しばしマラッカ川のリバー・クルーズを楽しんだのち、あとはちらほら観光スポットの取りこぼしを覗いて、クアラルンプールに戻るてなことで、少々巻き気味に。とりあえず、ボートを降りてから向かいましたのは、鄭和文化館(Cheng Ho Cultural Museum)という施設なのでありました。

 

 

鄭和の名前は世界史の授業で出てきましたので、ご記憶の方もおられようと思いますが、一応、「コトバンク」サイトの『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』に頼って、振り返りを。

【鄭和】中国、明の宦官で武将、南海遠征の総指揮官。…先祖は元朝のとき西域から雲南に移住したイスラム教徒。…靖難の変 (1399~1402) では燕王(後の永楽帝)に従って武功をあげ、永楽…3 (1405) 年成祖永楽帝の命を受けて南海経略にあたり、宣徳8 (1433) 年まで前後7回、大船隊を指揮して東南アジアから西南アジアにかけて30余国に遠征した。この遠征は、ヨーロッパ人来航以前における南方アジアの最大の事件であった。

という人なのですが、昔々の世界史の授業で鄭和の遠征は取り上げられるこそせよ、詳述はされず、大きくクローズアップされることもなかったような。上の説明にある「ヨーロッパ人来航以前における南方アジアの最大の事件」てな捉え方も無かったのではないですかね…。

 

ともあれ、インド洋を股にかけた大航海をする中ではマラッカにも拠点を設けていたことが、この資料館のある由縁となりましょうか。で、早速に展示を見て…と思えば、これが全面的に中国語だったのですなあ。

 

 

漢字表記と思えば追いやすいともいえましょうが、あちこちに簡体字が出てくるとどうも判じ物めいてしまい。脇にサマライズされた英文の説明があるも、見比べるのも些か面倒なことでして。

 

それではと、もっぱら図示されたものを頼りにと思いましたが、折悪しくも途中でカメラが電池切れとなっては、振り返りにも差支え…というエクスキューズを連ねるよりも、事後的に手にした中公新書『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』をも参考しつつ、鄭和の時代に触れていくことにいたしましょうかね。

 

八世紀後半になると、ユーラシアの交易に大きな変化が現れた。それまでゆるやかに連結していたユーラシア各地の海域が安定した航路として一つにつなぎ合わされ、海のルートが活性化したのである。中国南部の広州とペルシア湾のシーラーフ、バスラを結ぶ約九六〇〇キロの「海の道」が構造化され、大都市群を有する西アジアと中国がムスリム商人、ペルシア商人などの手で直接的、恒常的に結び付けられた。

ユーラシアの東西交易といえば、即座にシルクロードが思い浮かぶものの、砂漠をラクダで横断する過酷な旅程と一時に運べる物量を考えれば、やがて開かれた「海の道」は明らかに優位であったことでしょう。

 

ですが、大海を越える船舶の往来としてはスペイン、ポルトガルに端を発する、いわゆる「大航海時代」の賜物と思ってしまうところながら、喜望峰廻りや大西洋、太平洋の横断はともかく、インド洋をまたぐ交易は8世紀後半には行われていたのであると。イベリア半島ではイスラム勢力とキリスト教勢力がせめぎあっていて、とても外洋へ繰り出すことなど考えてもみない段階だったことでしょう。

 

ですので、やがて来る西洋側からの大航海時代というのも、インド洋交易で培われた航海術があったからこそ。そうしたあたりは、日本でさえも世界史の授業が西洋中心で辿っているがために、あまり触れられてことなかったのでしょうなあ。

 

一方で、中国史の一部として教科書に出てきた「朝貢貿易」ですけれど、どうにもこうにも中国皇帝にかしずく姿が想像されるところながら、必ずしも世界を一手に収めんがためといったことでもなかったようですね。

…朝貢といっても、実質は天帝(宇宙を支配する神)の代理人である中国皇帝が周辺諸族の支配者を臣従させ、服属した周辺の支配者が使節を派遣して貢ぎ物を献上するのに対して、貢ぎ物以上の下賜品を賜るという形式で行われる、極めて政治的色彩が強い貿易であった。

肝心なのは、貿易の側面を持った統治形態なのではなくして、政治色は強いものの貿易なんですよということでしょう。そういうことなら、形の上で臣従(実質的には儲かる交易)しましょうという諸国があるのも宜なるかな。

 

鄭和が海路行った大遠征は海を隔てた国々との臣従関係の構築、そして交易にあったようですね。時には「胡乱な奴らが現れた」と攻撃を仕掛けられることもあったろうだけに、鄭和の艦隊は大小併せて200隻あまり、人員も総勢2万7千人にも及ぶ規模で軍隊も同行していたそうですけれど。

 

 

鄭和文化館に展示されていた鄭和船隊を見ますと、「これって、いわゆるジャンク?!」と。今でも(かどうかは分かりませんが)香港の島と九龍半島側を隔てる海峡を望めば、ジャンクが浮かんでいたりもするわけですが、ともかく古風な、といいますか、やわなふうにも見える印象があろうかと。ただ、操帆性や速度など西洋の船に優る点もあったともいいますから、見た目で判断してはいけませんですねえ。

 

とりわけ水深の浅い海で優位性があったそうですので、当時のマラッカ海峡などはジャンクだらけだったのかもしれませんですね。