108 .五井龍善院(真言宗豊山派)の見どころ

新四国八十八か所「八十四番札所」

札所塔:天明3年(1783) 施主は時田甚五郎

 

南五井小跡地碑

市原の場合、学制頒布以降に創設された小学校の多くはお寺の本堂を間借りした形で発足。

 

左 戦災地蔵尊:昭和20年5月8日に機銃掃射で死亡した4人の名が記されている。昭和33年建立。

右 馬頭観音:五井馬車組合によって昭和6年(1931)に建てられている。昭和になっても市原では

  馬を飼う農家が多く残っていて馬車の牽引や農耕馬として頻繁に利用されていたのだろう。

 

  角柱宝塔型宝篋印角柱宝塔:寛延2年(1749)     六地蔵石幢:元禄12年(1699)

    石工は江戸八丁堀の和泉屋久兵衛

 

相輪部の欠損した古風な宝篋印塔:寛永7年(1630)

 

17世紀に流行した相輪部が装飾的に肥大し、凹凸感の乏しい宝篋印塔:寛永13年(1636)

 

観音塔:元禄8年(1695)

高いところに祀られているため、詳細不明

 

歴代住職の供養塔:開演の名が注目される

 

補足資料:龍善院中瀬墓地内

     無量寿仏:貞享4年(1687)           廻国塔:宝永5年(1708)

 

三山塚

 

 

 

般若心経一千巻書写供養塔:天保5年(1834)

 

新田の念仏講を世話人にして代々南五井の名主を務めていた新藤家が中心となって建てられたもの

 

無縁仏塔群

墓地内の無縁仏塔群には時折、墓石以外にも廻国塔、道標、馬頭観音、十九夜塔などが紛れ込む。

 

市内唯一の官軍墓

「三士」とは戊辰戦争の一環として戦われた五井戦争(1868年)の際、徳川義軍府側に捕まり、中瀬の渡し付近で処刑された官軍の兵士だと思われる。

 

十九夜塔

 密集していて基礎部分も埋没しており詳細は不明だが、地蔵を主尊とする十九夜塔は市内では他に類例を見ない。市内の場合、十九夜塔の多くは如意輪観音を主尊として刻まれている。

 

    馬頭観音:文化14年(1817)           六地蔵:年代判読困難

107 .君塚明光院(真言宗豊山派)の見どころ

 

地蔵道標(宝暦6年=1756):「これより右 国分寺道…」「これよりの道 八幡道」

可愛らしいお地蔵様に癒される。

 

 

 

 

 

開演供養塔:寛政8年(1796)

開演の供養塔は能満の釈蔵院や五井の龍善院にも存在する。開演と栄寛はこの時期の真言宗僧侶の中で

は市原郡内において主導的な役割を果たしていた人物。

 

光明真言塔:文化9年(1812)

「オンアボキャ ベイロシャノウ マカボタラ マニハンドマ ジンバラハ ラバリタヤ ウン」と繰り返し読誦することで大日如来からの功徳を得ようとすることが江戸時代に民衆の間で流行していた。光明真言は大日如来への帰依を表明する文言であり、念仏系の宗派が唱える阿弥陀如来への帰依を表す称名念仏(南無阿弥陀仏)に対応するもの。

 

馬頭観音:延享4年(1747)

しばしば憤怒の表情も見られる馬頭観音だが、こちらは穏やかにほほ笑む。

 

補足:近くの路傍に祀られている庚申塔

青面金剛尊の庚申塔:元文2年(1737)

享保・元文期の彫刻は丁寧で洗練されたフォルムが特徴。ただしややマンネリ化している印象も。

106.市原市における中世の主な石造物

 

・八幡稱念寺:五輪塔、宝篋印塔群…16世紀ころか?

 

・八幡御墓堂:足利義明夫妻の墓と伝える五輪塔

 

・八幡無量寺:千葉氏の墓と伝える(馬加康胤?)

※康正2年(1456)、村田川畔で馬加康胤、東常縁方に討たれる。

 

補足資料1「八幡・五所地域の中世石造物」(櫻井敦史)より抜粋

 八幡・五所地域は中世において市原荘に含まれる。市原荘は12・13世紀頃に、石清水八幡宮を領主として成立した寄進地系荘園と思われる。鎌倉時代末期には北条得宗家や足利氏が何らかの権利を有していた。南北朝期には市原八幡宮別当職が醍醐寺の僧に与えられ、足利氏の庇護下で醍醐寺の勢力が市原荘内に進出したようである。ただし、砂堆列と丘陵部との間の平野は古くから条里制が適用されており、国衙領なども多く存在したと考えられ、領主権はかなり錯綜していたと思われる。おそらく市原荘内では強力な在地勢力が育たなかったのであろう。15世紀後半になると外来勢力である真里谷武田氏が進出し、16世紀初頭には足利義明を下総国小弓城に擁立して領主権力の強化を図った。また市原荘周辺には椎津、村上、大坪氏ら関東足利氏の伝統的家臣が在地領主として散在していた。おそらく近辺には関東足利氏の御料所が存在していたと思われる。小弓公方の成立にはそうした背景があったのだろう。

