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ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

前回の続きです。

   ☆

「ザ・マップ 」
コレット・バロン・リード
吉田 利子訳
講談社 (2012/9/13)

   ☆

この本を眺めていると、著者のいう「地図」のメインは「場所」と「キャラクター」かなという気がする。
前回も書いたが、自分のオリジナルの場所やキャラを創ってもいい。

ちょうどこの本を読んだころ、易システムハンドブックの続編「風と羅針盤」を書いていて、似たようなことを考えていた。「ザ・マップ」でいう、オリジナルのキャラだ。

思いついたのは「旅芸人」というグループで……
一座にはいろいろな人がいる。
人の出入りもある。

「キャラクター」と「場所」が一体となったような「地図」上の構成要素だ。「旅芸人」なんていうのはたぶん、「ザ・マップ」のカタログにはなかったんじゃないかなあ。
(↑「ザ・マップ」を読んだのはずいぶん前なので忘れている)

まあようするに、人生でその旅路を共にする人たちのことである。原則、期間限定だが、中には一生旅路をともにする人もでてくるかもしれない。

唐突だが、以下はベンジャミン・フランクリンの作とされる魔方陣である。

ぼくは占い師じゃない-BFの魔法陣
【ベンジャミン・フランクリンの魔法陣】

1から64の数字からなるこの魔方陣に、易の卦の1番目から64番目をあてはめると次のようになる。

$ぼくは占い師じゃない-フランクリンマトリクス
【フランクリン・マトリクス】

この易卦による方陣は銀河ツールの中で易ともっとも関係の深い「20の銘板」の基礎となっているが、易システムではそれとはまた異なった意味をあたえることにした。

それが「旅芸人」、旅の一座である。

根拠はとくになく「そんな感じがした」という程度のことなのだが、ぼくにはこの「フランクリン・マトリクス」が、64の卦の中から特定の4つの卦を選び出す仕組みに観えた……というのは「風と羅針盤」にも書いたとおり。

先の「フランクリン・マトリクス」の図とあわせて見てほしいが、ベンジャミン・フランクリンの魔法陣の上に展開された64の大成卦は次に示すA-1からD-4までの、4つづつの大成卦のグループに分けることができる。

$ぼくは占い師じゃない-フランクリンマトリクスグループ
【フランクリン・マトリクス、グループ図】

ちょっと変則的なのは、BのグループはAを、CのグループはDを、それぞれはさみこむようなカタチで配置されるということ。
64÷4で、グループは全部で16ある。同じく16あるFOとはまたちがったグループである。

4つの大成卦でできた16のグループ。
それぞれが「旅の一座」というわけだ。

判断はむずかしいかもしれないが、使い方は単純で、占って得られた卦(得卦)をこのフランクリン・マトリクスの中から探し出し、得卦がこのマトリクスのどこに位置するかをみきわめるだけだ。

得卦が所属するグループの、得卦以外の他の3つの大成卦が「旅の仲間」というわけで、さらにその周囲にどんなグループがあるのかをながめることもできる。

そんなふうに観ると、マスターマトリクスだろうと、ツイストペア・ホイールだろうと、地図=マップとしてとらえることができることがわかる。

易システムには、××マトリクスだの、□□テンプレートだのといった「地図」がいくつかあるが、実際のところ、その地図はあなたが自由に創ってもいいのである!

それはいいが、「地図」だけではわからないこともある。

地図(場)が舞台で、その上で活動するのがキャラクター(役者)だとすると、あとひとつ足りないものがある。

それは「シナリオ」。

場と役者だけでは劇は成り立たない。
そこに台本が必要なのだ。
まあストーリなのだが、この話をはじめるとまたぞろ長くなりそうだ。

うんざりされても困るので今回は、このへんで。
アニメ、「カウボーイビバップ」に出てくるエドの父親アップルデリーは、マッケンタイアという助手と一緒に荒地をかけずりまわり、地図を作っている。

といっても、今回はアニメの話じゃなくて……地図の話。

   ☆

「ザ・マップ 」
コレット・バロン・リード
吉田 利子訳
講談社 (2012/9/13)

   ☆

この本でテーマになっているのは地図は地図でも「心の地図」だ。

心はカタチがないのでつかみどころがない。この本は、その、ものすごくあやふやなものをああだこうだいっているのだ、ともいえる。

でも、そのアヤフヤな「心」を通じてしかこの現実を認識することができないというのもまた事実ではなかろうか。

地図がなければ現在位置はわからない。
座標軸があって座標は成り立つ。

生まれてこの方、右も左もわからない五里霧中を、あてどもなくいきあたりばったりにさまよいつづけ、結局、死ぬまでなにもわかりませんでした……というのも、あまりぱっとしない。

べつにかまわん。

という人は、それでいいのかもしれないが、ぼくはいやだ。

この本に地図が載っているわけではない。
地図をつくるのはあくまでもあなた。

読者である。

本で提案されるのはその方法と材料だ。
アヤフヤなものにカタチを与え、命を吹き込む。

あなたはいまどこにいる?

どろどろの沼地か?
見晴らしのいい高台か?
活気に満ちた街道の街中か?

だれと一緒だろう?

気心の知れた同僚か?
物静かな老賢者か?
傷ついた戦友か?

それとも……

まったくの一人ということはない。

すぐそばに必ずだれか、あるいはなにかがいる。

一人に思えても、そいつはいつもの木の下で、ちょっとのあいだにうたた寝をしているだけ。

人生というRPGにもさまざまな場所があり、さまざまなアイテムがあり、さまざまなキャラクターがいる。
この本は、それらのカタログなのだ。

キャラクターのなかでもっとも強烈なのは「ゴブリン」で、始終あなたのイニシアチブを奪おうとする、そして、しばしば、まんまと奪ってしまう、あなたのエゴである。

はずかしい気もするが、ぼくのゴブリンを紹介しよう。

$ぼくは占い師じゃない-shituji

日記に描いた絵のコピーだが、iコンシェルというケータイのアプリに出てくるキャラ、「ヒツジ」のパクリであることは一目瞭然だ。

いかにも底意地の悪そうなカオをしている。

外見はともかく、ぼくのゴブリンは、木の下なんかでのんきに眠ってなどいない。

身体は小さく、すばしこいこともあって、50年この方使っているリュックの中に(参考記事、「ぼくはタコじゃない」)ちゃっかり入り込んでいるのである。

こいつがぼくにとって不都合なことが起こると即座に飛び出し、(もちろんその際、他人<ひと>様の都合は度外視)いついかなるときも決して崩れることのないぼくの「絶対的正当性」を声高らかに宣言するのだ。

