からスタートしましょう。神社は近年、焼失してしまったのでしょうか、新しく再建されております。写真は再建前のものですので現在の様子とはかなり異なっている点はご承知おきください。

 

 

 神社から少し坂を上って左手、高坂の集落に入る道の左手のお堂に地蔵が祀られています。玉子型の長円形の整ったお顔は享保時代の典型です。18世紀後半に入りますと倒壊して頭が落ちてしまうのを避けるためなのか、心持ち首が太くなるなどやや寸胴なスタイルが目立ってきます。

 高坂の集落内に頭の落ちてしまった地蔵と廻国塔が祀られています。廻国塔供養塔とありますが、墓石ではなく、高坂の人が六十六か国の廻国を成就した記念に建てた石塔であると考えられます。路傍に建てられており、この道が多くの巡礼者の行き交う道であったことが推察できるでしょう。

路傍に祀られた文字塔の馬頭観音:文化12年(1815)

 

 民家の中に入るかのような道に入っていくと庚申塔などが祀られています。

 

 集落から北東方向、二車線の道路に向かうと薬王寺(新四国八十八か所の二十三番)の近くに出ます。

 市内の真言宗寺院によく見られる角柱宝塔型の宝篋印塔です。基壇を階段状に複数設けて高層化させていますので、かなり重厚感があります。

 安須は道の駅近くに鎌倉街道上総道も通っていて安須や高坂近くの浅井小向、相川、光風台のある中高根、上高根地区にも数多くの見どころがあり、非常に興味深い地域です。この一帯はできれば時間をかけて丹念に見て回りたい、市内でも有数の素晴らしい歴史散策コースですので、興味のある方はぜひ散策してみて下さい。

§6.124.市原における石造物の聖地その1

 

 市原市内で不思議なほどに江戸時代の石造物が集中して見られる場所が一か所あります。今回はその地域をピックアップして主な石造物をご紹介いたしましょう。まず下の歴史的農業環境システムの比較図をご覧ください。

 小湊鉄道の上総山田駅の西に向かって伸びる道路を進むと養老川を渡る橋に出ます。渡った先が安須地区になります。右の地図の上の方に緑文字で「道の駅」とありますがここも安須になります。この施設の背後には高台があり、高台には小さな円墳が残っていて古くから集落があったことが分かります。この近くにも川の近くに神社やお寺、墓地があり、興味深い江戸時代の石造物がいくつも残っています。

 ただし今回はそこから少し南の、上総山田駅から西に向かって歩いて訪れる石造物探索スポットをまずご紹介いたします。本来のポイントは安須地域から道路を挟んで反対側の高坂地域をも含みますので次回、高坂地区の石造物を見ていくことになります。トータルではかなり広い地域に思えますが、実際には3時間もあれば余裕ですべての石造物を見終えてしまう範囲でしょう。

 安須、高坂地区に江戸時代の石造物が多く見られる背景にはここに新四国八十八か所の札所が二か所あることに加えて近くには中世の美麗な石造物を伝える常住寺や平安時代の仏像を伝える日光寺、江戸時代に関宿藩主久世広周らの信仰を集めた鶴峯八幡などの有力な神社仏閣がひしめいていることが考えられます。つまりこの地域はかなり古くから、巡礼のために多くの人々が行きかう場所であり、幾筋もの巡礼の道が伸びていたのです。

 上の比較図の迅速測図(左側)では正壽院(真言宗:新四国八十八か所の二十四番札所)という寺院が記されております。現在は小さなお堂と石造物が残されているばかり。しかし日枝神社の石段付近にもいくつかの興味深い石造物があります。順に見ていきましょう。

 まず正壽院の石造物ですが、地蔵と札所塔(二十四番)、光明真言塔が残されています。それに石段付近には丁寧に浮き彫りで彫られている火炎光背をもつ不動明王が祀られております。真言宗や天台宗の寺院が多い市原ですが、意外にも不動明王の石造物は少なく、こちらは貴重な信仰遺産の一つ。

 

 

 宮物の多くを江戸の石工に頼んでいた市原の村々も、19世紀に入ると地元の石工に宮物を頻繁に発注するようになりました。青柳は海辺の村なので隣の今津村とともに古くから石工が工房を構えていたようです。なお狛犬を担当した青柳の佐吉の名は海保神社の狛犬にも登場しています。また石段を任されたのはここから少し下流に位置する大坪の石工滝瀬義恭(よしやす)です。

