118.畑木の見どころ(前編)

 左の迅速測図(歴史的農業環境システムの比較図より)で赤い印がついている地点に三山仮祭祀場跡があり、馬乗り馬頭観音の道標が祀られているが、ここに道標があるのは場所的にやや不自然。もう少し北(上)の旧露崎半四郎宅近く(右の現在の地図で左上の黄色線の道沿い)にあったのではないか。

 畑木は医王寺に14世紀の宝篋印塔が残っており、少なくとも中世には集落が形成されていたのだろう。市原では丘陵地帯と臨海の平野部が接する地域で谷津地形が多く見られる。谷津は飲み水と農業用水の確保が比較的容易であり、古くから集落が形成されやすい地形の一つである。

 集落が細長く展開する谷津を見下ろす丘陵の上には鎮守(畑木神社)や三山塚、丘陵の斜面には寺や墓地が見られるのも、谷津に形成された集落の典型的な姿である。

 

・畑木墓地(かつて妙経寺の末寺)

 

徳川義軍梶塚成志墓

表面は「友人江原素六書

  江原素六(1842~1922)は戊辰戦争時、徳川義軍府(当時、真里谷に本拠を置いて官軍に抵抗していた)第一大隊隊長であった。また江原の先祖は梶塚と同じ幡豆(はず)郡であった。江原は徳川方の為に戦い、五井戦争に先立つ市川・船橋戦争で自ら重傷を負った経緯もあり、戊辰戦争などで犠牲になった人々には極めて同情的だった。また維新後も勝海舟の庇護のもとにキリスト教徒、衆議院議員として旧幕臣の困窮を救うために奔走し、子弟の教育(麻布学園創設…)にも専心した。福沢諭吉らと同様、旧幕臣として生涯を在野で送った人物の一人である。

裏面の碑文

「一死報恩」

  梶塚成志君碑陰記  枢密院顧問官従二位勲一等男爵大鳥圭介題額

慶応三年十月、大将軍徳川慶喜公 上表辞職奉還政権 群下不暁公意所在挙兵団恢復 梶塚君成志時在撒兵隊 其長生島萬之助率隊 脱走寓上総市原郡畑木村露崎半四郎家 将有所為君亦随焉 会官軍来攻放火発砲 我防戦甚力然衆寡 不敵及潰圍遁走望陀郡 君曰人孰無死是吾死所也 乃止戦終死是役死者六人實四年閏四月七日也 

君本姓高瀬氏 通称為三郎 小字増次郎 後改岩吉 父曰勇右衛門 文政8年(1825年)6月15日生 三河幡豆郡友国村 十余歳時 江戸修文講武又善俳句為人矮而寝卓榮負気幕府士梶塚定右衛門養為嗣子娶岡本氏 挙三男二女 長曰大次郎 次曰暎太郎 倶夭季即武松君也承後女長適富山虎童小適伊藤長次郎皆亡 岡本氏賢而有淑徳守節自誓以教育子女為己任武松君既長及共過上総索君遺跡得之畑木村村有一小丘曰小山合葬五人碑石既壊而所題 五人之墓及年月日等字 猶存村民所建当時村吏大野真十郎

検死屍死者六人 近澤岩五郎負傷鼠逃斃于他村 是用別葬所謂 

五人者除君之外姓氏不詳 然是時死屍傍有帖子遺棄由 是知其二為木村清勝 

川崎善太郎 爾餘二人竟不能知其誰云 武松君恐其遺跡湮滅乃更建碑来告曰 

是先妣志也 願子記之仰予徳川遺臣也 

今讀君行状不堪俯仰今昔之感 乃為叙其梗概書於石以貼後之人

 明治41年8月 上瀚  東京  平井参 撰  稲川春 書 伊藤米年?

 

碑文(裏)の概要

「1867年に慶喜公が大政奉還をされて後、幕府方のなかで官軍に抗しようとする者たちが撒兵隊という組織を作り、梶塚君はその一員であった。が、(彼の部隊は官軍に追われて)市原の畑木村の露崎半四郎の家に逃げ込んだ。そこにも官軍が来て攻撃を受け、多勢に無勢、一部を残して多くはさらに望陀郡(本拠地真里谷がある)に向かい敗走していった。しかし梶塚君らはここに踏みとどまって6人が戦死してしまった。慶応4年(1868)閏4月7日の事である。

 梶塚君は元の苗字を高瀬といい、文政8年(1825)、三河幡豆(はず)郡友国村に生まれた。十余歳で江戸に出て文武に励み、俳句を良くした。やがて幕府に仕える梶塚定右衛門の養子となり、岡本氏の娘を娶った。三男二女を設けたが、長男と二男は早く亡くなってしまった。三男の武松君は母と共に上総の地で亡き父梶塚君の遺品を捜し出し、畑木村に梶塚君の消息を訪ねた。

 村には小さな丘があり、当時、五人の死者を葬ったという碑が建てられていたが既に壊れてしまっていた。ただ当時の村役人大野真十郎氏によると6人の死者が出たという。一人は近澤岩五郎であり、負傷し、他村で亡くなったという。残りの五人は梶塚君以外の姓名が分からなかったが、死体の傍らにあった書きつけから木村清勝、川崎善太郎の二人は判明した。残りの二人は不明のままである。

 武松君は父の遺跡が今後亡くなってしまう事を恐れ、母の意を汲んでここに石碑を建て、後世に残すこととした。」  明治41年(1908)8月

※墓地に隣接する旧家、倉持氏によれば祖母から聞いた話として曾祖母が言うには、当時、官軍が裏山

 の竹を伐って義軍の首に突き刺し、意気揚々と引きあげていったという。官軍は義軍の所持していた

 大金が目当てであったと倉持氏は語っていた。

大鳥圭介(1833~1911):播磨赤穂の医者の家に生まれ、適塾で蘭学を習う。ジョン万次郎にも英

 学の手ほどきを受ける。勝海舟と知り合い、幕府に出仕。やがて旗本となる。戊辰戦争では最後まで

 官軍に抗して函館で降伏。後、赦されて明治政府の高官となり活躍、日本の工業、教育の発展に努め

 る。日清戦争勃発時は朝鮮公使。

 

題目塔:天明6年(1786)

 

基礎(願主畑木村女中講):宝暦14年(1764)

 

・三山仮祭祀場跡

小さな古墳かもしれない。

 

馬乗馬頭観音道標:安永9年=1780  「うしく」「あねさき」

 

                      馬頭観音:嘉永2年(1849)

 

庚申塔:元禄7年=1694

 

「仙元(?)大神」祠:天保8年(1837)

本来ならば富士塚に祀られる祠であるが…なぜここに?

 

塚上に「三山祭典仮斎場」の碑(大正15年=1926)

畑木の三山塚はここからさらに細い山道を登った所にあるため、便宜上、ここを舞台にして三山講(八日講)を開いていたのかもしれない。なお医王寺にも三山供養碑があるので細長い集落だった畑木ではかつて三山講を南北に分けて行っていた時期があったと推察するが、いかがだろう。