悪いのはぼくではなくてその、ぼく以外の人または状況・環境・組織であると歌い上げ、ぼくのまわりをぐるぐると踊り狂うのである。

「ichingさまは、偉い!
ichingさまは、エライ!!
ichingさまは、え・ら・い!!!」

もちろん悪いヤツじゃない。

なんといってもこいつはこいつなりに一所懸命、ぼくを守ろうとしている忠実なぼくの執事<ヒツジ>なのだ。

ただ、彼の「自己の境界」は、ぼくの物理的肉体の範囲を決して超えることはなく、異常に視野が狭く、狭量・偏狭なだけなのである。

身体的範囲を超えないどころか、その矛先は場合によっては肉体自身に向かうこともあり、こうなると始末におえない。

「このクソ馬鹿、肝臓野郎めが!
もっと働け!
ichingさまは気分よくもっと飲みたいのだ!」

いったいichingさまってのは、だれで、何様なんだろう。
(いや、ぼくなんですけどね)

他、だれもが持っていそうなアイテムに、アタマの中でのべつまくなしにどうでもいいことをまくしたてる「おしゃべり箱」なんていうのもある。

ぼくの場合はこれは「ぶっこわれジュークボックス」だ。

毎日毎日、リクエストもしていないのに過去に聞いた音楽を無意味に流しつづけている。

「ぶっこわれDVDプレーヤー」というのもあって、ぼうっとしていると過去に観た映画(ブレードランナーとか)のシーンが、勝手に流れ出す。

クルマは運転できないが、運転できなくてほんとうによかったと思う。
運転中にDVDプレーヤーがかかりはじめたら、一巻の終わりである。

   ☆

まあこんな具合に、本に載っていないキャラクターや場所を自分なりに創ってもぜんぜんかまわない。

というより、それが奨励されている。

ところで……易システムはそれ自体、地図でもある。

地図であり、その中でのあなたの居場所をあきらかにする……
と始めると、長くなりそうだから、その話はまた別の機会に。

  ☆

アニメ「カウボーイビバップ」に出てくる地球のまわりには、位相差空間ゲートの実験で破壊された無数の月のかけらが漂っている。

こいつらが隕石になって、ひっきりなしに地表に落っこちてくる。
そんなわけで、アップルデリーとマッケンタイアは、のべつまくなしに地図をアップデートしつづけなければならない。

いくら地図を描いてもどうせ地形は変わる。

考えようによってはいかにも不毛で、ばかげた仕事にみえるかもしれないが、ふたりは喜々としてしてその仕事に励んでいる。

劇中でアップルデリーは自信満々にこう言い切る。

「幸せは地図にのってやってくるのだ!」

いいなあ。すごくいい。

そうだ。そのとおり。

幸せは地図にのってやってくるのである。


$ぼくは占い師じゃない-shituji2
ある朝、昨夜の帰りに持っていたはずの荷物がないのに気づきました。

黄色いプラスティック製の書類カバン……というより、安物の、取っ手付き書類入れですね。

普段、持ち歩かないものなので、その前からお客さんのところに置き忘れたりして、兆候はあったのですが、いやしまった、電車に置いてきちまったか。
疲れてはいたけれど、とくに飲んで帰ったわけでもなかったのですが。

家までは、A線、B線を乗り継いで帰ってきたのですが、どこに置き忘れたかとんと思い出せない。
齢51にしてついにヤキがまわってきたわけです。

A線では立っていたから、手に持っていたはず。
B線だ。
B線に置いてきたんだ。

とりあえずJRの忘れ物係に電話します。

え?ない?
そうですか……

目立つものなので以前に忘れたときはすぐもどってきたんだけどなあ。
ま、いいか、読みかけの本を一冊、放り込んどいただけだもんな。
でも、また同じ本買い直すのもシャクだなあ。

占ってみます。

でてくるでしょうか?

頤の三爻。賁に之く、です。

$ぼくは占い師じゃない-itohi

なんの偶然か、も最近ブログに載せた卦ですね。
最近とはいっても、それなりに時間はたっていますが。

おまけにこの「頤」はかみさんの失せもの占ででたのと同じ卦です(爻変はちがいますが)。
また「口をあんぐり」びっくり、でも出てくるってことかな。

爻辞をみてみると、三爻は、

「養いの路に反する。その態度をつづけるのはよくない。」

うーん、なんだかあんまりよくない。

結局どっちなんだ、「からっぽの口」で、ケースだけ見つかって中身(本)がないってことかしらん、しかし、JRにきいても出てこないって、あんなもん持っていくヤツいるんかいな……

とにかくもう、ぜんっぜん、考えがまとまらなくて、なーんにもひらめかない。

じつはこいうことってよくあるんです。

とくに自分のことを占ったときで、気持ちが焦っているときです。

まあ、朝、出がけにサイを振ったんだから仕方ない。
おちつかないに決まっています。

易のカミサマにたいしては失礼きわまりない使い方をしています。
でもついついこうして甘えちゃうんですね。
そんでもって「よめない」、と。

とほほ。

ちょいと気持ちを落ち着けて、
昨夜の記憶をロールバックしてみます。

A線は立っていた、うん、これは間違いない。
B線では座った。端っこに座って、長椅子のしきりのところに挟むようにして、黄色い書類ケースを置いた。そして……

うんうん、ちょっとまて、そのあと駅前のスーパーに酒買いに行ったぞ、そんとき買い物かごにその黄色いケースを放り込まなかったか??

うーん、思い出せない。
まあ、行ってみるか。
通り道だし。

スーパーに行ってみたら、忘れ物として保管されていました。

スーパーの買い物かごに書類ケースを放り込んで買い物をして、レジ袋に買ったものを入れて、そのまま、なんていうんですか、あの自分で袋詰めする平台の上に書類ケースの方は置いてきてしまった、と。

あったあった。

よかったよかった。

それはいいけど、占って得られた「頤」卦はほったらかし。

易のカミサマに失礼どころか、ほとんど愚弄しているに等しい。
バチがあたるのもいやですが、たとえ後知恵であっても、ちゃんと読んでかたをつけておいた方がいいでしょう。

この場合は、八卦の意味で観ておいた方がよかったのかもしれません。

上卦は艮で静止。
下卦は震で動きをあらしています。

静止と動き。

上アゴは静止し、下アゴは動き、咀嚼という機能を果たすわけですが、この場合は、上卦は外側、つまり今手元にない遺失物、ということになりましょう。

艮=静止で、忘れ物はどこかにとどめおかれているというわけです。ちなみに艮は机、あの、袋詰めする平台のようにもみえますね。

下卦は手元、自分側ということですが、こちらは震で動きです。落ち着かない様子、とも観てとれますが、自分から動いてなんぼということでしょう。

三爻変で之卦は賁ですが、上卦は変わらずに下卦が、震から離になっています。
離は火でものごとが明らかになる様子。
こちらから動いて、明らかになる。
とどめ置かれていたもの(艮)が現れる(離)ということです。

