石の上にも○○年~物書き志望女のひとりごと -45ページ目

石の上にも○○年~物書き志望女のひとりごと

日常で気になったことや、長い物書き志望歴で思ったことをランダムに綴ります。

  学生の頃、部活にしろ、読書にしろ、うだうだするにしろ、やりたいことをしようとするとよく邪魔が入った。

 勉強が主たるそれ。終わったと思ったらすぐ次の定期テスト。あっという間に次の受験。「勉強しなさい」と言われるのも嫌だが、言われなくても心の半分にひっかかって、さぼってやりたいことをやっていても集中できなくてモヤモヤした。

 

 それが大人になって変わったかというと。全くというか、更に格付けが下がった。つまり優先順位がどんどん落ちていく。仕事がある。家事がある。しがらみの付き合いがある。体のあちこちが故障する。冠婚葬祭が飛び込む……やりたいことなんてもう、最後の最後という後回しになってしまうのだ。

 

 自分の場合、一番やりたいのは物語を作ること。そのために仕事も時間の融通が利くものを渡り歩いたし、他のTODOもなるべくゆるめに設定して、書く時間を確保しようとしてきた。

 

 なのに。

 仕事も長く続けていると情がわく。もう少しシフト入れないかと頼まれれば、時間空いていない訳じゃないので断れなくなったり。

 何かの人数合わせで誘われると、実際時間がない人よりかは行けないことないわけで。

 暇だと思われていろいろ振ってくる輩もいて、あれこれ言い訳をつけて断ったりもするのだが、家にいるのがバレたりすると大変気まずい。

 

 そして、始末の悪いことに、いざ時間を堂々と「物語を作る」ことに費やせる番がきたとき、さて何もアイディアが浮かばないぞ、どうしよう、となったりするのだ。

 で、だらだらゲームに終始したり、たまっていた録画が結構片付いてしまったりと……嗚呼、大人になるとどうしてこう、やりたいことが全く出来ないのだろう……

 

 工夫はしてるんだよ、と言い訳してみる。細切れの通勤時間にアイディアをメモったり、15分しかないならざっとあらすじだけ書き上げるとか、待ち合わせまでの空いた時間に資料探ししてみたり。少しずつでも進めようと。

 だけど叩き台のベタ書き何十枚となると、どうしてもまとまった時間が必要になる。

 

 昔読んだ「ドラえもん」に、時間貯金箱というのがあった。すごく欲しかったけど、現代にはそれと同じようなことを可能にするツールがある。細切れ時間を上手いこと繋ぎ合わせられるはずなのだ。

 

 大人になるほど、年がいくほど、目先の切羽詰まった必須事項や避けられない突発事項が増えていく。急がない自分の「やりたいこと」は、ズルズルと後回しになってしまう。

 だから、いざ実際丸一日まとまった時間が取れた時に、いかに最初からトップギアで進められるかが勝負。そのためにツールを駆使し、どれだけ事前準備を整えられるかが、今の自分の課題になっている。

 

(了)

 

 

 

 

 

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  「ビバリーヒルズ高校白書」という海外ドラマがはやっていたことがある。華やかなセレブ地区に越してきた双子高校生を取り巻く青春群像劇なのだが、ずっぽりハマッた。自分は、一歳年下のくせしてこのグループに混ざっていたデビッド君のファンだった。


 このドラマ、自分の高校生活からは考えられない、と、ぶっ飛んだっけ。


 まず、私服があまりにおしゃれ。制服で三年間過ごした身としては、うらやましくもあったが、あそこまでファッショナブルだとついていけないだろうと、日本でよかった、なんて少しホッとした本音もある。


 それから授業中の行儀の悪さ。肘を突いて上目遣いだったり、女子がミニスカートで足を組んでたり、先生とタメ口だったり。日本じゃすぐに要注意人物になってしまうだろうことが、普通の感覚らしいのが不思議だった。

