語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

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上を向いて歩こう!

今夜は書き散らします。15分で書く。

改憲勢力が衆参ともに2/3を占め、ついに安倍晋三君がちょび髭をつけて戒厳令を敷くのではないかと、みんな、うろたえていると思う。
根っからの嘘つき、卑怯者の安倍晋三君のことだ。特定秘密保護法、安保法制の時のように、あっという間に立憲主義、民主主義をぶち壊すのではないか…。

でもちょっと待て。

俺は、立憲主義や民主主義について、これまでちゃんと知っていたか?

1年前は知っていた。
3年前もまあまあ知っていた。
でも5年前、原発が爆発した年の今頃は、まだ考え始めたばかりではなかったか?
20年前、会社組織の中にいた頃は考えもしなかった。
30数年前、学生の頃は哲学や社会学を勉強して、それなりに意見は持っていた。でも、まさかこの日本で、本気で立憲主義を破壊しようとする勢力が台頭するとは努々思っていなかった。「政治なんかくだらない」と切り捨てて、切実な問題として問おうとはしなかった。

半世紀以上も生きてきて、本棚に数千冊を並べて、ちょっと偉そうに「何でも訊いてくれ」と言わんばかりの俺だったが、いざ本物のファシストが登場したとき、奴らをぶちのめすだけの知識も信念も、まるで足りなかったというわけだ。

そう考えると、これは俺だけじゃないだろうなという気もしてくる。

土曜日。今回の選挙戦では初めて三宅洋平の選挙フェスに行ってきた。
びっくりしたのは、3年前の参院選のときよりもはるかに鋭い問題提起、深い思索、なるほどと唸らせることばを、彼が紡いでいたことだ。

だけど考えれば当たり前だよね。3年もあったのだから。

さっさと「まとめ」に入りたいのだが文章が長引いてごめんね。

日本は、敗戦によって外国から民主主義がやってきた。
市民革命を経験した西洋諸国とはわけが違う。
それゆえに「押しつけ憲法の基本的人権、国民主権、平和主義はけしからん」などとほざく極右と、それに同調する間抜けがたくさんいるのだ。

言い方を変えれば、民主主義も立憲主義も、日本では国民の骨や血まで染み通っていなかったのではないのかな。
それを肯定するにせよ否定するにせよ、その神髄を知らずに、くだらない迷信や独善、党利党略で話をしていただけなのではないかな。

とすれば、3.11以降の俺たちが、決して負けてはいないことがよくわかる。
ファシストどもと闘えるだけの力を、俺たちはものすごい勢いで身につけてきたのだから。三宅洋平のスピーチ同様、俺たちの考えも、あれからずっと研ぎ澄まされてきている(思考停止に陥っているのは安倍晋三君やその仲間の極右のほうだ)。

ちょうど24時間前のtwitterにこう書いた。

沖縄と福島、つまり基地と原発。安倍政権が国民に犠牲を強いる象徴的な二県で、自民現職閣僚が落選。鹿児島県知事選では、大地震でも止めない川内原発の停止を公約とした三反園氏が初当選した。政治の劣化を自分のこととして捉えることになれば当然の結果だろう。#参院選 #鹿児島知事選挙

だが、ちょっと修正する。
「政治の劣化を自分のこととして捉え」ざるを得ないのは、沖縄や福島の人たちだけではなくなってきているのではないか。
三宅洋平のことばがそうであったように、多くの人たちが、3.11からの5年間(あるいは安保法制強行採決からの1年間かもしれない)、民主主義や立憲主義、人権についての議論を深めているのではないか。もちろん俺もだ。

つまり俺たちは今、「革命の最中」にいるのである。
決して血を流すことはなくとも、今、日本に、ようやく市民革命が立ち上がっているのだ。

永六輔さんが亡くなった。
さっき、宮田律さん(現代イスラム研究センター理事長)のfacebook記事をシェアしたときの原稿を引用します。

RCサクセションのアルバム『ラプソディ』(1980)に、『上を向いて歩こう』がカヴァーされています。
ライブを再編集した名盤で、故・忌野清志郎は『日本の有名なrock'n'roll!』とこの曲を紹介しています。
https://youtu.be/E2XHVqmlv_s ※この動画は『ラプソディ』のものではありません)
これは単にこの曲が「sukiyaki」として米国でもヒットしたという意味などではなく、まさに『That's Rock'n'roll』ということだと思うのです。
永六輔さんのご冥福をお祈りいたします。
この国はまた、偉大なRock'n'rollerをひとり亡くしました


僕は三宅洋平には投票しなかったが、彼がRock'n'rollerであることは間違いない(Rock'n'rollerとはすなわち、闘う者の称号である)。
彼は残念ながら落選したが、今や、日本中にRock'n'rollerが急増中だ。
1年前、3年前、5年前、10年前、20年前はぼ~っとしていた俺、俺たちのことである。
そんな俺、俺たちが政治を問おうというのだから、これはまさに、日本史上初めての、無血の民主主義・立憲主義革命なのである。

上を向いて歩こう!(…おやおや、15分で書くと言っていたのに40分かかったよ)

rock'n'roll!!



自民党の考える「改憲」は、「昨日までの日本」の全否定である。

参院選投票日まで一週間となった。

安倍晋三君は、改憲勢力(自公、おおさか維新、日本のこころ)で参院の三分の二以上を獲得して憲法改正に進もうとしている。

国民に向けては「景気回復」とか「アベノミクス」とか経済の話しかしないのだが、本音は改憲だ。

「自分の任期中に改憲を実現したい」と言い続けている安倍晋三君だが、 選挙戦で改憲の話をすると怖がる国民もいるので隠しているのだ。
(野党に追及されると、「改憲は自民党の党是です」とか、のらりくらりかわすが、 前回、前々回も選挙戦では経済を争点と見せかけておいて、結局何をしたかと言えば、メインイベントは秘密保護法であり、安保関連法の強行採決であった)

で。
各種調査を見ると、改憲勢力が三分の二というのはかなりマジにありえるという。
(たとえばhttp://go2senkyo.com/articles/2016/07/01/20783.html

すると、どんなことになるのか?
自民党の改憲草案(https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf)を見れば、彼らの企みがわかる。

結論から言うと、安倍晋三君たち自民党の考えている改憲とは、現行の日本国憲法をちょっと変えましょうというのではなく、 「昨日までの日本の全否定である。

現行の日本国憲法と自民党の改憲案を比べてみよう。

まずは前文。

【現行日本国憲法】
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、 その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。


