石の上にも○○年~物書き志望女のひとりごと -48ページ目

石の上にも○○年~物書き志望女のひとりごと

日常で気になったことや、長い物書き志望歴で思ったことをランダムに綴ります。

 ギックリ腰をやった。


 と言ってもかなりのプチで、よく言われる「何をしてもどんな姿勢でも痛くてどうしようもない」というほどではなかった。


 不安定な姿勢で重い物を持ち上げたとか、不用意なクシャミとかが引き金になることが多いらしい。

 けれど自分の場合、今回に限っては原因がよくわからない。


 急ぎ足でもなく躓いたわけでもなく、フツーに歩いていて「あれっ?」と何か違和感を抱いた。だからちょっと腰を回したり前屈したりでなだめておいてそのうち忘れるのを期待、という、普段通りの対処をしたのだったが。

 その後何度腰を回しても前屈しても、そこには頑として痛みの元が居座っていた。


 プチでなくなるのが怖くてすぐに整形外科へ。ところが連休明けというタイミングの悪さで、待合室の堅い椅子で2時間待たされた。ここで悪化したような気さえする。

 そして整形外科ではレントゲンを撮って骨折なしと診断すると、湿布と痛み止めをくれるだけなのだった。


 これじゃいかんと接骨院を訪れる。ここなら電気をかけたりツボや針で患部を直接何とかしてくれる……と思ったら、骨盤矯正とかの歩く訓練をちょこっとやっただけ。それにちょこっとストレッチめいたものをやっただけ。それで保険は利きません、と言われ、四千円払った。


 結局一週間、湿布を貼るだけでヨタヨタどうにかやり過ごす、という、医者に行っても行かなくても同じ生活を送ったわけで。

 まあそれでも治ったので、次回からは医者要らずでいきたいと思います。。。


 このプチギックリに限らず、首が回らない(比喩じゃなく)、肘が突っ張る、膝や肩や股関節が固まる、などと、激しい運動や大コケとかの覚えが全くなく、ある日突然そうなる、という不調が最近増えた。


 トシと言えば全て収まるのかも知れないが、これが結構厄介だ。

 自分の感覚として、以下のように法則化されてはいる。


 久し振りにスポーツをした、とか、転んで膝や手を捻った打ったとか、ハッキリ原因が思い当たる筋肉痛や怪我なら強くても割と早く治る。

 けれど、何故だかわからないいつのまにか生じた痛みというのは、弱くてもなかなか治らない。


 悔しいので名付けてみる。「音もなくやって来ると長引くぞの法則」……、ネーミングセンスゼロ……ごめんなさい。


 とにかく、原因がわからないから冷やせばいいのか温めればいいのかすらわからないまま、ひたすら痛い。何かするたび痛い。


 そして、どうしてかそういう痛い時に限って、大掃除だとか遠出だとかの用事があるのである。

 更にそんなときに限って電車を乗り越し、戻るのにやたらに階段を上り下りしなくてはならない羽目に陥る。


 ……こっちは「泣きっ面法則」とでも名付けようか。もうヤケクソ的。マーフィーの法則に追加して欲しい。


 いや、でもいつか何かの話を作るときに使えるかもしれない。「法則作った」ってことでようやく理系っぽいと思ってもらえるかもしれない。

 それだけで得したと思おう。


(了)

 

 

 

 

 

 

 

 

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  理系に進みながらも、理系的才能も適性もなかったことは、前回書いた。文系的才能もないくせに、物書きになりたいな、と思ったことも。一般的には妙な分類の人間なのかもしれない。

 

 要するに、理科へも文科へも、どちらも秀でていない。平均的に低めだったので、どう進めばいいのかわからなかったのである。


 で、だから物書きを目指せるか、というと、ウン十年いろいろ書いて、いろいろ弾かれたりして思ったのは、「売り」の必要性である。

 

理系だから物語を書けないかというと、全然そんなことはない。

手塚治虫はお医者だし、東野圭吾は工学系である。エセでない正真正銘理系出身の彼らが書く物を面白いと思う私は、畏れ多くも、リケジョでももしかしてそういうことができるのでは? と希望を持ったわけで。 

