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ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

妙なタイトルになった。
ふつうは得卦だけ観てればいいと思う。
それが基本だ。
問いを立て、筮を立てる。
卦爻辞をみて、卦の象を観て、得卦を読む。

なにか問題でも?


◆ 派生卦

そのこと自体別に問題はない。
くりかえすが、それが基本である。
問題はないが、時には之卦(伏卦)も観る。
場合によっては倒卦、裏卦を観ることもある。
これらは占って得られた卦=本卦から派生する卦である(*1)。

之卦は最も代表的かつ重要な派生卦だ。
特定の本卦から派生する之卦のバリエーションは、略筮法では6種類、中筮、本筮法では63種類、変爻なしのパターン(本卦=之卦)を勘定に入れるなら64種類になる。

占ってひとつの卦を得て、
その卦を観るのはたしかに基本ではある。

だけど、之卦にかぎらないけど、時にはあれこれ派生卦も観るということは、広げて考えれば結局、得卦以外の63卦も同時に観ているとはいえまいか。


◆ ウラナウということ

問いが立った時点では、まだ得卦は確定していない。
回答は64種類の蓋然性の海の中に遍在している。

筮竹をさばくか、サイをふるか、あるいはコインを投げた時点で、64種類の蓋然性はひとつの卦に収束、粒子化する。

一見、他とは関係なく孤立して観えるこの粒子は、もともと多重的重層的に遍くいきわたっていた存在、大げさにいえば、ぼくらがその一部でもあるこの宇宙が、その問いに答えるべく、その時、一時的に、仮に、凝集化したものともいえないだろうか

問いに対する答えとしては、確かにその時得られた卦であり、その卦、得卦にフォーカスするべきだろう(さもなければ卦を立てる意味がない)。

だけど、そのバックグラウンドには、その得卦「以外の」63の卦があることを常に意識しておくことは、占断に深みをもたらす上でも大切なことだとも思う(*2)。


◆ さまざまな地図

とはいえ、他の63卦は「どのように」本卦の背後に存在しているのか。

言い換えると、得卦である本卦は、他の63卦といかなる関係のもとに存在しているのか。

これがはっきりしないと、ただたんに「他の63卦を意識せよ」といわれてもつかみ所のない話になってしまう。

そこで易システムでは、「マトリクス」や「テンプレート」、「ホイール」など銘打って、特定の大成卦と他の複数の大成卦の関係を示すさまざま地図のバリエーションをつくったわけだが……

どの地図もある特定の卦、たとえば占って得られた特定の大成卦と他の大成卦の関係性と、それにともなう意味を示している。

これらの地図の間に優劣はない。

「優劣はない」とはいっても、カナメになる地図はある。
易システムにおいては、ざっと次のとおり。

(1) マスターマトリクス
「乾兌離震巽坎艮坤(易数順。先天図より)」の並びで上下卦を組み合わせたマトリクス(「易システムハンドブック」で提示)。易システムにおいてもっとも基本となる地図。

mm

【マスターマトリクス】

(2) ツイストペア・ホイール
中心から両儀、四象、八卦、純卦、先天大成卦、その他の卦の順で階層化した円形ダイヤグラム。
向かいあった卦は互いに裏卦(インバース)の関係にある(「易システムハンドブック」で提示)。

tph

【ツイストペア・ホイール】

(3) バリアント・マトリクス
ある特定の卦を基準として、その卦から他の63卦への至りにくさ(裏をかえせば「至りやすさ」)をあらわしたマトリクス(「風と羅針盤で提示)。

バリアント

【バリアント・マトリクス。上の絵は「88:坤為地」と「11:乾為天」間にある他の62卦の距離関係をあらわす】

「易システムハンッドブック」では「テンプレート(*3)」というダイヤグラムを提示させていただいたが、これは(2)ツイストペア・ホイールからの派生パターンとみなすことができる。

各「テンプレート」におけるOD、N、Gは「ツイストペア・ホイール」におけるファミリ—で区切られた扇形部分(パイの切れ端)に相当するのである。Iは、中心をはさんでODの反対側になる。

また、「風と羅針盤」では、FO、SO、TOといったグループを提示させていただいた。
まあこれも地図といえば地図なのだが、マスターマトリクス上の関係性に基づいたカテゴリーともとれ、その意味ではマスターマトリクスから派生したものだ。

fosoto

【マスターマトリクス上のFO、SO、TO】

その他は「フランクリン・マトリクス」や「結合力のマトリクス」などといった地図を「風と羅針盤」の中で提示させていただいたが、これらはどちらかといえば付随的な地図である。


◆ 地図ばっかつくって、ちゃんと使ってんの??

