99.千葉寺の概要

海上山千葉寺(真言宗豊山派):坂東三十三ヵ所観音霊場 第二十九番札所

 

   §6は市原市の郷土史をテーマとしてきたのですが、市内だけのデータでは不十分なテーマも含みます。たとえば市内の道標に刻まれた地名には「千葉寺」、「笠森」、「高蔵」など、坂東三十三番札所を示すものが目立ちます。単に「千葉」、「千葉道」と記されていても、多くの場合、それは千葉寺を指していると考えてよいでしょう。「木更津」も同様で高倉観音や那古観音方面を示しているとも考えられるのです。なぜならば江戸時代、道標を頼りに旅をする人々のほとんどが巡礼を主な目的としているからです。

   もちろん旅をする人々の中には公用や商用だったり、遠くの親類に会いに行く場合もあったでしょうが、そうした人々はある程度、旅慣れていたり、道を良く知っている人の方が割合的に少なくないと思われます。しかし巡礼のためにまったく見知らぬ土地をはるばる遠くから訪ねてくる心細い旅人にとっては道の分岐点でどちらに曲がるのか指し示してくれる道標の存在が大変ありがたかったのではないでしょうか。

 実は最短距離を目指す実用的な街道、往還は公用や商用の旅人が多いためもあり、参勤交代などのシーズンによっては宿場や継立て場がかなり混み合うことがありました。そこで巡礼者はあえてそこから少しズレた山中の細い道を利用することが少なからずあったようです。

 本来、僧侶が苦行と一つとして始めた巡礼ですから、多少遠回りで山中の上り下りを繰り返す不便な道であってもそれは苦行の一環として耐え忍ぶべき、という考えがあったのでしょう。やがてそうした不便な脇道の方が巡礼の道として定着することもありました。ですから山中で見通しが悪く、迷いやすい巡礼の道には要所要所に道標を兼ねた廻国塔や、地蔵、庚申塔、馬頭観音が祀られていることは少なくなく、当然、そうした道標には千葉寺、笠森寺、高蔵寺などを指し示すケースが多いのです。

 したがって市外の寺ではありますが、この市外編では市原の道標によく登場する千葉寺、笠森寺、高蔵寺の三か所、さらに道標には登場しませんが、富士講を理解する上でどうしても必要となる千葉市稲毛の浅間神社をご紹介いたしましょう。稲毛の浅間神社は市原市の浅間神社、富士塚がどの講によって祀られていたのかを示す重要な石碑などがあるため、富士塚、浅間神社を調べる上では欠かせない重要ポイントとなります。

 では、まずは千葉寺から参ります。

 

 

 

京成線千葉寺駅から千葉寺までの散策コース案(江戸時代の道)

赤い路線は往路水色線は復路

 

山門:天保12年(1841)再建

 

   境内から8世紀の瓦が出土しており、創建は奈良時代まで遡れるという。1160年に焼失するまでは約126㍍四方の境内を有していたらしい。中世後半は千葉氏の保護を受けて栄えた。1910年に境内の東南、藪の中から発掘された1550年の銘がある銅梅竹透釣燈籠(東京国立博物館所蔵)は国指定の重要文化財。江戸時代には坂東三十三ヵ所観音霊場の二十九番札所として全国から巡礼者が訪れていた。

 法華経観世音菩薩普門品には観音が三十三通りに変化して衆生救済を図るとある。観音霊場の札所が多くの場合、三十三番設けられているのもこのことに由来する。元来、修験道の行者は各地の深山幽谷で修行し、数多くの名山、霊場を歴訪してきた。札所巡りは彼ら行者が辿った霊験ある地の遍歴に由来する、いわゆる行の一つである。札所巡りは熊野詣での流行を経て12世紀頃から始まっている。より多くの霊場を拝することは困難を極めたが「作善」につながるため、命がけで巡拝するものが続出した。15世紀には民衆の間にも札所巡りが流行し、江戸時代にその最盛期を迎える。

 

鐘楼:文政11年(1828)

 

銀杏は県指定天然記念物

 

      櫻井静記念碑(1922年)

櫻井静(1857~1905):香取郡多古町吉川家に生まれる。1876年、山武郡芝山町の櫻井家に婿養子に入る。1879年、21才の若さで全国の県会議員に「国会開設懇請協議案」を送付。たちまち「朝野新聞」の報ずるところとなり、全国にその名が知れ渡る。1879年には「大日本国会法草案」51箇条を起草。主に豪農民権の立場から国会のあり方を提唱。1881年、ローカル新聞として「総房共立新聞」を社長となって創刊。しかし翌年、廃刊に追い込まれる。1884年、県会議員となり、1887年にはアメリカ、カナダを歴訪し、見聞を広めた。1890年、第一回総選挙に出馬するも板倉中(白子町出身の弁護士で加波山事件の富松正安※の弁護にあたった。大阪事件でも大井憲太郎等を弁護。立憲自由党で1890年以降8回の当選を果たしている)に破れて落選。1902年と1903年の総選挙では当選したが1904年には落選し、日露戦争後の1905年、大連で開発を巡って軍部と対立し、ピストル自殺(47才)。1922年、千葉寺に記念碑が建てられる。