 

おまけに東野さんがどこかで言った言葉を支えにしちゃっている。ミステリーを書くことは理系には向いている、というようなことだった。

これはつまり、ラストを決めてから書くミステリーの場合、あちこちに伏線やヒントをパズルのようにはめ込む。そういう図形的な感覚は、理系なら得意なはず、といった意味に捉えた覚えがある。こういうときばっかり自分は「理系」だと思い込む。

 

と、そこまでは都合良く解釈したのはいいとして。手塚さんにしても東野さんにしても、理科系の専門性がガッツリと「売り」になっているじゃあないですか。

 

作品を読めば明らか。エセでない理系の方は、半端無い「手に職」的技術をお持ちだ。それを物語のリアルな背景に据えられるのが強みだと言える。

そういうのがなくて、元々文系的描写力もなくて、自分、我ながら無謀な挑戦だと思う。

 

 そう言えば、以前、理系の才女菊川怜が言っていた。「ブラックジャック」と「ガラスの仮面」に心酔して、医者になるか女優を目指すか迷ったと。

 私もその2つは愛読書だったが、全くそんな発想は出なかった。リアルな将来に反映しなかった。その辺りが平々凡々なただのエセリケジョでしかない悲しさ。

 彼女は「ブラックジャック」の影響で東大理系へ進み、「ガラスの仮面」を諦められずに女優になった。


 せめてその思いの強さの端っこだけでも真似したい。

 平々凡々の平均的人間にしか書けない何かがある……そう思いたい。エセリケジョっていう、肩身の狭い立場も、きっといつかキャラ作りなどに役に立つ、とも。

 

 そういう前向き思考は、この長い物書き志望歴の間に身に付いたものである。それだけでも進歩かな。

 

(了)

 

 

 

 

 

 

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  自分の理系出身という経歴、実は内緒である。

 

 なぜなら、ノーベル賞の山中教授や田中さん、ガリレオ先生(架空)などを思い浮かべられ、「すごーい」「頭良いんだね」と言われるのが常だからである。

 しかしその実態は、全然すごくないし、頭良いどころかヤバいレベルなのに、だ。イメージとは恐ろしい。

 

 単にこのブログもどっかの公式ジャンルに混ざりたいと思った。けれど毎度フラフラと思いつきを書いているもので、はまりにくい。結局恥をしのんで「理系女子」に登録してみた。そのためにこうして内緒の話をしているわけである。

 

 自分の思う、「ザ・理系」というのがある。学生時代にはハードな実験を重ね、難しく厳しい卒論を完成させ、理詰めが得意で、仮説を地道に調査し立証する努力をいとわない。

 ……そのどれもが自分にはない。

 

 そもそも昔から暗記がダメなもんで、社会全般がめちゃくちゃ苦手だった。だから最低限の公式を覚えて使い回せば何とかなる、という理由で理系を選んだに過ぎない。

 けれど、物理は電流の説明になぜ滝とかダムが出てくるのかどうしても理解できず、その時点で挫折。生物、地学は暗記だし、化学はカメノコがこんがらがって触りたくなくなった。

 

そんな理由で残ったのが数学。数字に苦手意識はなかったので、高校時代前半までは結構好きだった。答えは一つだけっていうのがスカッとするし明快だ。

そう思っていたのに、数学という分野は先に行くと殆ど「証明」になる。背理法とか数学的帰納法とかの、どうも腑に落ちないやり方で何やらを導いてQED。

……全然スカッとしないどころか、何で証明できたことになるのか自分にはさっぱりわからなかった。未だに謎のままである。


結局要領だけで卒業はしたものの、断言できる。自分に専門課程で身に付いたと言える物は何一つない(涙)。

 

 ならば文系を志すべきだったか、というと何とも言えない。国語や英語も嫌いではなかった。だけど成績は低空。よって多少それよりマシだった数学寄りに進んだだけの話である。

 

 世の中の「文系理系」という分け方が、自分には物の見事に合わなくてどっち付かず。一応理系側にコッソリ混ぜてもらった、というのが正しい。

 

 リケジョと言えば、白衣の似合う女医さん、化学反応を熟知した薬剤師さん、金銭感覚ばっちりの公認会計士さん、空間認識に強い建築士さん、理論的な学者さん等々。世の中にはそういった素晴らしい理科系女子がたくさんいるというのに。

 だから申し訳なさすぎる。こんな自分が理系だと公言するのは。

 

 そんな元リケジョが物書きを目指す。それはありか?

