斎宮跡の1/10史跡全体模型 が置かれたところを含めて
「歴史ロマン広場」と称されているようですけれど、周辺は広くのっぱらの状態。


本来的には宅地造成計画が持ち上がって、これに先立ち遺跡調査をしてみたところ、
遺構やら遺物が出るわ出るわの状態だったようで、まだまだ掘れば何かでそうとなれば、
取り敢えずのっぱらにしておかざるをえないということでしょうか。


斎宮1/10史跡全体模型

そんな歴史ロマン広場を抜けて斎宮歴史博物館へと向かう途中、
こんな橋?を渡ることになりました。


考えてみれば、模型の中の祓川…

水が流れているとも思われないところながら、ここが「祓川(はらいがわ)」であると。
かつては滔々と流れる大きな川で、都から群行する際に斎王は途中何度か禊をする慣わしで
斎宮に入る前に最後の禊をしたのがこの祓川であったとか。
江戸期に流行ったお伊勢参りの旅人たちもここで身を清めていったということでありますよ。



と、ここでふいと気付くことにはこの祓川と斎宮の位置関係も、祓川の規模も
「ああ、これまた1/10であったのか」ということ。ですよねえ。



ところで、かようなところもある歴史ロマン広場と斎宮歴史博物館とを結んで、
よく整備された一本道がありまして、振り返ってみればこのような。

(一天俄かに暗雲をはらみ…ですけれど、そのお話は後ほど)


再現された古代伊勢道

駅方向と博物館とを結んで便利な道とだけしか思いつきませんが、
これも看板によりますれば「古代伊勢道」の再現であるというのですね。
道の左右には側溝が掘られ、その間の路面の幅は約8.9mあると。


斎王が都から斎宮へと移動してくることを「群行」というようですけれど、
大人数で馬やら輿やら牛車やらを連ねていくためには
このくらいの道幅が必要だったというなのでありましょうか。


もっとも古代伊勢道は「斎宮跡の中央を一直線に横断し」ているということですから、
先の模型で見たような大規模な平安期の斎宮は道路の真上に造られているそうな。


道そのものは飛鳥時代から奈良時代にかけて都と伊勢神宮、志摩国を結ぶ
幹線道路として整備されたということですので、道を塞ぐかのように造営された斎宮は
沿道随一の(ともすると伊勢神宮そのもの以上に)重要ポイントと知らしめる意味でも
あったのですかねえ。


伊勢国というエリアにあって、国司がエラいのか、伊勢神宮の祭主がエラいのか、
はたまた斎王がエラいのかは実に微妙なところでもありましょう。
ただ斎王自身は皇族で別格として、実務面では斎宮寮の頭がエラいのかというべきでしょうか。


いずれにせよ、藤原何某といった貴族がそれぞれの役職に就いて、
今、全国にたくさんいる斎藤さんの起源は「斎宮の藤原」にあるてなことでもあるようで。
余談ですが。


とまれ、辺り一帯が遺跡という点では必ずしも斎宮にまつわるものばかりではないのですね。
次に訪ねる斎宮歴史博物館の敷地や近辺も含め、近隣に点在する古墳の数は42基に上り、

塚山古墳群と言われているそうです。


塚山古墳群案内図


塚山2号墳 塚山3号墳


「5世紀末葉~6世紀前半を中心に築造され」た古墳群がある場所だということが
斎宮の場所選びに関わったりもしたでしょうか。


とにかくあれこれ想像ばかりしてしまうところではありますが、
話を斎王に戻してお目当ての斎宮歴史博物館の中を巡ってみることにいたします。