頼政神社
の社殿を裏側に回りこんでいきますと、そのまま高崎公園に繋がっています。
なかなかに広い公園でして、明治になって廃寺となった大染寺の跡地に造られたそうですが、
大染寺は頼政神社の別当寺であったそうなので、互いに二個いちの関係であったとすれば、
頼政神社をして「ほげ?」てな感想を抱くような存在と見るのは誤りであったのかも…。
ところで、この高崎公園では樹齢何と400年!という白木蓮の木が有名であるそうな。
まあ一説によればということかもですが、高崎市のHPの説明によるとこんなふうです。
元和五年(1619年)に安藤重信が高崎藩主となりますと、
現在の高崎公園の場所に良善寺という寺を建立して、
(この良善寺が大河内松平家の時代には大染寺となったとのことです)
その境内に白木蓮の木を植えたと伝えられていると。
さすれば、確かに400年近くにもなりましょう。
ですが、確かに大きな木であるものの、
そんなに長い歴史を刻んだ重みを感じさせない軽やかさがあり、
一斉に花を咲かせたときにはそりゃ、さぞや見事だろうなあと思うばかりでありました。
ところで、この白木蓮の大樹のほど近く、ひとつの歌碑が建てられているのですね。
何と刻まれているかは見てとれないものと思いますので、書き写しておきましょう。
白木蓮(はくれん)の花の千万青空に白さ刻みてしづもりにけり
この場所も頼政神社も烏川沿いの高台で
(先日「ブラタモリ」で見た沼田ほどではありませんが、河岸段丘でしょう)
見晴らしがよく空がとても広く大きいことから、
青空に木蓮の白が映えて辺りが静けさに包まれるさまが思い浮かぶような歌でありますね。
で、この歌を詠んだのが吉野秀雄という歌人、高崎の出身であったのですなあ。
吉野秀雄の歌に触れたのはいつ頃であったかは忘れてしまいましたが、そんなに昔のことではない。
病弱だったようで中退を余儀なくされた母校・慶應で詠んだ歌に新鮮さを感じたものですから。
図書館の前に沈丁咲くころは恋も試験も苦しかりにき
花を咲かせる沈丁花が花を咲かせる2月末から3月頃は受験シーズンでもあり、
その後には卒業式という別れに続いていくことを思えば、
恋もまた苦しかりにきとはきゅんとくるではありませんか。
「サラダ記念日
」ほどの今様(といっても今やすでに古いのでしょう)ではないものの、
明治生まれの歌人が詠んだ歌としては、言葉遣いも含めてとってもモダンだったのではないですかね。
死をいとひ生をもおそれ人間のゆれ定まらぬこころ知るのみ
こんな歌もあります。
おそらくは病弱であった歌人のこと、生死の境目にいることが多かったことからすれば、
勝手な解釈はどうよ…てなところでもありましょうけれど、
敢えて青春の歌と思いたい気がしますですね。
歌の語順とは一致しませんが、何事もがむしゃらにやってきた子供時代がいつの間にか過ぎて、
「自分」と向き合うようになったときに「生きていくことの不安」を思って、憂いを感ずる。
それが自殺願望と言っては穏やかでないながら、
そうした逃避を思わせたりもするけれど、やっぱり死は怖ろしい。
ではと言って、このまま流されて生きるのが自分であるかとは思いたくない…と、
堂々巡りの揺れの中にいる。
「青春」てな言葉を使うのも気恥ずかしいところですけれど、
その一時期にこのような気持ちになることは結構多くの人にあることなのではと思いますが、
如何でしょう。
吉野が同人となっていた「河」という雑誌には、画家の難波田龍起らも集っていたとなると、
個人的に難波田の抽象画を見てぴくんと来るところと吉野の歌は近いのかもしれません。
後に吉野は「鎌倉アカデミア」という私立学校で教鞭を執りますけれど、
この「鎌倉アカデミア」がまたユニークな学校であったようですね。
「文学科、産業科、演劇科、映画科の四学科編成」(Wikipediaより)であったことも
相当に独特でしょうし、教授陣がまたなかなかに錚々たる顔ぶれであって、
文化的な香りの高い講義が行われたのではないかと。
鎌倉アカデミアの卒業生で後に小説家となった山口瞳は吉野を恩師と仰ぎ、
「小説・吉野秀雄先生」という作品を残しておりますけれど、
別の作品にはこんな一節があるようで。
「芸術作品の根本にあるのは感傷主義(センチメンタリズム)である」と吉野秀雄先生が言った。
高崎公園の白木蓮がを咲き初める頃に見上げてみれば、
「なるほどなあ」という思いが弥増すのではなかろうかと思うのでありました。