とせまられると、これがてんで頼りない。
正直にいうと現在のところ、
ほとんど使った実績がないのである。

なんでか、ということを自分なりに考えてみると、日常生活上のささいな問いについては、他の大成卦との関連を意識する以前に、得卦と、之卦をはじめとした、あとひとつくらいの派生卦を読むことで、充分に事足りてしまうということ、そしてたいがいは、日常生活のささいな問いにシステムを使っているという現状があるからだろう。

では、地図には意味がないのだろうか。

たしかにガイドブックだけたくさん持ってても、現地に行かなければ何の意味もない、という見解にも一理ある。

では、ホントーに、「まったく」「なーんの」意味もないのか、意義は皆無なのかといえば、それはそうでもなかろう。

回答に直接的に応用されることがなかったとしても、易卦を個々の分離されたものとしてではなく「空間的に(*4)」おさえておくことは、かならずその占断の行間を埋めることにつながる。

あ、いや、少なくともぼくはそう信じている。

だからこうして地図をつくり続けて……

いまはちょっと一段落している。

……と、ここまで書いて最後に、

現状のままではとても地図が使いやすい(参照しやすい)状態になっているとはいえないことに気づいたりもしている。

うーん、まだまだ。

なーんて言っているうちに、
あっと言う間に歳だけはとっていく。
そして、時間だけは過ぎていくんだけど。


--------------------

*1
「之卦」「倒卦」「裏卦」
之卦は変爻の陰陽を反転してできる卦。
倒卦は爻の並びを反転(リバース)してできる卦。
裏卦は各爻の陰陽を反転(インバース)してできる卦。

*2
「得卦以外の63卦」
見えないものは切り捨ててもいいのか。
CDアルバムに載った曲よりMP3にリッピングした曲の方がペラく聞こえるのは、容量を節約するために(圧縮率をあげるために)、通常人間には聞こえないであろう周波数帯域の音がカットされるからである。明示的にそこに現れていないものをカットするのは、近似として割り切って行うぶんにはいいかもしれないが、リアリティは確実に軽く、薄くなる。かくし味に塩が入っていないおしるこは間が抜けている。

*3
テンプレートにおいて、ある卦から導かれる3つの卦とは、ツイストペア・ホイールで周辺部から中心に向かって並んだ先天大成卦(N)、純卦(G)、およびホイール上で反対側にあるツイストペアのことである。

*4
「空間的把握」
ここでいう「空間」は、かさのある三次元的広がりという日常的意味もあるが、さまざまな複数の構成要素が、ある関係のもとにリンクしているその関係性のネットワークといった意味合いの方が強いかもしれない。

以前から行きたい展覧会がありました。

だけどいろいろあって、ちょっとそれどころではないな~という期間が何日か。

一段落しそうなある夜。

じゃ、明日はその展覧会に行ってみてはどうだろう。

そう思ってサイをふって得た卦が、「41:大壮」の上爻変でした。
之卦は「31:大有」になります。

taisoutotaiyuu

【「大壮」の「大有」に之く】

行った方がいいんでしょうか。
それともまだ早いのでしょうか。

ぼくは「大壮」という卦に出会うと、まず思い描くのが、鳴り物入りといいますか、から騒ぎといいますか、「おおげさ」で内実がともなっていないというイメージです。

目当ての展覧会がそうだということなのでしょうか。
そうだとしたらちょっと残念です。

判断はいろいろ想い浮かんだのですが、展覧会の内容うんぬんではなく、結局、ぼくの方が「いさみ足」なのではないかと、そんな気がしてきました。

だいたい「展覧会にいくかいかないか」なんてなことで、いちいちサイを振っていること自体、落ち着いて出かける心境ではない証拠ではないでしょうか。

この「大壮」という卦、よくみてみますと、天(下卦、乾)の上に雷(上卦、震)があります。

天より高い所で鳴る雷。

天=空と観るなら、上空遠くで鳴っている雷、遠雷です。

なにかにぎやかな感じもします。

にぎやか、お囃子、祭り。

展覧会も、まあ、祭りのようなものではないか。

そうすると、どこか遠くの方でやっているお祭りということになります。
風に乗って篠笛の音が聞こえてきそうです。
自分はこちら側にいて、お祭りのことを思っているわけです。