 1538年の国府台合戦によって小弓公方が滅亡すると上総武田氏も衰退し、北条氏と里見氏が相次いで進出したが、1575年以降は北条氏の支配が確立する。1581年には北条氏によって八幡郷の守護不入、新市設立による商人諸役免除が認められている。15世紀中葉以降の経済発展によって小領主、地主、商人階級が成長してきたことが背景にあるだろう。そして稱念寺などに存在する小さな石塔もそうした新興勢力の需要によって造られたと推測できる。八幡の街の形成もまた16世紀末、北条氏支配下に急速に進展したと思われる。

 八幡での中世石造物の多くは伊豆産安山岩で造られている。寺に付随する墓地を中心に造立されたものと思われるが、寺院の宗派は真言宗と浄土宗の二つに分けられる。真言宗は駅前の満徳寺(飯香岡八幡の別当寺の霊応寺の末寺)、五所の満蔵寺。真言宗寺院の出現は南北朝期に始まる醍醐寺勢力の市原荘進出と関連するものだろう。浄土宗は稱念寺と無量寺の二つ。いずれも大巌寺の末寺であり、原氏ら下総千葉氏系の氏族による影響が挙げられる。

 御墓堂(旧霊応寺境内墓地)の五輪塔二基(足利義明夫妻の墓と伝える)はもともと隣接する池にあったものが川上南洞氏によって発見されたもので昭和4年(1929)、義明夫妻の墓と推定された。ただし地輪が他と比べて小さく、水輪は大きいなどバランスが悪く、何基かの組み合わせによるものである。15世紀中ごろから17世紀初頭にかけて造られたものの寄せ集めと考えられる。

 無量寺の中型五輪塔も数基の組み合わせの可能性が高い。やはり15世紀から16世紀にかけてのものらしく、16世紀後半から村落の近世化(=集村化)に伴う移動で混在してしまったものと思われる。おそらく本来は小河川で分けられていた砂堆上の集落ごとに設けられ、分散していた墓域が稱念寺や無量寺などの寺院に集積されていったのだろう。

 

 

 国分寺宝篋印塔:応安5年=1372年    医王寺(畑木)宝篋印塔14世紀前半

 

・常住寺(光風台):宝篋印塔、板碑(貞和6年=1350)、五輪塔…南北朝時代

※常住寺は鎌倉の覚園寺の末寺として鎌倉時代末期から存在する。金沢文庫文書に観応3年(1352)

 「上総国与宇呂保浄住寺」とある。足利尊氏が「観応の擾乱」に際して二度御教書を下し、武運長久

 を祈願。北朝の元号を用いた貞和6年(1350)の板碑からも北朝とのつながりの強い地域であったこ

 とが伺われる(当時、上総国の守護には北朝側の高師直が就いていた)。

 

・市原歴史博物館所蔵宝篋印塔

 

 

・有木泰安寺十三重塔(室町時代):石材は三河産の御影石

 

・光善寺石灯籠(室町時代前期):石灯籠としては県内最古といわれる

 

・今富円満寺宝篋印塔(天文16年=1547年):希少な関西型(市原歴史博物館所蔵品のように基壇部に区画があるのが関東型で区画が無いのが関西型)であり、足利氏が館を構えていたと云われる宮原御所との関りが気になる。

 

・郡本多聞寺五輪塔

 

・大坪福楽寺五輪塔:15世紀初頭に馬術家として足利将軍家に仕えた大坪慶秀はここに居館を構えていたという。下の五輪塔が彼の墓と伝えるが、火輪が余分についていることなどからいくつかの五輪塔の部材を寄せ集めたもののようだ。

 

 

補足資料2「石造物が語る中世職能集団」(山川均 山川出版日本史リブレット29 2006)より抜粋

 1180年の平重衡の南都焼き打ちによって焼失した東大寺や興福寺の復興に際し、数度の入宋経験のある重源が勧進の中心となった。彼は宋とのつながりを利用して12世紀末、宋の石工集団を日本に招いた。その中の一人が当代随一の名工と謳われた伊行末(いぎょうまつ・いゆきすえ:1260年没)。彼の子孫は大和や南山城を中心に活躍を続け、「伊派」を形成して多くの石造物を残した。またその分流は関東に進出して鎌倉や箱根に少数ながらすぐれた作品を残した。彼らは「大蔵派」と呼ばれる。

 伊行末の出身地は明州(中国浙江省寧波)で、当時、日宋貿易における中国側の最も重要な港湾都市であった。その頃の寧波における石像技術は高度化し、精緻な表現を可能としていた。重源は幾度か寧波を訪れた際、それらの石像の素晴らしさに感銘を受けていたはずである。宋人石工の手になる東大寺南大門の獅子像(1196年)は寧波で用いられていた石材である可能性が高いという。

