106.市原市における中世の主な石造物

 

・八幡稱念寺:五輪塔、宝篋印塔群…16世紀ころか?

 

・八幡御墓堂:足利義明夫妻の墓と伝える五輪塔

 

・八幡無量寺:千葉氏の墓と伝える(馬加康胤?)

※康正2年(1456)、村田川畔で馬加康胤、東常縁方に討たれる。

 

補足資料1「八幡・五所地域の中世石造物」(櫻井敦史)より抜粋

 八幡・五所地域は中世において市原荘に含まれる。市原荘は12・13世紀頃に、石清水八幡宮を領主として成立した寄進地系荘園と思われる。鎌倉時代末期には北条得宗家や足利氏が何らかの権利を有していた。南北朝期には市原八幡宮別当職が醍醐寺の僧に与えられ、足利氏の庇護下で醍醐寺の勢力が市原荘内に進出したようである。ただし、砂堆列と丘陵部との間の平野は古くから条里制が適用されており、国衙領なども多く存在したと考えられ、領主権はかなり錯綜していたと思われる。おそらく市原荘内では強力な在地勢力が育たなかったのであろう。15世紀後半になると外来勢力である真里谷武田氏が進出し、16世紀初頭には足利義明を下総国小弓城に擁立して領主権力の強化を図った。また市原荘周辺には椎津、村上、大坪氏ら関東足利氏の伝統的家臣が在地領主として散在していた。おそらく近辺には関東足利氏の御料所が存在していたと思われる。小弓公方の成立にはそうした背景があったのだろう。

 1538年の国府台合戦によって小弓公方が滅亡すると上総武田氏も衰退し、北条氏と里見氏が相次いで進出したが、1575年以降は北条氏の支配が確立する。1581年には北条氏によって八幡郷の守護不入、新市設立による商人諸役免除が認められている。15世紀中葉以降の経済発展によって小領主、地主、商人階級が成長してきたことが背景にあるだろう。そして稱念寺などに存在する小さな石塔もそうした新興勢力の需要によって造られたと推測できる。八幡の街の形成もまた16世紀末、北条氏支配下に急速に進展したと思われる。

 八幡での中世石造物の多くは伊豆産安山岩で造られている。寺に付随する墓地を中心に造立されたものと思われるが、寺院の宗派は真言宗と浄土宗の二つに分けられる。真言宗は駅前の満徳寺(飯香岡八幡の別当寺の霊応寺の末寺)、五所の満蔵寺。真言宗寺院の出現は南北朝期に始まる醍醐寺勢力の市原荘進出と関連するものだろう。浄土宗は稱念寺と無量寺の二つ。いずれも大巌寺の末寺であり、原氏ら下総千葉氏系の氏族による影響が挙げられる。

 御墓堂(旧霊応寺境内墓地)の五輪塔二基(足利義明夫妻の墓と伝える)はもともと隣接する池にあったものが川上南洞氏によって発見されたもので昭和4年(1929)、義明夫妻の墓と推定された。ただし地輪が他と比べて小さく、水輪は大きいなどバランスが悪く、何基かの組み合わせによるものである。15世紀中ごろから17世紀初頭にかけて造られたものの寄せ集めと考えられる。

 無量寺の中型五輪塔も数基の組み合わせの可能性が高い。やはり15世紀から16世紀にかけてのものらしく、16世紀後半から村落の近世化(=集村化)に伴う移動で混在してしまったものと思われる。おそらく本来は小河川で分けられていた砂堆上の集落ごとに設けられ、分散していた墓域が稱念寺や無量寺などの寺院に集積されていったのだろう。

 

 

 国分寺宝篋印塔:応安5年=1372年    医王寺(畑木)宝篋印塔14世紀前半

 

・常住寺(光風台):宝篋印塔、板碑(貞和6年=1350)、五輪塔…南北朝時代

※常住寺は鎌倉の覚園寺の末寺として鎌倉時代末期から存在する。金沢文庫文書に観応3年(1352)

 「上総国与宇呂保浄住寺」とある。足利尊氏が「観応の擾乱」に際して二度御教書を下し、武運長久

 を祈願。北朝の元号を用いた貞和6年(1350)の板碑からも北朝とのつながりの強い地域であったこ

 とが伺われる(当時、上総国の守護には北朝側の高師直が就いていた)。

 

・市原歴史博物館所蔵宝篋印塔

 

 

・有木泰安寺十三重塔(室町時代):石材は三河産の御影石

 