 鳥居を担当したのは姉崎の大嶋久兵衛で市原郡を代表する名工でした。久兵衛はまだ若く、棟梁になりたてだったのでしょうか、力強さを感じさせる明神鳥居(市内で最も多く見られるタイプ)です。

 さて石段はかなり勾配がきつくて怖いので、右手の舗装された道路を歩くことをオススメいたします。のぼった先の右手は墓地になっていますが、三山塚があり、おそらくこの付近に据えられていたであろう庚申塔や道標などもここに集積されていますので、ご紹介いたします。

 右は「標識塔」としてありますが、コンクリートのせいで下部が判読しにくくて困ります。「南無遍照金剛」とあるので「宝号塔」と称すべきかもしれません。

 

 左の二十三夜塔の主尊は観音菩薩と区別しにくい普賢菩薩です。いかにも女性好みの小さくて可憐な浮彫が魅力的。月待講の遺産ですからおそらく月に向かって手を合わせ、祈りをささげているお姿なのでしょう。右の廻国塔を兼ねた道標はこの近くにあったものがここに運ばれてきたかもしれません。「遠州」(静岡)出身の六部「正道法師」がここで病を得て亡くなったようです。

 上は三山塚上の石造物で願主はなぜか香取郡の人。

 三山塚の傍らに祀られています。この形態の石塔は市原では珍しいものです。

 

 墓地内は以上です。下から上がってきた道を右に曲がってここまで来ました。ここでUターンして戻り、さらに南に向かうと日枝神社入口の手前で馬頭観音が道から少し離れた場所に祀られています。笠付き角柱塔の、場違いなほどに贅沢な造りです。

 実は日枝神社境内には江戸時代の石造物が見当たりませんので、通り過ぎましてしばらく道なりに南へ進みますと高坂の墓地内に入ります。ここにも三山塚があり、江戸時代の石造物が残されています。

 今回はここまでといたします。次回は光風台の東の縁を抜ける広い二車線の道を挟んだ西側の地区(高坂)を見ていきましょう。

§6.市原の郷土史123.深城の見どころ

 市原市深城は東京湾に面した姉崎からやや内陸部に向かった所に位置し、集落の北側を館山自動車道が通っている。歴史散歩に特に適しているのは深城の南側半分であり、特に上の地図の上端、谷津田が細長く東西に伸びている場所で、古くから谷津の北側に沿って集落が形成され、歴史的景観を味わえる神社やお寺がある。

 

 

 下の迅速測図(左側)を見ると、この地区の地理的特徴がつかみやすい。台地状の丘陵地帯の奥深くまで谷津地形が複雑に食い込んでいる。縄文海進の昔にはおそらくリアス海岸だったのだろう。谷津の縁に沿って集落と道が東西に伸びていて、両側は丘陵部となっているため、集落内に入ると、都市部の喧騒とは無縁の、他とは隔絶されたような長閑な田園風景が楽しめる。丘陵の上は比較的平坦で名産の大根などの畑地が一面に広がっている。

 

 今回、ご紹介するのは集落内の熊野神社と無量寿寺(真言宗)、丘陵上の三山塚(少年野球のグランド脇)と不動明王を祀る塚(上のグーグル地図の右下隅に位置)。

 なお、集落の南端に上総鎌倉街道が一部、残っており、御所覧塚がある。

 

 

・熊野神社

 

狛犬:天保8年(1837)

 

川上南洞書「日韓合邦紀念銀杏樹」碑:年代判読困難。明治末年か? 日韓併合は1910年

 

石灯籠:嘉永3年(1850)  石工 御園藤吉(袖ケ浦林村)

 

手水鉢:文久2年(1862) 石工 御園藤吉

 

庚申塔:延宝3年(1675)

 

本殿は一間四方の流造で小さな割に丁寧な彫刻が随所に施されおり、石垣に上に建つ。彫刻には江戸後期の特色が伺える。いかにも村の鎮守らしく、本社も集落を見下ろす高台に立地している。

 

・無量寿寺

 

二基とも光明真言読誦塔:左 判読困難・右 嘉永元年(1848)

 

    地蔵台座・基礎:文化6年(1809)      六地蔵台座・基礎:正徳2年(1712

地蔵は倒壊しやすく、欠損が多い。ここも多くが台座のみ残っている。

 

