高崎の地名の由来
を語り継ぐ高崎山龍廣寺から歩いてほんの少々、
烏川沿いの大通りに出るとすぐのところに石段がありまして、頼政神社はこちらと。
高崎という名を残した井伊直政は、
関ヶ原
の合戦の勲功によって石田三成の旧領である佐和山へ移り、
そのまま井伊といえば彦根藩てなもので、幕末には殊更知名度の高い
井伊直弼 が出てくるわけですな。
要するに直政が高崎城にいたのは2年ほどとかなり短いのでありまして、
その後高崎城主は変転しますが、元禄八年(1695年)に
松平輝貞(山といる松平姓の中では大河内松平という言うらしい)が高崎藩主となった後、
(一度、輝貞は越後村上藩に転封されるもまた戻り)大河内松平家が
幕末まで高崎のお殿様となったとか。
まあ、それだけ続いたのですから、安定政権だったのかもしれませんですね。
さて、頼政神社のことですけれど、
大河内松平家としては最初の高崎藩主となった松平輝貞が、
鬼退治で有名な源頼光に連なる摂津源氏の家柄であることから、
ご先祖様である源頼政を祀ったのがこの神社であるのだそうで。
平安末期頃、清和源氏の出でも正四位までしか登れていなかった時に、
従三位となったことから源三位とも呼ばれるのが源頼政であったということでありますよ。
そうしたご先祖を藩主が祀るのですから、
さぞかし立派なお社でと思ったところが先ほどの石段を登り詰めてみますと「ほげ?」と。
まあ、頼政神社に立ち寄りました目的は源三位や松平輝貞を偲ぶことでも
神社そのものでもありませんでしたので、まあ、いいんですが。
では、何ゆえに立ち寄ったかでありますが(あちこち廻る通り道でもあったものの)、
ひとつ記念碑を見ておこうと思ったからでありまして。
こちらには「内村鑑三記念碑」というものがあるのでして。
いささかうらぶれたふうな周囲のようす(失礼…)とは違い、異彩を放つモダンな印象。
やはり十字架を意識した形になっているのでありましょうね。
という内村鑑三記念碑ですけれど、
高崎藩士の息子として1861年(万延二年)藩の江戸屋敷に生まれるも
程なく高崎へ移ったところから、内村鑑三は「上州人」であるというわけで、ここにあるという。
そして、中央部分に刻まれた碑文も「上州人」と題された漢詩なのですなあ。
上州無智亦無才 剛毅朴訥易被欺 唯以正直接萬人 至誠依神期勝利
意味するところを察するに、何とはなし宮沢賢治
の「雨ニモマケズ」を思い起こすような。
ではありますが、キリスト教
に根ざした著述活動、講演活動を精力的に展開した人物ですから、
「上州人」と言って自らのことを詠んだものとしてはかなり控え目といいますか。
キリスト教に根ざしたといっても、
教会という制度や聖書という記録に余りに重きを置くのは本末転倒、
信ずるところはひとえに神たるべし…てなことを言っては、
かなり矢面にも立たされたことでしょう。
内村は「キリスト教は宗教ではない」てなことを言ったそうですけれど、
キリスト教の根源と言いますか、エッセンスに普遍的なものを見い出したということかも。
そうなると、教会が大事なのでも聖書を有難がるのでもない思想となっていくでしょうし。
「上州人」の漢詩の上には英文が記されていて、
これは多磨霊園で見た墓所に刻まれた墓碑銘と同じもの。
I for Japan, Japan for the World, The World for Christ, And All for God.
個人的には全ての段階に得心するものではないですが、
それでもこうした思いで人びとがいたならば、よもや戦争は起こるまいと
墓所を訪ねたときにも思ったものでありますよ。
ところで、若き日を高崎で過ごした内村は札幌農学校に学んで、
大いにキリスト教の影響を受けたことから渡米を決意、
アマースト大学でさらに思いを深めることに。
このアマースト大学は、
新島襄(内村より18歳年長)が自らの母校への入学を勧めたてな話でもありますが、
高崎藩のお隣である安中藩
の藩士の子として生まれた新島には、
内村が単なる日本から来た後輩ではなかったのかもしれませんですね。
まあ、新島、内村と個々の育ちに関わりはないので偶然ですけれど、
群馬に関係する二人が後の世にも影響を残すキリスト者となったというのは
何かありそうと思ってしまったり。
頼政神社は高台にあって、烏川越しに伸びやかな風景が広がりますけれど、
こうした自然に抱かれていたことも内村鑑三には何かしらの関係があるのかなと
思ったりもするのでありました。