↑この部分が、自民党改憲草案ではごっそり削除されている。
「国政の権威が国民に由来し、福利は国民が享受する」というのが気にくわないのだろう。そのかわりに自民党改憲草案に加えられたのがこれ。

【自民党改憲草案】
日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴(いただ)く国家


↑「戴く」というのがどんな事態を示しているのか不明瞭なのだが、 自民党改憲草案の第一章、第一条には「天皇は、日本国の元首」とはっきり書かれている。
戦後民主主義で明確に否定された大日本帝国憲法(第一章 第四条「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」)の文言を、自民党は堂々と復活させようとしているのだった。
ちなみに広辞苑によると「げん‐しゅ【元首】」とは、「一国を代表する資格をもった首長。君主国では君主、共和国では大統領あるいは最高機関の長など」である。

【自民党改憲草案】
日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り


↑国防を国民の義務のように書いている。戦争になったら一億国民はすべからく、気概を持って総力戦で敵国と戦えと言いたいのか?

【自民党改憲草案】
和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。


↑国民の道徳を書いている。
しかし、そもそも憲法は道徳ではない。ていうか憲法が道徳であってはならない
憲法とは、政治権力者の好き勝手を防ぐため、国民が政治権力者に課す義務であって、その逆、つまり国家が国民に課す義務ではない。 ここにお説教(道徳)の入る余地はない。

政治権力というのは制限を設けないと暴走する。だから、主権者たる国民が権力に対して、「お前たちがして良いのはここからここまでだ」と命令する。これが近代憲法だ。
そんな、「憲法は、国民が国家権力を縛るもの」という考え方は、民主主義国家なら万国共通である。
逆に、民主的ではない国家、たとえば中国の憲法は、国家権力が国民を縛るという内容になっている。

「国家」があまりにも好きな安倍晋三君は、日本でも中国のように、国の言うことを聞かない人を取り締まれるようにしたいのではないかな。 「俺は和を尊ぶのなんか御免被る」という「群れない人」を「非国民」とでも呼びたいのかな?

「家族は助けあおう」とは、一見良いことを言っているように見えるが、問題の本質はそこではない。 どんなに良いことであっても、個人の私生活に関する価値観に、国家が介入してはならないのだ。
世の中には「親が嫌い」「兄弟が嫌い」という人はごまんといる。そんな人の価値観も尊重されなくてはならないのが、民主主義と言うものなのである。

さて。

改憲というともっとも話題になるのが9条だが、今はそこは突っ込まない。
なぜかとうと、「9条を変えなければ改憲も良いんじゃない?」というような人が少なからずいるからだ。
問題は9条ではない。
9条も含め、自民党改憲草案は隅から隅まで倒錯していることだ。
「国民のための国家」ではなく、「国家のための国民」を理想としているのである。

【自民党改憲草案】
(国民の責務)
第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。 国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。


現行日本国憲法第十二条には書かれていない「義務」ということばの登場だ。
馬鹿言ってるんじゃない。
基本的人権には一切の義務は伴わない。ていうか、義務なんか関係なく、すべての人が生まれながらにして持つ権利こそが「基本的人権」である。
自民党改憲草案は基本的人権をまるで理解していない、もしくは根底から否定しているのだ。

【自民党改憲草案】
(人としての尊重等)
第十三条
全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。


こちらも同様。
基本的人権を「公益及び公の秩序」で縛っている。
現行日本国憲法でも 「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、 立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」(第十三条)とされているが、ここで言う「公共の福祉に反しない限り」とは、「他の人の人権を侵害しないように」という意味である。 だからこそ、(「秩序」などではなく)「福祉」ということばを使っている。これは、国民の間の(個人と個人の)権利の衝突、という問題設定なのである。

ところが自民党改憲草案では「公の秩序」だ。そんな、「公権力が勝手に決められる線引き」で人権を制限するってどうよ?
「秩序に反する場合は人権を認めない」なんて、まるで北朝鮮じゃないか。

第二十一条(表現の自由)でも、自民党改憲草案にはしっかり

【自民党改憲草案】
公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

と書いている。
何様のつもりなのだろう?
まさに、中国や北朝鮮がそうだ。反政府的な報道、ネットの書き込みまで「公の秩序を害す」として取り締まられる。 そういう国を理想としているようにしか考えられない。

で、そんなことを踏まえきちんと考えておきたいのがじつはここ。

【自民党改憲草案】 第十三条
全て国民は、人として尊重される。


【現行日本国憲法】 第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。


変わんないじゃんと思う人もいるかもしれないけれど、「個人」を「人」と書き換えたことこそ、まさに自民党改憲草案の核心である。

「個人」というのは、もとは西欧の概念。
絶対君主の下、身分で人を差別していた封建社会から、人々の平等を前提とした民主社会に移行する大きな時代の流れの中で、 「個人(In-di-vid-u-al=これ以上分割できない存在=社会を構成する基本単位)」の概念が台頭したのだった。

それゆえ、「個人」の概念は「民主主義」の概念と密接に結びついている。
ていうか、「個人」の概念がなければ「民主主義」は成立しない。

大袈裟に言ってるんじゃないよ。
なにしろ憲法なのだから、ことばの使い方は一字一句までと~~~~っても大切だ。
自民党改憲草案がわざわざ「個人」ということばを削ったのは、 「正直言えば西欧の民主主義なんて否定したい」「国民よりも国家が大事」 という安倍晋三君たちの本音のあらわれなのではないか?

ナチスを彷彿とさせる自民党改憲草案「第九章 緊急事態」については、 前回のブログ(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-12175092898.html)で書いたので省略。

長くなっちゃったぜ。

最初に書いたように、安倍晋三君の考えている改憲とは、現行の日本国憲法をちょっと変えましょうというのではなく、「昨日までの日本の全否定」である。

戦争に関する9条問題だけではなく、戦後71年間、日本を支えてきた基本的な考え方、すなわち、基本的人権や民主主義、立憲主義の全否定なのである。

参院選でもしも自民党に勝たせてしまえば、国民が自ら、「昨日までの日本」を全否定したということになる。
棄権も同じだ。
なぜならば棄権とは、単なる白紙委任にほかならないからだ。

ついでに言うと、安倍晋三君は「アベノミクスをふかす」と馬鹿を言っている。景気が良くなら良いなあと思う人もいるかもしれないけれど、騙されてはいけないよ。

選挙戦で自公陣営はアベノミクスの成果をしきりに強調している。たとえば、雇用が増えたという。 確かに、全雇用者数で数えれば増えたが、その内実は、正規雇用が減り非正規雇用ばかり増えているのはご存知の通り。

安倍晋三君はなぜ、それを誇らしげにと言うのか?

