先に読んだ「図説スペイン無敵艦隊」の訳者あとがきにこのようなことが書かれていたのですね。
(巻末の)艦船リストにリチャード・ダフィールド号という船が載っている。船長はかのウィリアム・アダムス。日本史で習ったあの三浦按針である。彼はアルマダ海戦に参加したあと、オランダのリーフデ号に乗り、二年にわたる苦しい航海の末、九州にたどり着き、日本に初めて来たイギリス人となった。リーフデ号に搭載されていた大砲を接収した徳川家康はその大砲を使って、関ヶ原の戦いで石田三成に勝利した。そう知ると、アルマダ海戦が日本人にとってもいっそう身近な世界になるにちがいない。
大河ドラマ「軍師官兵衛」 では、
寝返りを約しながらいっかな動きを見せない小早川秀秋の陣所に
家康が大砲を撃ち込んだことになっておりましたですなあ。
鉄砲を撃ち込んだとはよく聞く話ですが、大砲とは。
まあ、小早川軍に撃ち込まずとも関ヶ原で大砲が使われたのは事実なのでしょう。
そして、その大砲は何とまあ、豊後に漂着したリーフデ号から接収したものであったとは。
リーフデ号の漂着は1600年の3月、何というタイミングでありましょうや。
関ヶ原で使ってくださいといわんばかりですものねえ。
と、大砲にばかり目を向けておるようでありますが、
後の三浦按針、ウィリアム・アダムスもリーフデ号で日本にやってきたわけですな。
とはいえ、最近になってせっせと日本史をなぞっている者としては、知っているのは名前ばかり。
これを機会に探究しておこうと手にとったのが「さむらいウィリアム」という一冊でありました。
ウィリアム・アダムスはアルマダ海戦
に船長として参加したとありましたですが、
その船は100トンほどの補給船(当時の日本にとっては十分大きな船でしょうけれど)でしたから、
300トンとさらに大きなリーフデ号には航海士として乗船していたようです。
16世紀末の外洋はおよそスペイン、ポルトガルというカトリックの国に仕切られていましたですが、
これに対抗してイングランド、オランダというプロテスタントの国々も
交易の活路を見出そうとしていたのですな。
ヨーロッパから東洋へはバスコ・ダ・ガマが開拓した喜望峰回りのインド航路をポルトガルが握って、
沿岸各地に補給基地を置くなどしていたわけですけれど、
後発組としては例えば北極海廻りのルート開拓に挑んだりするも、
雪と氷と潮流とに阻まれていたような。
そうした中でオランダ船リーフデ号は、この頃は仲良く(英蘭戦争
は17世紀半ばに始まります)
英蘭の乗組員を乗せて大西洋を南下、マゼラン海峡廻りで太平洋を横断する目論見でありました。
ルートとしては、半世紀以上も前にマゼランが(正しくは部下たちが)世界周航を果たしていますし、
その後、フランシス・ドレイクも地球を一周してイングランドに帰還している。
これらにあやかってリーフデ号もというところなわけですが、途中の航海は苦難の連続、
食料の欠乏にたたられ、病いにたたられ、嵐に翻弄され、豊後沖に漂着したときには
ずたぼろの状態であったといいます。
そんな中で、比較的元気で、かつ生き残りの中では航海士という上級者であったのでしょうか、
ウィリアム・アダムスは徳川家康に謁見を許される(というか、ひっ立てられる?)ことになるのですね。
それまでは外国の見聞といえば、
イエズス会やフランシスコ会などの宣教師を通じてということが多かったわけですが、
家康としてもやはり根っこの布教目的を胡散臭く思っていたのでしょうか、
宗教がらみでなく、練達の船乗りでもあるアダムスから聞き取る話の数々には興味を抱いたようで。
また、イングランド人、オランダ人が漂着したと耳にするや、宣教師たちはこぞって
「必ずや日本に害を及ぼすことになるので処刑した方がよい」てなことを上申してくるとなれば、
「裏に必ずや何かある…」と家康が勘ぐって当然ともいえましょう。
何しろ宣教師は「キリスト教とはカトリックであって、これでヨーロッパはまとまってる」みたいなことを
日頃吹聴していたところへプロテスタントの国からの漂着民が現れてしまったのですから、
都合の悪いこと、この上なし。
アダムスによってヨーロッパにおいて彼我の国が相争うようすなども聞かされてみれば、
宣教師の話よりもよほど得心のいくことだったかもしれません。
さらには命を受けて造船に着手したアダムスは立派な船を造ってみせて、
家康を喜ばせたりもしたという。
かような経緯の末に、
家康はアダムスを旗本に取り立て、三浦半島の方に領地も与えるなどして、
アダムスの気を引くことにもなったのでしょう。
もはやアダムス、改め三浦按針は家康の外交顧問的な立場にまでなっていったわけです。
やがて日本のショーグンによって取り立てられているイングランド人がいるてなことを、
東洋交易の合間でイングランドも聞きかじることになりますが、
日本との貿易をする上で三浦按針の存在は他国にないアドバンテージと、
船を(インド洋廻りで)派遣してくることになるのですね。
結果、肥前・平戸の地にイギリス商館が開かれるのでして、
当時はオランダ商館も平戸にあって、長崎の出島に押し込められるのは
三代将軍・家光の時代(1634年)になってから。
もっとも、イギリス商館はといえば、
按針の惜しみない後押しにも関わらず、商売下手で成り立たず、
1623年に撤退してしまってしまうのですが。
このことからも、家康はひとえに三浦按針個人がお気に入りであったのであって、
イギリスという国がどうのとはあんまり関係のないことだったのでありましょうね。
イギリス商館撤退後、もはや幕末までイギリスは日本の歴史に登場しなくなるのですし。
ちなみにオランダが家康から
交易許可の朱印状(レプリカが駿府城坤櫓
にありましたですね)を得られたのは
三浦按針の口添えの賜物とも言われますから、
もしもウィリアム・アダムスが豊後に漂着していなければ、
日本ばかりかオランダの歴史もやや変わっていたやもしれませんですねえ。
アダムス自身は日本に着いてしまったが故に、二度とイングランドの地を踏めず、
日本の土となってしまうのですけれど…。