プールサイドの人魚姫 -84ページ目

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

サーフィン昨日は台風20号の影響を受け、関東地方は朝から雨に泣かされた。小型の台風ながら大きな被害をもたらしたのは、台風20号が東海・関東地方沿岸に最接近、上陸はしなかったものの、秋雨前線を刺激し各地に大雨を降らせた。
土日の連休を紅葉見学など予定していた人たちは一日潰れてしまい、家に篭ってしまった家族も多いだろう。そんな中で無茶をする者が必ずいるもので、神奈川県平塚市の相模川河口付近でウインドサーフィンをし、その内の一人が強風と高波に襲われ、沖合いに流されてしまったという。依然二人は行方不明のままだ。
海を心から愛する者は、海の恐さを知っているはず。海で生きる男たちならそんな無謀なことはしないだろう。ウインドサーフィンだから、単なる波乗りではなく、風と一緒に波に乗るのを楽しむスポーツ。台風や低気圧の元で、海の顔は一変するが、的確な状況判断が出来ないと今回のような悲劇を生む。自然がもたらす猛威は人知の及ぶところではない。
わたしはとてもサーフィンなど出来ないが、音楽でサーフィンを楽しむ。1964年、エレキブーム到来と共にやってきたサーフィンサウンド。ビーチ・ボーイズは今でも有名だが、わたしが思い出すのはアストロノウツの「太陽の彼方に」日本では藤本好一が日本語でカバーし、大ヒットした。当然わたしは子どもだったが、「のってけ、のってけ」を口ずさんだ。
もしかするとわたしの音楽の原点はビートルズではなく、このアストロノウツやベンチャーズだったかも知れない。「パイプライン」が今でも頭の中を駆け巡る。そして「テケテケテケ」と心が躍っている。


紅葉

 


よく晴れた
爽やかな朝である
陽当たりのよい場所を求めて
男は寝床から痩せた身体を起こした
陽当たりのよい場所を見つけて
男は満足気な表情を浮かべている
幸福だと思っているのだろうか
下界とは随分遠く離れて
今はすっかり
寝たきりの生活にも慣れていた
それでもこうして
時折陽向ぼっこを楽しむ彼にも
やはり隠せない寂しさがあった
もう長くはない
自分の生命を知ってか
失った妻や子供の事を想ってか
自分の人生を振り返りながら
今年四十二回目の秋も終わりに近い
ある晴れた朝だった

 

ゴルフわたしはこの歳まで一度もゴルフをやったことがない。自慢話しにもならないが、時間はあっても、肝心なお金がない。TVゲームでやってみると結構面白く楽しめるので、実際にやったとしたら自分の性格からいって夢中になり、とことんやらないと気が済まないと思う。
ボーリングをやった時もそうだった。横浜の伊勢崎町辺りに暫く住んでいたことがあり、友人と二人で仕事が終わった土曜の夜から朝まで投げ続けたことがある。
その時のベストスコアは205だった。右手がしびれてきたので、最後は左手で投げるという状態だった。あの頃巷では「インベーダーゲーム」が大流行していた時代。横浜は東京に近いが雰囲気は全く違う。浮浪者ばかりが集まって出来ている一角があり、そこには近づかない方がよいという噂が広まっていたが、道を間違え関内へ行く途中に紛れ込んでしまった。
街のそこらじゅうに「レゲエのオジサン」(死語)がうようよしており、その中の一人が近づいて来るではないか。わたしは「やばい…」と内心思いながら無視していると「煙草をくれ」と声を掛けられた。内ポケットに入れてあるセブンスターを一本取り出し差し出した。
そのオジサンは酒臭く顔は汚れて真っ黒、かなり長い時間風呂にも入っていないようで、プーンと異様な汗と垢が入り混じった臭いが鼻をついた。煙草を受け取ると嬉しそうに汚い歯を見せながらにこりと笑いながら「ありがとよ」と言い残し去って行った。
まるで死体のように道路の真ん中に転がっている人もいたりと、ここだけは華やかな伊勢崎町やお洒落な元町から放り出されたゴミタメのような感じを受けた。
ゴルフの話がつい夢中になって昔話に花が咲いてしまった。さてここからが本題である。つい先日のニュースで皆さんもご存知かと思うが、防衛省の守屋武昌・前事務次官が、老舗防衛専門商社「山田洋行」の元専務からゴルフ接待を受けた問題。相変わらず官僚や役人たちの不祥事が続いている。突付けば必ず何か出てくる旧態依然とした体質は国のトップが変わっても同じこと。
与党である自民党と福田首相にとっては、インド洋での海上自衛隊の給油活動を継続するための新テロ対策特別措置法を早期に成立させたいと思っている矢先に、関係者からの不祥事が明るみに出て、渋柿を食わされたような思いをしているだろう。
企業の働きマンたちにとっては接待ゴルフも仕事の内だが、ゴルフだけでなく賭けマージャンのお土産付きとは呆れてしまった。自衛隊員倫理規程違反を知りながらも家族ぐるみでの不祥事を20年間に渡って続けていたとなると、あの赤福や比内地鶏も真っ青。偽りに満ちたこの国の行く末に果たして希望はあるのだろうか。