 五輪塔は日本独自の石塔であるが、宝篋印塔は中国伝来の石塔。基壇、基礎、塔身、屋根、相輪からなる。日本では高山寺の明恵上人供養塔(1239年)が最古。中国では福建省、広東省の沿海地域に存在し、紀年銘で最古のものは1059年。北宋時代から南宋時代(11~12世紀)に福建省を中心に造られている。中国の宝篋印塔を日本にもたらしたのは明恵と親しかった慶政ではないか?彼は1217年、福建省泉州を訪れている。泉州は最古の宝篋印塔が存在し、滞在した開元寺にも宝篋印塔が存在する。

 明恵が没したのは1232年で百か日供養の導師は慶政であった。明恵の7回忌、明恵の墓塔脇に建てられたのが日本最古の宝篋印塔である。山川はその作者として伊行末を想定している。宝篋印塔はその後京都中心に造られ続けるが、13世紀後半に入ると大和が主体となる。おそらく忍性が関わりの深い地に宝篋印塔を残したものと思われる。作者で判明しているのは「大蔵安清」で大蔵派の祖とされる。

 忍性の師、叡尊も晩年、五輪塔や層塔の造立に多く関わった。伊派の石工がその造塔に従事したと思われる。叡尊、忍性ともに没後、五輪塔が造られている。宝篋印塔は大蔵光広の造った覚園寺の二基(1332年、高さ3.5m)が最高水準のもの。しかしこれを最後に大蔵派は姿を消してしまう。しばらくは大蔵派の様式を受け継ぐ「関東形式」の宝篋印塔が関東で造られ続けるが、大蔵派の繊細な造形や寸分たがわぬ切り石技術には遠く及ばないものばかり。伊派も関西で活躍を続けたが14世紀中頃を最後に消滅してしまった。

※律宗の叡尊、忍性らは伊派、大蔵派(伊派から派生)の工人を用いて大和中心に救済のシンボルタワ

 ーとして大きな石造物を各地に造営した。忍性が1267年、鎌倉極楽寺に招かれると大蔵派も関東に進

 出し、覚園寺(西大寺流律宗)などに宝篋印塔や五輪塔を残した。14世紀初頭にいわゆる「関東形

 式」が出現すると以後、その形式の模倣が続くが、意匠的には退化していった。前出の櫻井によると

 市内では14世紀の宝篋印塔が5基確認されているが覚園寺の末寺だった常住寺や医王寺の塔は意匠的

 に退化しつつも明らかに大蔵派の影響を受けたものであるという。

 

 

105.戦争関連の石造物(忠魂碑等を除く)

 

・五井龍善院の「戦災地蔵尊」(1958年建碑)

 1945年5月8日、米軍機の機銃掃射で4人死亡(岩野見の2人、岩崎の1人、島野の1人)。この日は主に蘇我の工場地帯が狙われ、その帰り際に浜野の本行寺が空襲で焼けおちている。市内では五井以外でも国民学校の児童が狙われ、養老小学校川在分校で3人が、市西小学校で下校塔中の生徒が一人、P51の機銃掃射によって死亡している。また市原以南でも列車や船などが銃撃を受け、犠牲者が多数出ている。

 

 

・五井大宮神社の「百度石」(1938年)

 1937年から日中戦争が本格化し、出征する兵士が急増し始めた頃に造られている。

 

・前広(さきひろ)神社の「国民精神総動員記念」(1938年、西広青年団)

 

・市原八幡の「国防婦人会」寄進の手水鉢(1940年「皇紀2600年記念」)

 

・戦勝祈願碑と武運長久祈願碑:いずれも皇紀2600年を記念している

      片又木十二社神社                小田部熊野神社

   「日支事変」と「皇紀2600年」記念          「皇軍武運長久祈願」

 

二宮尊徳像

八幡小学校「二宮尊徳像」皇紀2600年祈念(1940年)

 

大和田光厳寺:近くの学校から移された?

 

     姉崎小学校:昭和30年(1955)      旧朝生原小学校跡:昭和11年(1936)

※参考動画

「山田五郎が解説!なぜ二宮金次郎は全国の小学校にいたのか?あなたの学校はどんな二宮金次郎像

 だった?~学校にある不思議な美術~実は草の根パブリックアートだった?前編」

 山田五郎大人の教養講座 2024.9.20 29:45

奉安殿

奉安殿:中高根鶴峰八幡(駐車場)

 奉安殿は、校舎内に作られることも、校舎外に独立して作られることもあったがい

ずれも校長室、職員室、宿直室その他に近い清浄な位置に設けられることとされた。その内寸は最小で奥行85cm、高さ1.5m、幅1.2mは必要であるとされた。構造は鉄筋コンクリート造、壁厚25cm以上、片開または両開の完全な金庫式二重扉を設け、耐震耐火構造とし、内外防熱防湿のために石綿材料を施し、内部はさらにキリまたはヒノキ板張りとし、御真影を奉安する棚の高さは50cmほどのところに設けることとされた。教育勅語と御真影を保管する施設で小学校の場合には独立して作られることが多かった。これはおそらく中高根小学校のものであろう。市内では他に例を見ない。貴重な戦争遺産である。