 でも、先生に対しても生徒同士でも、きっぱり意見を言い合う。それが新鮮に思えたのは、そういう面が日本に(自分に?)足りないところなのかなと感じていたからだろう。


 「ビバヒル」で初めて思ったわけではないが、高校生が車通学をするという状況に、ええっ、と思った覚えがある。あれだけ大きな国だから、交通事情によりそうなるのだろう。州によっても違うらしいが、16歳くらいで免許が取れるところもあるらしい。

大好きな映画に「フットルース」というのがあるが、卒業パーティに女子を迎えに行くシーンがあった。目的地について、すぐに降りようとする彼女を制して、主人公が運転席から助手席に周り、ドアを開けてあげる。そういう仕草を大人の真似してやりたがる、という高校男子の初々しさを、微笑ましく思えたものだった。


他にもこの「ビバヒル」、学生なのに新聞部の社会への糾弾が鋭かったり、自己の目線がしっかりしていて物怖じしなかったり。狭い中ですぐ別れたりくっついたり(これは果たしてリアルなのか、ドラマとしての創作なのかわからんが)。


とにかくカルチャーショックの連続。高校生活は勉強に部活、ときどき恋愛。みたいなのが常識と思っていた自分。世界は広いんだな~、と思ったわけで。

だからもう少し早くこういうドラマを見たら人生変わったかも、と、10年以上も前に見た時に思った。こういう高校生活をちょっとのぞいてみたかった。


自由すぎてその分責任も背負うことになるから、日本にいるより大変かも知れない。ドラマを見るだけでそう思ったりするのだから、実地研修したら得るものは計り知れないだろう。

最近はあまり人気がないと聞く留学だけど、お子さんにそれを勧める親御さんの気持ちがわかる。まずこういったドラマを見てみるのも、行きたいと思うきっかけとして悪くないと思う。


(了)

 

 

 

 

 

 

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 台所の水栓が外れた! トイレの水が流れっぱなしで止まらない! お風呂のシャワーノズルが絶不調! 等々、これまで襲われた水回りのトラブル。

 

 でも心配なし。我が家には心強い味方がいるのだ。名付けて「水回りのデスパイネ」。とある大手の修理屋さんなのだが、これが頼りになるのである。

 

ちなみにデスパイネとは、プロ野球チームのロッテに一昨年まで在籍した助っ人外国人である。昨年からソフトバンクに移籍、ホームラン王と打点王の二冠となった強打者だ。腕っ節の強い頑強な強面の、でもどっか愛嬌のあるキューバ出身選手。

 

そのデスパイネによく似ているのだ、その水回り助っ人さん。

そこの会社は、依頼主の近所から手の空いている修理屋さんを派遣する仕組みらしいのだが、だからうちが依頼すると、彼に当たる確率が高い。最初にやってきたときに一発で覚えた。物覚えや人の顔の覚えが悪い自分がそうなったのには訳がある。

 

その方、見かけはデスパイネのごとく大きくて頑強そう。なのにである。なのに、声が。声がソプラノなのである。

玄関に迎えに出た自分が居間に戻ると、オットが「事務の女性も一緒に来たの?」と訊いてきたくらいだ。その見かけと声とのギャップがあまりにすごくて、インパクト大。一瞬で記憶に刻まれたというわけである。

 

でも、仕事はまさにデスパイネ。丁寧でしっかり、説明もわかりやすい、の三冠王。何より電話するとすぐに飛んできてくれるのだ。「すぐにはちょっと……」と一度口ごもられたことがあったのだが、「どのくらいかかりますか?」と訊くと「あと30分はかかっちゃいます」と申し訳なさそうに。いやいや、夜とか明日とか言われるのかと思ったんで、全然OKです。むしろ申し訳なく思ってもらうのが申し訳ない。……といった具合に親切度も花丸。

 