猫ラーメン わたしはどうも流行り物に疎く、世間で今何が話題になっているのかさっぱり分からない。と言っても、事件や事故などはきっちり新聞やネットで確認しているから世の中の流れは多少也とも理解しているつもり。
さて、猫鍋なる物がある事を昨日のある方のブログで知ったばかり。鍋物の季節だから、新しいメニューが登場したのかと思っていた。それにしても猫を鍋物にして食べる?このペットブームの中で、そんな残酷なことはまず在り得ないだろう。
そんなことを思っている内に本も出ているらしい。結局鍋の中に猫が丸まっている姿が愛らしく、それで猫鍋ということで、猫を飼っている家ではそれを真似て試しているようだ。猫は元来狭い所が好きな動物。自分の頭が通ればすんなりと通り抜けて行く。
ところで、隣の国韓国では犬鍋があるという。これは韓国の食文化で古くから犬を食べているようだ。日本も終戦後、東京などの焼け野原では食べる物がなく、時折やってくる米軍のジープに子ども等が駆け寄り「ギブミーチョコレート」と叫ぶ。
闇市では得体の知れない肉が高値で売買されていた。猫、犬、馬、羊、鶏などバラバラに解体されてしまえば、それが何の肉なのか分からない。多少臭いのきつい物は察しが付いたかも知れないが、例えそれが猫肉だろうと構う事無く胃袋に入れていた。
空腹を充たす為には人間どんな物でも食べてしまうものである。前回の記事にリンクする部分もあるが、生きるためには手段を選ばず。これが極限状態に置かれた人間の本性ではないだろうか。




鶏 白の次は赤、赤の次は…何の事か?皆さんならお分かりでしょう。白い恋人、赤福餅。日本が誇る銘菓が次々と消えて行く。赤福の場合30年も前から偽装されていたと言うのだから驚き。
そんな赤福の影に隠れて少し目立たないのが、やはり食品関連での偽装。食肉加工・製造会社「比内鶏」の特産である「比内地鶏」も秋田の名産として有名ブランド品である。
こちらも赤福に劣らず20年前から偽装されていた。これら食品関連会社の不祥事が立て続けに明るみに出たのは内部告発によるもの。社員に知らされることなく上層部だけでの企ててあれば、責任を取るのは関係者だけで済むが、今回のように長い間に渡って偽装が行われていたとなると、おそらく暗黙の了解或いは偽装マニュアルなどが在った可能性もある。
それを承知の上で働く社員に上からの圧力がかかっていたものと思われるが、さすがに良心がとがめ、会社を辞めた元社員から告発を受けるという形がここ最近増える傾向にある。
鶏肉は「低カロリー、低脂肪、高たんぱく」で、ダイエットによく使われる食材。手羽先の部分は新陳代謝を高め美肌効果もあり、女性がもっとも気にする「コラーゲン」がたっぷり含まれている。コラーゲンが生活習慣の予防にも役立つことは今更言うまでもない。
「比内地鶏の加工品」として出荷していた製品は15品目にも及ぶらしいが、赤福同様に本来であれば廃棄処分にする言わば残飯を他の製品に混ぜコスト削減を狙うと言う、悪質でなお且つ高利益を生む方法に消費者の口が騙され続けて来たというわけである。
これは資本主義社会の歪が産み落とした現代の象徴とでもいうべきか。日本は消費大国でもあり、食品の殆どを輸入に頼っている。地球温暖化がもたらす環境の異変は人間の想像を遙かに凌ぐ猛威となって近い将来訪れるだろう。
世界中の至る所で干ばつが発生し、食物の供給が止まるような事態が起これば真っ先に影響を受けるのは日本である。食べるものが乏しくなれば賞味期限や消費期限など目に入らなくなるだろう。飢えで苦しみ、餓死する子どもが5秒に1人と聞きながら、期限切れは商品でなくなるというこの矛盾。人間には臭覚という五感のひとつがあるが、臭いをひたすら消したがる風潮の中で、その一部が殆ど使われることなく退化していく。腐っているかどうか判断すら出来なくなる人間が将来生き延びていく可能性は非常に低いだろう。