 「だけど文系になれなかったわけでしょ?」って声が聞こえてきそうだが。

 

 そういう感じでこのブログ、進めたいと思います。

 

(了)

 

 

 

 

 

 

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  アメニモマケズ、カゼニモマケズ。日々の忙しさにも怠け者の虫にも負けそうになりながら。何年も物書きの真似事を続けてきた。

 

 物語を作る作業の骨格として、「起承転結」というものがある。その長い年月の間、私は書いた物全てこの基礎を守っている。


何でもありの昨今、そんなものは必要ない、自由に書けばよいと言い切る指南書もある。けれど私自身が読み手視聴者として言うなら欲しい口。


個人的好みとして、ただ散文的に何の関連もない事項が並んで、日記的に行き過ぎるだけの物語にはあまり引き込まれない。フィクションの物語なら、ノせられる流れが欲しい。


何かとっかかりがあって(起)、それが転がって(承)、とんでもないクライマックスに発展して(転)、そして何かが変わる結末(結)。私はそういう物語が好きなのだ。おそらく、他はエセでもその辺りの感覚は理系的……だからなのだと思う(エセでない理系の方から苦情が来ませんように)。

 

まあ好みの問題だから、無視してもいいっちゃいいのかもしれないけど、まず基礎を抑え、抑えることができてから応用的に変えていく方がいいのではないかと思っている(だから未だに基礎で止まってるのか、自分……)。

 

とにかく「起承転結」に沿って書いている、つもり。……ちゃんと書けてるかどうかは別として……はい、よく「転」が弱いと言われるし自覚もある。その弱点は致命的だから、日々必死で「転」にインパクトをつけることに腐心している……。

 

そうは言っても、いろいろこねくり回しすぎて壁にぶつかることもある。そんなときに必ずこの基本に立ち返る。


私の教科書は「恋はデジャ・ヴ」(1993年、出演:ビル・マーレイ、アンディ・マクダウェル)という映画である。これは話自体も面白いし、個人的に「起承転結」のお手本だと思っている作品である。以下ネタバレあり。

 

まず、主人公があるとき同じ一日を繰り返すハメに陥る「起」。

最初はそれを利用して下心を満たそうとズルばかりする。が、何度やり直してもうまくいかなくて気が変になり、様々な方法で自殺を試みる。だがその度その一日の始めに戻ってしまい、クリアゼロ。それが「承」。

やがて悟りの境地に達した主人公は、この特性を人助けに役立てることにする。それが想い人の心を打って恋が叶うという「転」。

心を入れ替えて人に認められたことで、彼にようやく「次の日」が訪れる。そういう「結」。

 

良作なのに、意外とメジャーでない映画かも知れない。けれど、大好きな作品の一つ。物を書く上でとっても勉強になる作品の一つ。役者さんもみんな素敵で、観た後にスッキリ楽しかったと言い切れる作品の一つ。

 

 ソウイウサクヒンヲ、ワタシハカキタイ。

 

(了)

 

 

 

 

 

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 うちの校舎が人気ドラマの撮影に使われた。高校時代のトピックだ。ウン十年も昔の話である。

 

最近、その再放送をたまたま見た。で、なぜロケに使われたのか、深く納得した。

建物がレトロで趣があるのである。良く言えばそうだが、フツーに言えばボロ。何せ、女子高生が屋上から転落死したという事件を探る刑事が、「こんなにあちこち塀が傷んでちゃ、落ちても仕方ないな」とかのたまうのである。近代的なお洒落な校舎では困るのだ。

 