まあ、後知恵なんでなんとでもいえるかもしれませんが、こうして一応けりをつけておくこともまた大切です。

プロの鑑定家の方には許されないと思いますが、アマチュアはこんなふうに読めないことも……

てか、卦が読めなくて、ほったらかしておくなんていうのは、アマチュアどころかシロートですな。

いやはや、お粗末。

失礼しました。
最近は旅行することもめったになくなった。
旅行。
実際にこの身体を別の場所へ持っていく、あの旅行である。

そんな数少ない旅行で、飛行機の窓から晴れた海を見おろしたことがある。

海面はどこまでも陽光に輝き、水平線ははるか彼方で天界と混じり合い、明け方の夢のようにかすんでいた。

あの水面で舟にでも揺られていたら、さぞや気持ちがいいにちがいない。
そんな静かな海である。

まさにその大海原に、小舟が波に揺られている。
飛行機の窓からみおろす小舟は小さなシミにしかみえない。
かろうじて舟とわかる程度。

あなたの自我だ。

旅する小舟―アクティブ・イマジネーション=能動的想像法」では、無意識を大海にたとえたが、この大海はその無意識だ。

にわかには信じがたいが、この広大な海もあなた(自我)のあずかり知らない「あなた」なのである。

レムの名作に「ソラリスの陽のもとに」というSF小説がある。

惑星ソラリスの海は無意識の海にそっくりだ。
言語を持っている。
コミュニケーションをとりたいという強い意志もある。

それはまちがいない。

しかしその表現は、小舟に乗っているあなたからすれば、まったくもって異質であり、海の反応は、それが「反応」であるかどうかわからない位チンプンカンプンなのだ。

レムのお話では、惑星ソラリスの「海」自体がエイリアンということになるのだろうが、ぼくらはそのエイリアン、少なくともその一部を、各々自分の中にかかえているのである。

易システムの言語は、ぼくらが普段使っている言語と、この大海の言語、おそらくは「イメージ」の……たぶんそのちょうど中間あたりにある。

以前のブログでも紹介させていただいたが、「ユング的悩み解消術―実践!モバイル・イマジネーション」を読んでいて、印象にのこった図版がある。

それは「セルフ」という元型中の元型をコアとした円形の図版で、次のようなものである。

$ぼくは占い師じゃない-kokoro
【心の構造(「ユング的悩み解消術」老松克博著 平凡社2011年より)】

これのなにが印象的なの?

と思われるかもしれないが、ユング的な心の図では「波」の図が一般的だと思っていた。海があり波がありその波の先っぽが各個の自我であり、下の方ではみんなつながっている……という、あのオーソドックスな絵しか知らなかったので、円の図が新鮮に観えたのである。

$ぼくは占い師じゃない-hatou

もうひとつ印象的だった理由は、この同心円型のダイヤグラムは、ツイストペア・ホイールと大変よく似ているように想えたことだ。

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ツイストペア・ホイールは、一定のルールで六十四卦を環状に並べたダイヤグラムで、「易システム・ハンドブック」で提示させていただいたものだ。

このホイールはいくつかの観方ができるが、中心から周辺部へと向かう方向(スポーク)は、微細な根本原理が粗大な森羅万象へとあらわれてくる過程を表現している。
中心で生じた微細なゆらぎはいくつかの段階を経て、最終的に目に見える日常となって私たちの眼前にたちあらわれる。

それはまるで海の一部それ自体が重さと粗さをともないつつ、底なしの深海かから浮かび上がってきて波に揺られる小舟となり、さらにその小舟に乗るあなたという物理的な身体に凝っていくプロセスにも似ている。

小舟とあなたの身体は、無意識の海が物理次元にのばした触手、老松氏の表現でいえば全権大使なのである。

実のところ円いものはなんでもツイストペア・ホイールに似ているともいえるので、ちょっと牽強付会かもしれないが、「ユング的悩み解消術」における「心の構造」図と、ツイストペア・ホイールの対応をとるとしたら次のようになるだろうか。

$ぼくは占い師じゃない-tpwwc


テキストで書けば、

【TPホイール】------------------【心の構造】
リム48卦上卦-------------------意識(自我)
リム48卦下卦-------------------無意識(個人的無意識)
ファウンデーション-------------無意識(集合的無意識)
先天図レベル-------------------諸元型(集合的無意識)
四象レベル---------------------セルフ、中心の元型(集合的無意識)
両儀レベル---------------------セルフ、中心の元型(集合的無意識)
中心---------------------------セルフ、中心の元型(集合的無意識)

といったところ。

外側からたどってみよう。

ツイストペア・ホイールを外側から中心へとたどるこの方向は、ぼくらが普段自覚している粗大な日常生活から、その元因である微細な領域へと降りてゆくことである。

○ リム
周辺部にある48の大成卦は、個人であり、日常生活における事象であり、見て触って感じることのできる物理的な次元である。日常的な時間はこのレベルにある。この領域が小舟だ。
ファウンデーションから中心までの広大な領域には通常の意味での時間はない。この領域が「海」だ。

○ ファウンデーション
先天大成卦と純卦からなるこの領域は、集合的無意識に相当する。
先天大成卦は個性化がなしとげられた個人の象徴で、ツイストペア・ホイール上では8パターンある。
今回のこの記事では大成卦はひとりの人間と観たてているが、人間であるということと、個性化がなしとげられるということの間には根本的なジレンマがある。それは「旅する小舟」に書いたとおりだ。
純卦は元型イメージである。
元型ではない。
よく言われる「老賢者」だとか「父」「母」だとかいうのは、元型が誘発するイメージ、元型イメージであり、元型そのものではない。

○ 先天図
ファウンデーションのレベルのさらに内側は先天図レベルである。
先天図は八卦を数理に従って配列したダイヤグラムだ。
八卦は元型レベルに相当する(*1)が、元型そのものは決して直接知覚することはできない。

意識から観るとイメージは無意識の言語だが、この言語には因果関係も、時系列的な脈絡もない。ソラリスの海の所行やぼくらが普段みる夢が支離滅裂に思えるのはそのためだ。だが、意識が元型を識る手段はこの「イメージという言語」しかないのである。

というわけで、八卦は元型そのものではない。
八卦も元型イメージのひとつということになるのだが、これは元型は8種類しかないということを意味しているのでもない。

8とか4とか二倍進数があらわれるのは易システムの特性である。
陰と陽という「2」つを基調としている易という言語では、そういうパターンになるというだけの話で、元型自体は集合的無意識のレベルに「無数に」潜むイメージまたは衝動という結晶の種である。

とはいえ、「心の構造」の図にある「諸元型」の円も8個あるのはおもしろい。老松氏はなにかを意図して諸元型の円を8個描いたのだろうか。それとも単なる偶然だろうか。

○ 四象、両儀、そして中心
元型でさえ直接知覚することはできないというのに、さらにそれより深い言語化以前の層がこのレベルである。
周辺部から観て元型が神のごときものであるとするなら、それより深いこの海の底はどのように表現したらいいのだろうか。