坊主 亀田大毅が頭を丸め坊主になり出家して仏門に入り、精神修養をすると言うのであれば、それは切腹に値するほど価値があるだろう。有り得ない話だが、坊主頭の似合う大毅君を見てつい袈裟姿の彼を想像してしまった。
しかし、坊主になるのは彼ではなく、むしろ父親である史郎氏の方である。子どもの失態は親の責任、それはどこの家庭でも同じこと。記者会見では史郎氏が大毅君をかばうように説明、謝罪したが、本人は終始うつむいたまま無言であった。その姿はまるで学校に呼ばれ担任の教師から注意を受ける親子に見えた。
大毅君がもし仮にあの場で「申し訳ありません」と発していたら、おそらく大粒の涙を流し、小学生のいたずらっ子が叱られ泣き出すのと同じ状態だったかも知れない。
史郎氏は自分が果せなかったボクサーへの夢を自分の子どもたちに託したわけだが、人を殴る方法は教えてもボクシングを教えることは出来なかった。どんな相手の選手であれ、まず敬意を表する、それがスポーツの基本。その基本を忘れ、勝つために何でもやってやるという意味合いの喧嘩ファイトで世界を手に入れても、真の世界チャンピオンにはなれない。
TBSは亀田親子を長い期間にわたり取材し続けてきた。当然のごとく、ドキュメンタリーとしての親子の絆がボクシングというスポーツを通して成長し、やがて日本の誇る世界チャンピオンの誕生というシナリオは日本中に感動を呼び、視聴率もアップ。TBSだけでなく日本ボクシング協会も莫大な利益を得るという、一石三鳥のシナリオだったが、それが途中から狂い始め、亀田家が一人歩きし始めてしまった。
暴走を続ける亀田一家、そしてそれを止められないTBSとボクシング協会。ボクシングに興味の無かったファン層までもが、亀田の試合を見るという娯楽番組への変貌。彼らの試合にはビッグマウスと同じでビッグマネーが動く。後ろでどんな駆け引きが在るかは大抵察しが付く。興行に付き物の暴力団との関係であったり、リングの外では金をめぐっての揖屋らしい取引がある。
謝罪の仕方についても順番が違うなどの声が聞こえ、謝り方さえ知らないこの親子たちに未来はあるのだろうか。兄弟3人はそれぞれ違うジムに所属し、基本のマナーからスタートすべきであると思う。ファンは君たちを見捨てたりはしない。いずれ不死鳥のように蘇る彼らの姿を心のどこかで待ち望んでいるはずである。



