対案を出す必要もないし、人権に義務は伴わない。 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

対案を出す必要もないし、人権に義務は伴わない。

一昨日の讀賣新聞、辺野古新基地建設問題に関する社説。
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20151119-OYT1T50003.html

例によって一から十まで、さすが安倍政権御用新聞と呼ばれるに相応しい主張なのだけれど、今回言いたいのはこのこと↓。

翁長氏は、辺野古移設に反対を唱えるばかりで、普天間飛行場の危険性除去への言及は少ない。菅官房長官が「翁長氏から解決策を聞いたことは全くない。沖縄県の関係者を含めた、これまでの努力を無視している」と批判したのは、理解できる。
(讀賣新聞11/19社説)

普天間の危険性除去は当たり前の話だ。
安倍晋三君も菅義偉君も「世界一危険な普天間」ということは認めているのだから、そもそもこれは論点にはならぬ。ゆえに、翁長知事がわざわざ言うべき話ではない。

にもかかわらずそんなことをぐちぐち述べるというのは、つまり、讀賣の社説は「辺野古が嫌なら沖縄が対案を出せ」と言いたいのだ。

「対案を出す必要なんてない」

たとえばさ、泥棒が家にやってきて「この金庫を盗まれたくなかったら対案を出せ」と言ったらどうだろう?
ふざけるなと言うことになるよね。

もちろん世の中には、対案を出さねばならない場合も存在するだろう。だけど、「反対するなら対案を出せ」というのは、すべての出来事に通じる普遍的な約束事ではないぞ。

辺野古の対案を沖縄が出す必要がないのは明白で、なぜならば、米国は普天間を泥棒のように奪っていったのである。「盗まれた金庫を返してあげるから代わりに宝石をよこせ。それが嫌なら対案を出せ」という政府の言い分はまったく筋が通らない。

「対案を出せ」問題は、安保法制でも同様だ。
泥棒に対して対案が不要なのと同様、違憲な法律に対案は要らない。ただ単に廃止すればよろしい。

なんていうのかさ、「対案を出せ」とかいう文言が一見もっともらしくて、「そうだよな」と思ってしまう人が多い気がする。
でも、「対案を出せ」的一般論は、決して普遍妥当ではない。

たとえば、「権利には義務が伴う」。
一見もっともらしい。試合に出場する権利を得るためには体重測定やドーピング検査が義務づけられているとか、「権利には義務が伴う」実例も多い。
だが、「基本的人権」には一切の義務は伴わない。言い方を変えれば、一切の義務が伴わないような人間の権利を「基本的人権」という。
つまり、基本的人権に対して義務の概念を持ち出すのは根本的に間違っているのだ。
社会的弱者に対して「自己責任論」などをぶちかます卑怯者は、よく考えたほうがいい。

それから、怠け者の僕は幼少の砌から「努力」ということばがものすごく嫌いだったのだが、そんな好き嫌いは別として、「努力は報われるべきだ」なんていうスローガンも、普遍妥当に値しないことはちょっと考えればすぐわかる。
だって、努力して鍵の構造を解明する金庫破りは報われるべきか? テロリストだって努力しているよ。

つまり、「努力」とは(「素早く」とか「だらだら」とかと同様に)副詞的なことばであって、それ自体に「善い悪い」の価値はないのだ。「善い悪い」を言うとすれば、その目的や行動に対してである。

さっきの讀賣社説の話だと、菅義偉君が「沖縄県の関係者を含めた、これまでの努力を無視している」と言ったそうだが、テロリストの努力同様、駄目な目的や駄目な行動であれば、そんな努力なんか無視されて当然だ。

ついでに言うと、「努力した人が報われる社会」というインチキスローガンを信じてしまっている人が多いからブラック企業がのさばるのだ。ワタミ創業者の渡邉美樹が「24時間365日死ぬまで働け」というスローガンを掲げていてさんざん槍玉に挙がったが、渡邉美樹に限らず、成功した経営者が自分の努力を自慢して従業員に努力を強いる例は数知れない。
でもさ、カネ儲けのために人を家畜のように働かせる奴の「努力」が報われることは善いことなのか?

もっともらしいスローガンこそ気をつけなければならないと言うことだ。

ちょっとばたばたしちゃってさ、ブログもお休みだったのだけれど、ときどきは書かなくちゃと思いました。