そもそも自分、この学校の入試の時に、身をもってボロさを実感した記憶がある。

空調が悪かったか何だかで窓を開けようとした。しかし回転する形式の取っ手がめちゃくちゃ固い。やっとこさ開けられる位置まで回すことができたと思えば、今度はどう押してもビクともしない。若いので力で押し切ろうとする。120%のパワーでドついた瞬間、一気に向こう側へ跳ね開いた。危うくリアルに転落するところだった。

 

また、建物が古いので、廊下などを走ると足音が尋常ではない。遅刻ギリギリ、何とか滑り込まねばという事態になっても、気付かれないようそーっと潜り込む、などという芸当は不可能なのだった。

 

つまり当時の自分には、レトロだ何だと粋に感じる余裕はなかった。ただただオンボロの不自由さに翻弄されたことしか覚えていない。

 

近年の学園ドラマを見ていると、校舎が新しくてきれいで、キラキラ感にため息が出る。そんなところで毎日を送っていると、逆にレトロに憧れるのかもしれない。例のドラマ再放送を見たときの自分も、思わず他人事に「いい雰囲気の学校だったなあ」と、感じ入ってしまった。

 

ただ、新しいものはやっぱり進化している。最近旅行先で泊まったホテルは、バブル期に流行ったリゾートマンションの払い下げらしく、リフォームしてはあったが、とんでもなく動線が悪かった。有り得ないところに段差があってやたらに躓いたりもした。今の自分がいかに暮らしやすい環境にいるのかを痛感した。間取りにしてもバリアフリーにしても、格段に技術革新が進んでいるのだと。

 

年が嵩んでくると、何が大切かの優先順位は、体調と時間が急上昇する。それらの比重が高まれば高まるほど、怪我や手間を減らす技術があるなら、できる限り甘えたいと考えてしまう。

 

昔ながらの人情を匂わせる昭和ののどかな町並みには、確かに居心地の良さがあった。最近のそれを持ち上げる傾向もよくわかる。

けれど懐かしさはあっても、あの頃に戻りたいとは思えない自分は薄情者なのだろうか。

 

不便は不便なりにこなしていた。けれど一度便利さに慣れてしまうと、もうそうはいかない。そんなことを重ねていくたび、別の何かを置き忘れると気付いてはいても。

 

(了)

 

 

 

 

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 のび太じゃないが、昔から人をうらやましがってばかりいた。

 

子供の頃は「自分の部屋」。姉妹がいたのでずっと相部屋だった。だから友達がベッドの位置を変えるとかカーテンを春らしくしたいとか言うのが、夢のようで憧れた。けれど悲しいかなピンと来なかった。ベッドの向きをどうするとかカーテンの模様は花か葉っぱかと悩んでいる、と相談されても、イメージがさっぱりわいてこないのだった。

 

学生の時は成績や部活。自分は何百番というレベルの成績で、でも近しいクラスメイトが「今回順位が二桁に落ちちゃって」と悩んでいた。自分だって頑張ったつもりなときにそう愚痴られると、うらやましいを通り越してさめざめとしてしまった。

また、「あと少しで勝てた試合を、何が足りなかったか」と悔やんだり反省したりする部活仲間には、うらやましいは歪んで変形してひねくれた。そもそもレギュラーになれず試合にも出られなかった自分には、そんな悩みは雲の上、全く共感が涌かなくて「こっちに言うな、バカヤロー」だった。

 

思春期になると一番盛り上がるのが恋バナ。ところが自分に発信できる話は全くなし。聴くだけでも楽しいが、正直、ドラマか漫画かどっか遠くのファンタジー? てな感覚でしか捉えられなかった。だから、クリスマスどこ行くなどのワクワク感も、彼氏の不誠実やら失恋やらを悩んで泣いてやつれるのも、連発されるとイヤになる。こっちからしてみれば「そんなの関係ねー!」としか思えない。狭い心の持ち主だった。

 