宗教 数日前、長野県小諸市で起こった集団リンチ事件。宗教法人「紀元会」の会員による集団暴行を受けて死亡した女性もまた同じ信者だった。この事件の背景にどんな人間関係があったのか詳しい内容までは分からないにしても、集団の中に一人きにくわない人物がいると、蟻が砂糖にたかるが如く、俺も私もと連鎖的に暴力の輪が広がって行く。
これはいじめの構図とよく似ている。人間誰しも集団の中で生きている訳で、普段意識しなくとも、自分ひとりで生きている訳ではない。学校、会社、家庭とそれぞれ生活の一面で多くの人と触れ合っている。
中には気に入らない人物の一人や二人いるかも知れないが、誰とでも波長が合う筈もなく、無理して相手に合わせられるほど良く出来た人物ならいざ知らず、そうでなければ避けて通るのが無難だろう。しかしそういう人物ほど気になるもので、一日中その人物のことが頭から離れず、結局、最後は愚痴を吐いて一日が終わる。
人の悪い面は非常に目立つが、逆に良い面はなかなか目立たず分からないもの。ひとつだけでも良い面が分かると自分との距離が一段と狭くなる。自分にも悪いところはあるのだから、人のあら捜しばかりしていなで、相手の長所を見抜く努力をして行きたいものである。
さて、話がそれてしまったが、日本国内における宗教の信者数は2億を超えているらしい。日本の人口の倍である。これは一人の人間が複数の宗教に加入していると考えられる。
信仰の自由がある限り、人がどんな宗教団体に入り、活動しようがそれは自由である。鰯の頭も信心からと言うように、信じる対象が何であれ、信仰心を持つことは大切である。自分は無宗教という人物もいるが、いずれは何らかの神によって葬られるのである。
世の中には宗教を利用し、悪徳商法で多くの利益を出している団体もあるが、紀元会もそのひとつだろう。この集団暴行事件が明るみに出て初めて紀元会の存在を知った人も多いと思われる。
紀元会の収入源は「紀元水」と呼ばれる水である。飲めばどんな難病もたちどころに治る奇跡の水。よくあるパターンの話で、このように癌や不治の病に効くという触れ込みで販売されている物はおそらく世界中のあちらこちらに存在するだろう。
それが単なる水道水にレモン汁を数滴混ぜただけの水でも、それを信じ込んだ者が飲めば、効果が現れる場合もある。人間の身体は気によって支配されている訳で、気力が強くなれば病気に負けない身体を作ることも不可能ではない。
商売とは半分がハッタリで出来ている。このハッタリが上手い人間ほど何もない所から利益を生み出している。そのハッタリに気付くのは貴方の洞察力次第なのである。



亀
電車を止めた亀もいれば、試合に負けたら切腹すると豪語した亀、結局反則負けで終わり電車の亀にも負けた。切腹は武士の特権だったが、亀田大毅はどう見ても武士とは思えない。
昭和の文豪だった三島由紀夫が割腹自決したのが、日本の歴史に於ける最後の切腹だろう。
切腹にまつわる話は色々あるが、わたしは1962年に公開された映画「切腹」を思い出す。もちろん子ども時代に見た訳ではなく、成人してから見たのだが。仲代達也主演。内容は実に重く、台詞も少なかった。確か竹光で切腹したという記憶が残っているが、これは間違っているかも知れない。興味のある人はDVDが出ていると思うので見てみるとよいだろう。
わたしが子どもの頃過ごした藤枝市には亀にまつわる不思議な風習があった。それが今も続いているか知らない。亀も昔からペットとして人気が高く飼い易い動物だった。その頃には緑亀(ミシシッピーアカ耳亀)を見た覚えもなく、捕まえて育てた亀は草亀か石亀だった。甲羅の模様の数がいくつあるかで、その亀の種類を決めていた記憶がある。
数年もたち亀が大きくなると日本酒を飲ませて元いた池に戻すのである。これが何を意味するのか分からなかったが、鶴と亀が長生きする動物として昔から珍重されて来たことから、おそらく亀を飼っていた家は長生きするという伝説があったのではないかと思われる。
そして今でも疑問に思っているのが亀の甲羅。その中身がどうなっているのか。辞典で調べれば分かることだが、実際にこの眼で確かめた訳ではないので、やはり興味がある。
子どもの時代に膨らませた疑問や夢が大人になって分かった時、少し寂しい思いをしたりするもの。出来れば疑問はそのまま残して置いて、夢の続きを見ているのもいいだろう。
亀田の父と大毅については処分が決まり、その内容について重過ぎるとか軽すぎるなどといった意見も出ているが、それを判断するのは我々でなく亀田家の当人たちが一番よく理解しているだろう。一生ボクシングが出来ない訳ではないので、頭を冷やすにはちょうどよい期間だと思う。




