ということで、武州秩父のお話 から上州高崎のお話へと移ってまいります。
まずはその「高崎」なる地名の由来からなんですが、

何と言いますか、大森貝塚状態といいますか…。


現在は高崎と呼ばれる辺りですけれど、古くは和田という地名であったそうな。
豊臣秀吉の小田原征伐後に関東を与えられた(関東へ遠ざけられた)徳川家康 は、
所領の固めを万全にするため、信を置く家臣を要所に配置していくのですね。


徳川四天王のひとりに数えられた榊原康政 を館林に置き、
同じく徳川四天王のもうひとり、井伊直政を上州箕輪城に入れるという具合。


ですが、箕輪城から南へ12kmほどの和田の地が中山道と三国街道の分岐点であることから、
この要衝を押さえるべく、家康は直政に対して和田での築城を命じたのだそうな。


慶長三年(1598年)、直政が箕輪から新たな城へ移る際、

心機一転と思ったか、地名も改めようとして、
「松ヶ崎」あるいは「鷹ヶ崎」としてはどうだろうかと考えていたのだとか。


このことをさる寺の和尚に相談したところ、
(鷹にしても、松にしてもいずれも)生き物は悉く生命の絶えるものであるから避け、
限りない広がりに通ずる「高」の字をもって「高崎」とする進言があり、

以降「高崎」となったのだと…。


ですが、この「高崎」命名が大森貝塚状態と言いましたのは、
(大森貝塚跡なる史跡は大田区にも品川区にもあって判然としていない)
井伊直政が相談したという和尚さんが白庵和尚だと言われたり、

龍山詠譚和尚だと言われたり…。


白庵和尚が開山した龍廣寺は現在、高崎市街西側を貫流する烏川沿いにありますけれど、
高崎駅の観光案内所でもられる歴史巡りのマップに「地名ゆかりの寺」と書かれてありました。


高崎山龍廣寺


どうも見たところ、地名由来に関する案内は見当たらなかったですが(見逃したのかも…)、
「これだけで証拠は十分」とばかりに煌びやかに輝くのは

山門に掛けられた扁額の文字でもあろうかと。「高崎山」と読めます。


龍廣寺山門の扁額


白庵和尚の進言に感謝した直政が

龍廣寺の山号にもどうぞと言ったから…というのが一方の説。
こちらではもっぱら「成功高大」という言葉から「高」の字を推したことになっているようで。


そして、もう一方の龍山詠譚和尚が開山した恵徳寺、

こちらはもそっと北の旧中山道沿いにありますが、
先の案内マップでは「龍廣寺とともに…名付け親との言い伝えがある」と言う記載で、
書き方としてはちと弱い印象が。


松隆山東向院恵徳寺


恵徳寺としてはそんな扱いは心外であるのか、お寺の由緒ともどもの説明に
「松は枯れる事があるが、高さはには限りがない その意をとって高崎はいかがか」と
龍山詠譚和尚が進言したことまで書かれておりましたですよ。


恵徳寺御由緒


それでも、どちらが本当か?みたいなバトルが展開されているてなことはなさそうで、
結局のところはどちらも言い伝えのレベルなのでありましょうか。


それだけに勝手な推測をしてもお叱りを受けることはないものとして、
まず井伊直政が考えていたのが「松ヶ崎」なのか「鷹ヶ崎」なのかは不明ですけれど、
結局のところ「高崎」に落ち着くときに、いずれの和尚にせよ、「高」の字が出てくるのは
やはり「鷹ヶ崎」を想定していたからこそなのではないですかね。


そうなると、言い伝えの説明にきっぱりと「松ヶ崎」と出てくる恵徳寺には

分が悪いようですけれど、龍廣寺の方(案内マップの記載)で「高」の字を

「『成功広大』の故事に因んで」持ってきたとあるも、どんな故事かと検索すれば出てくるのは

「高崎」命名の記事ばかりで、どうも古典由来ではなさそうな。
ま、どっちもどっちということですかね…。


と、かような話を語り起こしに「上州高崎紀行」はしばし続いていくのでありました。


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