思えばいつも、世の中でその年齢でメジャーなことが、自分には欠けていた。だからそのレベルにいる人の愚痴を、「レベル一つ上の悩み」と名付けて羨み僻んでいた。そういうレベル差があって「その気持ちわかるわかる」などとは慰めることができないこちらに、悩み相談してくる相手が腹立たしかった。「自慢なの? 自慢したいだけ?」と思わせられ、ぎくしゃくして関係が終わった友人もいる。

 

そうして気が遠くなるような年月が過ぎてから、「あの人の気持ち、これだったんだ」と腑に落ちることがある。今更ながら「わかるわかる」と言えるようになったことが少しは増えたのかもしれない。それにしても世間一般の人からしてみれば、大幅に遅れている。未だに欠けている「当たり前」なことも自分にはまだまだある。

 

経験が乏しいということは、相談されて嫌な思いをしたり狭い心しか持てなかったりと、とても寂しい人間になってしまうのだろうと思った。

自分自身を振り返ってみても、躓いた時に相談するのはその分野で豊かな経験がある人だ。人として人に温かく接することができるのはそういう方なのだとつくづく思う。

 

そういう意味で、自分はいつになっても嫌な人間を脱しないのではと切なくなる。これなら自分に相談して、と胸を張れる分野がない。


ああ、1つだけ。

本人がどれだけ純粋に悩み相談のつもりでいても、相手によっては自慢話にしか聞こえないことがある。「あなたにはわからないでしょうけど、私ってこんなに大変なのよ」と。それがどんな気がするか。それだけはわかる。それなら経験豊富だから。

 

(了)

 

 

 

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 ここに、近所のパン屋さんの割引券がある。

 100円分。これは、年末に先着△名様○○円以上買ったお客に配られたカレンダーにくっついているものだ。毎月1~2枚ずつあるから結構お得。ただし、1回につき1枚しか使えないとの条件付き。

 

 その券を使いたいがために、律儀に1月に2回そのパン屋さんへ行く。そこで○○円以上たくさんとか特典対象のパンなどを買ったりすると、更にまた割引券がついたりする。そうするとそのパン屋さんに行く頻度は月4とか5とかに増えていく。自動的に券も増え、ますます行かなくてはならない、という、追い立てられるようなマスト事項となる。期限付きなので、その月末までには何としても達せなくてはならぬ、という強迫感で雪ダルマ式にこうなってしまうのだ。

 

 もしも行かなければ買うこともないであろう何とかデニッシュとか何たらパイも、現場で見るとつい欲しくなって買っちゃう。100円安くするために行って、有り余るほど余計な散財をして帰ってくる。
 つまり実際、もはやお得なのかどうかよくわからない……。

 

 何かに似てるなあ、と思い当たったのが駐車券。スーパーやデパートにマイカーで出かけた時のあれである。

 

 場所にもよるが、2000円以上2時間無料とかそんな感じ。これ、必要もない物を無理矢理買って2000円にしようと結構必死になる。また、2時間が迫るギリギリで各駅停車のエレベータに当たったりすると、叫びたくなったりもする。

 

 よく考えれば、2000円に足らずとも駐車料金はせいぜい200~300円くらいだろう。時間過ぎても超過料金だって店によっては端数扱いで0円のこともある。

 

 薬局とかネット通販でも同様だ。「今月あと○○円買うとあなたのランクはゴールドにアップしてポイントが倍増します」とか、「今○○ポイント貯まっているので○月中ならその分割引になります」とかのお誘いが。これも無理矢理その金額、その期限に合わせようとして頑張ってしまう。

 

冷静になれば、もしやむしろ損してるかも? という無駄な増殖買い。振り回されずにマイペースに買いたい物だけ、好きな期間に、好きなだけ時間をかけて。その方が精神衛生上もよろしいような気はする。

 

でもでもでも。

やっぱりちゃんと期間中にちゃんと割引を受けた、という満足感でちょっとの幸せを得る。それだってお買い物の醍醐味だ。だからせっせと割引券を集め、せっせと期間内に出かける。それがパン屋さん達の策略でうまく引っかかってるとわかっていても。

 

けれど、そこのパン、大変に美味しいのだ。美味しくなければこうはならない(はず)。策略通りにハマってるよなあと思ってはいても、「ま、いいか」となるわけである。

 

消費者心理学とか購買心理学なんて名前の学問もある。ちょっと興味出てきた。(了)

 

 

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 甲子園てのはお化け屋敷か?

