117.八幡満徳寺と観音町の石造物

 

左側の迅速測図(歴史的農業環境システムの比較図より)でみると八幡がもっぱら港町として発展してきたことがよく分かるだろう。もちろん飯香岡八幡の門前町として、また房州往還の継立て場としても発展してきた側面はあるものの、ここが水運の拠点として古くから重要な役割を果たしてきたことは間違いない。

 

満徳寺は右側の地図ではJR内房線八幡宿駅の北側、郵便局の近くに位置する。観音町の稲毛神社は満徳寺の北北東に位置している。路傍の石造物群は稲荷神社からさらに北北東、かつての房州往還(黄色線)に面し、左の迅速測図では八幡の集落の北端に当たることが分かる。庚申塔の多くが集落の外れ、入り口付近に祀られており、ここの庚申塔もかつてはそうした立地条件に該当していたのである。

 

満徳寺(真言宗豊山派):新四国八十八か所第七十九番

 飯香岡八幡の別当寺霊応寺の塔頭(たっちゅう)首座であった。明治維新期の廃仏毀釈で霊応寺が廃寺となった後も檀家がいたため、満徳寺だけが存続。菊間若宮八幡の別当を兼任したので若宮寺とも呼ばれてきた。なお霊応寺の跡地は今、八幡宿駅となっている。

 

     不動明王像:寛文6年=1666          六地蔵石幢:延享3年=1746

 

不動明王の基礎部分に寛文6年の年号が読み取れる。市内ではこれほど大きくて古い不動明王の石仏は見当たるまい。

 

  札所塔「七十九番」:天明4年(1784)        川上南洞句碑(昭和6年

 

角柱宝塔型宝篋印塔:享保11年(1726)

表面には宝篋印塔陀羅尼経の文言の一部が刻まれている。

 「経云 況有衆人 或見塔形 或聞鐸声 或聞其名 或当其影

  罪障悉滅 所求如意 現世安穏 後生極楽」

 「経にいわく いわんや衆人ありてあるいは塔形を見、あるいは鐸声を聞き、

  あるいはその名を聞き、あるいはその影に当たらば 罪障ことごとく滅し、

  求めるところ意のごとし 現世安穏にして後に極楽に生ずと」

裏面には回向文(えこうもん)が刻まれている。江戸時代の石造物には頻繁に登場するのでこれも紹介しておく。

 「願以此功徳(がんにしくどく) 普及於一切(ふぎゅうおいっさい)

  我等與衆生(がとうよしゅじょう) 皆共成佛道(かいぐじょうぶつどう)」

 

観音町の石造物

 稲荷神社

 

石灯籠:宝暦12年(1762)

笠石の反りがまだ小さく、全体的にすっきりとしたフォルムは大抵17~18世紀のものである。

 

稲荷大明神祠:天明2年(1782)

やや縦長で奥行きが少ない18世紀中頃~後半の形態

 

 痘瘡(=疱瘡:天然痘)神祠:年代等不明

 

・観音町路傍の石造物群

 

     庚申塔:安永7年(1778)          馬頭観音:寛政9年(179