121.京葉高校を起点とする歴史散策コースⅠ

 前回は飯沼方面をご紹介いたしましたので、今回は島野、野毛方面をご案内いたしましょう。

 左側の迅速測図(歴史的農業環境システムの比較図より)を見るとかつて洪水が繰り返されていた場所、現在は京葉高校となっている地帯を守るべく、土手が堤防の役割を持って巡らされていたことが分かる。またいかにも氾濫原らしく、緑色のゾーン、葦などが群生する低湿地帯が数多く点在していることにも気づく。

 右側の現在の地図を見ると氾濫が繰り返された土地である野毛、町田、二十五里には砂地が多く、その水はけのよさから現在は果樹園、特に梨の栽培が盛んになっていることが分かる。

 左側の迅速測図にある左端の赤い印が三光院の場所。今回は島野の南東側から野毛を中心に京葉高校から歩いていける範囲内の見どころを挙げていく。

 

 これは昭和21年(1946)に撮影された空中写真(国土地理院)であるが、京葉高校のある辺りはかつて人家がほとんどなく、もっぱら畑が広がっていたようだ。

 左の迅速測図の赤い+印は現在、相葉商店や飯沼の三山塚がある地点。ここから島野方面へ伸びていく狭い道はかなり古い。また京葉高校のグランド側の神社が連なる道、さらに正門前から野毛方面への道も狭いながら、昔からあった。

 

 交差点付近の道は昔と大差ないが、現在の交差点の場所は10m余り西北西の方角にズレているため、道路に面した野毛側に位置する家の多くは島野に属している。実はかつての道が住宅地の間にわずかに残されていて古びた馬頭観音(文字塔)が祀られており、その道の右(東)側から野毛となっている。右の現在の地図では法泉寺を示す卍印の左手、南北に走る短くて細い道が江戸時代の道。⛩印は白幡神社である。なおこの辺りのことはもっぱら郷土史家の青柳至彦氏の調査、論考に負うところが大きい。

 

 グーグルマップで確認すると右上の墓地の南側の空き地があり、そこから細い道が南西方向に伸びていて、交差点の右側二軒目と三件目の境に細い道が通っている。その道の右手に二基の風化が著しい馬頭観音が祀られている。また空き地と馬頭観音の中間地点に祠が二基祀られている。

 

年代等不明の馬頭観音(文字塔)二基

 

年代等は不明だが青柳氏によると江戸時代は「疱瘡爺様」「疱瘡婆様」と呼ばれていたという。ここは

野毛村と島野村との境になるので疫病神の侵入を防ぐために村境に祀られた可能性はあるだろう。

 

墓地は縄文末期の低地性貝塚の上にあるので、墓地内の奥に行くと貝殻が数多く散らばっている。縄文海進期には海だったが、縄文晩期、寒冷化して海退期となると現在の平野部が陸地化した。市内の平野部では珍しい低地性貝塚で、わずかな微高地を利用したものと思われる。同様の低地性貝塚は菊間や八幡、姉崎(妙経寺)にも見られる。

 

野毛法泉寺(顕本法華宗)

 

    馬頭観音:天保15年(1844)             生馬神社碑

      馬の供養塔かもしれない         おそらく馬の無病息災を祈願したもの

 

題目塔:寛政9年(1797) 

 

 

飯島吐月(1727~1780):青柳至彦氏によると吐月は野毛村の生まれ。飯島家は代々、名主を務める名家で文人墨客が訪れる事も多かった。20歳頃には俳句の道に没頭し始め、寛延3年(1750)に雪中庵大島寥太の門下に入る。以降、吐月と号し、寥太筆頭の弟子となる。寥太は9歳年下の吐月に大きな期待を寄せるとともに飯島家の財力にも期するところ大きく、自身の後継者の一人に据えていたようである。吐月ら市原の有力な門人達(他に寿躰・其躰…武士の人、吏仙…高根村の人でここにも寥太は幾度か身を寄せている)が雪中庵の後援を惜しまずに行ったことが雪中庵の名を全国に広めることに大きく貢献していたようである。

 しかし吐月は安永9年(1780)突然、病に倒れ、9月4日、不帰の客となる。行年54歳。

辞世の句「残すべき はもなき秋や 蝉のから」

大島寥太も「我やけふ 片手もげたる きりぎりす」の句を残した。

 

 

     石灯籠:文化11年(1814)        宗祖・開山供養塔(安永9年=1780)

                         宗祖は日蓮、開山(妙満寺派の派祖)は日什

 

白幡神社

 

手水鉢:寛政8年(1796)

 

水神関係の祠が多い。水害のためだろうか、破損が見られ、元号等確認できない祠が少なくない

 

     水神宮:弘化2年(1845)

 

神社近くの集落内に祀られた八坂神社の祠。残念ながら年代等は不明だが奥行きと重厚感があり、18世紀前半までは遡れそうな立派な造りである。