 これは、あだち充先生の国民的野球漫画「タッチ」の登場人物、原田正平君の名言である。

 

人間離れした野球力を持つ高校生が出現するたび「怪物」だとか「化け物」だとか呼ばれ、ビックリするプレイが出ると「魔物」が棲んでいると騒がれる。それを皮肉ったわけだが、大笑いした。

 

 今年も大盛り上がりのうちに幕を閉じた高校野球。広陵の中村君が清原氏のホームラン記録を32年ぶりに更新した。これも「怪物」のうちに入るのだろう。

 が、自分が思ったのは別のことである。

 

 なぜ、こんなにも大逆転ができるのだろう。

 

 最近はプロ野球のひいきチームがふがいなくて、そういうどんでん試合から縁遠いせいもある。1点がとても遠い、というケースもよく見る。だから、もうあと1アウトで終了、でもランナーなしで点差は6点ある、なんて状況でひっくり返すのが信じられないのである。

 なのに、高校野球では珍しくない。

 

 諦めない。そういう土壇場でも絶対諦めていない。その集中しきった目が、その力一杯のスイングが、そう叫んでいる。一人が決死のファイトで一塁に生きると、次が同じように続き、またその次がつなげ、そうして奇跡がやってくるのだ。

 

 その現象を、一体どう思ったらいいのだろう。科学的に説明がつくものなのだろうか。

 

 高校生。その年代は、感情に左右される度合いが大人より大きいだろう。だから感受性はこちらの想像よりよっぽど大きくて、それがもたらす伝染力はとてつもなく強いのではなかろうか。


 そうしてチームに濃く漂った「勝ちたい」「勝てる」「できる」という思いが全員に深々と浸透する。たとえそれをできる実力が足りてなくとも、その伝染力は実力を2倍増し3倍増しにするのでは。

 

 結果。大人には信じがたい崖っぷちからの巻き返しが、大逆転が起こり得る。

 

 と、そんな風に思うしかない。もちろんしんどい練習をさんざん重ねた努力の結晶であることは間違いない。だけどそれを超えた、精神力というか、熱力というか、理屈じゃないものがある。

 もはや「超常現象」と言っちゃっていいのではないだろうか。これは個々の天才の「怪物」や「化け物」だけではなく、他の選手達にも表れる。一般に勢いとか流れとか言われる頼りないものだが、確かに存在している。

 

 つまり、やっぱり甲子園はお化け屋敷なのだ。なるほど、だから私達観客はこの2週間、絶叫するわけだ。

 

花咲徳栄、埼玉初優勝おめでとうございました。


(了)

 

 

 

 

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 大阪って、外国だと思う。


 それが、東京人の自分の素直な感想だ。常にユーモアを持ち、しゃべることによるコミュニケーションを大切にし、表情が豊かで、全くの初対面でも人見知りしない。自分がアメリカ人に持っている印象と似ているのである。


更にあの関西弁が、他人との距離を縮めている気がする。何か、そこまでいくのに結構苦労する自分からしてみると、労力80%くらい省エネなんじゃないかって、うらやましい。

 

 大阪へは何度か出かけたことがあるが、その度にそういう思いを抱く。

 あるときは、電車で隣り合わせたオバチャンに「昨日の××の○○はねえ」なんていきなりテレビの話をされて、私? 私なの? と周りをキョロキョロ見回してしまった。

 またあるときは「道頓堀ならこう行ってそう行って」と目指しても聞いてもいないのに丁寧に教えてくれて、そのフレンドリーさに脱帽した。

 

 そして先日である。

 その日私は、大阪城を見に行こうと広い公園をウロウロしていた。

 

部活らしき学生がたくさんトレーニングをしていた。その中で「趣味ランニング」みたいな気合い入ったウエアの大人の方々もいっぱい走ってくる――と思った瞬間、沿道から拍手と歓声が上がった。