庚申塔:宝暦11年(1761)

 

石段塔:寛政4年(1792)石工 姉崎村 古川辰五郎

 

宝篋印塔:文字の磨滅が激しく判読困難。石工は木更津の高橋八郎右衛門なので1760年代前後に造塔か?(→西国吉医光寺のものは宝暦14年=1764)

 

・三山塚(野球グランド脇)

 

大日如来(湯殿山供養塔):享保12年(1727)

 

大日如来(湯殿山供養塔):寛政9年(1797)

 

湯殿山供養塔(文字塔):明和2年(1765)

 

・不動明王

塚状の盛り土の傍らに建つ

 

不動明王塔:文政7年(1824)

密教で尊崇される不動明王の石造物は真言宗寺院の多い市原市内では意外にも残存数が少ない。

 

 

 

122.京葉高校を起点とする歴史散策コースⅡ

 今回は京葉高校を起点に島野方面に向かって移動します。まずは相葉商店、京葉高校の校門(西側)あたりをスタート地点として順に見ていきましょう。左側迅速測図の左隅の赤い印は島野の三光院。真ん中やや右下に京葉高校が位置します。

 

 上の地図(GoogleMap)の右下隅に京葉高校があります。そこから西方向、田んぼの中に墓地と古川神社があるので見てみましょう。最終目的地は地図の左上隅、三光院です。

 西側の校門から道路を西方向に道なりに進みます。工務店のところを右に折れて田んぼの中を進むと右手に三光院の墓地が見えてきます。

 

墓地の右手前に三山塚があり、石造物がいくつか祀られています。

 

  廻国塔・大日如来塔(明和元年=1763)   大日如来塔(湯殿山供養塔)(享保4年=1719)

江戸時代、市原地区では真言宗寺院が多かったこともあり、出羽三山詣でが盛んでした。

 

 田んぼの中にポツンとある古川神社。小さな石祠があるだけですが、神社名が示すようにかつてこの側に養老川が流れていたのかもしれません…100mほど先は内房線。

 ここから線路近くまで進んでから線路沿いに姉崎方面へ向かい、踏切を超えて島野の集落に入ります。下の地図で左上隅にある墓地に向かいます。住宅地の中にあるので入口が分かりにくいでしょうが、左に入っていく道に折れます。

 

 

・島野墓地

頭部は欠損

 角柱宝塔型の宝篋印塔で三光院の境内にあるものと比べるとかなり高層化している。高層化は市内では18世紀中頃以降から見られる特徴。

 

墓地から139号線を北上すると100メートルほどで三光院

 

・三光院(真言宗智山派):新四国八十八か所第六十三番

 

手水鉢:享保20年(1735)か?摩滅していて判読困難

 

  角柱宝塔型宝篋印塔:享保16年(1731)   庚申塔:文化14年(1817)か?石工は関佐七

   念仏講や光明真言講によって造立

 

馬頭観音の道標:天明2年(1782)

「西 姉崎一里 高蔵五里 東 牛久三里 笠森四里」

 

  大日如来報身真言塔:明和3年(1766)          宝塔:年代等不明

     「アビラウーンケン」

 

札所塔(63番):側面が見えず年代等判読不能

「五井町歴史年表」によると天明3年(1783)

※「五井町歴史年表」は五井周辺ならば石造物の年号等の文字が判読不能の際には役立つ資料。

 

      庚申塔:享保9年(1724)         子安観音:寛政10年(1798)

 

121.京葉高校を起点とする歴史散策コースⅠ

 前回は飯沼方面をご紹介いたしましたので、今回は島野、野毛方面をご案内いたしましょう。

 左側の迅速測図(歴史的農業環境システムの比較図より)を見るとかつて洪水が繰り返されていた場所、現在は京葉高校となっている地帯を守るべく、土手が堤防の役割を持って巡らされていたことが分かる。またいかにも氾濫原らしく、緑色のゾーン、葦などが群生する低湿地帯が数多く点在していることにも気づく。

 右側の現在の地図を見ると氾濫が繰り返された土地である野毛、町田、二十五里には砂地が多く、その水はけのよさから現在は果樹園、特に梨の栽培が盛んになっていることが分かる。

 左側の迅速測図にある左端の赤い印が三光院の場所。今回は島野の南東側から野毛を中心に京葉高校から歩いていける範囲内の見どころを挙げていく。

 

