普段からさほどにTVを見ることはありませんけれど、
特番ばかりの年末年始はどうも取り分け食いつきの悪いプログラムばかりと
個人的には思えるところでありまして、これを機会にとちと録り溜まり気味と思しき
CS放送の番組を消化していたような次第。


ちなみに個人的な実状からして、地上波の放送は録画する機材を持ち合わせておらず、
BSは全く契約もしていない…となれば、自ずとCS頼みになるのはやむを得ないところと
受け止めていただければ。


でもって、本来は時期に適ったタイミングで放送されたものも録り溜まり気味の…となれば
先の「素晴らしき哉、人生!」 のようにいささか時期外れの感があるものを
見ることになってもしまったりもするわけですね。


と、端からエクスキューズでありますが、やはりクリスマス絡みだったのでしょうか、
キリスト教絡みの番組が多々放送されていたものを独断と偏見で選び出し、
録画してあったものをようやっと全て見終えた…とまあ、そういうことでありますよ。


で、どんなタイトルのものを見ていたかと言いますと、こんなふうです。

  • イエス・キリスト 空白の年月
  • 新説!キリストを殺したのは誰だ?
  • 聖書のミステリー 出エジプト記編
  • 聖書のミステリー ソドムとゴモラ編
  • 聖書のミステリー 失われた福音書編
  • キリストの棺 …

観点は必ずしも同じではありませんけれど、えいやっと括ってしまいますと
言わんとすることは2点に集約できようかと。


ひとつは、ここでも権力のある側(権力を保持したい側)にとって都合のいい歴史が
語り継がれることになっているのだなぁということ。


日本でも明治維新という大きな転換点に、古い徳川幕府よりの見方は悉く排されて
薩長をはじめとする明治政府側にとって都合のいいことばかりが歴史として取り上げられていく。
こうしたことと同じことが、イエスの教えを司る教会にもあったということですね。


「失われた福音書」によれば、
現在ある新約聖書に収録されているマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる4つの福音書のほかに、
イエスの言動、事績を伝える福音書はたぁくさんあるのだそうですよ。


それこそ初代教皇とも言われるペトロによる福音書、

裏切りものの代名詞とされるユダによる福音書、
さらにはマグダラのマリアによる福音書ですとか、トマスによる福音書などもあるようで。


例えばトマスの福音書は1945年にエジプトで発見されており、記載内容が分かる形で現存する、
つまりは「そういうのもあったような…」と言った言い伝えにすぎないわけではないのに、
聖書には取り入れられなかった…これは何故かということになりますですね。


要するに排除の論理でありまして、トマス福音書その他不採用となったものの内容には
キリスト教会にとって都合の悪いことが書かれていたのだというわけです。


例えばですが、祈ることの大切さの前には教会堂も聖職者も不要と読めるような記載があれば
「教会に対する挑戦か!」てなことを考える人もいたのでしょう。


イエスが口伝てで教えを広めていた当時には、
祈りの場としての教会もなければ、さも導き手然とした聖職者もいなかったわけで、
いずれも後付けで「教会」という組織、システムが確立していく中で、
教会側が必要と感じて権威付けをしてきたことですものね。


ユダによる裏切りというのも、イエス受難の彩りとして必要だったのでしょう。
4福音書の記述でも成立が後のものになるほど、

ユダをどんどん悪者らしく書いているのだと言います。


「キリストを殺したのは誰だ?」との番組タイトルはちと訳に難ありで、
実のところは「イエスが磔刑となるのに決定的な役割を果たしたのは誰か」でしょうけれど、
その中でローマ総督ピラトや大祭司カヤパ、ヘロデ・アンティパス(ヘロデ王の息子)などの

名前が挙がってあれやこれやと検証が試みられる中、

そもそもイエス本人による策謀(復活のための手段?)であって、
ユダはイエスの信望厚きが故にイエスから訴え出るよう説き伏せられたとの説までありました。


また、マグダラのマリアも最初からイエスに従い信仰一途であったものが、
教会制度の立ちあがりの中で女性を退ける必要性から娼婦にされてしまった…

との見方もあるようで、これを本来の、元からイエスに忠実な使徒のひとりであったと考えると、
「ダ・ヴィンチ・コード」のような話にも繋がったいきますですね。


と、こうした側面とは別に、これらの番組の中には言わんとすることの二つ目がありまして、
それは聖書の中で奇跡的な出来事、稀有な出来事とされていることを
科学的に解明してみようというアプローチであります。


「聖書のミステリー 出エジプト記」ではそのクライマックスたる海が割れる場面が
実際に起こり得る可能性があるものかどうかを検証していましたですよ。


偉丈夫なチャールトン・ヘストン演ずるモーゼが

天に向かって大きく両手を広げてみせると見る見る海が割れて…と、

往年のハリウッド超大作「十戒」のシーンを誰しも思い出すところでしょうけれど、

まあ特撮レベルの話だよねえと思っていたわけです。


ところが!ところがですよ、海底に浅い部分があり、
かつ強烈な風が吹きつければ、その浅い底の部分が露出することはあり得るとのこと。
「ウィンドセットダウン」という現象なのだとか。


もちろんこれは条件が調えば可能性としてあり得ることを示したもので、
モーゼがイスラエルの民を導いてきたことにまさにそれが起こったことを示しているわけではない。
むしろそうしたびっくり現象が起こったことを見聞きした人が

奇跡的な出来事として使える!と考えて旧約聖書に取り込んだのではないかと思いますですね。


ソドムとゴモラが一瞬にして灰燼に帰したという話も小惑星の落下で説明がつくとして、
やはり過去に小惑星の落下があり、それがとんでない火の玉であったことから

びっくりエピソードに取り入れられたのでは。


ところで、今では(と言っても、近代になってずっと前からなんでしょうけれど)
ローマ・カトリック教会が独自の天文台を持っているのだそうですね。


ガリレオ が聞いたらぶったまげてしまうんではないかと思いますが、
その天文台で観測に従事している科学者たちは聖職者でもあるそうな。


科学者であることと聖職者であることとの両天秤に矛盾はないのか的な問いかけに対しては
「神の神秘を解き明かすためにやっていることですから」と
飽くまで神が存在した上でのお話であるようす。


とにもかくにも世の中、知らないことばかりで、
とても神さま領域までは気が回らないです…(笑)。