いや、そもそも表現することなどできないのだろう。

セルフは元型の中の元型ともいわれるそうで、真我などともよばれるものにも相当するそうだ。
このレベルが間接的に夢などにあらわれるとそのイメージは神仏などの宗教的イメージになるという。
あるいはまったくとらえどころのない非常におおきななにか……
ただただ解釈できないという印象だけを残すとてつもなく偉大な得体の知れないなにかとして映る。

それがなにに似ているようにみえるかはその人の経験や知識、その人が属する社会的・文化的文脈による。
経験や、社会文化的文脈にまったくこれにひっかかる枠組みがなければ、把握不能だ。かすりもしない。認識されないのはもとより、おぼろな雰囲気として感じることすらできない。
こうなると存在しないのと同じだが、認識できようとできまいと、このレベルからの通奏低音のような影響は常に日常生活に影を落とす。

意識できなければ、ぼくらはいつまでたってもこの巨大な黒子に操られる人形でしかないことになる。

リムより中心に近い部分は程度の差こそあれ非個人的な領域である。したがって「時間」も「個人」も通常の意味で考えることはできない。

工業製品などの人工物は、もともとカタチはなく、まずはそれらを考えた人のアタマの中にあったイメージだったというのは、よくいわれる話だが、もう少し話をひろげて考えてもいいのではないだろうか。

今この世に存在するすべては、まずはイメージだった……というのはあまりに素朴な想いだろうか。

しかし、まず物質があり、物質がなければなにも存在できないと考えるのは物質至上主義にすぎるような気もする。物質より前に心/ポテンシャルがあってもいいのではないか。

物質にはかならず寿命がある。

寿命があるということは生と死というリズムがあるということだ。寿命、それにともなう生死という現象は、リム・レベル特有の属性である。海のそれより深いところにいくと、個人(分節(*1))というフレームはますます希薄になっていく。

自我は、リムでそうであったようには、自身の構造を保っていることがむずかしくなる。
潜れば潜るほど、寿命=生死の概念も薄らいでいく。
ついには海=無意識に、死はなくなる。
死がなければ生もない。
死がないなら不死という概念もない。

すべては、おそらくは物質をも含むすべては、この深く、底なしで、かぎりなく女性的な、「玄牝の門」からたちあらわれてくるのだ。

戦争も、技術も、文化文明も、自我も。

そしてたぶん、朝食の味噌汁も。

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(*1)「意識の形而上学」 井筒俊彦 岩波文庫
(この著作においても、「八卦」は元型レベルの象徴としてあつかわれている)
(*1)
無意識と出会う
ユング派のイメージ療法
―アクティヴ・イマジネーションの理論と実践1

(*2)
成長する心
ユング派のイメージ療法
―アクティヴ・イマジネーションの理論と実践 2

(*3)
元型的イメージとの対話
ユング派のイメージ療法
―アクティヴ・イマジネーションの理論と実践 3

(*4)
ユング的悩み解消術
―実践!モバイル・イマジネーション

(*1)~(*3):トランスビュー
(*4):平凡社新書601

   ☆

のっけから、書名の羅列で恐縮だが、いずれも私家版のコピー本「風と羅針盤」を書き終えた頃に読んだ本だ。
著者は老松克博氏という阪大の先生でユング派の臨床家である。

周知のようにユング心理学と易との関係は深い。

ではあるけれども、ぼく自身は、元型とか集合的無意識とかの概念のアウトラインをなんとなく知っているだけで、ユングの著作もあまりまともに読んだこともなかった。

上記の本を読むことになったのは、古本屋でみつけた「エイリアンの夜明け(角川春樹事務所)」、「ユング―地下の大王(河出書房新社)」(いずれもコリン・ウィルソン)を読んだのがきっかけだった。

ユングは、無意識を探求するツールとして、アクティブ・イマジネーション=能動的想像法という手法を主にもちいていたらしい。
手持ちの本でいうと、「オカルトの心理学(1989サイマル出版)」に収録されている「霊への信仰」という論文にも「30年以上用いている」と書かれている。

ところが、ユング自身は具体的なそのやり方というのは著作としてはほとんど残さなかったらしく、コリン・ウィルソンの「ユング―地下の大王」でも、そのことに関して、半ば嘆きととれる表現とともにふれられている。「ユング―地下の大王」では、巻末に付録としてその方法の概説がのせられているが、手法の説明としてはやはり不充分な感は否めない。

気になって調べていたら、(*1)~(*4)の本に行き当たった。

最初に読んだのは「ユング的悩み解決法(*4)」だった。

一般向けの本で、この本には(*1)~(*3)および、「サトルボディのユング心理学(同著者、トランスビュー)」のエッセンスが凝縮されている。
もし、アクティブ・イマジネーションにご興味をもたれるのなら、この本を最初に読むことをお勧めする。これを読めばとりあえずアクティブ・イマジネーションを行ってみることはできるからだ(この本では手順を簡略化して「モバイル・イマジネーション」と呼ばれている)。

「やってみることができる」ということはきわめて重要である。

あたりまえのことだが、やり方がわからなければできないし、とくにこういう実践的な領域については、やってみなければわからないことだらけだからだ。

易もおなじである。占的を設定して、サイを振って、解釈してみなければ、要は、システムを「使ってみなければ」、いくら抽象的な理屈をこねくりまわしても、それより先にはいけない。

このような「実践の領域」に関することを明文化して、それを読めば完全に伝わるドキュメントを残すのは……おそらく不可能である。
ピンでとめられて標本にされたチョウは、生きて、ライブで飛んでいるチョウではないからだ。

誤解されてうまく伝わらないことがあるのはもとより、弊害をもたらすことすらあるだろう。ユングはそれをおそれてその手法をドキュメントとして残すことにあまり積極的ではなかったらしい。

しかし、その手法を伝えることに、誤解・弊害をおぎなってあまりある価値と意義があるとその著者が確信し、かつそれに、書こう・残そうという情熱がともなったたときにのみ、こうした希有な著作は生まれる。

書くと決めたのなら、誤解されるのをおそれずに、できる範囲で極力、明晰・明確に書かなければならない。この意識的な態度がアクティブ・イマジネーションの「アクティブ」であるということである。
ヴィパサナー瞑想をやったことがある人ならわかるかもしれない。極端にいえば逐一サティが入っていなければならないのである。

これは疲れる。多大なエネルギーを消耗する作業だ。

逆に、ココロもクルマもオートマチック(パッシヴ)はラクである。

どう評価するかは人それぞれだが、記録に残されている歴史、そして現在ぼくらが暮らしている社会は、みんなでそのオートマチックにまかせてきた結果だ。

老松氏の著作は(若干の心理学用語をのぞけば)具体的でわかりやすい。明晰であろうとしすぎて、つばぜり合いのような緊張感が全体的にみなぎっているようにも感じるが、誤解・弊害をミニマムにおさえようとするのであれば、それぐらいでちょうどいいのかもしれない。