爻辞をみてみます。

上爻。

「生垣につっこむオス羊、角をとられ、進めもせず、もどれもせず。よいことなしだが、くるしみなやめばやがてひらける。(拙作ハンドブックより)」

やっぱり勇み足ですねえ。
こりゃ家にいた方がよさそうだ。

之卦は「31:大有」です。

これも盛大な卦ですが、内実がともなっていて、とてもいい感じです。
おおいなる収穫。

之卦ですから、「大壮」がやがてそうなる(「大有」になる)ということでしょうか。

得られた爻を変じてできる派生卦は、「之卦」というふうに呼ぶから、なりゆきのように観えるのかもしれません。
というより、「なりゆき」として観た場合に「之卦」呼ばれるのではないでしょうか。

そこのところはよくわかりません。

以前に、毎月一回、二年ほど通った易の先生の所では之卦とは呼ばずに「伏卦」と言っていました。

「伏卦」。

本卦に対して、伏在している卦です。

「なりゆき」かもしれないし、本卦に対する「コメント」かもしれない。
伏卦といった場合、いったいそれが何を意味しているのかは占断の文脈によります。

「之卦」といってしまうより「伏卦」と呼んだ方が、特定の観方にひきずられることがなく、応用範囲が広がるでしょう。

この例の場合は本卦「大壮」に対して、「大有」が可能性として伏在していると観ることはできないでしょうか。

そうだとしたら、問いに対する答えは、今はまだ出かけるタイミングではないが、展覧会に行くこと自体は、大きな収穫をもたらす可能性がある……というふうに観えました。

とりあえずでかけるのはヤメにしておきます。
今回は、本卦周辺にさまざまな連想を広げて判断しました。

   ☆

ところで話は変わりますが、俳句の世界に「歳時記」というものがあります。「季寄せ」ともよばれますが、季語集のことです。

季語は、俳句を創る人たちの間の共有財産で、時代や時の流れによって語句が追加されたりもしますが、季語認定委員会とか標準化基準といった権威があるわけではなくて、ここがまたいいとこなんですが、ゆるやかな合意のもとに、まるでイキモノのようにまとまっていて、それが時代から時代へとバトンタッチされていきます。

なんでそんな話をしたかというと、易の世界でもそんなものがあったらおもしろいかなあ……
と、ふと想ったからです。

大成卦周辺のイメージをまとめた「易卦の歳時記」ってとこです。

とはいえ、大成卦には卦の名称と卦爻辞という歴然とした決まりごとがあるわけで。

え?「易卦の歳時記」って結局、各易卦の解釈?
それなら、本屋さんの占いのコーナーに行けば売ってるよ……

と言われるかもしれません。

一般的な易占の本は、粗っぽくいえば、各易卦についてのその著者の吉凶を含む解釈です。

「易卦の歳時記」の方はそうではなくて、解釈、吉凶判断に至る以前のイメージ集といった想定です。
まあ、易卦の場合は特に季節とは関わりのないこともあるわけで、「歳時」記っていういい方も変なんですが。

たとえば、今回の占例、「大壮」では、「勇み足」「遠雷」「遠くから聞こえるお囃子」といったイメージで解釈しましたが、そんなイメージ集を一般化してまとめて、共有財産的に受け継いでいったりできたらおもしろいんじゃないかと……

まあ、そうはいっても、そんなことしたらイメージを固定化させて占断の自由を奪ってしまいそうな気もするし、一般化といったって、俳句をやる人より易をやる人は格段に少ないだろうし、季語は俳句に原則必須な約束事で、占断における易卦の周辺イメージってのは、俳句における季語の位置づけとはまたちがう気もするし……

ちょっと非現実的かな。

やるんなら、まずは個人的にやった方がいいかもしれません。

占断をくりかえしながら、その過程で、追加したり修正したりしながら、自分なりの各卦の周辺イメージ集をつくっていく……

そんな「歳時記」をまとめることができたら、それはあなた固有の各易卦とあなたとの「つながり」ということになります。

本のようなカタチにはなってなくても、易という言語を使う人なら、経験による語彙の多寡はあるでしょうが、皆、ココロの中にこの「易卦の歳時記」を持っているはずです。

もしも、易を一生の友としていくなら、この歳時記は一生かけて育て上げていくものなのでしょう。

実はこれ、占術が変わっても同じことです。

カードの図像や、星の配置、掌のしわのパターン、等々。

無数にある象徴と占者との固有の関係。
ラポールといってもいいかもしれません。
このつながりが豊富であればあるほど、その占者は豊かな判断ができる、ということになるでしょう。

