108 .五井龍善院(真言宗豊山派)の見どころ

新四国八十八か所「八十四番札所」

札所塔:天明3年(1783) 施主は時田甚五郎

 

南五井小跡地碑

市原の場合、学制頒布以降に創設された小学校の多くはお寺の本堂を間借りした形で発足。

 

左 戦災地蔵尊:昭和20年5月8日に機銃掃射で死亡した4人の名が記されている。昭和33年建立。

右 馬頭観音:五井馬車組合によって昭和6年(1931)に建てられている。昭和になっても市原では

  馬を飼う農家が多く残っていて馬車の牽引や農耕馬として頻繁に利用されていたのだろう。

 

  角柱宝塔型宝篋印角柱宝塔:寛延2年(1749)     六地蔵石幢:元禄12年(1699)

    石工は江戸八丁堀の和泉屋久兵衛

 

相輪部の欠損した古風な宝篋印塔:寛永7年(1630)

 

17世紀に流行した相輪部が装飾的に肥大し、凹凸感の乏しい宝篋印塔:寛永13年(1636)

 

観音塔:元禄8年(1695)

高いところに祀られているため、詳細不明

 

歴代住職の供養塔:開演の名が注目される

 

補足資料:龍善院中瀬墓地内

     無量寿仏:貞享4年(1687)           廻国塔:宝永5年(1708)

 

三山塚

 

 

 

般若心経一千巻書写供養塔:天保5年(1834)

 

新田の念仏講を世話人にして代々南五井の名主を務めていた新藤家が中心となって建てられたもの

 

無縁仏塔群

墓地内の無縁仏塔群には時折、墓石以外にも廻国塔、道標、馬頭観音、十九夜塔などが紛れ込む。

 

市内唯一の官軍墓

「三士」とは戊辰戦争の一環として戦われた五井戦争(1868年)の際、徳川義軍府側に捕まり、中瀬の渡し付近で処刑された官軍の兵士だと思われる。

 

十九夜塔

 密集していて基礎部分も埋没しており詳細は不明だが、地蔵を主尊とする十九夜塔は市内では他に類例を見ない。市内の場合、十九夜塔の多くは如意輪観音を主尊として刻まれている。

 

    馬頭観音:文化14年(1817)           六地蔵:年代判読困難