ここに辿り着くまでには、いろいろな修理屋さんを渡った。来るのに一週間かかったかと思えば、状況を見ただけで「来週道具持ってきます」と言い放った業者には二度と電話しなかった。ああでもないこうでもないとさまよった末に大金の見積もりを出したところも同様。マンション管理提携先には、「適用外」とか軽く言い渡された。

けど今はデスパイネがいるから安心。水回りは緊急を要するし精神的にパニックになりやすいので、これはとても大きい。

 

そしてもう一つ。物語を書く時の大事な要素に「キャラ創り」というのがある。それは「ギャップ」というものが一つのキーになる。このデスパイネのキャラ、いつか使えるのではないかと、密かに創作メモに書き留めてある。

 

(了)

 

 

 

 

 

 

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 子供の頃、何かをさぼりたくてお腹が痛くなったことがある。いや、「痛くなったことにした」ことがある。

 

 子供心に、ただ痛いと言っても見破られるだろうと思った。で、決してそれをさぼりたいわけではないのだと楽しみにしてる風を見せつつ、ちょいちょい腹痛な顔をする。更にその素振りは、見たいテレビ番組中には起こさないようにし、好きなごはんのメニューは食べられるくらいで、けども周りにいるスピーカータイプの友達に気付かれる程度には目立たなくてはならない。


 そこで「朝起きた時にちょっと痛かったけど、気のせいかと思ってごはんは食べちゃった。テレビを見終わったら少し痛くなったんだけど、さぼりたくない楽しみだから頑張って出かけた。でも直前になって我慢できなくなって、本当に残念だけど休む」とかいうストーリーができあがるわけである。

 

なんて小ずるく小賢しい可愛げのないクソガキであろうか。今の自分がこんな子供に出会ったら、ブッ叩いているところである。

まあ、そういう言い訳を聞いていた大人の表情を思い出す限り、バレバレだったことは間違いないだろうが……。

 

小説とかシナリオで物語を創り始めてから、そんな過去の汚点をよく思い出す。

何せ物語というのは嘘っぱちである。ノンフィクションでない限りは全くのデタラメ、想像、妄想である。

けれどその嘘っぱちに説得力を持たせるためには、周囲を「本物」で固めなければならない。これは資料なり取材なりで何とかなる。

が、嘘であるがゆえに招いた破綻はそうはいかない。ああでもない、こうでもない、と辻褄を合わせるために四苦八苦する。あっちを立てればこっちがダメ、こっちを優先すれば気に入ったエピソードを捨てなくてはならない、などの調整に、めちゃくちゃ時間と労力がかかるのだ。

 

自分が修行中の「もどき」であるから未熟なのかと思いきや、本職作家の方々のエッセイなどにもそういった発言が出てくる。ので、創作につきものな苦労だというわけだ。

 

あの頃の腹痛のこすい言い訳も、どうにかこうにか辻褄を合わせた創作の一つだった。あんな子供の頃からそんなことだけは得意(?)だった。けれど未だ物書きにはなれていない。そういうイヤらしい小賢しさだけは持ったまま、何の花にも実にも化けていないわけで、……子供ならまだしも、大人としてどうかと。嘘つきは小説家の始まりだったと思いたい……。

 

このエッセイブログも、構成の勉強のために始めてちょうど1年が経った(→「25年の片想い」)。というわけで、いつかその小賢しさが花開く、というストーリーを妄想し、いっそう辻褄合わせに励む毎日である。

 

(了)

 


 

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 羽生くん、宇野くんの1,2フィニッシュは荘厳だった。宮原さんはメダルは逃したものの、背筋がゾクゾクする素晴らしさ。坂本さんも元気なジャンプが愛らしかった。

 

というようにオリンピックのフィギュアスケートを見るたび、思い出す漫画がある。「ワン・モア・ジャンプ」赤石路代作(小学館文庫全5巻)。

 