答は簡単だ。
「国民のための国家」ではなく「国家のための国民」が彼の理想。一億総活躍して国家に奉仕するのが「美しい国」の姿だと思っているからだ。 だからこそ、雇用の「質」ではなく、「数」が大事なのである。
全国民が、たとえ「低賃金、重労働、不安定な仕事でも文句を言わずに国に尽くす」のが美徳だというわけ。

これもまた、改憲草案に通底する国家主義炸裂だ。

そういえばさ、この前英国の国民投票でEU離脱が決まったが、決定直後、 英国でのGoogleの検索ワード第1位は「EU離脱の意味は?(What does it mean to the EU?)」だった。これはまあわかるさ。でも第2位がすごい。
「EUって何?(What is the EU?)」
pic.twitter.com/1q4VAX3qcm

おいおいみなさん、知らないで投票したのかよ…。

どうか、悔いの残らぬようよく考えて、そして必ず投票に行ってください。
日本もマジで、引き返せなくなります

帰ってきたヒトラー、安倍晋三

日本では「大東亜戦争は正しかった」みたいな本が書店に並んでいたりするが、ドイツで「ヒトラーは正しかった」なんて口が裂けても言えない。彼の著作『我が闘争』はなんと戦後70年間(つまり去年まで)発禁本だったのである。
これはつまり、「ドイツはヒトラーを決して正当化しない」「彼のしたことについて(現在も)ドイツは国として責任を負い、謝罪を続ける」という明確な意思表示だ。国会で「あの戦争は間違っていたという認識はあるのか」と問いただされてもはっきり答えない安倍晋三君の態度とは大違いである。

いずれにしてもそんなドイツで、2012年に発表された小説が『帰ってきたヒトラー(Er ist wieder da)』であった。自殺したはずのヒトラーが現代にタイムスリップしてきたという話。
ここでヒトラーは単なる悪魔としては描かれてはいない。だから当然、激しい賛否両論が巻き起こったのだけれど、結局国内200万部を売り上げる大ベストセラーになった。

で、その映画化である。
http://gaga.ne.jp/hitlerisback/



2014年(小説では2012年)にタイムスリップしてきたヒトラーを、誰も本物だと思う人はいない。「変なコスプレおじさん」は、若者たちにバシャバシャ写真を撮られtwitterにアップされる。ベビーカーに子どもを乗せた若い女性に近づけば、唐辛子スプレーを吹き付けられる。
そんなヒトラーに出会ったのが、リストラされたテレビ局員。彼にしてみればヒトラーは「面白すぎるものまね芸人」だった。そこで、起死回生の企画としてテレビ局に持ち込んだら大ウケ。なにしろ本物なのだから決してブレない。首尾一貫してヒトラーはヒトラー的で、その時代錯誤ぶりはブラックジョークとして視聴者の笑いのツボにはまりまくる。こうして「お笑い芸人」ヒトラーはあっという間に人気者になったのだった。動画はyoutubeで無限に拡散され、やがて「彼はcoolだ」という声が上がってくる。

ね? 観たいでしょ?

映画として面白いのは、ヒトラー役の俳優が軍服を着てドイツ各地を回り市井の人々と話をするシーンが、ヤラセなしの取材映像でいくつも挿入されていることだ。本編で使われているyoutubeの動画が実際にyoutubeにアップされていたりもする。「映画」なのか「現実」なのかという区別を、あえて混乱させているのだ。
さらに、劇中劇の手法も取り入れられていて、「映画」なのか「映画の中の映画」なのかわからないシーンもある。

要するにこう言うことだ。
我々に見えている「現実」と、「ヒトラーが現代にタイムスリップしてきた」という「フィクション」、さらに「かつて、アドルフ・ヒトラーという人間がいて、人々は彼の狂気と扇動に載せられ、途方もない悲劇が生み出された」という「歴史的事実」。
これらに「境界」なんてないんだよ、地続きとして考えないといけないんだよ。
本作はそう訴える。

脚本的には、最後の20分くらいをもっと整理すべきかなあと思うのだけれど、それでも、この映画の怖さは、やっぱ君もあなたも観るべきだと思うよ。
(※ついでに言うと、『ヒトラー~最期の12日間~』のパロディというかオマージュシーンもあるよ。「総統閣下シリーズ」「アンポンタン」で有名な例のシーンだ(爆笑なので必見)。

で。
安倍晋三君である。

憲法改正を悲願とする安倍晋三君は、今度の選挙で自公、おおさか維新、日本のこころで参院三分の二以上の勢力を占めて改憲を目論んでいる。
とはいえ「9条を変えます」と言うとさすがに国民投票で否決されそうなので、まずは「緊急事態条項を作りましょう」。「震災などの時に内閣に権限を集中させる緊急事態条項が必要」だと言うのである。

なんとなくその通りだよなとか思ってはいけない。
安倍晋三君を支持する極右連中は「東日本大震災の時にはガソリン不足で緊急車両が出動できず、緊急事態条項があれば救えた命も救えなかった」などという大嘘をつくが、4/30のTBS『報道特集』では、岩手・宮城・福島の被災3県にある全36の消防本部へ取材。「燃料不足によって救急搬送できなかったという回答は一件もなかった」。
災害時の迅速な対応のために内閣へ権力集中なんて愚の骨頂。災害時こそ、上に縛られるのではなく、現場現場での臨機応変な対応が必要なのである。ていうか、そもそも憲法で論じることではなく、法律や条令で充分。
そんなことよりも大事なのは、自民党改憲草案の「緊急事態条項」とは、「独裁」条項にほかならないことだ。

というわけでまとめに入ろう。

今回のブログのタイトルは「帰ってきたヒトラー、安倍晋三」である。
もちろん、安倍晋三君は1945年からタイムスリップしてきたアドルフ・ヒトラーではない。しかし、自民党改憲草案の緊急事態条項を成立させてしまったら、安倍晋三君こそ「帰ってきたヒトラー」になりますよ、ということだ。

ナチス政権は、当時「世界一民主的」と言われたワイマール憲法下で合法的に成立した。ナチス・ヒトラーが行ってきたのは暴力そのものであったが、それらはすべて法的な手続きとしては瑕疵なく遂行されたのである。