 

・軍馬碑:佐野彪氏の調査では市内で20基ほど確認されている。その多くは戦没した馬の慰霊碑と思われる。

    小折三山塚近く:昭和36年        姉崎神社日支事変「生馬神社」:昭和13年

 

    山倉墓地征清軍馬記念(1896)         大坪諏訪神社軍馬出征記念

 

  安須霊園近くの路傍:昭和13年(1938)     海士有木八幡神社:昭和17年(1942)

※「上総国町村誌(上巻)」(小沢治郎左衛門 明治22年=1889)によると現在の市原市に該当する

 地域で1880年代に飼われていた馬は何と3000頭以上にも達している。当時の人口が6万人ほどなので

 相当数の人々が馬を飼っていたということになる。

  江戸時代以降、農民は少しでも生活にゆとりがあれば馬を飼い、農閑期の「農間(のうま)稼ぎ」

 として馬の背に薪炭や米俵などを載せて運ぶことでいわゆる「駄賃」を稼いでいた。しかし近代以

 降、馬は軍馬として続々と戦地に送り込まれてしまった。もちろん、その多くは生きて帰ってこられ

 ず、市原における馬の飼育頭数は次第に減少していった。同時に鉄道の開通によって馬の役割も奪わ

 れていったため、太平洋戦争後は一気に馬の飼育頭数が激減してしまったようだ。

104 .鎌倉街道を歩く会の歩み その2

 

 

 

  ※東葛飾高校の「リベラルアーツ」は会長の小関先生が中心となって導入された学校独自の科目。講

  師は医師、大学の教員など学校の外部からも広く招いて高校生に教科の枠を超えた多様で専門的、

  実践的、体験的授業を選択させる非常にユニークな科目。カッパも3回ほど錯視を主な題材とした

  心理学入門の授業を担当したが、鎌倉街道を歩く会でも泊りがけを含む授業を行っており、こちら

  も3回、参加した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 近年は有秋公民館、千種コミュニティセンターに加えて八幡公民館、南総公民館で

の講演や歴史散策を実施。バスを利用した散策の催しは2022年度に鎌倉(朝比奈切通など)、久留里城、2023年度も御成街道(船橋~東金)に出かけている。

103 .「鎌倉街道を歩く会」の歩み その1

 

 今回は「鎌倉街道を歩く会」発足10周年を記念して2020年に私が作成したパワポの画面を一部用い、これまでの活動の歩みを二回にわたってご紹介いたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ※2011年6月15日撮影

 

 

 

 

 

 

 

 今回はここまでとします。

 

 

 

102 .稲毛浅間神社の概要

左側の迅速測図(1881年)では神社のすぐ近くまで海が迫っていて遠浅の浜辺がほぼ直線的に続く海岸線だった。右側の現在の地図では当時の海岸線と国道14号線とが重なっていることも分かる。かつての房総往還はこの地域ではほぼ国道14号線と重なっており、房総往還沿いに人家が散在していた。房総往還の内陸側は多くが松の生える段丘の斜面となっていて、坂を上ると台地上には畑が広がっていた。江戸時代、検見川村、稲毛村や黒砂村は谷津地形に沿い、内陸部に向かっても水田と集落が展開していたことが迅速測図から分かる。

   なお明治45年(1912)に遠浅の海岸を利用して民間航空の飛行訓練が稲毛海岸で始められている。日本の民間航空発祥の地として昭和46年(1971)に記念碑(下)が建てられている。

 

 

境内はかなり広いがその多くは松林であった。

 

国威宣揚記念碑:昭和17年(1942)12月に稲毛町会が大東亜戦争1周年を記念

 

 

摂社の神明社狛犬(寛政7年=1795) 尻尾が立っており、やや古い様式である。

 

        山王宮祠:享和3年=1803   天王宮祠:享和3年=1803

 

 

豪華で真新しい拝殿

 

手水鉢:天明3年(1783)

 

石尊大権現碑:年代不明  

「大山詣で」と「富士山登拝」とはセットとなることが多く、浅間神社に祀られることも少なくない。

 

海からの風が強いため松が傾き、根元の砂が飛ばされている

 

三山供養碑:文化7年(1810)

三山塚もあったのだろう。出羽三山、相模大山、富士山は房総における山岳信仰の最も重要な霊山

 

山包講富士登拝記念碑:弘化4年(1847)

山包(やまつつみ)講は房総における最大の富士講でこの講印は各地の富士塚で見ることができる。

 

 

食行身禄像:弘化4年(1847)

 

 

    延宝8年(1680)か?(庚申)          元文5年(1740)庚申年

   富士山が庚申の年に出現したという伝説から庚申年に登拝するとご利益が33倍になるといわれ、庚申年には登拝者数が3倍ほどに増えたらしい。市原の佐是浅間神社にも富士塚内に庚申塔が祀られている。