ユングのモデルによれば、普段わたしたちが自分であると認識している領域はごくごく限られていて、それはまさに大海に浮かぶケシ粒程度の小舟のようなもので……

大海はいわゆる無意識であり普段思っているよりもはるかに広大な自分の中で共存している「他人」だ。

小舟は常に大海のうねりに翻弄されている。
この小舟の造りがしっかりしていないと、すぐに浸水し、あっと言う間に沈没してしまう。無意識に飲み込まれてしまう。

このモデルでは、自分というものの大半を占める実体である無意識は、この小舟=自我を通じて物理的な次元と接触している。

そんなわけで、小さくても無意識にとっては大切な舟なのだが、自我がしっかりしていないと、アクティブ・イマジネーションを実践しても、元も子もなくなってしまうというのだ。

「自我がしっかりしている」とはワガママということではなくて、人格的に成熟しているということだ。
ことさら立派である必要はないが、経済的に自立し、まっとうに社会生活を営み、社会的責任を果たしていることがひとつの指標になるだろう。

必然的にある程度年齢を重ねていたほうがいいということになるが、年齢と人格の成熟度は必ずしも相関しない。
ぼくのように、とるにたらないことにハラをたててみたり、おちこんでみたり、いともカンタンに白日夢に飲み込まれたりで、しょっちゅう自分を見失っているようでは、いささか心もとないのである。

それでも舟をこぎだしてみようかとは思っている。

なんのためにそんなことをするかといえば、ユングの言葉でいえば「個性化」をはかるためだ。ひとことでいうなら「個性化」はばらばらなものを統合することである。

ところがここに矛盾がよこたわっている。

人間は本来、多重的、多層的、複合的(そして期間限定的な)存在だからだ。もしこれが完全に統合されたとすると、その存在は「人間」ではなくなってしまう。
つまり、人間でありつづける限り「個性化」には決して到達しえない。
ではなぜ到達しえないと最初からわかっているものをめざそうとするのだろうか。

いまのところは、こんなふうに思っている。

「個性化」の完成はおそらくめざす場所ではなく、ひとつの指標なのだ(易システムでは8パターンある先天大成卦がそのシンボル。参考→「魂のテンプレートから、ただのテンプレートへ」の「N」」)。

丘をいく旅人が見上げる北極星。
沖を行く舟がたよりにする灯台。

しかし、

旅人の行き先は北極星ではない。
舟の行き先は灯台ではない。

では、旅人は、舟は、どこをめざしているのだろうか。

それはわからない。

しかし、わからないからこそ、
旅に、航海に、出るのではなかろうか。

そんなふうに思う。

「風と羅針盤」というタイトルで、
易システムに関する本の公開をはじめました。


電子本と紙の本があります。


電子本はキングジムの電子本サイト、wookにて公開中。
一部立ち読みもできるようになっています。

wookの易システム公開ページはこちら


紙の本は、とりあえず10冊だけ作りました。


ぼくは占い師じゃない-kaze2


ぼくは占い師じゃない-kaze1

B5版、290ページ、くるみ製本のコピー本です。
お値段は1冊 3,600円(送料別)。


高い!


と思われるかもしれませんが、これ、端数切り捨ての実費です。
オンデマンドで10冊つくってこの費用。
今回の時価ってことになりますが……スイマセン。


ご興味のある方は、
oyanokao@gmail.com(半角で)
まで。


以下、wook にのせた「風と羅針盤」の紹介文を引用します。

よろしくお願いします。


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このたび、「風と羅針盤」というタイトルで易システムに関する本をリリースしました。


一応、易システム・ハンドブックの「続編」ということになってはいますが、用語集も拡充しましたので単体でお読みいただくこともできます。


内容は「易システム・ハンドブック」作成時点ではまだ表現できる内容としてかたまっておらず、ひろいきれなかったアイディアをまとめたものです。


さまざまな既存システムのコラージュであることは、前作と変わりありませんが、今作ではエッセイ風の形式で書かせていただきました。


最初は、著者自身が抱いている世界観の話にはじまります。


一見、「易システム」とは関係ないようにみえますが、「易システム」は著者の独自解釈による「易」であり、「易システム」自体、著者が抱く世界観の表明とみることもでき、そういう意味では一番基本になる部分といえるかもしれません。


世界観をふまえた上で、大成卦というまとまりに、ホロン、四元素、などの概念をオーバーラップさせ、「易システム」独自のキーワードを提案させていただきました。


さらに、ヴァジム・ゼランド氏による「トランサーフィン」シリーズ(徳間書店)のバリアントおよびバリアント空間というモデルを易卦に照らし合わせて展開し、多重現実的なものの観方を「易システム」にとりこめればと思い、試論ではありますがその具体的な方法と応用法を説明しています。
またそれとは別の次元で、十二消息卦を応用し、易卦を環状に配置した「ホイール」を利用して人生航路、輪廻の輪を俯瞰。


最後に、大成卦というホロンを拡大することによって、自己の境界が拡大していく様子をながめ、日常的に大成卦を観るときにその大成卦単体ではなく「各種マトリクス」の中における位置を考慮することを検討します。
この「各種マトリクス」には、前作、「易システム・ハンドブック」の中で提示したマスターマトリクスやツイストペア・ホイールも含まれますが、本書では生命関係学(バイオホロニクス)のモデルを参考に、銀河ツールである「20の銘板」からインスパイアされた「結合力のマトリクス(大成卦における互卦の関係から導かれる)」「共振のマトリクス(ベンジャミン・フランクリンの魔法陣から導かれる)」を示しました。


その他、本書作成時にストーリーに組み込めなかった、新しい先天図の創出に関する試論、ウスペンスキーの時間観と易システムにおけるバリアント空間の関連についての考察などをつけ加えてあります。

一部、ブログ(「ぼくは占い師じゃない」(本ブログ)の内容とオーバーラップしているところもありますが、ご容赦ください。
第一章までと、用語集、参考文献、索引までを試読できるようにしました。


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はじめに


 第I部 基礎


  第1章 神話?
   C嬢へ。
   人間の世界
   この世に意味はあるのか
   易卦のホロン構造


  第2章 四元素
   エレメントのこと
   無極
   両義
   四象
   エレメントの発生
   先天図の完成
   八卦―――エレメントから純卦へ
   先天大成卦
   ファウンデーション


  第3章 バリアント
   易システムとトランサーフィン
   バリアント空間
   現実化
   自己のモデル
   時間はどこから
   バリアント・モデルの周辺
   バリアント空間を易卦であらわす