どうしてそんなことができたのか?
ワイマール憲法第48条「国家緊急権」があったからだ。
ここには「公共の安全および秩序に著しい障害が生じ、またはそのおそれがあるとき」、大統領は基本的人権の全部または一部を停止することができると書かれている。
ヒトラーは「国家緊急権」を発動して人権を停止し、やがてワイマール憲法そのものも停止した。

問題なのは、自民党憲法草案(https://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf) の「第九章 緊急事態」が、ワイマール憲法第48条「国家緊急権」同様に、内閣総理大臣の独断で「緊急事態」を宣言でき、国家が基本的人権を停止することができるとすること。一応、「事前または事後に国会の承認を得なければならない」と言っているが、これはつまり「事後承認OK!」で、なおかつ「事後」の期限が明記されていない。緊急事態が発せられている間は内閣が「法律と同一の効力を有する政令」を勝手に制定できるのだから、言ってしまえば総理大臣の「好き放題」だ。

僕は、安倍晋三君は馬鹿で嘘つきなのでまったく信用ならぬと思っているのだけれど、安倍晋三君を支持する人にも言っておきたい。
もしも憲法にそんな条項が加えられ、その後いつか左派勢力が政権をとって「緊急事態」を発令したらどうすんの? 極左内閣のやりたい放題になるかもよ。

古舘伊知郎時代の「報道ステーション」は3月17日、いかにしてヒトラーが合法的に独裁政権を築き上げたのかを特集し、日本の放送界の最高権威とも言える「ギャラクシー賞」を受賞した。


「報道ステーション」  なぜ・・ワイマール憲法か...

これはちゃんと観たほうが良いよ。

「独裁」→「決断できる政治」
ヒトラーは、「独裁」を「決断できる政治」、「戦争の準備」を「平和と安全の確保」と言い換えた。

この国を軟弱ではなく強靱な国にしたいのだ
「この国を軟弱ではなく強靱な国にしたいのだ」

この道以外にない
「この道以外にない」

おや?
どっかで聞いたことがあるぞ。

自民党ポスター
↑参院選へ向けた自民党のポスターだ。(https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/pamphlet/20160608_poster.pdf)

自民党憲法改正草案の緊急事態条項を読んだ、ドイツ、イエナ大学のミハエル・ドライアー教授はこう述べた。

イエナ大学のミハエル・ドライアー教授
「この内容はワイマール憲法48条(国家緊急権)を思い起こさせます」

1933年、首相に就任したヒトラーは国家緊急権を発動した。1941年にはユダヤ人大量虐殺が始まっていたとされる。
一時的にでも独裁を許せば、たった数年間でこういうことになる。

おっと、安倍晋三君のポスターに、髭を書くのを忘れたよ。

「テロとの戦争」の先に平和はない。

「テロとの戦争」ということばが、普通に言われるようになった。
ことばというのは時代とともに変わるものだから、この言い方が駄目だというのではない。ただ、これまでの「戦争」とはことばの意味が違うよ、ということは知っておかなければならない。

つまり、「これまでの戦争」というのは国と国との戦いであったのだ。
だから、敵国の指導者が「負けました。降参です」と言えば、そこで終わりになる。
70年前、日本は降参したわけだが、それゆえ、敵国の作った「ポツダム宣言」を受諾し、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約に日本の代表が署名して、それで許してもらった。
こうして、戦争は終わったわけだ。

ところが、「テロとの戦争」ではそうはいかない。
9.11同時多発テロ攻撃を受けた米国は「テロとの戦争」を掲げ、テロ組織アルカイダの指導者、オサマ・ビン・ラディンを暗殺した。
しかし、それで戦争が終わったわけでもなければ、アルカイダが消滅したわけでもない。
ていうか、イラク戦争を通じてもっと厄介な敵、自称「イスラム国」を産んでしまった。

というわけで、「テロとの戦争」に終わりはない。
だって、講和条約なんかないんだもん。だからそこにはそもそも、勝った負けたの概念すら存在しない。
「イスラム過激派を皆殺しにすれば良い」と言う人もいるかもしれないけれど、それは不可能だよ。殺せば殺すほど、そんな行為を憎む人たちが現れてテロは続く。

つまり、「テロとの戦争」には「勝利」もなければ「終わり」もない。
一度足を踏み入れてしまったら、二度と平和には戻れないのだ。

それが、「以前の戦争」と「テロとの戦争」の決定的な違い。
にもかかわらず、兵士だけでなく一般の人々が犠牲になるという点は、「以前の戦争」と変わらない。

だからもう、「テロとの戦争」とか誇らしげに言うのはやめにしないか、ということだ。

なんで今夜、こんなことを書いたのかというとさ、クリスマスというとジョン・レノンの『Happy Xmas (War Is Over)』を思い出してしまうからさ。

聴け。


対案を出す必要もないし、人権に義務は伴わない。

一昨日の讀賣新聞、辺野古新基地建設問題に関する社説。
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20151119-OYT1T50003.html

例によって一から十まで、さすが安倍政権御用新聞と呼ばれるに相応しい主張なのだけれど、今回言いたいのはこのこと↓。

翁長氏は、辺野古移設に反対を唱えるばかりで、普天間飛行場の危険性除去への言及は少ない。菅官房長官が「翁長氏から解決策を聞いたことは全くない。沖縄県の関係者を含めた、これまでの努力を無視している」と批判したのは、理解できる。
(讀賣新聞11/19社説)

普天間の危険性除去は当たり前の話だ。
安倍晋三君も菅義偉君も「世界一危険な普天間」ということは認めているのだから、そもそもこれは論点にはならぬ。ゆえに、翁長知事がわざわざ言うべき話ではない。

にもかかわらずそんなことをぐちぐち述べるというのは、つまり、讀賣の社説は「辺野古が嫌なら沖縄が対案を出せ」と言いたいのだ。

「対案を出す必要なんてない」

たとえばさ、泥棒が家にやってきて「この金庫を盗まれたくなかったら対案を出せ」と言ったらどうだろう?
ふざけるなと言うことになるよね。

もちろん世の中には、対案を出さねばならない場合も存在するだろう。だけど、「反対するなら対案を出せ」というのは、すべての出来事に通じる普遍的な約束事ではないぞ。

辺野古の対案を沖縄が出す必要がないのは明白で、なぜならば、米国は普天間を泥棒のように奪っていったのである。「盗まれた金庫を返してあげるから代わりに宝石をよこせ。それが嫌なら対案を出せ」という政府の言い分はまったく筋が通らない。