これはスケート一家に育った少女帝が、フィギュアスケートでリレハンメルオリンピックに出る話である。連載当時、実際のリレハンメルはまだ始まっていなかったので、1994年より前の漫画。この頃はまだ日本人がフィギュアスケートでメダルなど、夢にも思わなかった。

 

簡単におさらいすると。

 

帝はジャンプが得意。想像力が豊かなので演技構成を自分で考えるのが好き。本番に強い図太さと機転、そして想い人のトーマの手助けで数々のトラブルを乗り越えていく。

ライバルの緋夏はバレエから転向、アーティスティックな美しさの持ち主。ペアを組む拓馬は滞空力がすごく、片手を上げたジャンプで帝を驚かせる。異母兄のトーマはロシア人ハーフで、怪我で引退はしたが前人未踏の四回転を飛んだ。

 

この連載時には、この設定は確かに漫画。リアル感はあるけれど、片手ジャンプも四回転もメダル以上にあり得ない。日本人にアーティスティックな優雅さはお国柄無理。という前提で楽しんで読んだ。

 

それが。

 

今回の女子金、銀のザギトワ、メドべージェワ。普通に片手上げてジャンプしてるじゃないですか。四回転ジャンプなんて、男子で飛ばない選手はいない。日本選手、みんなめちゃくちゃアーティスティック。

 

現実が漫画に追いついてきたというか、もう漫画の世界じゃなくなっちゃったと言うか。

 

ちなみにこの漫画、他にも様々なライバルが登場する。

チェルノブイリ事故で被爆し、天才でありながら死んでゆくターシャ、肌の色で採点が不利になることへの反発が強いリリー、スラム育ちゆえに上昇志向の強いジョディなど。社会的要素もはらんでいて読み応えがある。腹違いの兄トーマへの恋心を主軸に置いていながら、単なる恋愛少女漫画の域ではないので、大人にもお薦め。というか、私などは充分大人以上の年頃に読んでハマッた口である。

 

フィギュアも残すところエキシビジョンのみ。平昌オリンピックもあともうわずか。そんな名残惜しさと寂しさを晴らしてくれる名作だと思います。

 

(了)

 

 

 

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 日中家に一人。そんなときのお昼ごはん、皆さんはどうしているのだろうか?

 

 自分の場合、大体がパン。チーズと、ハムやツナなどそのときある物でトーストにして食べるのがほとんど。

 ただ、前夜のおかずで残った物が朝食後もなくならないときは、それがそのままランチになったりする。カレーとか八宝菜とか。冷凍ごはんと一緒に食べるわけである。

 

 で、ときどき首をひねることがある。豚汁が残っている。冷凍ごはんはない。でもパンとチーズはある……。

豚汁とトースト。この取り合わせって何か変じゃない? と。

 

ごはんとスープなら別に何とも思わないのだが。クラムチャウダーとかコーンスープとか、洋風の汁物でもごはんには合うと思う。けれど、パンと……豚汁? もとい、味噌汁。ミソスープとも言うし、つまりスープだから別にいいじゃないか、とも思うが、どうも妙な気がしてしまう。どうしてなんだろう。

 

焼き魚とトースト。これもダメだ。え、ツナならOKなのに。サバ缶、サケ缶……ならギリギリいけそうか。でも鰯の蒲焼き缶詰とでは無理。アンチョビなら大丈夫なのに。

 

こうして考えると、醤油、ミソとトーストとの組み合わせに拒否反応が出るのかと思う。でも巷には醤油トーストというのがあって、かなり美味しいと聞く。自分はまだ食べたことないけど。もしそれを食べてハマッたとしたら、何の問題もないのかもしれない。

昔「苺大福」を食わず嫌いしていた頃を思い出す。食べる前は「考えられない」「気持ち悪い」などボロクソ言っていたのに、一口食べたら掌返し。今でも大好きなおやつの一つだ。

 

で、こんな風に、豚汁&トーストのことを「合わないなあ、この組み合わせ」と、思うからやめとくかというと……やめない。

 