願わくば、ぼくの「歳時記」も豊穣ならんことを。


タイトルのような本を書きました……

というのは、前回お知らせさせていただきました。

前回のお知らせでは、電子本ということで紹介させていただきましたが、調子に乗って、紙の本を作ってしまいました。

omotabook

B5版(小さいレポート用紙)の冊子(81ページ)です。
例によってオンデマンド(受注生産)のコピー製本なので、高いです。

1冊、1400円(送料別)です。
1400円というのは実費です、すいません。

買ってもいいよ、
というご奇特な方がいらっしゃいましたら、

oyanokao@gmail.com(半角で)

まで、よろしくお願いいたします。

多少ネタバレになってしまいますが……
と、勿体をつけるほどのものでもないのですが、
前回とは多少ちがった観点から。

   *

物語の骨子は、「旅の先天図」で書かせていただいたプロセスを踏襲しています。

8つに分かれている各章は旅の先天図における、8つの段階に対応しています。

「旅の先天図」は、あらゆる物語の母体である、というつもりで想定したものですから、「ホノワール・オモタ氏」のお話にも当然、適用できてしかるべき、というわけです。

まあそんな、実験的な創作でもあります。

端的に言って、書くことは、アクティブ・イマジネーション(「旅する小舟」参照)の一種です。
そういう意味では、お話というより、ぼくの心の動き……
だったのかもしれません。

お前の心の動きなんぞどうでもええわい。

と思われる向きも多々あるかもしれませんが、集合的無意識という基層を考慮するなら、個々人の心は個々人のものでありながら、そうではなく……すべての人々に共通のものでもあるのではないでしょうか。

お話の中には元型的なモチーフやシンボルがいくつか登場します。

元型イメージだとわかっていてお話に入れこんだものもあれば、後から元型的であることに気づいたものもあります。
お話のテーマのひとつに「対」ということがありますが、「対」であることは易の基本原理であると同時に、それ自体、元型イメージでもあります。

自分の作品について、ああだこうだと自分で説明し、ふれまわることほど野暮なことはないともいいます。

ああだこうだと書きすぎないうちに。

今回はこのへんで。


お話を書きました。

   ☆

電子書籍です。
下のお店から315円で。

こちら

「BinB」は、

ボイジャー (Voyager Japan, Inc.)の電子書籍販売サイトです。
BinBでは専用ソフト(ビュワー、リーダーなど)は必要ありません。くわしくはサイト内の説明をごらんください。

   ☆

内容は、易に関係があることはあるのですが、
特に「易」や、「易システム」という
名前が出てくるわけではありません。

タイトルは、

「ホノワール・オモタ氏の
   ほんとうのこと、
      または、でたらめの話」

です。

もさっとしたタイトルです。
もさっとしたおじさんが主人公だからです。
これが主人公のもさっとしたおじさんです。

omots


このおじさん、もさっとしていますので、

・冒険はありません。
・ロマンスもありません。
・魔法はありません。
・戦闘もありません。

   ☆

電子書籍販売サイトに載せたあらすじです。

『カタドウリという国の、カタドウリ・ラジオニクス社という電機メーカーに勤めるホノワール氏は、どこにでもいそうな、ちょっとさえないサラリーマン。
娘も息子もおおきくなって、とくに不満はないけれど、何となく疲れた日々をおくっています。
ある日、古本屋でみつけた占いの書に導かれるようにして、ホノワール氏は初めて、カイシャをサボろうと思いつき、わざと電車を寝過ごして着いた先は……
「カタ」と呼ばれる見ず知らずの不思議な場所でした。
見ず知らずではありますが、なんとなくなつかしい感じがするその「カタ」に、はたしてホノワール氏の居場所はあるのでしょうか。
いや、それより、ホノワール氏は無事に家に帰ることができるのでしょうか。』

  ☆

登場人物です。
●は主要な登場人物です。

● ホノワール・オモタ
カタドウリ・ラジオニクス社、部品管理部部長。
さえないサラリーマン。

○ マリア・オモタ
ホノワール氏の妻。

○ マリアール・オモタ
ホノワール氏の長女。大学四年生。

○ アカツキ・オモタ
ホノワール氏の長男。短大二年生。

● リョウ・ザンガン
カタドウリ・ラジオニクス社、開発部部長。
ホノワール氏の友人。

● ラム・ザガン
カタ・エレキテール社、開発部部長。
やり手のサラリーマン。

○ クレア・ザガン
ラム・ザガン氏の妻。

● ユウキ・シンダイ
カタ中央大学学長。均衡技術研究所所長。
 
   ☆

目次です。

第1章 わが家
第2章 カタドウリ・ラジオニクス社
第3章 カタ
第4章 カタ・エレキテール社
第5章 均衡技術研究所
第6章 世界樹
第7章 天の道
第8章 天地のはざま