「対案を出せ」問題は、安保法制でも同様だ。
泥棒に対して対案が不要なのと同様、違憲な法律に対案は要らない。ただ単に廃止すればよろしい。

なんていうのかさ、「対案を出せ」とかいう文言が一見もっともらしくて、「そうだよな」と思ってしまう人が多い気がする。
でも、「対案を出せ」的一般論は、決して普遍妥当ではない。

たとえば、「権利には義務が伴う」。
一見もっともらしい。試合に出場する権利を得るためには体重測定やドーピング検査が義務づけられているとか、「権利には義務が伴う」実例も多い。
だが、「基本的人権」には一切の義務は伴わない。言い方を変えれば、一切の義務が伴わないような人間の権利を「基本的人権」という。
つまり、基本的人権に対して義務の概念を持ち出すのは根本的に間違っているのだ。
社会的弱者に対して「自己責任論」などをぶちかます卑怯者は、よく考えたほうがいい。

それから、怠け者の僕は幼少の砌から「努力」ということばがものすごく嫌いだったのだが、そんな好き嫌いは別として、「努力は報われるべきだ」なんていうスローガンも、普遍妥当に値しないことはちょっと考えればすぐわかる。
だって、努力して鍵の構造を解明する金庫破りは報われるべきか? テロリストだって努力しているよ。

つまり、「努力」とは(「素早く」とか「だらだら」とかと同様に)副詞的なことばであって、それ自体に「善い悪い」の価値はないのだ。「善い悪い」を言うとすれば、その目的や行動に対してである。

さっきの讀賣社説の話だと、菅義偉君が「沖縄県の関係者を含めた、これまでの努力を無視している」と言ったそうだが、テロリストの努力同様、駄目な目的や駄目な行動であれば、そんな努力なんか無視されて当然だ。

ついでに言うと、「努力した人が報われる社会」というインチキスローガンを信じてしまっている人が多いからブラック企業がのさばるのだ。ワタミ創業者の渡邉美樹が「24時間365日死ぬまで働け」というスローガンを掲げていてさんざん槍玉に挙がったが、渡邉美樹に限らず、成功した経営者が自分の努力を自慢して従業員に努力を強いる例は数知れない。
でもさ、カネ儲けのために人を家畜のように働かせる奴の「努力」が報われることは善いことなのか?

もっともらしいスローガンこそ気をつけなければならないと言うことだ。

ちょっとばたばたしちゃってさ、ブログもお休みだったのだけれど、ときどきは書かなくちゃと思いました。

傾いたマンション問題とセックス・ピストルズ

横浜市の「傾いたマンション」問題。

「報道ステーション」で杭打ちを行った旭化成建材の記者会見やってたが、彼らの言い分が、なんかものすごく変だった。
ニュース動画探したけれど見つからないので記憶で書くが、データ改ざんをしたとされる現場管理者に対して、旭化成建材の幹部クラス(要するに記者会見に出てくるような奴)が、
「彼は事務処理に関して雑なところがあった」
みたいなことを言っているのだ。

おいおいちょっと待てよ。
まるで、旭化成建材の幹部は「悪いのはその担当者で、自分だって被害者だ」と言わんばかりじゃないか。

データを改ざんしたとか嘘をついたとか、そういった個人の責任を問うことはもちろん必要だ。だが、「たまたま悪い奴がいて、そいつの責任だ」とさせてはならない。

ゼネコンの孫請けのような形で仕事をしている土建関連会社の人が、今回の事件について「フツーによくある話だろ?」と言っていた。
きちんとした裏がとれていないので具体的なことは書けないけれど、「工期を延長するなんてあり得ないからな」と言う。
たとえば、用意した杭の長さが足りないということが現場で発覚しても、工期を延ばし新しい杭を発注したりすれば、会社は儲けにならないばかりか大損で、やっていけないというわけだ。

つまり、今回の事件に関して言えば、会社(旭化成建材)が、担当者の首を切ったり彼に賠償を請求したり刑事責任を問うことはあるのだろうが、そんなことじゃ再発は防げませんよ、ということである。

もちろん、旭化成建材だけの話ではない。
個人を罰しても、システムが変わらない限り、再び不正をする奴がどこかの会社で必ず現れる。

これは、下請け孫請けといった利益配分構造の問題かもしれないし、業界で慣習化された別の問題が温床なのかもしれない。
いずれにしても、個人に責任を押しつけて一件落着としてはいけない。
問うべきは(社会)システムである。

なんだか、中学生に社会科を教えるような基礎的な話なのであるが、どんな事件でも「現場の個人や一部の跳ね上がり分子の責任」で片付けてはいけないというのは、何度でも再確認すべき問題だ。

いくらでも例は出せるけれど、たとえば「イスラム国」だってそうだよ。
米国は「イスラム国」の自称カリフ、アブ・バクル・アル・バグダディを暗殺するために毎日、ドローンを飛ばして空爆を行っている。
なので、ウサーマ・ビン・ラーディンのときと同様、いずれ米国はバグダディを殺すであろう。だが、これもウサーマ・ビン・ラーディンのときと同様、彼を殺したからと言って中東のテロがなくなるわけではない。
システムを根本的に変えていかない限り、すぐに誰か別の人物がテロ組織の主導者になるのは目に見えているのだ。
そうやって、蟻地獄にはまっていく。

ええとさあ。
この一週間くらい、なんかすごくバタバタしていて(あ、これは僕の個人的な話)、そうすると無性に、筆のゆくまま的テキトーな文章を書きたくなる。
今夜もその一環なので、雑な文章でごめんよ。

でも。「個人の責任」「組織の責任」「システムの責任」あるいは「国家の責任」「国民の責任」といった話は大変重要なので、今度時間があるときにきちんと書きます。
それに絡んで、「SEALDs奥田君はなぜスターなのか問題」といった、みんなが興味津々の話もきっとあるよ。

というわけで、悪いがここからは別件。

3チャン(Eテレというのは昭和の俺には今でも馴染まない…)の「ミュージック ポートレイト」と言う番組( http://www.nhk.or.jp/portrait/ )で、みうらじゅんさんと関根勤さんが、それぞれの「人生の10曲」を語っていた。これがまた、僕の琴線直撃なのでした。