理由は二つ。夜まで残しておくと結局誰も食べないままゴミになる可能性大。そして何より豚汁をメニューから外すと、外まで何か買いに行くか、代替物を作るかしなくてはいけない。

もったいない精神と、要はめんどくさがり。それが組み合わせへの疑問に勝つ。間違いなく。

 

美味しくないわけじゃなし。食い合わせが悪いというわけじゃなし。いずれ「醤油トースト」を試して苺大福化すればいいさ。いつになるか、それこそめんどくささが先に立つため、なかなか実現しないとは思うが。

 

というわけで、明日のお昼も「豚汁とトースト」になります。

 

(了)

 

 

 

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 昨今、CMやドラマでよく出てくるこのセリフが、あまり好きではない。

 近付きすぎ、ということで笑いを取りたいらしいが、何が笑えるのかよくわからないのだ。そっちが思うほどこっちは親しく思ってないぞ、というすれ違いを笑おうとしている感じが、どうも上から目線な気がして嫌なのかも知れない。

 

 これ、「パーソナルスペース」の違いということなのだろう、と思う他者に侵入されると不快や緊張を生じる空間――要するに、これ以上近くに寄らないで、と思う距離。

 

 これは知り合いか見知らぬ人か、男性女性か、等で変わってくるという。個人的な感覚として、年齢や地域性もありそうに思う。上手く使えば、営業とかナンパとかに役立ちそうである(気がする)。

 

 有名なのは京都の鴨川土手に座るカップル。ちょうど同じくらいの距離を空けて座っている様子が不思議だと話題になったことがあった。知らない者同士、ある程度の距離を空けたい結果、というわけだ。

 

 そう言えば。スーパーのレジに並んでいる時。

 後ろのオバサンが妙にくっついてくることがある。そんなに寄りたくないなと思って無理に前に詰めると、その分あっちも詰めてくる。結果自分は妙に狭い中でバランスを崩しかねない体勢になって辛い。ああこの人、自分よりパーソナルスペースが狭いんだな、と思ったりする。

 

 電車の席でも。

 こんなにガラガラ空いているのに、なぜ隣に座ってくるのか? という方がいらっしゃる。もしかしてコックリコックリしてしまったら迷惑かけるかも、とか、この季節、コートがかさばるから少し広々座りたい、とかあるので、かなり困惑する。

 

 温泉施設でも出会った。

 広い洗い場、あっちもこっちも選び放題じゃないか、という状態で、どうしてか隣で洗い始めるのだ。シャンプーしたりシャワーで洗い流したりの、雫や石鹸がまるで飛んでこない位置取りをすればいいものを、どうしてそこ?

 

直径1メートルほどの範囲で泡の出ているお風呂の真ん中にオバサンがいて、自分がちょっと避けて端っこにいたら、「泡のある場所へいらっしゃい」と親切に声をかけてくれたこともある。けど、1メートルの中に裸で隣り合うって、……ちょっと勇気が要ったので、丁重にお断りした。

 

 駐車場でも。

 どうして隣に、と入ってくる車がいる。まあバックするのに目印があった方がいい、という理由だと勝手に思うことにしたが、……そんなに寄ってきてガリとかやらないでね、なんて念じたりして。

 

 一応自分は女子なので経験はないが、オットによると男性トイレでもよくあるそうである。ガラガラに空いているのに、なぜか隣にきて用を足すオッサンが。

 

「近い……」とは、こういったときに使うのか。でも、CMとかドラマみたいに、相手に直接言う勇気は……ないなあ。

 

(了)

 

 

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 宝クジを買っていた頃がある。しかし、300円より多く当たったことはない。

日用品などを買ったとき、ポイントを集めて応募すると抽選でテレビとかがもらえるキャンペーンがある。何度となく応募したが、一度足りとて当たった試しはない。

年賀状のお年玉。何十枚もハガキをいただきながら、切手以外の賞品は当選しない。

 