 

「富士講角行記念碑」:弘化3年(1846)

 

 「続房総の石仏百選」によると弘化3年(1846)、富士講創始者の角行藤仏二百回忌を記念して周辺の富士講が建碑したもの。台石には120もの講名が刻まれている。角行は自ら創作した字を用いて教典を書いているが、碑の中の角行及び身禄の最後に付いている謎の文字もその一つ。これで「くう」と読み、富士講行者への尊称として用いられている。仏教における「菩薩」と同じものと説明されているようである。

 石碑の基礎部分に千葉、市原を中心とする各地の富士講の名が列挙されている。千葉では山水講と山包講が目立つが、それ以外にも山真講、山丸講、山不二講などが見られる。江戸新川伊豆屋、鉄砲洲伊豆屋、深川伊勢屋が発起人の中心となって建碑されたのだろう。「伊豆屋」「伊勢屋」の名から富士講の拠点が伊豆、伊勢にも存在していたことが伺われる。市原でも山包講、山水講が中心で、他に青柳の一山講の講印が見える。

 

 

 

 

 

 

101.高倉観音の概要

高倉観音(高蔵寺):坂東三十三観音札所の第三十番

 

   木更津市にある真言宗豊山派の寺院。山号は平野山(へいやさん)。本尊は聖観世

音菩薩(楠の一木造で3.6㍍もの高さを誇る。平安中期のものか?県内の仏像としてはその古さと大きさで注目される。近年、拝観料を払えば下から見上げることが出来るようになった。その威容に圧倒されるかもしれない、一見の価値あり)。

 

 

 

鐘楼

 

本堂:大永6年=1526

県内の古建築としては極めて大きく、壮観だが、かなり補修されている。

 

宝篋印塔:宝暦11年=1761 石工は更津の高橋八郎右衛門

 

庚申塔:延宝8年=1680

 

手水鉢:安永3年=1774

 

庚申塔:元禄13年=1700

 

宝篋印塔:左 寛永7年(1630) 右 慶安年間

 

地蔵:元禄17年(1704) おそらく頭部は後補

 

石灯籠一対:安永8年(1779)

 

絵馬:享保12年(1727)

 

絵馬:安永9年(1780)

 

絵馬:正徳3年(1713)

 

 

三山供養碑:安政4年(1857)

江戸時代の自然石による三山供養碑は珍しい。

 

補足資料1.木更津の石工 高橋八郎右衛門

   市原市内にある八郎右衛門の銘をもつ石造物は以下の四点である。

      下川原  東泉寺  宝篋印塔(寛延3年:1750)

      椎津山谷  地蔵(宝暦6年:1756)

      方又木  十二社神社  手水鉢(宝暦9年:1759)

      西国吉  医光寺  宝篋印塔(宝暦14年:1764)

   彼は袖ケ浦にもいくつかの石造物を残しており、1750年代から1760年代に活躍した木更津の石工で18世紀の西上総を代表する名工である。二基の宝篋印塔は高橋の得意としたもののようで当時流行した開花型の高層化したタイプである。特に西国吉医光寺のものは浮き彫りも施された、華麗で手の込んだ造りとなっている。椎津山谷の地蔵も大きさはないが衣文の流麗さは市原市内随一のものであろう。

 高蔵観音(高蔵寺)の宝篋印塔(宝暦11年=1761)もやはり開花型の高層化したタイプで総高4メートル余りの立派なもの。

 

補足資料2.絵馬とは

 神霊は乗馬姿で人界に降臨するものと信じられていたため、神幸に神輿が登場する以前は神霊の依代となる鏡を取り付けた榊を馬の背に立てて神幸をおこなっていた。馬は神の乗り物であり、神座の移動に不可欠であったため、神事や祈願に際して馬を神にささげることも必然的だった。既に「常陸国風土記」や「続日本紀」などに神馬献上の記録が多く見える。特に降雨祈願には黒毛の馬(黒は黒雲、雨雲に通ずる)、止雨祈願には白毛の馬(白は白日、すなわち太陽を意味)を献じたと云う神社もある。後世、室町末期には絵馬に白馬と黒馬の図を一対にして奉納する風習が生じたのも年間を通じて晴雨のバランスがうまくいくことを祈願したものである。

 生きた馬を献上するかわりに馬形(土製が古く、やがて木製も登場)を献上する習わしは既に「肥前風土記」に見える。厳島神社などには鎌倉時代の木製馬形が伝来。絵馬は奈良時代には数か所の遺跡から出土しており、早くから存在していたことがうかがわれる。最古のものは難波長柄豊碕宮遺跡から649年銘(「戊申年」)の木簡とともに出土。神仏習合によって中世には寺にも奉納されるようになった。