 第II部 応用例


  第4章 ホイール
   人生の輪(WOL;ホイール・オブ・ライフ)
   OD をあてはめる~一般化された十二消長卦
   OD の例をあてはめ、WOL 全体を俯瞰する
   輪廻の輪(GW;グレート・ホイール)


  第5章 ホイール以外の応用例
   四元素をつかって易卦を読み解く
   バリアント・マトリクスをつかう


 第III部 大成卦をこえて


  第6章 大成卦をこえて
   自己の境界
   ファースト・オーダー(FO)
   有限と無限をむすぶもの


  第7章 全体のダイヤグラム
   全体のダイヤグラム


  第8章 得卦の居場所
   易システムおける「場所」
   結合力のマトリクス
   共振のマトリクス


 第IV部 補遺


  ツイストペア・ホイールと魂のテンプレート
  ライプニッツ・コードとファミリー
  易システムと時間の立方体
  先天図愚考


おわりに

用語集

参考文献

索引

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かみさんがシブい顔をしています。
どうしたのかときいてみたら、
職場にハンディカムを置きっぱなしだというのです。
ほんとは使ったらすぐに持って帰ってくるつもりだったらしいんですが、忙しさにかまけてすっかり忘れてしまっていた……どうもカギのかからないところに置きっぱなしにしたようで、結局は次に職場に行った機会に確認するしかないんですが、本人は気になって仕方ない。


じゃ、占ってみたら?


といったら、珍しくサイコロを振っていました。
で、やおらぼくの方を向くわけです。


これどういう意味?


自分がサイコロふったんだから、自分で読んでほしいものですが(「易システム・ハンドブック」も、さりげなく手の届くところに置いてある)、こういう時にさからうとこわいので、サイの目をのぞきます。


   ☆


頤の二爻で、損。
ぼくは占い師じゃない-頤の損へいく
真っ先に思い浮かんだのはあんまりよくないイメージで、「頤」はアゴのカタチであんぐり開いた口、びっくりしてポカンとしているような人を連想してしまいました。
つまり、あるべきところにあるものがなくて、「あら~」となっている構図です。ポカンと開かれた口にはなにも入っていません(二~五陰爻)。


頤卦の卦辞は、
「ただしくあればよし。他人の食べ方、食べるものをみて、自らの口を満たす。(拙作ハンドブックより)」。
二爻爻辞は、
「常識とは逆に、初に養われる。とはいえ、上に養われるには遠すぎる。すすんでことを起こすことなかれ。(同上)」
と、あります。
他の例にならうことと、意外性を示唆しているようにみえますが、釈然としません。
卦爻辞はこのケースではあまりあてにならないようです。


かみさんはもう、気になって仕方ない。
「どうなの!どうなの!」と、せまってきます。
卦爻辞はアテにならないとなると、卦のカタチと最初のイメージが頼りということになるのですが、カタチ(空っぽの口)とイメージ(なにもないことにびっくり)は明らかに、


「No!」


さりとてそれをそのまま、「ねえな」と冷たく伝えるわけにもいきません。なにせ相手は必死なのです。オーバーかもしれませんが、必死に「あるよ」という答えを期待しているのです。


アタマをかかえてしまいます(もちろん心の中で)。
ぼくはプロの鑑定家ではありません。
でもプロの方々も始終こんなジレンマに悩まされることは想像できます。
で、プロではないので、その辺の処理がうまくできずに……


「まあたぶん、大丈夫だよ」


と、テキトーなことを言ってしまいました。


ところで、風雷益という卦があります。
ぼくのとぼしい経験からいうと、失せもの占で風雷益が出たときはとりもどせないことが多い。
卦のカタチも、風雷益は、もともと天地否で四爻位にあった陽爻が、落とし物・忘れ物のようになって、初爻位に落ちてきたようにも観えます。


ぼくは占い師じゃない-否から益へ
かなり変則的な観方になりますが、この相談では、之卦が山沢損で、この倒卦が風雷益になります。つまり、風雷益(紛失)の反対(倒卦)が山沢損(失ったようにみえるがもどってくる)で……まあ、たぶん大丈夫だよ、ということにしたわけです。
かなり苦労して読んでいます。
之卦から観るなんていうのは、変則的……どころか、ほとんどこじつけ。


ぼくは占い師じゃない-益から損


でもやっぱり、


「ごめん、なくなってるわ」


とは言えませんでした。


ずるい言い方ですが、「まあ、たぶん大丈夫だよ」のあとにこうもつけ加えます。


「あ~でも、もし、思ってたところになかったら、どっかこう、なんでもいい、上の方をさがしてみるとあるかもよ、まあなんか積んであるものの天辺とか」


これは山沢損の卦のカタチから判断したものです。
損はもとの地天泰の三爻の陽爻が、上爻位に押し上げられたようにも観える卦で、ターゲットが上の方にあることを示しているようにもみえます。
上卦「艮」は山、高いところ、もりあがった場所・もの。


ぼくは占い師じゃない-泰から損へ

かみさんは一応は安心したようでしたが……
相談者が落ち着いたのならそれでよしとするか。


まあ、アマチュアはこんなもんです。


   ☆


結局、ハンディカムは無事でした。
ただし、かみさんが思ったところになかったそうです。


どっか「上」の方にあったでしょ??


と勢い込んできいてしまいました。

最初は、あ、ない!と思ってびっくりしたそうですが、引き出しの手前の方から「奥」へと、引き出しの開け閉めやアクセスによって、押しやられていたそうです。


ない!と思ったところまでは、あんぐり・びっくりで、「頤」。之卦の山沢損は、そうか、上爻は、上は上でも、引き出しの中の「上」、天辺=奥と観るべきだったんですね。
三次元方向の「上」ではなく、二次元方向の「上」。向こう側・奥。


あたらずといえども遠からず。
ま、あったんだから、いいか。
しかし、易はおもしろいです。

昨年の冬至、12月21日の朝。


いつものように午前7時過ぎに起きたら、空が金色でとてもきれいでした。
写真でも撮ろうと思ってケータイを取り出したら、おあつらえむきに飛行機が雲を引きながら空を横切っていきます。


ベランダに出てシャッターを切って、


ぼくは占い師じゃない-20121221_071808.jpg
【2012年12月21日07時18分08秒】


フレーミングが気に食わないので、もう一枚。


ぼくは占い師じゃない-20121221_071815.jpg
【2012年12月21日07時18分15秒】


リビングにひっこんでとれた絵を見てみると、飛行機雲といっしょになんだか発光体様のものが写り込んでいました。
肉眼ではぜんぜん気づきませんでしたが星かなにかかなあ、と、もういちど同じところから写真を撮りました。


ぼくは占い師じゃない-20121221_072154.jpg
【2012年12月21日07時21分54秒】


最初の二枚を撮ってから3分ほどたっていますが、その間に陽は少し高くなり飛行機雲は消えています。


発光体様のものはやっぱり消えてるかな……と思ったのですが、写真をよーくみてみると右の方に「移動」して、フェードアウトしていくように薄く写っていました。
もちろん肉眼ではなにもわかりませんでした。


