102 .稲毛浅間神社の概要
左側の迅速測図(1881年)では神社のすぐ近くまで海が迫っていて遠浅の浜辺がほぼ直線的に続く海岸線だった。右側の現在の地図では当時の海岸線と国道14号線とが重なっていることも分かる。かつての房総往還はこの地域ではほぼ国道14号線と重なっており、房総往還沿いに人家が散在していた。房総往還の内陸側は多くが松の生える段丘の斜面となっていて、坂を上ると台地上には畑が広がっていた。江戸時代、検見川村、稲毛村や黒砂村は谷津地形に沿い、内陸部に向かっても水田と集落が展開していたことが迅速測図から分かる。
なお明治45年(1912)に遠浅の海岸を利用して民間航空の飛行訓練が稲毛海岸で始められている。日本の民間航空発祥の地として昭和46年(1971)に記念碑(下)が建てられている。
境内はかなり広いがその多くは松林であった。
国威宣揚記念碑:昭和17年(1942)12月に稲毛町会が大東亜戦争1周年を記念
摂社の神明社狛犬(寛政7年=1795) 尻尾が立っており、やや古い様式である。
山王宮祠:享和3年=1803 天王宮祠:享和3年=1803
豪華で真新しい拝殿
手水鉢:天明3年(1783)
石尊大権現碑:年代不明
「大山詣で」と「富士山登拝」とはセットとなることが多く、浅間神社に祀られることも少なくない。
海からの風が強いため松が傾き、根元の砂が飛ばされている
三山供養碑:文化7年(1810)
三山塚もあったのだろう。出羽三山、相模大山、富士山は房総における山岳信仰の最も重要な霊山
山包講富士登拝記念碑:弘化4年(1847)
山包(やまつつみ)講は房総における最大の富士講でこの講印は各地の富士塚で見ることができる。
食行身禄像:弘化4年(1847)
延宝8年(1680)か?(庚申) 元文5年(1740)庚申年
富士山が庚申の年に出現したという伝説から庚申年に登拝するとご利益が33倍になるといわれ、庚申年には登拝者数が3倍ほどに増えたらしい。市原の佐是浅間神社にも富士塚内に庚申塔が祀られている。
「富士講角行記念碑」:弘化3年(1846)
「続房総の石仏百選」によると弘化3年(1846)、富士講創始者の角行藤仏二百回忌を記念して周辺の富士講が建碑したもの。台石には120もの講名が刻まれている。角行は自ら創作した字を用いて教典を書いているが、碑の中の角行及び身禄の最後に付いている謎の文字もその一つ。これで「くう」と読み、富士講行者への尊称として用いられている。仏教における「菩薩」と同じものと説明されているようである。
石碑の基礎部分に千葉、市原を中心とする各地の富士講の名が列挙されている。千葉では山水講と山包講が目立つが、それ以外にも山真講、山丸講、山不二講などが見られる。江戸新川伊豆屋、鉄砲洲伊豆屋、深川伊勢屋が発起人の中心となって建碑されたのだろう。「伊豆屋」「伊勢屋」の名から富士講の拠点が伊豆、伊勢にも存在していたことが伺われる。市原でも山包講、山水講が中心で、他に青柳の一山講の講印が見える。