 なお年紀銘のある最古の絵馬は奈良秋篠寺本堂天井裏から発見されたもので「応永」(14世紀末から15世紀初頭)や「長禄」(15世紀中ごろ)の墨書銘がある。15世紀末頃から馬以外の絵(宝珠、鳩、猿、文殊、獅子、薬壺等)も登場し、狩野派や長谷川派、海北派などの名品も出てくるなど多彩。豪華なものは扁額形式で大絵馬、信仰重視の吊り懸け形式の小品は小絵馬に分類される。絵馬堂の出現は造営年代の明確なものでは1608年の京都北野神社のものが最古となる。なお舞台を持つ清水寺(1633年、奉納された角倉船図、末吉船図は重要文化財)や長谷寺の本堂も絵馬堂と同じ役割を果たしたが大絵馬が中心で、大絵馬の場合、祈願や報謝だけでなく多くの参拝客が見てくれることも狙う誇示的な要素も含んでいた

 対して小絵馬は市井の民衆が秘めた願いを神仏に祈願する匿名性を持っており、かつては生まれた干支と性別のみ記して奉納された。江戸時代は小絵馬の図柄にも機知に富む、洒落た図案が登場。呪術の根底にある類感(似たものは似たものを生ずる)の観念から、祈願する内容と類似の事物を描いて直接的な表現を避けることもあった。鳥目の平癒祈願に鶏図(ただし鶏は荒神様の使いでもあり、百日咳の平癒を祈願するためにも鶏図が奉納)、疱瘡(=くさ)を草になぞらえて牛に食わせて治そうと牛図。蛸の吸盤で吸い取ってもらおうと腫れものやいぼ平癒のために蛸図。また子供の疱瘡除けのまじないに軒先に吊るした「為朝と鬼」図(為朝が鬼界ヶ島に流されて鬼を退治した伝承にちなみ、鬼を疱瘡になぞらえて疱瘡を退治してもらう)、「盃に鍵」(断酒の祈願)などの鍵もの絵馬(断ち事を祈願。自分の好物を断って願懸けすることも多い)、眼病平癒を願って「め」の字を薬師に奉納するなど多種多様な小絵馬が案出された。「願懸重宝記」と称するガイドブックが江戸や大坂で出版されるほどに、絵馬の奉納は盛況を見たのである。

 明治以降もこうした小絵馬が多く奉納された。特に戦争中に奉納されたものの中には武運長久を祈願すると見せかけて平服姿の自分と軍服姿の自分を背中合わせに描き、徴兵の対象からはずれることをひそかに願ったり、徴兵されても出征を祝う風景に松(=待つ)を描いて無事帰還することをひそかに願う絵馬も出現した。

100.笠森観音の概要

~坂東三十三観音札所の第三十一番~

 

   千葉県長生郡長南町笠森にある寺院、天台宗別格大本山、坂東三十三箇所の第三十一番札所、山号は大悲山。寺伝によれば784年(延暦3年)に最澄(伝教大師)が楠の霊木で十一面観音菩薩を刻み安置し開基されたとされる古刹大岩の上にそびえる観音堂は四方懸造と呼ばれる構造で国指定重要文化財である。現在の建物は墨書銘から1579年(天正7年)から1597年(慶長2年)の間の再建とされている。他にも国指定重要文化財の鋳銅唐草文釣燈籠(室町時代)など多くの文化財も残されている。

 一説には観音菩薩は険しい山上、崖の上に姿を現すとされてきた。確かに県内の観音霊場も笠森の他、崖観音、三石観音など、多くが風光明媚な霊山にある。なお、笠森寺周辺の森林は古くから大切に保存されてきており、「笠森寺自然林」として国の天然記念物に指定されている。

 

 

子授けの楠

二天門(山門)

 

風神・雷神(二天門=山門に祀られている)

 

銅製宝篋印塔:延享元年=1744

 ただしこれは形態的には典型的な宝篋印塔とは若干異なり、やや塔身が寸詰まりのタイプに見える。下の石堂寺にある典型的な角柱宝塔型の銅製宝篋印塔と比べてみれば違いは歴然。もちろん、塔の形態に関わりなく宝篋印陀羅尼経を奉納したものならば「宝篋印塔」と呼ぶべきかもしれない。実際、市原市池和田の光明寺には宝筐印陀羅尼経を納めた笠付き角柱塔がある。

 

石堂寺宝篋印塔

 

手水鉢:宝永4年=1707

 

石灯籠:文政13年=1830

 

観音堂:安土桃山時代

 

 

 

 

 

 

 

経蔵

 

鐘楼

 

 

弁天池

 

 

 

99.千葉寺の概要

海上山千葉寺(真言宗豊山派):坂東三十三ヵ所観音霊場 第二十九番札所

 

   §6は市原市の郷土史をテーマとしてきたのですが、市内だけのデータでは不十分なテーマも含みます。たとえば市内の道標に刻まれた地名には「千葉寺」、「笠森」、「高蔵」など、坂東三十三番札所を示すものが目立ちます。単に「千葉」、「千葉道」と記されていても、多くの場合、それは千葉寺を指していると考えてよいでしょう。「木更津」も同様で高倉観音や那古観音方面を示しているとも考えられるのです。なぜならば江戸時代、道標を頼りに旅をする人々のほとんどが巡礼を主な目的としているからです。