なんだろうなあ。これ。


かみさんに見せたら、


「レンズのゴミ」


だって。


   ☆


なんだろう、なんだろうといっていないで、易にきいてみることにします。


ぼくは占い師じゃない-higo

「賁」の五。


おっと、かみさんのいうとおりかも。


易卦の観方にはおおきく分けて、辞占(卦爻辞で占う)、象占(卦爻のカタチを観る)、八卦占(八卦の意味から占う)などがありまして、たいがいそれらの複合で判断しますが、まずはなにはともあれ、卦全体の意味を観なければなりません。


「賁」は、かざり、身にまとうもの、アクセサリーなどの意ですが、そのままでは回答になっていません。
ということで、そこから少しイメージを働かせて身体(本体)にくっつくもの、と、観たわけです。
下卦の離にも同様の意味がありますが、離には付着という意味もあります。
総じて観ると、ちゃらちゃらまとわりつく感じ。
でまあ、レンズについた(付着した)ゴミ、ということになるわけです。


なあんだ、で終わりでもいいんですが、もう少しつっこんで観てみます。手前味噌で恐縮ですが、拙作ハンドブック「賁」の卦辞をみてみます。


「路はひらけるが、飾りすぎや大事はさける。」


適度な飾りはいいけど、やりすぎはNGだ、と。
こういうブログなどで、やれUFOだなんだなどと騒がないこと、と、易は言っているようにも思えます。


八卦の意味を観ます。
この観方はよく紛失占とか、射覆(「せきふ」。易による当てっこゲーム)などで使います。


上卦は艮で、静止、「動かないもの」。
下卦は離で、付着、「くっついたもの」。


レンズについたホコリってことでしょう。
五爻変ですから、上卦艮は巽になります。
巽は風ですから、風で飛んできたホコリとも観えます。
巽には「伏入」=そっと入り込む、という意味も。


まあ、夢のないことです。
実体はともかく、易のカミサマはそういう意見。


とはいえ、画面上を動いているようにも見えるし、心情的には、ホコリよりも、なんかもう少し夢のあるものと思いたいところ。
視角的には、けっこう大きそうですので、ひょっとしたら空で飛行しているものではなくて、もっと手前にあるオーブみたいなものだったのかもしれません。


みなさんはどう判断されるでしょうか。


   ☆


PS.


ちなみに、賁の五の爻辞は、


「丘や園を飾る。引き出物は質素だが、飾りすぎず、かえってとがめられることなく、よろしい。」


「丘や園」は今回の文脈では、広大なフィールド=インターネットと観ます。
「丘や園を飾る。」=すなわちインターネットに記事をアップロードすること、というわけです。
「引き出物」はブログの読者が得るもの、お持ち帰りになるものです。
「質素」なわけですから、読んだ人もまあたいして得るものもなかろうと。
「飾りすぎず、かえってとがめられることなく、よろしい。」
……というのは……
これじゃ自画自賛になっちゃいますね。
失礼しました。

☆ はじめに

前回の続きです。

ファースト、セカンド、サードときて、
もう終点なんですが、宇宙に終点は……
たぶんありませんよね。

なんかクリスマスらしい話でもできればいいんですが……
そうはならないだろうなあ。

タイトルは昔読んだ、同名のSF小説から。


☆ 最初の瞬間

上には上がある。

ぼくは占い師じゃない-first
【最初の瞬間、バリアント空間】

このレベルになると、
さらに語る言葉は少なくなる……
というより、言葉は力を失い、
なんの意味も持たなくなるだろう。

図は、ボーネル氏のヴィジョンを参考にしているので
キリスト教的文脈にしたがって三位一体の形式で描いた。

コメントしておきたいのは、
バリアント空間 はこのレベルにあるということだ。

バリアント空間は創造主体(キリスト教文脈でいう図の「父」)の「夢」であり「プラン」だ。
この「夢」もしくは「プラン」は、ハンドブックにおいて「無極」として定義したもので、本源が特殊化したものである。

物質世界はこのレベルに格納された鋳型にしたがって展開していく。

創造主体は、さらに上のレベルのだれかから区分された本源をわたされ、夢見ることを許された。
そこで、創造主体は、区分された本源というフィールドを、バリアント空間という「夢」、「スペース」であり、「光」で満たしたのである。

「夢」は「夢」であり実体を持たない。

これを実体化(物質化)するのはぼくら個別化した生命の意識の役目なのだが……その方法と実体化すバリアントの選択順は自由意志という奇妙なルールにまかせられている。

オチはこうだ。

バリアントの選択をくりかえすぼくらが、実は、その創造主体なのである。

創造主体は、創造主体自身をずいぶん変わったやり方で味わうことにしたものだと思う。

ところで、三位一体というフレームはキリスト教文脈独特のもので、かつ便宜的なもの、と思っていた。
でも、易システムにこのフレームを当てはめるとしたらどうなるだろう……などと考えていたら、この「3」というパターンがどうしてなかなか根源的なものではないか、という気もしてくる。

易は一般に陰陽二元論であるといわれる。

二元論は、有限で三次元的な現実世界においてもっとも基本となる認識フレームだ。

もちろん、三次元世界がすべてではない。

すべてではないどころか、三次元世界は結果(用)の世界であり本源からすれば極々一部の薄い皮膜のような、陽炎(投影)のようなものだ。にもかかわらずゲームのルールにより、ぼくらはその幻影に縛りつけられている……
と、多くの伝統が語っているとおりのものであるとすれば、
実際はそれ以前の高次元世界こそが元因(体)であり、実体であり、本当の現実世界なのであるとはいえまいか。

いや、多くの伝統はそうであるといっているのだ。

これが意味するのは、陰陽は終着なのではなく、さらにその大本の、陰陽という単位から観れば「統合原理」とでも映るような次元があり、そこが、そここそが、本来の故郷であるということだ。

易的文脈で三位一体を描くとするならたとえば次のようなイメージになるだろう。

ぼくは占い師じゃない-trinity
【「統合原理=太極図、能動原理=陽、受動原理=陰」の三位一体】

「統合原理」は大いなる喜びをもって、「能動原理」と「受動原理」に自ずからを多重投影し、それらを創造の原動力とする。

エネルギー(トライアード)である能動原理は、衝動である受動原理に受け止められ、活動する。
受動原理(受け取り、創造する衝動、増殖)はボーネル氏のヴィジョンでいうダイアードであり、易システムは主にダイアードが進化する様子を記述する。

この流れでいえば現実世界の根源は「陰、受動、器」、この世の始まりは女性原理であり、このルーツは大地母神の元型と呼応する。
これは一見、前回 紹介したTOが男性女性の統合原理であることと矛盾するようにみえるかもしれない。