富松正安(とまつまさやす):茨城県下館出身。加波山事件に関与し、千葉県安房地区の民権家に匿

 われて潜伏するが、1884年11月2日に逃走先の千葉県市原郡姉崎(現・市原市姉崎)にて逮捕され

 る。1886年(明治19年)の8月に大審院で死刑が確定し、10月5日に千葉県寒川監獄にて処刑。享年

 38才。

※千葉県の民権運動:県内の自由党員は1884年の時点で118名と全国六番目の多さ、国会開設請願署名

 数は32015人で高知県の48392人に次ぐ全国二番目の多さ。民権派の結社数では57社で全国七番

 目。つまり千葉県の民権運動はかなり盛んだった。実際、1880年代から1890年代にかけて小野梓、

 植木枝盛、田中正造、星亨、末広鉄腸、河野広中ら錚々たる民権派弁士が房総を訪れている。

 

宝篋印塔:寛延4年(1751)

隅飾りが花弁のように開いてくる18世紀の特色が見られる。同じ特色を持つ寛保3年(1743)の宝篋印塔がもう一基、墓地の一画に祀られている

 

角柱宝塔型宝篋印塔:天明7年(1789)宝篋印塔最大の特色である隅飾り(赤い★印)が見られず、石灯籠の笠部分と同じ形状。これも享保年間以降、江戸を中心に流行した形態。戒名が沢山刻まれているので基本的には供養塔。

 

名号塔:享保16年(1731)…特色あるこのぼってりとした照りむくり屋根風の笠部分(赤い★印)は享保年間の石造物に散見される様式。形態上の分類としては笠付角柱塔。

 

墓地の一画に集められた墓石以外の各種石造物

庚申塔、十九夜塔(如意輪観音)、馬頭観音、道標などが沢山、祀られている。

    十九夜塔:享保14年(1725)           庚申塔:元文5年(1740)

 

百八十八箇所巡拝塔:文久2年(1862)出羽国飽海郡の人が達成?

観音霊場百か所に加えて四国のお遍路八十八か所の巡礼を達成した記念碑

 

隔夜念仏塔:元禄8年(1695)

沖本博氏によると(「続房総の石仏」たけしま出版 p.62)、関西地方で室町時代から行われるようになった念仏修行の一つらしい。二箇所の寺を交互に行き来して参拝するものでまず読経を上げてその寺に泊まり、翌日にはもう一つの寺に行って同様の修行を行う。これを数ヶ月ないしは一年続けるもの。県内にいくつかの石塔が残っているが数は少なく、しかもどの寺とどの寺を往復したか、記されているのはここだけ。高さ1.4メートルほどもある大きな舟型光背の大日如来で智拳印を結ぶ。江戸の浅草寺と千葉寺とを百日間行き来したとのこと。 

 

   庚申塔・道標:宝暦4年(1754)          馬頭観音:安永4年(1775)

  右:「ちばみち」 左:「ちばでらみち」

 

     十九夜塔:寛延2年(1749)         十九夜塔:享保元年(1716)

光背に天衣を舞わせるのは18世紀中ごろから流行

 

手水鉢:承応元年(1652) 県内最古の手水鉢

 江戸の石屋鳥居喜兵衛 梵字は「キャ」で本尊の十一面観音を表わす

 

瀧蔵(りゅうぞう)神社:祭神はワタツミノカミ

鳥居:享和3年(1803) 石工 千葉町大椎屋五郎右衛門

 

社殿は一間社流造(嘉永6年=1853) 月星紋と九曜紋は千葉氏の家紋

 

「山真講」の富士塚:古い石造物は見当たらない

 

三山塚:出羽三山を祀る塚で供養塚、梵天塚、行人塚などとも

月山を中心とする碑は明治以降のもので、湯殿山を中心とする碑、石塔は江戸時代のものが多い

 

山門の前、道を挟んで三峰神社が祀られている

 三峯は埼玉県秩父市にあり、本来は修験道の聖地であったが、江戸時代になると秩父の山中に棲息する狼を猪などから農作物を守る眷族・神使とし「お犬さま」「大神」として崇めるようになった。さらに、この狼が盗戝や災難から守る神とも解釈されるようになり、狼の護符を受けること(御眷属信仰)が流行っていく。修験者たちが当社の神徳を各地で説いて回り、当社に参詣するための講(三峯講)が関東・東北等を中心として信州など各地に組織されたため、三峯信仰は東日本各地に拡大していった。

 幕末には1858年(安政5年)に外国からもたらされたコレラが日本で大流行し、多くの人が憑き物落としの霊験を求めたことで三峯などの眷属信仰が一層流行した。特に憑き物落としの呪具として用いられていた狼の遺骸への需要が高まり、また同時期に流行した狂犬病やジステンパーの拡大によって狼の獣害も発生したことが重なり、狼は急速に数を減らしていった。明治以降、家畜を襲う害獣として懸賞金まで懸けられ、徹底的に駆除されたこともあって明治末年にニホンオオカミは絶滅してしまったと考えられている。

 この神社も古い石造物が見当たらないので幕末以降、祀られたものと思われる。なお本殿前の一対、狛犬や狐のように見える石造物は狼である。なお日吉神社(日枝神社)の場合は猿が狛犬の役割を果たす。