   もちろん旅をする人々の中には公用や商用だったり、遠くの親類に会いに行く場合もあったでしょうが、そうした人々はある程度、旅慣れていたり、道を良く知っている人の方が割合的に少なくないと思われます。しかし巡礼のためにまったく見知らぬ土地をはるばる遠くから訪ねてくる心細い旅人にとっては道の分岐点でどちらに曲がるのか指し示してくれる道標の存在が大変ありがたかったのではないでしょうか。

 実は最短距離を目指す実用的な街道、往還は公用や商用の旅人が多いためもあり、参勤交代などのシーズンによっては宿場や継立て場がかなり混み合うことがありました。そこで巡礼者はあえてそこから少しズレた山中の細い道を利用することが少なからずあったようです。

 本来、僧侶が苦行と一つとして始めた巡礼ですから、多少遠回りで山中の上り下りを繰り返す不便な道であってもそれは苦行の一環として耐え忍ぶべき、という考えがあったのでしょう。やがてそうした不便な脇道の方が巡礼の道として定着することもありました。ですから山中で見通しが悪く、迷いやすい巡礼の道には要所要所に道標を兼ねた廻国塔や、地蔵、庚申塔、馬頭観音が祀られていることは少なくなく、当然、そうした道標には千葉寺、笠森寺、高蔵寺などを指し示すケースが多いのです。

 したがって市外の寺ではありますが、この市外編では市原の道標によく登場する千葉寺、笠森寺、高蔵寺の三か所、さらに道標には登場しませんが、富士講を理解する上でどうしても必要となる千葉市稲毛の浅間神社をご紹介いたしましょう。稲毛の浅間神社は市原市の浅間神社、富士塚がどの講によって祀られていたのかを示す重要な石碑などがあるため、富士塚、浅間神社を調べる上では欠かせない重要ポイントとなります。

 では、まずは千葉寺から参ります。

 

 

 

京成線千葉寺駅から千葉寺までの散策コース案(江戸時代の道)

赤い路線は往路水色線は復路

 

山門:天保12年(1841)再建

 

   境内から8世紀の瓦が出土しており、創建は奈良時代まで遡れるという。1160年に焼失するまでは約126㍍四方の境内を有していたらしい。中世後半は千葉氏の保護を受けて栄えた。1910年に境内の東南、藪の中から発掘された1550年の銘がある銅梅竹透釣燈籠(東京国立博物館所蔵)は国指定の重要文化財。江戸時代には坂東三十三ヵ所観音霊場の二十九番札所として全国から巡礼者が訪れていた。

 法華経観世音菩薩普門品には観音が三十三通りに変化して衆生救済を図るとある。観音霊場の札所が多くの場合、三十三番設けられているのもこのことに由来する。元来、修験道の行者は各地の深山幽谷で修行し、数多くの名山、霊場を歴訪してきた。札所巡りは彼ら行者が辿った霊験ある地の遍歴に由来する、いわゆる行の一つである。札所巡りは熊野詣での流行を経て12世紀頃から始まっている。より多くの霊場を拝することは困難を極めたが「作善」につながるため、命がけで巡拝するものが続出した。15世紀には民衆の間にも札所巡りが流行し、江戸時代にその最盛期を迎える。

 

鐘楼:文政11年(1828)

 

銀杏は県指定天然記念物

 

      櫻井静記念碑(1922年)

櫻井静(1857~1905):香取郡多古町吉川家に生まれる。1876年、山武郡芝山町の櫻井家に婿養子に入る。1879年、21才の若さで全国の県会議員に「国会開設懇請協議案」を送付。たちまち「朝野新聞」の報ずるところとなり、全国にその名が知れ渡る。1879年には「大日本国会法草案」51箇条を起草。主に豪農民権の立場から国会のあり方を提唱。1881年、ローカル新聞として「総房共立新聞」を社長となって創刊。しかし翌年、廃刊に追い込まれる。1884年、県会議員となり、1887年にはアメリカ、カナダを歴訪し、見聞を広めた。1890年、第一回総選挙に出馬するも板倉中(白子町出身の弁護士で加波山事件の富松正安※の弁護にあたった。大阪事件でも大井憲太郎等を弁護。立憲自由党で1890年以降8回の当選を果たしている)に破れて落選。1902年と1903年の総選挙では当選したが1904年には落選し、日露戦争後の1905年、大連で開発を巡って軍部と対立し、ピストル自殺(47才)。1922年、千葉寺に記念碑が建てられる。