みうらさんは1958年生まれで僕よりも5つ年上だけど、まあだいたい同じ時代を生きてきた人だと言える。
1980年代にイラストレーターとしてそこそこの成功を収めていたみうらさんだったが、「これでいいのかな」と自問していたという。

というのは、みんなにわかりやすく僕が翻訳したことばであって、番組でみうらさんはそこのことを、「俺はNo Futureの側じゃなかったのか?」ということばで語っていた。

ごめん、これは若い子にはわからないかもしれないのだけれど、思春期にSex Pistolsをリアルタイムで聞いた我々にとって「No Futureの側かどうか」は、己の生き方を考える上で決定的に重要な問いである。
今の子にもわかるように翻訳するのはとても難しいのだけれど、直訳すれば「お前はパンクか?」と聞いている。

俺は死ぬまでNo Futureの側にいたいぞ。
ていうか、じゃなきゃ生きてる意味ないじゃん。

酔っ払ったので今夜はここまで。

聴け。

「一億総活躍」を気持ち悪いと思うか? 思わないか?

「一億総活躍社会」だってさ。

「自分で『私は活躍している』という人はいない。『活躍』というのは『あの人は活躍している』などというように、他人を『評価』することばだ」
というようなことを、どこで読んだか忘れてしまったけれど、誰かが書いていた。
まったくその通りである。

『活躍』というのは、自己評価ではなく他者評価。
つまり「一億総活躍社会」というのは、全国民に、政府の思惑通りにカネを稼いだり、子どもを教育したり、爺ちゃん婆ちゃんの世話をしたりしてほしい、という話なのである。

この前も安倍晋三君たちは「女性活用」とか言ってさ、「活用」ってその人を「使う側」のことばじゃん。それを指摘されて「活躍」に改めたんじゃなかったっけ?

要するに、本人のことなんかどうでも良いのである。「使う側」がどう「活用」するか、国がその人の「活躍」をどう評価するか。それが大事だというのが、安倍政権のまさに本質である。

前回のブログでも書いたけれど
安倍晋三君にとって「国民」とは、ひとりひとりが人格や尊厳を持つ他者ではなく、十把一絡げなのだろうと僕は思う。かつて左翼セクトが、信奉する思想に基づいて「階級」をひとまとめに「我々」と呼んだのとまるで同じだ。
ということだ。

僕はさあ、「一億総なんとか」というのはほんとうに気持ち悪いと思う。
だいたい「活躍」なんかしたくないのだ。
安倍晋三君に「君は活躍してるね」なんて言われるのは真っ平御免なのはもちろんのこと、誰にも「活躍」なんて思われなくてよいから、好きなことを好きなようにしていたい。

東京大学宇宙線研究所の梶田隆章さんがノーベル物理学賞を受賞した。
彼が行っているのは「基礎研究」である。つまり、「製品化」などの形ですぐに役立つ「応用研究」ではなく、もっともっと基本的なこと、考えの根底を問う研究である。
しかし、基礎研究はなかなか評価されない。「活躍」しているとは見なされないからだ。
梶田さんのように脚光を浴びる人は稀であり、基礎研究に関わる多くの人は暗闇の中で悶々と研究を続けている。

そういう話をすると、「今は大変でもやがて一花咲かせばいいじゃん」という人がいるが、それは間違っている。
10000人のうち9999人は、「一花」なんて咲かないのだ。
それでも、10000人が好きなことを好きなようにやっているからこそ、どこかで一輪の花が咲くのである。

「一花咲かすこと」や「活躍すること」よりも、ずっとずっと価値があるのは「好きなことを好きなようにやること」。

ていうかさ、繰り返しになるけれど「一億総活躍」なんてほんとうに気持ち悪いと僕は思うよ。
「人間には二種類ある」というありきたりの文言を使うぞ。
「『一億総活躍社会』なんて気持ち悪い、と思う人と思わない人」
これは、じつに核心を突いた線引きなのではないかな。

「一億総」にまとめられて喜ぶ人の神経がわからない。
理屈を言えと言われれば如何様にも語るけれど、それ以前に、身体中の毛穴からウジ虫が湧き出てくるような嫌な感じ。

SEALDsスピーチの主語「わたし」と、安倍晋三君の「わたし」はどう違うのか?

高橋源一郎さんが朝日新聞の論壇批評に「2015年「安保」のことば 「わたし」が主語になった」という文章を寄せている。( http://digital.asahi.com/articles/DA3S11979946.html
SEALDsの子たちに代表される、若い人たちの安保法案反対運動が、一貫して「わたし」を主語にして展開されているという新しさについて書かれた短い文章だ。

そうそう、まさに同感!

SEALDsのデモでは、メンバーの若い子がステージに上がってスピーチをする。それはほぼ一人称で貫かれ、最後は「2015年×月×日、わたしは戦争法案に反対します」のように、個人の宣言でまとめられる。
これはやっぱすごい。

僕は1963年生まれなので、60年安保も70年安保も当事者として関わってはいない。ただ、高校生だった1970年代後半にも左翼セクトの残党みたいな奴らがいて、生徒会とか新聞部の対外的な活動の中でそんな連中にもしばしば接していた。
で、彼らが社会について語るときの主語は「人民」とか「我々」だった。
「我々」というのは一人称だが複数形だ。僕はこれには当時からものすごい違和感があったのだ。

つまり(まあ僕が安易に断じるわけにはいかないが)、昔の学生運動の「主体」は「我々」という「一人称複数」だった。でも、「一人称複数」ってなんだよ? 「我々」っていったい、誰と誰と誰のこと?
そう質問すると彼らは「学生や労働者階級や~~~」みたいなことを言ってくるのだが、果たして、そんな「我々」は実在するのであろうか?

