さて、鎌倉武士・畠山重忠ゆかり、恋ヶ窪伝説の地をゆらりとしたのち、

JR中央線を南側へ跨ぎ越して、東山道武蔵路の遺構を訪ねる…と申しましたですが、

実は姿見の池緑地の中にも「国指定史跡 東山道武蔵路跡(恋ヶ窪地区)」と書かれた

解説板があったのですな。このあたりで、1997年に発掘調査が行われたということで。

 

 

古代の道は北から南へにまっすぐにこの場所を突き抜けて、

武蔵国分寺や武蔵国府へと続いていたようなのですが、すぐそばの線路で分断された北側と南側は

あまりに景観が異なるので、俄かにはイメージしにくいですなあ。

 

 

 

右手に見える円筒形の建物の手前辺りを、左手の雑木林から古代の道が通っていたものの、

明治期に甲武鉄道(現在のJR中央線)の工事が行われたときには、おそらく遺構も何も蹴散らして

進められたのでしょうなあ。今は何を言っても詮無いことではありますが…。

 

とまれ、線路を越した南側にやってきますと、こちらは団地やら公園やらの大規模開発と同時並行で

それなりの形態で保存されることになったようす。もちろん埋め戻されていますが、今はこんなふうです。

 

 

道幅が広いですなあ。予備知識を持ち合わせずに、ここに立つと

右側を通る「車道の何倍もある歩道って何よ?」と思ってしまうそう。

唐突ながらこの道幅の広さから、伊勢・斎宮跡に再現された古代伊勢道を思い出したりしたですよ。

 

 

ところで、この保存地域の北端、JRの線路に近いあたりですが、

「東山道武蔵路遺構再生展示施設」というものが置かれてありました。

その手前側、路面に黄色いシミのような塗装が見えますが、これは発掘された「側溝」部分を示し、

灰色がかった幅広の部分が道そのもののが発掘されたところなのだそうです。

 

 

建屋の中を覗き込んでみますと、発掘時に出てきた遺構のようすを偲ぶことができます。

手前が側溝の跡、中央の窪んでいるところが本来の道であった部分ですな。

 

 

中央部分の凹みは、その上に硬化面という舗装を施した基礎部分だからということもありましょうし、

また実際に供用されるようになっていた踏み固められて沈んだということもありましょう。

たくさんの人や荷駄が通ったという証しとも言えるのではなかろうかと。

 

あたりは一面、雑木林の中、まっすぐに広い道が突き抜けていただけで、

寒い風がぴゅうと吹き抜けて…なんつうことが想像されたりもする一方、

武蔵国分寺も近くあたり、往来の人が多くあったとするならば、

茶店のようなものが立ち並んで賑わいがあったのかとも。

 

律令制による国の体制ができていく中で、国内各地を結ぶ道も整備されていったわけですが、

今から1300年ほど前の昔に、しばし思いを馳せたものでありましたよ。