富松正安(とまつまさやす):茨城県下館出身。加波山事件に関与し、千葉県安房地区の民権家に匿

 われて潜伏するが、1884年11月2日に逃走先の千葉県市原郡姉崎(現・市原市姉崎)にて逮捕され

 る。1886年(明治19年)の8月に大審院で死刑が確定し、10月5日に千葉県寒川監獄にて処刑。享年

 38才。

※千葉県の民権運動:県内の自由党員は1884年の時点で118名と全国六番目の多さ、国会開設請願署名

 数は32015人で高知県の48392人に次ぐ全国二番目の多さ。民権派の結社数では57社で全国七番

 目。つまり千葉県の民権運動はかなり盛んだった。実際、1880年代から1890年代にかけて小野梓、

 植木枝盛、田中正造、星亨、末広鉄腸、河野広中ら錚々たる民権派弁士が房総を訪れている。

 

宝篋印塔:寛延4年(1751)

隅飾りが花弁のように開いてくる18世紀の特色が見られる。同じ特色を持つ寛保3年(1743)の宝篋印塔がもう一基、墓地の一画に祀られている

 

角柱宝塔型宝篋印塔:天明7年(1789)宝篋印塔最大の特色である隅飾り(赤い★印)が見られず、石灯籠の笠部分と同じ形状。これも享保年間以降、江戸を中心に流行した形態。戒名が沢山刻まれているので基本的には供養塔。

 

名号塔:享保16年(1731)…特色あるこのぼってりとした照りむくり屋根風の笠部分(赤い★印)は享保年間の石造物に散見される様式。形態上の分類としては笠付角柱塔。

 

墓地の一画に集められた墓石以外の各種石造物

庚申塔、十九夜塔(如意輪観音)、馬頭観音、道標などが沢山、祀られている。

    十九夜塔:享保14年(1725)           庚申塔:元文5年(1740)

 

百八十八箇所巡拝塔:文久2年(1862)出羽国飽海郡の人が達成?

観音霊場百か所に加えて四国のお遍路八十八か所の巡礼を達成した記念碑

 

隔夜念仏塔:元禄8年(1695)

沖本博氏によると(「続房総の石仏」たけしま出版 p.62)、関西地方で室町時代から行われるようになった念仏修行の一つらしい。二箇所の寺を交互に行き来して参拝するものでまず読経を上げてその寺に泊まり、翌日にはもう一つの寺に行って同様の修行を行う。これを数ヶ月ないしは一年続けるもの。県内にいくつかの石塔が残っているが数は少なく、しかもどの寺とどの寺を往復したか、記されているのはここだけ。高さ1.4メートルほどもある大きな舟型光背の大日如来で智拳印を結ぶ。江戸の浅草寺と千葉寺とを百日間行き来したとのこと。 

 

   庚申塔・道標:宝暦4年(1754)          馬頭観音:安永4年(1775)

  右:「ちばみち」 左:「ちばでらみち」

 

     十九夜塔:寛延2年(1749)         十九夜塔:享保元年(1716)

光背に天衣を舞わせるのは18世紀中ごろから流行

 

手水鉢:承応元年(1652) 県内最古の手水鉢

 江戸の石屋鳥居喜兵衛 梵字は「キャ」で本尊の十一面観音を表わす

 

瀧蔵(りゅうぞう)神社:祭神はワタツミノカミ

鳥居:享和3年(1803) 石工 千葉町大椎屋五郎右衛門

 

社殿は一間社流造(嘉永6年=1853) 月星紋と九曜紋は千葉氏の家紋

 

「山真講」の富士塚:古い石造物は見当たらない

 

三山塚:出羽三山を祀る塚で供養塚、梵天塚、行人塚などとも

月山を中心とする碑は明治以降のもので、湯殿山を中心とする碑、石塔は江戸時代のものが多い

 

山門の前、道を挟んで三峰神社が祀られている

 三峯は埼玉県秩父市にあり、本来は修験道の聖地であったが、江戸時代になると秩父の山中に棲息する狼を猪などから農作物を守る眷族・神使とし「お犬さま」「大神」として崇めるようになった。さらに、この狼が盗戝や災難から守る神とも解釈されるようになり、狼の護符を受けること(御眷属信仰)が流行っていく。修験者たちが当社の神徳を各地で説いて回り、当社に参詣するための講(三峯講)が関東・東北等を中心として信州など各地に組織されたため、三峯信仰は東日本各地に拡大していった。

 幕末には1858年(安政5年)に外国からもたらされたコレラが日本で大流行し、多くの人が憑き物落としの霊験を求めたことで三峯などの眷属信仰が一層流行した。特に憑き物落としの呪具として用いられていた狼の遺骸への需要が高まり、また同時期に流行した狂犬病やジステンパーの拡大によって狼の獣害も発生したことが重なり、狼は急速に数を減らしていった。明治以降、家畜を襲う害獣として懸賞金まで懸けられ、徹底的に駆除されたこともあって明治末年にニホンオオカミは絶滅してしまったと考えられている。

 この神社も古い石造物が見当たらないので幕末以降、祀られたものと思われる。なお本殿前の一対、狛犬や狐のように見える石造物は狼である。なお日吉神社(日枝神社)の場合は猿が狛犬の役割を果たす。