結局のところ、マルクス・レーニンの思想で革命の「主体」とされたのが労働者階級であり、学生も階級的には労働者と一緒だよな、というような考えに基づいて、「我々」というのが、あたかも実体のある存在のように語られていたのである。

だが、これは断じて言っておかねばならないが、何らかの思想によって措定された「我々」など、単なる「後付け」にすぎない。
「我々」とは「わたし」がいて「あなた」がいて「彼」「彼女」がいて…というふうに、「わたし」から出発して広げていくべき概念である。階級論で規定された人々を「我々」と称するのは、逆立ちした考え方だ。

さっき書いたようにSEALDsの子たちのスピーチは必ず「わたし」が主語になっている。中心メンバーの奥田愛基君が参院地方公聴会で「私たちはこの国の在り方について、この国の未来について、主体的に一人ひとり、個人として考え、立ち上がっているのです」と述べたことからも( http://iwj.co.jp/wj/open/archives/264668 )、彼らが意識的に「わたし」「個人」として政治の問題を捉えていることがわかるだろう。
日本の社会運動の中で「わたし」がここまで戦略的に打ち出されたこと。それがまさに新しいのだ。

とはいえ、「わたし」「個人」という考え方は、近現代を通じて熟成されてきたもので、当然のことながらそんなに新しい考え方ではない。
西洋では独裁君主を打倒する戦いの中でその概念は明確化され、日本でも黒船後、天賦人権説、自由民権運動などを通じて広がっていった。
もちろん日本では明治大正昭和を通じて、輸入された西洋個人主義がちゃんと理解されない面もあり、だから「一億玉砕」みたいな馬鹿な戦争もやったのだけれど、現代の民主主義国家ではどこでも、「個人の尊厳」こそがその基盤として位置づけられている。

「個人」というのはまず「わたし」のことだ。だから「わたし」を主語に社会にコミットメントしよう、というSEALDsの発想は至極真っ当なのだが、日本ではそんなムーブメントが反権力運動として広く社会化されることはなかったのである。すごいぞ!

さて。

さっき「個人主義」と書いたが、このことばにはネガティブなイメージもつきまとう。「自分勝手」「利己的」というようなものだ。
たとえば、株転がしで巨額の富を得て「カネ儲けの何が悪い?」と開き直るような下品な連中がいる。彼らなんかはどう考えたって「自分勝手」「利己的」であるが、どうやらそんな新自由主義思想も「個人主義」をベースにしているようだ。
しかしそんな主張は、長い歴史の中で積み重ねられてきた「個人」の思索から都合の良いところだけつまんで「俺にはカネ儲けの自由がある」と強弁しているにすぎない。

そもそも「個人」の概念はどのようにして成立、成熟し得たのか?
歴史的には、独裁君主に抗うための「我々」の確立ということももちろん言えるだろう。
しかし、もっと大事なのは、この「わたし」を出発点にしたときに、家族、友人はもちろん、世界中のわたし以外の誰かも「わたし」と同様の人格や尊厳を持つ「他者」であるという認識の共有。
つまり、「〈わたし〉は、この〈〈わたし〉〉だけじゃない!」
ということが広く自覚されたとき、「この〈〈わたし〉〉もあの〈わたし〉も、同じ「個人」なのだ、ということになったということだ。
これが現代の民主主義、立憲主義を支える基本思想である。

だから、「俺が儲けて何が悪い」と弱者を踏みにじって平気な顔をしているような奴は、まあそれも「個人主義」の傍流だとは言えるけれど、現代の人権思想からは遠くかけ離れている。

ええと。
今夜はあんまり酔わないうちに書き上げたいなあ。

安倍晋三君だ。

先の大戦について、国会質疑でも「あの戦争は間違っていた」とは決して言おうとしない安倍晋三君だったが、戦後70年談話では嫌々ながら「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「お詫び」と言ったキーワードを盛り込んだ。
ほんとうはそんなこと言いたくなかったのだろう。まるで心のこもっていないその演説に、多くの人がそう感じた。
で、これまたみんなの指摘するところだが、あの談話には主語がない。
SEALDsの子たちのスピーチが、「わたしは」と一人称主語で語ることによって発言主体としての責任を明確化しているのとは対照的だ。まさに卑劣。みっともないったらありゃしない。

ところがそんな安倍晋三君が、一人称単数の主語で語ることもある。

「我々が提出する法律についての説明はまったく正しいと思いますよ。私は総理大臣なんですから」(5月20日国会党首討論)

これぞファシストのイカれたナルシシズムそのものだが、こんな大それたことを言えるのも「このわたし以外に尊厳はない」ともでもいうような「他者の否定」、すなわち「社会の否定」である。フツーのひとは恥ずかしくてそんなこと言えないよ。

あとさあ、安保法制案を正当化するに当たって何度も何度も「国民の命と平和な暮らしを守り抜くために必要な法制」と繰り返してきたが、僕が記憶する限りこの文脈の中で安倍晋三君は「国民ひとりひとりの~」とか「すべての国民の~」とか言ったことがない。

安倍晋三君にとって「国民」とは、ひとりひとりが人格や尊厳を持つ他者ではなく、十把一絡げなのだろうと僕は思う。かつて左翼セクトが、信奉する思想に基づいて「階級」をひとまとめに「我々」と呼んだのとまるで同じだ。

「美しい国」だとか「強い国」だとか言っているが、そんな漠然とした形容詞の奥にはものすごく不気味な国家観があって、その思想においては国民ひとりひとりの人格や尊厳などどうでも良いのだろう。
そういう考え方を全体主義という。中国や北朝鮮と同じだ。

【違憲法案可決】 それでも僕らはこんなに元気なんだぜ!

14日から最大の山場を迎えた安保法制案の参院採決。国会前では連日、激しい抗議行動が続いた。
昼間から参加することはなかったけれど、僕も今週は毎晩参加した。もういい歳こいてるのでずっと立っているのはやっぱしんどい。そこで、夜遅めにやって来たり途中で一時離脱してネットカフェで2時間ごろごろしたり。みなさんごめんなさい。

ていうかさ、歳とると涙腺が緩む。
15日の夜は雨がざんざん降っていて、若い子たちがびしょ濡れになりながらもコールを続ける姿を見て、なんかうるうるきちまったよ。

僕はSEALDsの子たちの親の世代だが、日本をこんなふうにしてしまったのは我々の責任である。
高校生の頃はとりあえずマルクス主義なんかも勉強したのだが、ときは1970年代後半。僕はいろいろ手を出していたおかげで他の高校生よりは政治や社会のことを学んでいたつもりだったが、左翼セクトの連中にはうんざりだったし、民青も嫌だ。市民運動もセンスねえなあ。つーかマルクス主義もう終わってんじゃん、という感じで、1980年代に入った頃には、政治はもう語らないということにしていたのだ。
そうしてバブル時代も楽しく過ごした。
雑誌編集者として、お立ち台ギャルのパンチラ特集とか作ってたしさ、まだ20代のくせに会社のカネで一晩中ハイヤー借り切って青山や六本木で飲み歩いたりしていた。