自殺サイト 交通事故による死者の数は年間で約1万人。そして自殺による死者は3万人。日本はいつからか深く病んだ自殺大国になってしまった。
豊かな暮らしを支えるものは経済の発展であるが、常に発展し続けるものでもない。人間と同じで成長はやがて止まり、衰えていくものである。
インターネットが世界中に普及し続け、留まることなく急成長している。IT産業という言葉すら既に古臭さを感じるほどだ。ネットを開けば自分の好きなところへ自由にしかも瞬時に移動でき、欲しい情報が簡単に手に入る。発展途上中の中国ではブログ人口が6千万人を軽く超えたと言う。日本国内でも1千万人がブログを持っている。
情報交換も盛んに行われ、パソコン一台で商売さえ出来る時代だ。しかし、これら顔の見えない世界を悪用する商売や情報が氾濫し続けているのも事実だ。
自殺を幇助するようなサイトがあったり、怪しい薬物を売るサイトもある。一人で自殺が出来ないため、仲間を募り集団自殺など命を軽く、しかもあっさりと諦めしてしまう人たちが後を絶たない。自殺する理由はそれぞれあるだろうが、どんなに頑張っても命はいずれ絶えるもの。
わざわざ自ら死を選ぶことはないと思うが、生きていることに耐えられなくなった時、ふと死の影が傍らに寄り添ってくるのである。これを死神というが、精神を蝕んで行く死神は人間の思考力を奪い、死の観念を植え付けてしまうのである。死に捉われた心は石のように固くなり、身動き出来ず周りの情景が何も見えなくなってしまうのである。
死をカタルシスと勘違いし、精神の解放を死によって求めてしまう。ここに大きな生と死に対する間違いが存在する訳である。全ての生物は生まれた時から既に死に向かって走り続ける。これだけは確実であり平等なのだ。擬態うつ病が蔓延する中、自分の思い込みで命を絶ってしまう人も増えて来ている。
必至に生きて行くと、死は浮かんで来ないもの。生きるのが精一杯で死など考える余裕がないのである。自由を求め、時間があり、食べることにも困ることなく物
が充たされた時、線路のポイントが切り替わるように、別次元へと方向転換してしまうのかも知れない。


風太 住んでいる場所が最も千葉よりなので、休日に家族と出かける時は殆どが千葉方面。千葉動物公園も車で一時間も掛からないので、よく出かけた。動物の嫌いな人はあまりいないと思うが、我が家にもインコと寅猫が同居している。
ペットブームも一応定着し人間は人以外に何かしら頼って生きている部分もある。千葉動物公園にいるあのレッサーパンダが一躍人気者になり、大勢の人が風太の姿を見に訪れた。そしてこの程、風太とチィチィの間に子どもが出来た。
その赤ちゃんが12日から一般公開され人気を呼んでいる。名前を来園者に決めてもらうため、投票箱が用意されているようだ。どんな名前に決まるのか楽しみである。
赤ん坊は人間も動物もみな同じでとても愛らしくいつまで見ていても飽きないし、抱きたい衝動に駆られるものである。かわいいからこそ育てようとする母性が本能として湧き出てくるのが自然な姿なのだが、人間は時として育児を放棄或いは子どもの命を奪い去ってしまう、恐ろしい闇を心の底に秘めている部分がある。
親と子の関係は死ぬまで同じであり、親にしてみれば育児の完成は有り得ない。社会に出て自立しても親は子を常に心配する。子どもから疎まれても親の愛情は普遍である。知性の高い人間だからこそこのような関係が成り立つのだが、子は親に感謝し、親は子を常に守り続けていくのである。これこそが絶対愛と呼べるものかも知れない。