そんなに長くありません。
登場人物も少ないです。
小一時間もあれば読めます。

ボリュームは、表紙や目次をのぞいて、
正味80ページ(1ページ=51文字×21行)もないくらい。

電子本はボリューム表現がむつかしいですね。

いいかえると、

B5(小さいレポート用紙の大きさ)で、
厚さはだいたい5ミリくらい。

   ☆

上記電子書籍販売サイトでは、
立ち読みもできます。

主人公のおじさんが、
にくめないなーと思ったら、

ドウゾヨロシク。

もうひとつの「聖婚のダイヤグラム」のお話です。
よろしくお願いいたします。

   ☆

なんらかの事象が起こっているとして、
いかなる事象であれその事象にはかならず、
眼に見える側面と、眼に見えない側面とがある。

通常話題にされるのは眼に見える側面であり、
眼に見えない側面が取りざたされることは、
ふつうは、ない。

ぼくはプロの鑑定家ではないけれども、
たまには相談者がいる状態で占うこともあって、
そこで「83:地火明夷」という卦を得たことがあった。

「明夷」は大地の下に太陽が隠れたカタチである。

伝統的な易ではそんな観方はしないと思うが、
もしこの太陽=「離」がだんだんに昇ってくるとしたら、
そのパターンはどんな意味になるだろう……

そんなことを想った。

「明夷」の下卦である太陽を象徴する「離」が、
全陰の「88:坤為地」を「図と地」の「地=背景」として、
ひとつずつ爻位あげていくとしたら……

状態遷移のパターンはシンプルなもの。

それは「明夷」からはじまって、
「解」→「蹇」→「晋」とすすむ。

ph1

【坤為地を背景に離(網かけ部分)が上昇】

で? そこから先は?

太陽(「離」)は地(「坤」)の上に昇りきって、
「38:晋」となっておしまいなのだろうか。

そんなはずはないだろう。

「晋」は「すすむ」の意味であって、
夜はまだ明けたばかりといった段階である。
地平線(坤)の上にようやく頭をみせはじめた太陽(離)。
先があってしかるべきだ。

ところで、「易システム」においては、
すべてはなんらかのルールにおいて対称である。

「88:坤為地」を「地」として昇りきった太陽(「離」)は、
今度は「88:坤為地」と対称(インバース)である
「11:乾為天」を「地」として上昇を開始するとしたら……?

だとしたらこんどは、
「地」が乾で太陽(「離」)が一番下にある象、
「13:天火同人」からスタートすることになる。
太陽は「11:乾為天」を「地」として
一段階づつ爻位をあげていく。
その様子は次のようになる。

ph2

【乾為天を地に離が上昇】

最後は「31:火天大有」。これより上はない。
太陽(「離」)は、なにしろ天(「乾」)よりも高く
昇ってしまったのだ。

「明夷」から「大有」まで、

「離」が、
「坤」を地として、
次に「乾」を地として、
上昇していく様子を眺めてきた。

いままで述べてきたのが眼に見える側面だ。

易システムではすべては対称である。

眼に見える側面における運動には、
眼に見えない側面における運動がともなう。
この場合、眼に見えない側面では
どうなっているのだろう。

そこでは「離」と対称(インバース)の「坎」が、
まず「乾」を地として、次に「坤」を地として、
この「裏側」の流れでは「下降」していた
……と想像することはできないだろうか。

その様子は次のようになる。

moondown

【坎(月)の下降】

「離」(太陽)の上昇と、「坎」(月)の下降。
この上昇と下降をあわせて表現すると、
たとえば次のようになるだろう。

seikon2

【太陽(離)の上昇とその背後で同時におこる月(坎)の下降】

以下、簡単に図の観方を。

スタート地点は、「83:地火明夷」。
図では左下の白い太い矢印で示してある。

ここから「地」を「88:坤」として
「離(太陽/硫黄)」が上昇していく段階が
図上で「Ph1」と示した部分である。

「Ph1」はその後、「地」を「11:乾」として
「離」が上昇していく「Ph2」に移行し、
最終的には角丸四角形で囲った「31:火天大有」に至る。

一方、
「Ph1」→「Ph2」の流れはその背後で全く同時に、
「Ph1'」→「Ph2'」の流れを生む。

「Ph1'」のスタート地点は、「61:水天需」。
図では右上の破線の矢印で示してある。

「Ph1'」は、「地」を「11:乾」として
「坎(月/水銀)」が下降していく流れであり、
「Ph2'」はその後、「地」を「88:坤」として
「坎」が下降していく流れで、
最終的には角丸四角形で囲った「86:地水師」に至る。

