JR中央線・西国分寺駅南東側のほど近く、南北にまっすぐと「東山道武蔵路」が通っていたわけですが、
往時をしのぶ道幅が保存されている区域は、北は中央線の線路では分断され、
南側は国立市と国分寺市の市街地を結ぶ多喜窪通りにぶつかっておしまい、
その先は住宅が建ち並んでおりまして。
ちなみに、この多喜窪通りを西へ、国立駅方向へと向かいますと
途中に現れるのが多摩蘭坂(たまらんざか)でして、
キヨシローの曲で知られるのはこの坂道でありますな。
まあ、余談はともかくとして、多喜窪通りの向こう、
東山道武蔵路は住宅街の下に埋もれてしまい…というわけでながら、
住宅が建ち並ぶひと区画を南側に回り込んでみますと、ひっそりながら園地となっておりまして、
これまた「史跡東山道武蔵路跡(武蔵国分寺跡北方地区)」という解説板があったのですなあ。
こちらはこちらで遺構の部分にマーキングが施されておりますけれど、
どうやら特殊な遺構(SX281と呼ばれるらしい)があったようなのでありますよ。
なんでもこの場所からは「10世紀代の須恵器の坏が口を合わせた状態で出土した」とか。
「坏(つき)」というのは「古代の飲食物を盛る器で、碗より浅く皿より深いもの」(コトバンクによる)ですが、
これを「合わせ口にして埋める行為は、地鎮などの呪術的な遺構に多く見られる」ことから、
ここで「道饗祭(みちあえのまつり)」なる祭祀が行われたのではないかと推測されておるようです。
「道饗祭」は「都に災いが侵入することを防ぐ祭祀」と「延喜式」にあるそうでして、
武蔵国府を都に擬えて祭祀を行ったとすれば、当時は辺境であったものの武蔵国は
なかなか勢いのあるところであったか、それとも都まがいの祭祀を行う不遜な国司が治めていたか…。
あれこれ想像してしまうあたり、古代ロマンともいえましょうかね。
ところで、東山道武蔵路、東山道武蔵路と言いながら、
そもそも地理的にはどんな道であるか?ということがすっかり後回しになってしまいましたですね。
やっぱりちゃんとおさらいしておくとしましょう。
武蔵国は七道のうち東山道に配属されましたが、上野国と下野国を通る東山道の本道からは南へ大きく外れた位置にあるため、上野国の新田駅付近から武蔵国府に南下する支路が存在したことが、奈良時代の歴史書『続日本紀』に記されています。この道を現在では東山道武蔵路と称しています。
史跡の解説板にはこのように紹介されておりまして、
今でこそ関東と関西を結ぶ大動脈としてすぐに思い浮かぶのは「東海道」ですけれど、
海沿いには崖が迫っていたり(例えば薩埵峠とか)、大きな川の河口があったり(例えば木曾三川とか)
往来に難儀する箇所がたくさんあったのですよね。
もちろん、東山道の山越え、峠越えも難儀を極めたとは思いますが、
ずっと地べたを歩けるだけましということになりましょうか。
江戸時代末期になっても、皇女和宮の降嫁にあたっては中山道を通ったことが知られておりますしね。
ではありますが、先の解説の続きにはこんなふうにあります。
…しかし、東山道武蔵路を往復することは交通上不便であるという理由で、武蔵国は宝亀二年(771年)に東海道へと所属替えとなります。これにより、駅路としての東山道武蔵路は使命を終えることになりますが、発掘調査の成果から、その後も武蔵国内の南北交通路として平安時代の終わり頃まで使用されていたことがわかっています。
ここで「所属替え」なる言葉が出てくるのは、「東山道」、「東海道」というのが
単に道、街道を表しているのではなくして、当時の行政区画でもあったのですよね。
(しばぁらく前にもかつて一時、「道州制」というものが少々議論されたことがあったような)
要するに行政区画としては「東山道」から「東海道」へと所属替えとなったということでして、
距離的な遠さが不便の元とはいえ、先ほど触れたような途中途中の往来の難しさを考えると、
往来の点では北回りの東山道をとるべきか、南回りの東海道をとるべきか、
悩ましいところではあったことでしょう。
とまあ、かような古代の道、発掘による名残を感じられるのはこの園地までとなりますですが、
東山道武蔵路はこの先も、傍らに武蔵国分寺の大伽藍を眺めやりながら、
一路、武蔵国府へと続いていたのですなあ…。