120.飯沼の見どころと京葉高校

 左側の迅速測図(歴史的農業環境システムの比較図より)を見ると飯沼が置かれている厳しい自然条件がよく分かるだろう。左の赤い+印は京葉高校にあたるが、かつてはこの地域が出津と並んで洪水が多発した地点であることが察せられる。平野部に流れ込んだ養老川が最も激しく蛇行するのがこの周辺だったのだ。

 かつての飯沼集落は龍昌寺と春日神社に挟まれた、かなり小さな集落だったことが左側の迅速測図で分かる。右の地図で見るとJR内房線が走るところから南側はかつて人家がほとんど存在していなかったのだ。主に島野村から出ていった村人が川に沿って広がる氾濫原だった低湿地帯を次々と開墾し、長い時間をかけて集落を形成、その周辺を徐々に水田に変えていったのだろう。飯沼村の枝村として松ヶ島が発足するのは16世紀末のことなので、古い歴史を持つ島野村の枝村として飯沼が成立するのは松ヶ島よりも古く、意外にも中世中頃まで遡れるかもしれないが、残念ながら頻繁に繰り返された洪水によって中世まで遡れる遺物は飯沼ではほとんど確認できていない。

 

 

龍昌寺(曹洞宗)と聖徳太子堂

 

聖徳太子堂:地図上では龍昌寺と別表示だが、由来から見て元来、両者を区別する必要は無さそうだ。

 

聖徳太子堂由来:現代語訳は立野晃氏による。

   万治元年(1659)、通阿の記すところでは、縁起によれば天仁元年(1108)、入沼村の龍昌禅師の夢枕に春日明神が現れ、「川向こうの水底に聖徳太子16歳時の尊像が埋もれているのでこれを引き揚げて多くの人々に拝ませよ。信仰すれば村里は繁栄するであろう」とのお告げがあり、村人が川底から生けるが如き太子像を掘り起こしたという。太子像はかねてより信仰されていた薬師如来と共にお堂を建てて安置し、薬王山龍昌寺と称した。明暦の頃、江戸小田原町の大和屋勘兵衛なる者が失明した両眼の治癒を祈願したところ開眼し、以後近郷近在の者が目や耳の平癒を願って数多く参詣するようになったという。

 建物自体はさほど大きくないが、堂の周りに勾欄を巡らし、重層入母屋屋根の重厚かつかなり手の込んだ造りをしているように見える。

 

向拝に据えられた見事な龍の彫り物

 

手水鉢:天明7年(1787)

 

島野村の菊間氏が奉納

 

日清戦争従軍戦馬碑:明治27年(1894)

 

     子安観音:文政11年(1828)       龍昌寺 庚申塔:天明3年(1783)

 

馬頭観音:享保19年(1735)        十九夜塔:享保9年(1725)

 

                    川岸の石工 関佐七の石塔:文化7年(1810)

願主は菊間氏で文化7年(1810)のもの

※元号の部分は剥落しているが、関佐七が活躍したのが1810年代、及び「~七歳 庚午」から年代を

 特定。ただし本寺院は低地に立地しているので石段塔とは思えず、何を造った際の石塔なのか不明。

 

戊辰戦争で請西藩に従軍し、箱根で戦死した小倉由次郎の墓:慶応4年(1868)

 

春日神社

鳥居の台石が二つあるが手前のものは文政4年(1821)のものでかつては木の鳥居だったようだ。

 

 

富士塚

富士塚内の御嶽神祠:天保3年(1832)

 

手水鉢:安政6年(1859)

 

菊間氏とともに旧家として名主を歴任していた小倉氏が奉納

 

 

 

 

石祠群

 

祠:文化15年(1818)           祠:文化2年(1805)

 

       道祖神祠:弘化年間              祠:文化2年(1805)

 

 

・飯沼三山塚と京葉高校

 昭和41年(1966)の空中写真。右側の太い水色の線はかつての養老川。かつて養老川は京葉高校の南側から急激に東寄りに流れを変えていたため、高校の南側は洪水多発地点であった。そのためもあって戦後、川の急激な湾曲を緩やかにして洪水を防ぐために現在の流路に変えたようである。

 

黄色い星印は右上から順に子の神社、日枝神社、三山神社(三山塚)

 紺色の太線が現在の養老川、赤線は戦前までの川の流れ。かつての川の氾濫の痕跡であろう。川の周辺には大きな池があちこちにあった(左図、左下と右側の水色の枠)。

 

霞橋を渡り、京葉高校に向かう途中、右手に見えるのが「子の神社」

なお左側の4階建の建物は現在、存在しないため、今はここからでも京葉高校のグランドが見える。

 

子の神社:石垣で祠がかさ上げされている点からもかつて水害がひどかったことが察せられる。

 

 京葉高校のグランドの手前、道の右手に「子(ねの)神社」と呼ばれる小さな神社がある。さらにその先、少し離れてはいるが相葉商店の手前には日枝神社がある。そして相葉商店の裏には三山神社がある。高校前の道を挟んで三つの神社が列をなしているって一体どういうことだろう。

 何でこんなに神社がこの場所に集中しているのか、というと実はこの場所が川の洪水に度々、見舞われていたことと深く関連があるようなのだ。

 

   黄色い★印は「古川神社」。神社名からみて古くはここを養老川が流れていたのかもしれない。緑色で示した京葉高校の敷地もまたかつては川の流路であった。となると村境は決壊を繰り返す川によって度々攪乱され、洪水のたびに境界を巡る飯沼村と島野村同士の争いは不可避だったようなのだ。そこで飯沼村と島野村は話し合いの末、村境に神社を並べることで、洪水に便乗して境を超えて田畑を増やそうとする不心得者には神罰を与えると脅しをかけて村境の改変を戒めたのではないか、と考えられる。京葉高校前の道付近が飯沼村と島野村との境界だったのだが、実は今も高校側は島野に、神社が並ぶ道の反対側は飯沼に属している。

 

飯沼三山塚:かつては木々が生い茂っていたが、最近、伐採されてしまった。

 三山塚を神社として捉えるケースも少なからずある。元来、修験道は仏教と神道との習合から生まれた信仰なのでお寺の境内や墓地内に築かれることも多く、場所によっては三山神社、あるいは湯殿山神社として祀られることもある。

 

湯殿山の本地仏大日如来坐像:寛文3年(1663)

 

台座部分は文字が読みやすい

 

台座部分は文字が読める

 

光背(船型)は割れた跡が大きく残り、文字は一部欠損

 

     逆修塔:文化10年(1813)          三山供養塔:嘉永4年(1851)

  かつては存在していたが今は見当たらない。