対称性はいたるところにみられる。
(ていうか、そのように描いたのだが)

まず、各大成卦は破線でつないだ大成卦どうしが
ツイストペア(裏卦)の関係。

太極図を中心に実線でつないだ大成卦どうしは、
「離の上昇」、「坎の下降」というプロセスの
各段階において表裏対応する。

図の上半分は、「地」=「11:乾」、
下半分は、「地」=「88:坤」の領域である。

左半分は「Ph1」→「Ph2」=離(太陽)の上昇、
右半分「Ph1'」→「Ph2'」=坎(月)の下降の領域である。

各大成卦の傍に付けた白丸と黒丸は、
白丸が上昇する「離」の位置を、
黒丸が下降する「坎」の位置をあらわしている。

さて、ここまでのお話では、
「離」の上昇は「83:地火明夷」からはじまって
「31:火天大有」に終わった。
一方、「坎」の下降は「61:水天需」からはじまって
「86:地水師」に終わった。

その次はどうなるのだろう。

錬金術的表現になるが、図では、
「大有」には角丸四角形で囲んで「花婿」
とコメントしてあり、
対する「師」には「花嫁」
とコメントしてある。
「師」は上昇し「大有」は下降して、
中央の太極図の所で出会う。

ヒエロス・ガモス。
聖なる結婚である。

seikon_messaage

【聖なる結婚と結婚により生まれる兄弟】

結婚は易システムでは「メッセージ交換」というかたちであらわされる。

ここでは、「大有」という父と、
「師」という母が結婚して、
「81:地天泰」と「36:水火未済」
という兄弟が生まれている。

大成卦の意味から「泰」は安定的に家を守り、
「未済」は「未だ済まず」で、未知の旅に出る……
と観ることもできる。

放蕩息子のが旅がまた新しくここから始まる。

   ☆

地火明夷から思いがけなく想像が広がってしまいました。
今回は少々穿ちすぎかもしれません。
聖婚の図のコメントは、
意識の上昇と無意識の下降という表現で、
一体に、心理学的・錬金術的表現になっています。
しかしこれらのコメントは、
あくまでこのダイヤグラムの観たての「例」です。
かならずこのように、
心理学的・錬金術的に観なければならない
という意味ではありません。

くりかえしになりますが、

このダイヤグラムが示しているのは、
「見えるプロセスの背後ではそのプロセスに呼応して、
必ず同時に見えないプロセスが働いている」
というシンプルな原理につきると思います。

ではまた。

「世界はなぜ「ある」のか?」
— 実存をめぐる科学・哲学的探索

ジム・ホルト著
寺町 朋子訳
早川書房(2013/10/25) 

   ☆

なぜ「なにもない」でなく、ぼくらの住むこの世界はこうして、このように「ある」のか。

もし、この問いに答えがあるなら、おそらくその答えはすべてを説明する基盤になるかもしれない。
もう少し若かった頃の父ならこう言ったかも。

「しょーもないこと考えてる暇があったら仕事せえ。ニンゲン食うために働くんじゃ、あほ」

いや、そうじゃなくてとうさん、ニンゲン、「なぜ」食うために働かなきゃいけないかがわかるかもしれないんだ。

それがわかれば……
よろこんで「食うために」働くことができる。

いや。

答えによっては、「食うために」働かなくてもいいことになるかもしれない。

ラクすることが目的ではないけれど、こんなに根本的で、こんなに大事なことがわからないまま、ただただ「食うために」生きていくのはあまりにもつらくないだろうか。

答えがあるなら、ぜひとも知りたい。

   ☆

なぜ「なにもない」でなく、ぼくらの住むこの世界はこうして、このように「ある」のか。

本によれば、この問いはいくつかの問いに分解できる。

(1) そもそも、「なにもない「無」」なんてことがあるのか(*1)。
(2) 現状、いったい「なに」がこのように「ある」のか。
(3) (1)の「無」があるとして、いまこのように「ある」もの(2)は、そこからどうやって生じたのか。無(1)と有(2)のギャップは、なにがどのように埋めるのか。

ざっとこんな具合で、前掲の本は、著者がさまざまな専門家を訪れて、その謎を追っていく。

紆余曲折あって、著者は一応の結論らしきものにたどりつく。
その結論というか、オチ的なものはここに書かないけれど、ご興味のある方は読んでみてください。

   ☆

なぜ「なにもない」でなく、ぼくらの住むこの世界はこうして、このように「ある」のか。

易システムはどうなんだ。

たとえば、ツイストペア・ホイールは、中心から周辺へ向かって「この宇宙」が創造されたプロセスを象徴するが、中心には両儀(陰陽)がある。

「なぜ「なにもないでなく」~」という質問は、「なぜその陰陽があるのか」「その陰陽はどこからどうやって出てきたのか」という質問だ。ホイールは陰陽があることを前提にしている。
「それ以前」に関する質問についての答えはそこには、ない。

tpwcenter

【なぜ陰陽があるのか】

では、マスターマトリクスは?

