105.戦争関連の石造物(忠魂碑等を除く)
・五井龍善院の「戦災地蔵尊」(1958年建碑)
1945年5月8日、米軍機の機銃掃射で4人死亡(岩野見の2人、岩崎の1人、島野の1人)。この日は主に蘇我の工場地帯が狙われ、その帰り際に浜野の本行寺が空襲で焼けおちている。市内では五井以外でも国民学校の児童が狙われ、養老小学校川在分校で3人が、市西小学校で下校塔中の生徒が一人、P51の機銃掃射によって死亡している。また市原以南でも列車や船などが銃撃を受け、犠牲者が多数出ている。
・五井大宮神社の「百度石」(1938年)
1937年から日中戦争が本格化し、出征する兵士が急増し始めた頃に造られている。
・前広(さきひろ)神社の「国民精神総動員記念」(1938年、西広青年団)
・市原八幡の「国防婦人会」寄進の手水鉢(1940年「皇紀2600年記念」)
・戦勝祈願碑と武運長久祈願碑:いずれも皇紀2600年を記念している
片又木十二社神社 小田部熊野神社
「日支事変」と「皇紀2600年」記念 「皇軍武運長久祈願」
・二宮尊徳像
八幡小学校「二宮尊徳像」皇紀2600年祈念(1940年)
大和田光厳寺:近くの学校から移された?
姉崎小学校:昭和30年(1955) 旧朝生原小学校跡:昭和11年(1936)
※参考動画
・「山田五郎が解説!なぜ二宮金次郎は全国の小学校にいたのか?あなたの学校はどんな二宮金次郎像
だった?~学校にある不思議な美術~実は草の根パブリックアートだった?前編」
山田五郎大人の教養講座 2024.9.20 29:45
・奉安殿
奉安殿:中高根鶴峰八幡(駐車場)
奉安殿は、校舎内に作られることも、校舎外に独立して作られることもあったがい
ずれも校長室、職員室、宿直室その他に近い清浄な位置に設けられることとされた。その内寸は最小で奥行85cm、高さ1.5m、幅1.2mは必要であるとされた。構造は鉄筋コンクリート造、壁厚25cm以上、片開または両開の完全な金庫式二重扉を設け、耐震耐火構造とし、内外防熱防湿のために石綿材料を施し、内部はさらにキリまたはヒノキ板張りとし、御真影を奉安する棚の高さは50cmほどのところに設けることとされた。教育勅語と御真影を保管する施設で小学校の場合には独立して作られることが多かった。これはおそらく中高根小学校のものであろう。市内では他に例を見ない。貴重な戦争遺産である。
・軍馬碑:佐野彪氏の調査では市内で20基ほど確認されている。その多くは戦没した馬の慰霊碑と思われる。
小折三山塚近く:昭和36年 姉崎神社日支事変「生馬神社」:昭和13年
山倉墓地征清軍馬記念(1896) 大坪諏訪神社軍馬出征記念
安須霊園近くの路傍:昭和13年(1938) 海士有木八幡神社:昭和17年(1942)
※「上総国町村誌(上巻)」(小沢治郎左衛門 明治22年=1889)によると現在の市原市に該当する
地域で1880年代に飼われていた馬は何と3000頭以上にも達している。当時の人口が6万人ほどなので
相当数の人々が馬を飼っていたということになる。
江戸時代以降、農民は少しでも生活にゆとりがあれば馬を飼い、農閑期の「農間(のうま)稼ぎ」
として馬の背に薪炭や米俵などを載せて運ぶことでいわゆる「駄賃」を稼いでいた。しかし近代以
降、馬は軍馬として続々と戦地に送り込まれてしまった。もちろん、その多くは生きて帰ってこられ
ず、市原における馬の飼育頭数は次第に減少していった。同時に鉄道の開通によって馬の役割も奪わ
れていったため、太平洋戦争後は一気に馬の飼育頭数が激減してしまったようだ。