 これは昭和21年(1946)に撮影された空中写真(国土地理院)であるが、京葉高校のある辺りはかつて人家がほとんどなく、もっぱら畑が広がっていたようだ。

 左の迅速測図の赤い+印は現在、相葉商店や飯沼の三山塚がある地点。ここから島野方面へ伸びていく狭い道はかなり古い。また京葉高校のグランド側の神社が連なる道、さらに正門前から野毛方面への道も狭いながら、昔からあった。

 

 交差点付近の道は昔と大差ないが、現在の交差点の場所は10m余り西北西の方角にズレているため、道路に面した野毛側に位置する家の多くは島野に属している。実はかつての道が住宅地の間にわずかに残されていて古びた馬頭観音(文字塔)が祀られており、その道の右(東)側から野毛となっている。右の現在の地図では法泉寺を示す卍印の左手、南北に走る短くて細い道が江戸時代の道。⛩印は白幡神社である。なおこの辺りのことはもっぱら郷土史家の青柳至彦氏の調査、論考に負うところが大きい。

 

 グーグルマップで確認すると右上の墓地の南側の空き地があり、そこから細い道が南西方向に伸びていて、交差点の右側二軒目と三件目の境に細い道が通っている。その道の右手に二基の風化が著しい馬頭観音が祀られている。また空き地と馬頭観音の中間地点に祠が二基祀られている。

 

年代等不明の馬頭観音(文字塔)二基

 

年代等は不明だが青柳氏によると江戸時代は「疱瘡爺様」「疱瘡婆様」と呼ばれていたという。ここは

野毛村と島野村との境になるので疫病神の侵入を防ぐために村境に祀られた可能性はあるだろう。

 

墓地は縄文末期の低地性貝塚の上にあるので、墓地内の奥に行くと貝殻が数多く散らばっている。縄文海進期には海だったが、縄文晩期、寒冷化して海退期となると現在の平野部が陸地化した。市内の平野部では珍しい低地性貝塚で、わずかな微高地を利用したものと思われる。同様の低地性貝塚は菊間や八幡、姉崎(妙経寺)にも見られる。

 

野毛法泉寺(顕本法華宗)

 

    馬頭観音:天保15年(1844)             生馬神社碑

      馬の供養塔かもしれない         おそらく馬の無病息災を祈願したもの

 

題目塔:寛政9年(1797) 

 

 

飯島吐月(1727~1780):青柳至彦氏によると吐月は野毛村の生まれ。飯島家は代々、名主を務める名家で文人墨客が訪れる事も多かった。20歳頃には俳句の道に没頭し始め、寛延3年(1750)に雪中庵大島寥太の門下に入る。以降、吐月と号し、寥太筆頭の弟子となる。寥太は9歳年下の吐月に大きな期待を寄せるとともに飯島家の財力にも期するところ大きく、自身の後継者の一人に据えていたようである。吐月ら市原の有力な門人達(他に寿躰・其躰…武士の人、吏仙…高根村の人でここにも寥太は幾度か身を寄せている)が雪中庵の後援を惜しまずに行ったことが雪中庵の名を全国に広めることに大きく貢献していたようである。

 しかし吐月は安永9年(1780)突然、病に倒れ、9月4日、不帰の客となる。行年54歳。

辞世の句「残すべき はもなき秋や 蝉のから」

大島寥太も「我やけふ 片手もげたる きりぎりす」の句を残した。

 

 

     石灯籠:文化11年(1814)        宗祖・開山供養塔(安永9年=1780)

                         宗祖は日蓮、開山(妙満寺派の派祖)は日什

 

白幡神社

 

手水鉢:寛政8年(1796)

 

水神関係の祠が多い。水害のためだろうか、破損が見られ、元号等確認できない祠が少なくない

 

     水神宮:弘化2年(1845)

 

神社近くの集落内に祀られた八坂神社の祠。残念ながら年代等は不明だが奥行きと重厚感があり、18世紀前半までは遡れそうな立派な造りである。

 

120.飯沼の見どころと京葉高校

 左側の迅速測図(歴史的農業環境システムの比較図より)を見ると飯沼が置かれている厳しい自然条件がよく分かるだろう。左の赤い+印は京葉高校にあたるが、かつてはこの地域が出津と並んで洪水が多発した地点であることが察せられる。平野部に流れ込んだ養老川が最も激しく蛇行するのがこの周辺だったのだ。

