112.五井守永寺(浄土宗)の見どころ

由緒

 養老年間に行基の開いた光明寺を五井城主松平(形原)家信が慶長13年(1608)に亡くなった母親(家康の母於大の方の姉にあたる)の菩提を弔うため、知恩院第三十二世霊巌大和尚に中興させ、理安寺と名を変えた。かつては字古屋布にあったと記録にある。やがて五井は天領となり、神尾五郎大夫守永の支配するところとなった。 

 1657年の「振袖火事」(明暦の大火)によって神尾の江戸屋敷も焼失したため、理安寺の本堂を江戸に移して屋敷とするようになったが、夜な夜な奇異なことが生じ、翌年に正室が亡くなると恐れをなした神尾は当時、沼地だった現在地を埋め立てて正室の菩提寺として寺を再建し、寺名を守永寺と改称した(万治元年=1658)。

 明治維新期の廃仏毀釈運動によって一時、経済的に困窮し、寺の修理もままならない時期がここでもあったようだ(下、松ヶ島永井家所蔵の明治4年の典券)。明治4年(1871)、守永寺は寺の修復費をねん出するため双盤(法具の一種で念仏などを唱える際に打ち鳴らされる)二面を担保にして松ヶ島の永井家から6円を借りている。

 

 

 大正6年(1917)9月の暴風雨(「大正の大津波」とも呼ばれ、高潮が東京湾沿岸を襲い、特に行徳、浦安などで大きな被害が生じた)で本堂、庫裡が倒壊し、翌7年に再建されたが、さらに昭和47年、五井地区の都市計画事業に伴い、現在の鉄筋コンクリート建て本堂と木造の庫裡が再建された。     

 なお神尾五郎大夫守永は五井の発展にも熱心で町並みの整備も守永寺を中心に町並みを区画したという。たしかに房総往還は波淵のところでいったん左に折れ、まっすぐになったか思うとかつての保健所前バス停のところで右に折れていた。まるで守永寺の境内を迂回するように道は造られていたのである。また神尾氏は塩田の開発を促し、12月の五井大市も彼の時に守永寺境内で始まったという(ただし50年前の記憶では大市は駅前の千光寺境内で開かれていたが)。

 境内には下の写真で示したように商人の奉納した非常に立派な造りの手水鉢「金麗水」(弘化2年=1845)が残されている。なお寺院の手水鉢の場合、このように独自の名前が付けられることがある。

 

 

 

学制頒布後、五井ではもっぱら寺院が小学校とされた。

 

一石六地蔵:延宝4年(1676)

笠付き角柱塔の浮彫によるもので市内では大型の優品に属するだろう。

 

    地蔵廻国塔:宝永6年(1709)          廻国塔:寛政5年(1793)

 

      読誦塔:年代判読困難            読誦塔:享和2年(1802)

 

阿弥陀如来:延宝5年(1677)

市内では大きさもある、古風な優品として注目される。

 

阿弥陀如来の台座に多数の名前が刻まれている。「鈴木、長嶋」は読めるが他は判読困難。しかし工夫次第では読めるかもしれない。17世紀後半の五井の住人を知る上では極めて貴重な遺産だろう。

 

高さ3mほどもある家信の母の供養塔(宝篋印塔)1697年

相輪部が肥大し装飾的になりつつ高層化していった17世紀の宝篋印塔の特色が良く表れている。