これはもう、主催者側が当たりクジを入れていないのでは、と疑念の塊になったりした。が、ちゃんと当たる人もいるらしい。

 

商店街のイベントでがらがらを回したうちのオット。一万円の松阪牛をゲットした。

デパートの食堂街の○○円以上お買上げの方に抽選でご招待券プレゼント、を見事当てたイモウト。

こうしてみると、人によってクジ運の偏りがあるとしか思えない。

 

あるときから、自分で応募するのをやめて、オットの名前で出すことにした。すると、ついこの前カタログギフトが当たり、しゃぶしゃぶ肉をいただけた。

イモウトは、運動会の最後などに催されるジェンカ=じゃんけんで負けた方が勝った方の後ろについてどんどん長い列になる、というゲームで、最後の最後まで先頭にいた。以来、じゃんけんやクジに関しては家族は必ず彼女にお願いするようになった。

 

テレビで宝クジの高額当選者の末路、みたいな番組を見たことがある。自分なら十万円当たっただけでも奇跡かと思うのに、あろうことか、そういう人は一億とかを二度三度経験するのだとか。

ふうん、そうですか、てな感じに冷めた笑いしか出ない……。

 

で、宝クジは買うのをやめた。クイズやキャンペーンの応募もだ。もう全員プレゼントものしかコンタクトしない。じゃんけんにしてもアミダにしても最初から全く期待しない。それが自分の現実的な結論となっている。うん、人生堅実が一番だ。

 

ところで、これだけ運がないのに、というか、運がないからゆえに、確信できることがある。

絶対に当たりたくないクジになると、相当な確率で当たるということ。

最も印象的なのは小学生の時。クラスで隠し芸大会をやることになり、班で1名代表を選ばなくてはならなくなった。心の底からハズレを願った。しかし、1/10くらいの確率だったかと思うが、見事に当たりを引き当てた。パパパパーン!

 

思えばあのとき悟るべきだったのだろう。薄々感じてはいたが、そういう星の下に生まれてるんだ、自分。ということ。

ま、そんなこんなで、クジは嫌いである。大嫌いである。

 

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 ふと、うちには一体いくつの時計があるのだろう、と思い、数えてみた。

 

寝室に壁掛け1つ、置時計1つ(⬅寿命全う済み)。書斎に置時計とパソコン1つ、ファックス1つ(⬅液晶がもう限界で見えづらい)。トイレに置時計1つ、お風呂に給湯器デジタル1つ、脱衣所に置時計1つ。台所の給湯器デジタルと置時計1つ、居間に掛け時計2つ、床暖房用モニターに1つ。エアコンリモコン×3に、ブルーレイとCS用機器に1つずつ。他、スマホ2、腕時計6で、計24個もある。

 

これ、一般的なのだろうか? 単純に考えれば、1戸に2ダースって、……時計屋敷である。

 驚きの事実だ。しかし、もっと驚きなのは、これらほとんどが時刻が合っていないという点である。

 

 時計によってそれぞれ癖があるのだ。少しずつ進むもの、電池がなくなりかけていて遅れ始めているもの、もう昇天しているけどお気に入りアイテムとして捨てられずにいるもの。

 

 正確な時刻だと信用できるのはパソコンかスマホだが、これらは電源を入れるかカバーを開くかしないと見られないので、急いでいるときや両手が塞がってるとき、濡れている時には不向き。

 点けっぱなしのテレビ画面左上に出ている時刻も正確だが、いかんせん文字が小さい。台所からだと遠くて見えにくいし、朝以外は出ていないこともある。

 

 で、大きくて分かりやすい壁時計や、近くの置時計を見て確認することが多くなる訳だが、さて、今の本当の時刻は何時何分?