 かつての飯沼集落は龍昌寺と春日神社に挟まれた、かなり小さな集落だったことが左側の迅速測図で分かる。右の地図で見るとJR内房線が走るところから南側はかつて人家がほとんど存在していなかったのだ。主に島野村から出ていった村人が川に沿って広がる氾濫原だった低湿地帯を次々と開墾し、長い時間をかけて集落を形成、その周辺を徐々に水田に変えていったのだろう。飯沼村の枝村として松ヶ島が発足するのは16世紀末のことなので、古い歴史を持つ島野村の枝村として飯沼が成立するのは松ヶ島よりも古く、意外にも中世中頃まで遡れるかもしれないが、残念ながら頻繁に繰り返された洪水によって中世まで遡れる遺物は飯沼ではほとんど確認できていない。

 

 

龍昌寺(曹洞宗)と聖徳太子堂

 

聖徳太子堂:地図上では龍昌寺と別表示だが、由来から見て元来、両者を区別する必要は無さそうだ。

 

聖徳太子堂由来:現代語訳は立野晃氏による。

   万治元年(1659)、通阿の記すところでは、縁起によれば天仁元年(1108)、入沼村の龍昌禅師の夢枕に春日明神が現れ、「川向こうの水底に聖徳太子16歳時の尊像が埋もれているのでこれを引き揚げて多くの人々に拝ませよ。信仰すれば村里は繁栄するであろう」とのお告げがあり、村人が川底から生けるが如き太子像を掘り起こしたという。太子像はかねてより信仰されていた薬師如来と共にお堂を建てて安置し、薬王山龍昌寺と称した。明暦の頃、江戸小田原町の大和屋勘兵衛なる者が失明した両眼の治癒を祈願したところ開眼し、以後近郷近在の者が目や耳の平癒を願って数多く参詣するようになったという。

 建物自体はさほど大きくないが、堂の周りに勾欄を巡らし、重層入母屋屋根の重厚かつかなり手の込んだ造りをしているように見える。

 

向拝に据えられた見事な龍の彫り物

 

手水鉢:天明7年(1787)

 

島野村の菊間氏が奉納

 

日清戦争従軍戦馬碑:明治27年(1894)

 

     子安観音:文政11年(1828)       龍昌寺 庚申塔:天明3年(1783)

 

馬頭観音:享保19年(1735)        十九夜塔:享保9年(1725)

 

                    川岸の石工 関佐七の石塔:文化7年(1810)

願主は菊間氏で文化7年(1810)のもの

※元号の部分は剥落しているが、関佐七が活躍したのが1810年代、及び「~七歳 庚午」から年代を

 特定。ただし本寺院は低地に立地しているので石段塔とは思えず、何を造った際の石塔なのか不明。

 

戊辰戦争で請西藩に従軍し、箱根で戦死した小倉由次郎の墓:慶応4年(1868)

 

春日神社

鳥居の台石が二つあるが手前のものは文政4年(1821)のものでかつては木の鳥居だったようだ。

 

 

富士塚

富士塚内の御嶽神祠:天保3年(1832)

 

手水鉢:安政6年(1859)

 

菊間氏とともに旧家として名主を歴任していた小倉氏が奉納

 

 

 

 

石祠群

 

祠:文化15年(1818)           祠:文化2年(1805)

 

       道祖神祠:弘化年間              祠:文化2年(1805)

 

 

・飯沼三山塚と京葉高校

 昭和41年(1966)の空中写真。右側の太い水色の線はかつての養老川。かつて養老川は京葉高校の南側から急激に東寄りに流れを変えていたため、高校の南側は洪水多発地点であった。そのためもあって戦後、川の急激な湾曲を緩やかにして洪水を防ぐために現在の流路に変えたようである。

 

黄色い星印は右上から順に子の神社、日枝神社、三山神社(三山塚)

 紺色の太線が現在の養老川、赤線は戦前までの川の流れ。かつての川の氾濫の痕跡であろう。川の周辺には大きな池があちこちにあった(左図、左下と右側の水色の枠)。

 

霞橋を渡り、京葉高校に向かう途中、右手に見えるのが「子の神社」

なお左側の4階建の建物は現在、存在しないため、今はここからでも京葉高校のグランドが見える。

 

子の神社:石垣で祠がかさ上げされている点からもかつて水害がひどかったことが察せられる。

 

