101.高倉観音の概要

高倉観音(高蔵寺):坂東三十三観音札所の第三十番

 

   木更津市にある真言宗豊山派の寺院。山号は平野山(へいやさん)。本尊は聖観世

音菩薩(楠の一木造で3.6㍍もの高さを誇る。平安中期のものか?県内の仏像としてはその古さと大きさで注目される。近年、拝観料を払えば下から見上げることが出来るようになった。その威容に圧倒されるかもしれない、一見の価値あり)。

 

 

 

鐘楼

 

本堂:大永6年=1526

県内の古建築としては極めて大きく、壮観だが、かなり補修されている。

 

宝篋印塔:宝暦11年=1761 石工は更津の高橋八郎右衛門

 

庚申塔:延宝8年=1680

 

手水鉢:安永3年=1774

 

庚申塔:元禄13年=1700

 

宝篋印塔:左 寛永7年(1630) 右 慶安年間

 

地蔵:元禄17年(1704) おそらく頭部は後補

 

石灯籠一対:安永8年(1779)

 

絵馬:享保12年(1727)

 

絵馬:安永9年(1780)

 

絵馬:正徳3年(1713)

 

 

三山供養碑:安政4年(1857)

江戸時代の自然石による三山供養碑は珍しい。

 

補足資料1.木更津の石工 高橋八郎右衛門

   市原市内にある八郎右衛門の銘をもつ石造物は以下の四点である。

      下川原  東泉寺  宝篋印塔(寛延3年:1750)

      椎津山谷  地蔵(宝暦6年:1756)

      方又木  十二社神社  手水鉢(宝暦9年:1759)

      西国吉  医光寺  宝篋印塔(宝暦14年:1764)

   彼は袖ケ浦にもいくつかの石造物を残しており、1750年代から1760年代に活躍した木更津の石工で18世紀の西上総を代表する名工である。二基の宝篋印塔は高橋の得意としたもののようで当時流行した開花型の高層化したタイプである。特に西国吉医光寺のものは浮き彫りも施された、華麗で手の込んだ造りとなっている。椎津山谷の地蔵も大きさはないが衣文の流麗さは市原市内随一のものであろう。

 高蔵観音(高蔵寺)の宝篋印塔(宝暦11年=1761)もやはり開花型の高層化したタイプで総高4メートル余りの立派なもの。

 

補足資料2.絵馬とは

 神霊は乗馬姿で人界に降臨するものと信じられていたため、神幸に神輿が登場する以前は神霊の依代となる鏡を取り付けた榊を馬の背に立てて神幸をおこなっていた。馬は神の乗り物であり、神座の移動に不可欠であったため、神事や祈願に際して馬を神にささげることも必然的だった。既に「常陸国風土記」や「続日本紀」などに神馬献上の記録が多く見える。特に降雨祈願には黒毛の馬(黒は黒雲、雨雲に通ずる)、止雨祈願には白毛の馬(白は白日、すなわち太陽を意味)を献じたと云う神社もある。後世、室町末期には絵馬に白馬と黒馬の図を一対にして奉納する風習が生じたのも年間を通じて晴雨のバランスがうまくいくことを祈願したものである。

 生きた馬を献上するかわりに馬形(土製が古く、やがて木製も登場)を献上する習わしは既に「肥前風土記」に見える。厳島神社などには鎌倉時代の木製馬形が伝来。絵馬は奈良時代には数か所の遺跡から出土しており、早くから存在していたことがうかがわれる。最古のものは難波長柄豊碕宮遺跡から649年銘(「戊申年」)の木簡とともに出土。神仏習合によって中世には寺にも奉納されるようになった。

 なお年紀銘のある最古の絵馬は奈良秋篠寺本堂天井裏から発見されたもので「応永」(14世紀末から15世紀初頭)や「長禄」(15世紀中ごろ)の墨書銘がある。15世紀末頃から馬以外の絵(宝珠、鳩、猿、文殊、獅子、薬壺等)も登場し、狩野派や長谷川派、海北派などの名品も出てくるなど多彩。豪華なものは扁額形式で大絵馬、信仰重視の吊り懸け形式の小品は小絵馬に分類される。絵馬堂の出現は造営年代の明確なものでは1608年の京都北野神社のものが最古となる。なお舞台を持つ清水寺(1633年、奉納された角倉船図、末吉船図は重要文化財)や長谷寺の本堂も絵馬堂と同じ役割を果たしたが大絵馬が中心で、大絵馬の場合、祈願や報謝だけでなく多くの参拝客が見てくれることも狙う誇示的な要素も含んでいた

 対して小絵馬は市井の民衆が秘めた願いを神仏に祈願する匿名性を持っており、かつては生まれた干支と性別のみ記して奉納された。江戸時代は小絵馬の図柄にも機知に富む、洒落た図案が登場。呪術の根底にある類感(似たものは似たものを生ずる)の観念から、祈願する内容と類似の事物を描いて直接的な表現を避けることもあった。鳥目の平癒祈願に鶏図(ただし鶏は荒神様の使いでもあり、百日咳の平癒を祈願するためにも鶏図が奉納)、疱瘡(=くさ)を草になぞらえて牛に食わせて治そうと牛図。蛸の吸盤で吸い取ってもらおうと腫れものやいぼ平癒のために蛸図。また子供の疱瘡除けのまじないに軒先に吊るした「為朝と鬼」図(為朝が鬼界ヶ島に流されて鬼を退治した伝承にちなみ、鬼を疱瘡になぞらえて疱瘡を退治してもらう)、「盃に鍵」(断酒の祈願)などの鍵もの絵馬(断ち事を祈願。自分の好物を断って願懸けすることも多い)、眼病平癒を願って「め」の字を薬師に奉納するなど多種多様な小絵馬が案出された。「願懸重宝記」と称するガイドブックが江戸や大坂で出版されるほどに、絵馬の奉納は盛況を見たのである。

 明治以降もこうした小絵馬が多く奉納された。特に戦争中に奉納されたものの中には武運長久を祈願すると見せかけて平服姿の自分と軍服姿の自分を背中合わせに描き、徴兵の対象からはずれることをひそかに願ったり、徴兵されても出征を祝う風景に松(=待つ)を描いて無事帰還することをひそかに願う絵馬も出現した。