マスターマトリクスは、その中心に巽と震でできた大成卦がある。
ここでは、巽=ゆらぎ(最初のかたより)、震=動き(初動)、と観て、すべての可能性が等分にある可能性の海がゆらいでいて、あるひとつのゆらぎが最初の陰陽になった……とするが、ではその「ゆらぎ」がなぜ起こったのかという説明はない。
もし、複数の「ゆらぎ」があったとするなら、なぜ私たちの宇宙に至る特定の『ゆらぎ』が選ばれたのかという説明も。

mmcenter

【なぜゆらいだのか】

しつこいようですが……

バリアント・マトリクスはどうだ?

「バリアント」はヴァジム・ゼランド氏の一連の著作から引いてきたコトバで、可能な現実のバリエーションのことである。

え、それじゃあ、「なにもない」というバリアントもあって、「ない」が「ある」になるのは、多宇宙におけるバリアントの選択という問題に帰着するのか(*2)?

vmcenter

【この中に「無」はあるか】

多宇宙のバリエーションの中で、「ない」と「ある」が並存する、すなわち、「なにもない宇宙」がバリエーションのひとつとして含まれる可能性は、前掲の本の中ではわりとあっさり否定される。

「なにもない」ということは、あくまで「なにもない」のであって、バリエーションもへったくれも「ない」のである。

「なにもない」と「なにかがある」は両立しない。

二者択一である。

「なにもない」宇宙は多宇宙におけるバリエーションのひとつになることはできないのだ。

易システムにもどると、易システムでは、ひとつの大成卦は特定のバリアントを象徴する、としているが、バリアント・マトリクスの中には「なにもない世界」のバリアントというのはない。
理由は、バリアント・マトリクスが象徴するのは、あくまでこの、ぼくたちがいる「この宇宙」のバリアントであり、この宇宙が種々の「あるもの」であふれているのは明らかだからである。

バリアント間を滑走するのがトランサーフィンだが、おのおののバリアントの中での(滑走するよりはるかに鈍重な)物理法則は同じである。おなじ宇宙のバリエーションなのだ。

「なにもない」バリアントになりそうなのは、シンボル的にいえば、一見、「88:坤為地」あたりが「空虚」ということで、なにもなさそうだが、そこに広がっているのはなにもないように見えて、実は豊穣な大地である。

「75:山風蠱」。
強者どもが夢の後、宴会の後に残された皿にはたしかに料理はなく、人もいないが、皿も宴会場もそこある。

「74:山雷頤」。
あんぐりあけた口の中はたしかにからっぽだが、口はある。顔もある。
以下同文。

虚しい卦は他にもありそうだが、「まったくなにも」ないわけではない。

   ☆

なぜ「なにもない」でなく、ぼくらの住むこの世界はこうして、このように「ある」のか。

それがいかに論理的に正しくとも著者が到達した結論には、感覚的・個人的にはあまり賛成できない。

あとがきで訳者の方も書かれているが、そもそもこの質問の「なぜ」には、「無」があり、「無」が最も単純であり、かつ、すべては単純な状態に落ち着いてしかるべきであるという前提が隠れている。

ほんとうに「無」はもっとも単純なのか。

すべてが落ち着こうとする先は、ほんとうに「単純」なのか。

やっぱりわからない。

もっとも、この宇宙に限っての話だが、自然は単純を好むという原則は「風と羅針盤」の中でも易システムの基本ルールに盛り込んではいる。

まだ公開していないが、易システムの全体像をまとめておこうという目論見で「MAP13」という全体地図を作っている。
この地図においては、宇宙的トートロジー(*3)というか、この宇宙は自律的、自己充足的であることが前提である。

toras

【MAP13の全体イメージ】

つまりは上に示したトーラスが易システムのすべてなのだが、では、このトーラス自体は一体どこからやってきたのか……
トーラスは自律的、自己充足的な構造の象徴であって説明の必要がないのかもしれない。