 京葉高校のグランドの手前、道の右手に「子(ねの)神社」と呼ばれる小さな神社がある。さらにその先、少し離れてはいるが相葉商店の手前には日枝神社がある。そして相葉商店の裏には三山神社がある。高校前の道を挟んで三つの神社が列をなしているって一体どういうことだろう。

 何でこんなに神社がこの場所に集中しているのか、というと実はこの場所が川の洪水に度々、見舞われていたことと深く関連があるようなのだ。

 

   黄色い★印は「古川神社」。神社名からみて古くはここを養老川が流れていたのかもしれない。緑色で示した京葉高校の敷地もまたかつては川の流路であった。となると村境は決壊を繰り返す川によって度々攪乱され、洪水のたびに境界を巡る飯沼村と島野村同士の争いは不可避だったようなのだ。そこで飯沼村と島野村は話し合いの末、村境に神社を並べることで、洪水に便乗して境を超えて田畑を増やそうとする不心得者には神罰を与えると脅しをかけて村境の改変を戒めたのではないか、と考えられる。京葉高校前の道付近が飯沼村と島野村との境界だったのだが、実は今も高校側は島野に、神社が並ぶ道の反対側は飯沼に属している。

 

飯沼三山塚:かつては木々が生い茂っていたが、最近、伐採されてしまった。

 三山塚を神社として捉えるケースも少なからずある。元来、修験道は仏教と神道との習合から生まれた信仰なのでお寺の境内や墓地内に築かれることも多く、場所によっては三山神社、あるいは湯殿山神社として祀られることもある。

 

湯殿山の本地仏大日如来坐像:寛文3年(1663)

 

台座部分は文字が読みやすい

 

台座部分は文字が読める

 

光背(船型)は割れた跡が大きく残り、文字は一部欠損

 

     逆修塔:文化10年(1813)          三山供養塔:嘉永4年(1851)

  かつては存在していたが今は見当たらない。

 

 

119.畑木の見どころ(後編)

・畑木神社

 

     鳥居:文化14年=1817                 力石

 

狛犬:文政10年(1827)

 

石灯籠:文政9年(1826)

 

 

手水鉢:寛政11年(1799)

 

 

                        富士塚(一山講)

 

      富士塚上の年代不明の祠            阿夫利神社碑(年代不明)

 

・医王寺(真言宗)

札所塔:天明3年(1783)  新四国八十八か所「第五十番」

 

    御宝号塔天明3年(1783)        石階寄付塔:寛政12年(1800)

 

     地蔵:正徳6年(1716)         手洗い鉢(下):元文6年(1741)

 

手洗い鉢:元文6年(1741)

 

梵天が祀られており、現在はこちらが三山塚の役割を果たしているようだ。

 

廻国塔:天保9年(1838) 中供養

 

  三山・坂東秩父供養塔:文化8年(1811)     光明真言読誦塔:寛政12年(1800)

 

 馬頭観音(駒型文字):延享3年(1746)

 

「平胤保」と刻まれた小さな石塔(詳細不明)

※辻井義輝氏の「旧市原郡今富村本陣名主千葉家の歴史」(2022年)によると今富の千葉家の先祖千

 葉精胤(よしたね?)の妻の父親が「本庄新六郎胤保」と名乗っている。「胤」が名前につくことか

 ら本庄氏も千葉氏と同じく平氏の末裔と考えられなくもないだろう。

  なお、今富の千葉家の先祖、精胤はかつて根本村(松戸市内)で育ったが天正14年(1586)に今

 富に移住したと伝え、江戸時代は生まれ育った根本村にちなむ根本姓を名乗り、根本藤右衛門と称し

 たという。ただし石塔自体はそう古くはあるまい。石階寄付塔(寛政12年=1800)など、他の石造

 物に登場する人物名を確認すべきかもしれない。

 

南北朝期の宝篋印塔:塔身部分が欠損し後補 隅飾りが垂直に近い古式の関東型

※基礎部分が四角く二か所に区分されているのが関東型の特徴

 

三山塚:前編で紹介した庚申塔や馬乗り馬頭観音の道標などが祀られている古墳と思しき塚から南南東方面、山中に入る細い道を行く。

三山塚:19世紀中ごろの石造物が一基だけあり、他は近代以降のものなのでこの塚自体は比較的新しい時期のものと推察。

 

大日如来(湯殿山供養塔):嘉永5年(1852)