だけど、この宇宙の根源が器・深淵(女性原理)であることはなにをおいても東洋的で、そこにある種の安定を感じるのは筆者だけだろうか。


「谷神は死せず。是を玄牝と謂う。
玄牝の門、これを天地の根と謂う。
綿綿として存するが若(ごと)く、
之を用いて勤(つ)きず。」

(老子 第六章(「「老子」蜂谷邦夫訳注 岩波文庫」より))


創造は「1・2・3」とお行儀よく開始されたのではなく、
「1、3、多!」と爆発的に、急激に膨張するようになされたのである。


☆ メモリー

ぼくは占い師じゃない-memory
【メモリー。個人の記憶、アカシックからそれ以上】

以上述べてきたレベルはいずれも、さまざまなバージョンのあなたであり、わたしである。

各階層に、経験されたデータの保管庫である「メモリー」が描かれていることには、すでにお気づきになっていると思う。
いわゆる「アカシック」といわれるレベルは、惑星単位、すなわちFO で示される階層に付随したものだが、メモリーはここで終わっているわけではない。アカシックがすべてで終着……ではない。

各レベルに応じたメモリーが互いを包含するように重なり合い、連なり合っていて、最終的にデータはバリアント空間にフィードバックされる。

この意味で、バリアント空間は巨大な「メモリー」といえるかもしれない。バリアント空間は、夢であり、メモリーであり、鋳型(イデア)なのだ。


☆ 創造以前

ぼくは占い師じゃない-alef
【本源、逃げも隠れもしない(できない)すべて】

さてお話は(とりあえずは)いくつくところまでいきついてしまった感がある。

呼び方はいろいろあると思うが、創造主体であるところの……図では「意識」あるいは「父」となっているものは、易システムで「本源」としたすべてのおおもとと同等のものなのだろうか。

それがどうやら……ものの本などを参照してみたりすると、ちがうらしいのだ。上には上があるというわけで、創造主体はイコール本源ではない。

ユニバースに対する「マルチバース」という言葉が示すとおり、創造主体はひとつではなく、したがって宇宙もたったひとつ、わたしたちのいるところだけではないとすると、本源はさらにその背景に遠のいていってしまう。

結局、「そこ」にたどりつくことはないのかもしれない。
どのみち、終点のある宇宙ほどつまらないものもないだろうという気もしないではない。

かくて、ゲームはあくこともなく続けられていく……

……んでしょうなあ。

☆ まくら

前回の続きですが……さっそく本題に。


☆ ツイストペア

易システムでは各爻の陰陽を反転してできる大成卦と、元の大成卦の組(ペア)を想定し、この組み合わせをツイストペアと呼ぶ。

このツイストペアが「見えない中心」を創りだし、それが自己の境界を拡大する足がかりになる話は「日本酒とツイストペア 」でも書いた。

このレベルは自己の境界が、皮膚で区分された肉体というレベルから初めてはなれていく段階であり、データ(経験)が蓄積されるメモリーは、個人的な記憶から、複数の個人で共有するなんらかの形式(グループのきまり、ふたりの約束、家訓、社風、一族の記憶・伝統など)へとひろがる。

ぼくは占い師じゃない-tp
【ツイストペアのレベル。見えない中心の形成と自己境界の拡大のはじまり】


☆ ファースト・オーダー(FO)

さらに、ツイストペアどうしがメッセージ交換 を行うと、別のツイストペアを生む。
このふたつのツイストペア、4つの大成卦で構成されるグループをファースト・オーダー と呼ぶ。

ぼくは占い師じゃない-fo
【FOのレベル。民族、国家、惑星意識。元型、集合的無意識、アカシック】

中心に示した「FO01、FO06、FO11、FO16」のグループは、純卦どうしのツイストペアがメッセージ交換を行って先天大成卦を生むプロセスであり、易システムでは純卦と先天大成卦をあわせて「ファウンデーション(基盤)」と呼ぶ。


☆ セカンド・オーダー(SO)

ゲリー・ボーネル氏のビジョンによれば、ダイアードは当初、特定の恒星系をはなれることはできない。トライアードのサポートによってか、あるいは自分で進化/深化することによって、レベルアップしてはじめて他の恒星系に移動することができるようになるという。

ぼくは占い師じゃない-so
【SOレベル。恒星系意識】

つまり、基本的にはダイアードは特定の惑星/恒星系にひもづいているわけだ。

一方、易システムは前回 書いたとおり主にダイアード意識の進化を記述するものであり、したがって、易システムとしてどうにかこうにか具体的・実用的な意味をもつのもこのレベルまで、ということになる。

符号的には、八卦版ツイストペアの関係にある八卦をその下卦にもつ2つのファミリーがあつまって、ひとつのセカンド・オーダー(SO)を構成する。

「ファミリー」は共通の下卦をもつ大成卦の集合で、システム全体では「乾兌離震巽坎艮坤」で8つのファミリーがあり、おのおののファミリーには8つの大成卦が含まれる。


☆ サード・オーダー(TO)

ぼくは占い師じゃない-to
【TOレベル。銀河系意識】

このレベルになると語る言葉はほとんどない。

符号的説明をコメントしておく。

このブログでは説明していないが、易システムでは、八卦を以下のように四元素にあてはめる。
それぞれの元素は先天図上で隣り合った八卦どうしである。

すなわち、

○ 乾・兌=風
○ 離・震=火
○ 巽・坎=水
○ 艮・坤=地

TO はさらに、この四元素のペアを下卦にもつファミリー大成卦の集合になる。

◎ TO1 =火・水
(火または水の八卦を下卦にもつ大成卦の集合)

◎  TO2 =風・地
(風または地の八卦を下卦にもつ大成卦の集合)

一般的にいって火(太陽)と風(天)は男性原理であり、水(太陰、月)と地(大地)は女性原理である。したがって、TO1、TO2 はそれぞれに男性原理、女性原理が配分されていることになる。その意味で、TO1、TO2 は男性・女性をこえたある種の統合原理といえるかもしれない。


☆ まとめ。というか……まとまんない。

さて、大成卦からはじまって、TP、FO、SO、TO……ときたわけだが、それぞれの「境界」がマスターマトリクス上でどのように展開するかを示しておこう。

ぼくは占い師じゃない-mm
【マスターマトリクス上のFO、SO、TO】

ご参考まで、というところだが、易システムを使用するかぎりにおいては、描写の対象がなんであろうとこの範囲から出ることはない。

64卦、384爻。

それがすべてであり、孫悟空が右往左往した釈迦のたなごころである。
なにも足されることもなければ、なにも引かれることもない。
そこから出て行ったものはいなし、そこへ入ってきたものもいない。

易システムから眺めるかぎり、
ぼくたちはそんな「世界」に住んでいる。