・光善寺石灯籠(室町時代前期):石灯籠としては県内最古といわれる

 

・今富円満寺宝篋印塔(天文16年=1547年):希少な関西型(市原歴史博物館所蔵品のように基壇部に区画があるのが関東型で区画が無いのが関西型)であり、足利氏が館を構えていたと云われる宮原御所との関りが気になる。

 

・郡本多聞寺五輪塔

 

・大坪福楽寺五輪塔:15世紀初頭に馬術家として足利将軍家に仕えた大坪慶秀はここに居館を構えていたという。下の五輪塔が彼の墓と伝えるが、火輪が余分についていることなどからいくつかの五輪塔の部材を寄せ集めたもののようだ。

 

 

補足資料2「石造物が語る中世職能集団」(山川均 山川出版日本史リブレット29 2006)より抜粋

 1180年の平重衡の南都焼き打ちによって焼失した東大寺や興福寺の復興に際し、数度の入宋経験のある重源が勧進の中心となった。彼は宋とのつながりを利用して12世紀末、宋の石工集団を日本に招いた。その中の一人が当代随一の名工と謳われた伊行末(いぎょうまつ・いゆきすえ:1260年没)。彼の子孫は大和や南山城を中心に活躍を続け、「伊派」を形成して多くの石造物を残した。またその分流は関東に進出して鎌倉や箱根に少数ながらすぐれた作品を残した。彼らは「大蔵派」と呼ばれる。

 伊行末の出身地は明州(中国浙江省寧波)で、当時、日宋貿易における中国側の最も重要な港湾都市であった。その頃の寧波における石像技術は高度化し、精緻な表現を可能としていた。重源は幾度か寧波を訪れた際、それらの石像の素晴らしさに感銘を受けていたはずである。宋人石工の手になる東大寺南大門の獅子像(1196年)は寧波で用いられていた石材である可能性が高いという。

 五輪塔は日本独自の石塔であるが、宝篋印塔は中国伝来の石塔。基壇、基礎、塔身、屋根、相輪からなる。日本では高山寺の明恵上人供養塔(1239年)が最古。中国では福建省、広東省の沿海地域に存在し、紀年銘で最古のものは1059年。北宋時代から南宋時代(11~12世紀)に福建省を中心に造られている。中国の宝篋印塔を日本にもたらしたのは明恵と親しかった慶政ではないか?彼は1217年、福建省泉州を訪れている。泉州は最古の宝篋印塔が存在し、滞在した開元寺にも宝篋印塔が存在する。

 明恵が没したのは1232年で百か日供養の導師は慶政であった。明恵の7回忌、明恵の墓塔脇に建てられたのが日本最古の宝篋印塔である。山川はその作者として伊行末を想定している。宝篋印塔はその後京都中心に造られ続けるが、13世紀後半に入ると大和が主体となる。おそらく忍性が関わりの深い地に宝篋印塔を残したものと思われる。作者で判明しているのは「大蔵安清」で大蔵派の祖とされる。

 忍性の師、叡尊も晩年、五輪塔や層塔の造立に多く関わった。伊派の石工がその造塔に従事したと思われる。叡尊、忍性ともに没後、五輪塔が造られている。宝篋印塔は大蔵光広の造った覚園寺の二基(1332年、高さ3.5m)が最高水準のもの。しかしこれを最後に大蔵派は姿を消してしまう。しばらくは大蔵派の様式を受け継ぐ「関東形式」の宝篋印塔が関東で造られ続けるが、大蔵派の繊細な造形や寸分たがわぬ切り石技術には遠く及ばないものばかり。伊派も関西で活躍を続けたが14世紀中頃を最後に消滅してしまった。

※律宗の叡尊、忍性らは伊派、大蔵派(伊派から派生)の工人を用いて大和中心に救済のシンボルタワ

 ーとして大きな石造物を各地に造営した。忍性が1267年、鎌倉極楽寺に招かれると大蔵派も関東に進

 出し、覚園寺(西大寺流律宗)などに宝篋印塔や五輪塔を残した。14世紀初頭にいわゆる「関東形

 式」が出現すると以後、その形式の模倣が続くが、意匠的には退化していった。前出の櫻井によると

 市内では14世紀の宝篋印塔が5基確認されているが覚園寺の末寺だった常住寺や医王寺の塔は意匠的

 に退化しつつも明らかに大蔵派の影響を受けたものであるという。