 

 そのとき見る時計が、何分くらい進んでいるか遅れているかを、即座に思い起こし、計算する。それで急がねば、とか、まだ○○をする余裕はあるな、とか判断するのである。

 

 はっきり言って、超めんどくさい。なので全ての時計を正確な時刻に合わせ直す、ということもトライした。

 ところがこれが家族に不評。進みや遅れが前提になって行動しているので、急に元に戻ると逆に時間を見誤るのである。

 何ヵ月か過ぎるとまた時計ごとに狂ってくるので、合わせ直すこと自体も嫌になる。結局、放置してしまうようになった。

 

 それでも毎日は回っている。あっちこっちのざっくりしたいい加減な時刻を見ながら、電車にも間に合っているし、待ち合わせに遅刻もしない。

 

 これはこれで、頭の体操になっているのかも? と、衰え坂道一直線の脳に役立っていると強引に思い込む……超前向き思考な今日この頃。

 

 

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 以前観て気に入った映画だからまた観よう。そう浮き浮きして観たのに、「あれ?」と思ったことが何度かある。

 

「ミセス・ダウト」もその1つだ。故ロビン・ウィリアムズ主演。離婚した男が、愛する子供達と離れることが耐えられず、女装して家政婦として潜り込むという話である。

 

 最初にこれを観たのは、映画館だったと思うので、1993年。25年も前のこと。とにかくロビンの女装っぷりが見事で、コメディアンのセンスを目一杯堪能し、心の底から大笑いした覚えがある。だから大好きな映画のうちの1本だった。

 

 ところがである。10年ほど前だったか、テレビ放送で久し振りに観たら……笑えなかった。というより腹が立ってきたのだった。

 もちろん、ロビンの女装もコメディアンぶりも、何の文句もない。再度観ても感心した。だけど全く感情移入できなかったのだ。

 

 この主人公、大人になっても「童心」を持ち合わせている。というより童心120%。それは子供と同じ心で遊べるという特技でもあるが、仕事を感情的に辞めたり、はた迷惑を考えないなど大人げのなさに直結。

 奥さんの留守に子供達と大騒ぎをして、家はぐちゃぐちゃ、近所から苦情。仕事で疲れて帰ってくるのにそういうのの後始末は全部奥さん。こんなん、離婚を突きつけられて当然じゃないの。


と、二度目観た時は思ってしまったのだ。一度目にはまったく引っかからなかったこういうシーン。最初観たときは他人事だったということか。普通にロビンの視点で、または子供の視点で、「別れて暮らすの可哀想だな」とか「そこまでしても側にいたいのね」とか素直に共感したのだから。

 

二度めは自分がサリー・フィールド演じるこの奥さんくらいの歳になり、だからもしこういう男が旦那だったら、と、そういう視点になっていたのだろう。大人なのに子供と同じ精神レベルでよしとするこの男を、叩き出す気持ちの方に共感してしまった。

むしろ、演じているミセス・ダウトのような節度と思慮深さを、どうして夫として見せないのだろうと、不思議に思った。

 

こういう現象、映画だけでなく本でも漫画でも同じ。あの頃「いい」と思った物が、視点が変わってそう思えなくなったりする。悲しいような、寂しいような。


でも、何度読んでも面白い、と思えるものもある。例えば「ベルばら」(最近文庫を揃えてしまった)。

ただ、やっぱり視点は変わっている。昔は華やかなドレスや恋愛模様に夢中になった。でも今は、オスカルの心理の変化とか、時代に翻弄される市井の人々の悲しさとか、そういうのにすごく感じ入る。

名作だ。一粒で二度どころか、無限の種類の美味しさを今後も感じさせてくれる作品ではないだろうか。


ターゲットが男か女か、ティーンなのかアラフォーなのか、泣きたい人向けかスッキリしたい人へなのか。物語はそれを定めて書くべき、と教わった。それがスコンと腑に落ちた。同じ物なのに、自分自身といえども年齢や状況によってこんなに受け取り方が変わってくるんだから、と。

 

(了)

 

 

 

 

 

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