へえ。マラソン大会か。知り合いの応援か。にぎやかだな、と思った。

だが。

やってきたオッサンランナーは、両手で力一杯「カモン!」のゼスチャーをしたかと思うと、「もっと応援盛大に来いや!」と更なる盛り上がりを要求したのであった。


その振り切れ方。こちらのつまらない悩みとか、むしゃくしゃした気分とか、どうでもよくなってしまいそうな突き抜けた感じ。

 

小雨が降ったり止んだり。豊富な木々がその湿り気の香りを漂わせている……などと詩人の気分でいたら、水の気配はそれじゃなかった。

ばちゃばちゃ音がするのでよく見たら、お堀である。まあお城だから。

いやいやでも。目をこらしたら、人が泳いでいるじゃんか? 何人も??

いやいやいや。こんな濁った水にまさか、と間の小道を渡ろうとしたら、緑のオバサン的に旗で止められた。そのウィンブレの文字。

「大阪城トライアスロン」???

そういえばそんなポスターを通りがかり見たような。

 

翌日の新聞に「大阪城スイスイ」なんて記事が載っていた。けどお城のお堀で泳いじゃって、しかもトライアスロン大会にしちゃうなんて。何というか、意表。あり得ない。最高に笑えてしまった。

いや、きっと、それも大阪人の求めているところなのかも。

 

 前日、はるばる観に来たひいきプロ野球チームがバカ負けした。でもそんな鬱鬱をも吹っ飛ばしてくれた大阪節だった。(了)

 

 

 

 

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 自由なテーマで物語を書く。

 これはアマチュア作家の特権だという。プロになると、様々な制約により、書きたいことを書かせてもらえないとよく聞く。

 要するに、読者ターゲットに対応した物を書けるのがプロだということだろう。

 

しかし、好きに自由に書ける身分だから大喜びで筆が進む、となるかというと、自分の場合そうでもなかったりする。

 

テーマ:自由。それが結構難しいのだ。

特異な経験、波瀾万丈の人生、の手持ちはない。ごくごく平凡な人間でしかない自分には、基本的に日常をすくい取って面白さを見出すことしかできない。そして、日常の中の面白さ、という些細なものは、時間と共に埋もれていく。忘れんぼの身としては、さあ書こう、と思っても、なかなか浮かんで来ないのである。

 

ところが最近、「お題」をいただいて書く、ということを繰り返しているうちに気付いた。どうも自分、「自由」より「お題」がある方が書きやすいタイプの人間らしい。


そんなんでいいのか、と必死で「自由」を模索していた時期もあった。

が、「特に書きたいことがあったわけでなく、書けと言われたことについて書いてきた」との、あるプロ脚本家さんのお話が、すとんと落ちた。その方は今も素晴らしいドラマをたくさん書いておられる。そういうタイプがいてもいいのだ、と思わせてくれたのである。

 

お題が、例えば「猫」だとする。なら、自分は猫について何を連想するか、どう思っているか、猫好きな友人がどんなことを話していたっけ、などと考える。岩合光昭さんの映像や写真集を見たり、「猫」がタイトルに入っている本を片っ端から読んだり。


そうしているうちに「自分は猫を飼ったことがないからリアルな猫の話を書くのは難しい。けれど猫に何らかの思い入れがあって追いかける人の話なら。その思い入れの部分を、昔なくしてしまった大切な宝物への思い入れにすり替えれば書ける」と、まさに豆電球が点る瞬間がやってくるのだ。


その時に驚く。ああ昔、こんな宝物を持っていてそうやって大切にしていたっけなあという記憶。それを引っ張り出せたこと。


 そうやって「書ける」と思えるまでには時間がかかる。けれどそう思えたら、しめたもの。

 その宝物への「思い」がテーマになるのである。


 そんな風に「お題」をこなしているうちに、自分が些細な経験に対して何を考え、どう思っていたのかに改めて気付く。それが独自の色づけとなる手応えが面白くなってくる。そうなると、書くことを止められない。


 だから今日も苦心しながらテーマ掘り起こしにトライしている。(了)

 

 

 

 

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