だが、そんなふうに政治から目を反らしている間に、日本の劣化はどんどん進んでいた。そして、気付いたときには、立憲主義もポツダム宣言も知らない、小学校低学年のクラス委員程度の馬鹿が首相になって、嘘で固めた違憲法案を強行採決しようとしているのだ。

若い子たちにはほんとうに申し訳ない。僕には子どもはいないが、一晩中必死にコールを続ける若い子たちの姿に、何度も涙が出そうだった。

そしてついに、9月19日午前2時過ぎ。安保法制案は参院本会議で可決され、成立と言うことになった。

その瞬間僕は、デモ最前列、SEALDsがコールを行っているステージのすぐ横にいた。どうでもいい話だが、若い子はiPhoneばっかなんだなあと思ったのは、みんなネット中継で国会を見ているからタイムラグがあるのだ(iPhoneにはテレビ~ワンセグ/フルセグがない)。だから僕は、ステージの上の子たちに見えるようにスマホを掲げていて、それゆえ、可決のときの彼らの表情を間近で見ていたのだ。

泣き出したり悲鳴を上げる子もいるんじゃないかと心配していた。
しかし彼らはタフだった。すぐさま怒濤のコールが始まった。

今見る限り、「デモの参加者は怒りを露わにした」的な報道が多い。
確かにみんな怒っている。憤っている。
だが、報道に感じられる悲壮感はものの2分で消えていった、というのが現場のほぼ中心にいた僕がまさに身体で感じたことだった。

ますます元気が出てきたのである。
確かに採決の結果は出た。しかし、そこにあったのは打ちひしがれた悲壮感などでは決してなく、新たなスタートに立った人々の爽快な気分であったとも言えるだろう。

僕は運動家でもなく、3.11以後の反原発や反特定秘密保護法、辺野古新基地反対のデモしか参加したことはないのだけれど、参院本会議可決後から朝の5時まで2時間半、こんなにも晴れ晴れと力強いデモは初めてだ。

報道を見て暗く沈んでしまった人も多いとは思うのだけれど、デモの最前列は全然そんなムードじゃなかったよ。
ちょっとかなり眠いのだけれど、それだけは伝えようとパソコンに向かっているのである。

若い子たちが泣き出すんじゃないか心配したと書いたけれど、正直に言うと自分が泣くんじゃないかと思っていた。
だけど、若い子たちの迫力に、僕もどんどん元気が出てきた。こんなときにこんな気分になるなんて、自分でもちょっとびっくりだ。

つまり、負けたなんて思っていないのである。ていうか負けていない。

これで安倍晋三君はますます追い詰められることになる。
素直に国民の声を聞けばいいのに意地を張るから、火に油を注いでしまった。
この流れは止まらないよ。
安倍晋三君には、国民に怯えびくびく生きる日々が待っているはずだ。どんなに自己中でアタマの悪い安倍晋三君でも、国民をなめるとどうなるか、思い知らされるはずだ。
彼が祝杯を挙げていられるのも連休中だけだ。週が明けたら、その日何人の人々が採決後も朝まで抗議を続けたか聞いてみるんだね。数百人レベルじゃないよ。爺ちゃんの岸信介が国民の抗議を受けて退陣したのに対し、安倍晋三君は居座るつもりだが、それがどれだけ無謀なことかわかるはずだ。
世論調査でもきっと、内閣支持率は危険水域と言われる20%台を叩き出すだろう。
つまり、国民の支持を得られない自衛隊の海外派兵なんかできっこないし、違憲訴訟の準備もすでに始まっている。

現場の感じというのはいないと伝わらないかもしれないので、ほんとうは映像をアップしたかったんだけど、眠くて今は無理。ずっと撮っていたので今度時間があったらね。

そのかわり写真を一枚。
採決2時間半後の午前4時47分。
僕らはみんな、こんなに元気なんだぜ。

2015年9月19日午前4時47分

【安保法制案強行採決阻止】 集まれ! 僕らの声は届くのだ

国会前のデモは結局朝の5時まで続いたので声がガラガラだ。
まあ、20代の子たちほど体力のない僕は、途中二時間ほど赤坂のネットカフェで休んだあと、セブンで差し入れ買ってタクシーで国会前に戻ったという軟弱なオッサンなんだけどさ。

さて。
「デモなんか意味がない」とか「国会議事堂に声上げてどうすんの?」とか言う人がいる。直接行動による民主主義の実現というのをまるで理解していないわけだが、その話は長くなるので今はやめよう。

SEALDsの奥田愛基君が言ってたこと。
「以前は野党の議員と話をしても『どうせ強行採決で決まっちゃうよ』みたいな感じだった。だけど今夜は、野党議員が身体を張って強行を阻止している」
そう、野党議員もだらしなかったのだ。数の力で負けるに決まってると諦めていたのだ。
だが、彼らの気持ちを変えていったのが、まさに民意である。
世論調査の結果などはもちろん、連日行われる国会前のデモが、寝惚けた野党議員を目覚めさせた。これは間違いない。

昨夜、国会前では「安倍は辞めろ」「強行採決絶対反対」など、いつものシュプレヒコールに加え、「野党は頑張れ」コールが鳴り響いた。
国会の中でも、その声はちゃんと聞こえている。野党議員のtweetには「聞こえています!」が飛び交った。

こんな状況の中で、野党がだらしない姿を見せるわけにはいかないだろ? こっちは雨の中びしょ濡れになりながらも声を上げているのだ。
また、与党議員といえどもマトモな神経を持っていれば、そんな状況の中で強行なんかしたくないはずだ。

いいかい?
僕らの声は届くのだ。

本日も国会前抗議行動は続きます。
一度来てみろ。

国会前での注意事項としては、無理をしないこと。
18時~21時くらいはものすごい人で、前のほうは身動きできないくらいになる。ぎゅーぎゅー詰めだ。だから自信のない人は無理して前に来ようとしないこと。
また、昨夜も逮捕者が10人以上出た。現場に来ると警察の過剰警備にムカついて、ついつい熱くなりがちだが、敵は目の前の警察官ではない。落ち着こう。
警察官も熱くなっていて、「部隊は下がれ」の命令を聞かない馬鹿マッチョも多い。車道封鎖を無理して決壊させようとしないこと。最前列近くの車道側は特に荒れるので、内側を歩こう。

昨夜は、参院での採決はおろか、委員会での締めくくり質疑の開催も、その前に行われるわずか10分間の理事会も阻止された。

もう一度言おう。
僕らの声は届くのだ。
集まれ!
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