   ☆

現在のところ、易システムではどちらかというと「真の無」はないというスタンスである。

あらゆる可能性が等分にあり、その全体は「無」のように観える……形而上学的スカラー場的なものはあるかもしれない。

ただそれは「真の無」ではない。

そこに無いのは、他を押しのけてアトラクターになるような、たとえわずかであっても突出したベクトル量である。

本当になにもない……わけではない。

「易システムハンドブック」では「無極」という状態について述べているが、これは「真の無」ではなく、極、つかみどころが無い、という意味である。

「真の無」はない。あるのは「万有の無」だ。

「万有の無」というのも、思いっきり逆説的な表現だが、いつもなにかがある宇宙では「なぜ「なにもない」でなく~」という質問は成り立たない。

「真の無」はない。

もしそれがあったとすれば、ぼくらはここでこうしているはずはない。トートロジーだが。

もし、真の無があったとしたらそれは何も生まない。
無でありつづけるだろう。
真の無が無でありつづけるのはそれが単純だからでなく、何も生むことができないからなのである。
真の無から有への架け橋はないのではなかろうか。

しかしそれでも「なぜこのように「ある」のか」という問いには、一度気づいてしまうと、のがれられないような、ちょっと抗いがたい麻薬的な力がある。

まあ、しかし。

しょーもないことを考えている暇があったら、仕事した方がいいのかもしれない。

食うために働き、死ぬまで生きる。

けだし、「親」は偉大である。


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*1「なにもない「無」」なんてことがあるのか」
←「無の本」なんていうタイトルを見ると、「でもその、「無」の本自体は「有る」じゃねえか」とかいいたくなる。
ちなみに「無の本(ジョン・D・バロウ、青土社)」には、無(φ=空集合)から有(数)を数学的に創りだす方法が紹介されている。最後の章は、「なぜなにもないでなく~」の質問のためにさかれている。

*2「なにもない」バリアントから「なにかある」バリアントの選択される
←それでもなにがその選択をさせたかという説明は必要だ。ゼランドの著作では、バリアントを現実化するのは生命体の意識だが、「なにもない」ところには生命も意識もないだろう。

*3
「トートロジー」
←「なんでこんなにまずいの」
 「そりゃあ、まずいからさ」

易システム(筆者独自解釈による易)には、旅の先天図とおなじようなダイヤグラムで、もうひとつ、おそらくは大事なダイヤグラムがあります。
個人的には、錬金術と関係があると思っています。

   ☆

伝統的な易には、先天図と後天図というふたつのダイヤグラムがある。

$ぼくは占い師じゃない-先天図オリジナル
【先天図】

$ぼくは占い師じゃない-後天図オリジナル
【後天図】

先天図、後天図はともに、八卦(小成卦)と方位(時節、時刻、十二支)との対応をあらわすものだが、一般的には用いられるのは後天図の方だ。

梅花心易などでは主に先天図を用いるが、易システムでも先天図を基盤にしている。
後天図よりも先天図の方が、数理的にはととのっているようにみえるからだ。

旅の先天図では、八角形の先天図から、六角形の「旅の先天図」がつくられる様子を示した。

$ぼくは占い師じゃない-旅の先天図の生成
【先天図から旅の先天図へ】

上に示したとおり、八角形の周囲に配された八卦のうち、ふたつの卦を中心に落とし込むによって、六角形のダイヤグラムになる。
旅の先天図は、先天図の乾坤を中心に落とし込むことによってつくられる。

先天図で南北方向にある乾坤の代わりに、東西方向にある離坎を中心に落とし込むと次のようになる。

$ぼくは占い師じゃない-聖婚のダイヤグラムの生成
【先天図から聖婚のダイヤグラムへ】

この六角形のダイヤグラムをどう観たてるかは、例によって観る人の自由なのだが、易システムでは「器とその中身」としている。

ところで、ぼくの観るところ、先天図にはふたつの状態遷移の流れがある。

ひとつは八卦を3ビットのバイナリコードと観なしたときの状態遷移で、「乾兌離震巽坎艮坤」の順で循環する流れになる。これを「トロイド循環」と呼ぼう。

$ぼくは占い師じゃない-toroido
【先天図上のトロイド循環】

もうひとつの先天図上の状態遷移は、東西の離坎をとばして環状に循環する流れで、いわば八卦版の十二消長卦の流れであり、これを「リング循環」と呼ぼう。

$ぼくは占い師じゃない-リング循環
【先天図上のリング循環】

旅の先天図」はトロイド循環を踏襲する流れだが、「器とその中身」のダイヤグラムは、リング循環を踏襲する流れになる。

「器とその中身」という観方は、「リング循環する周囲=器」、「離坎=器の中身」ととらえるとそう観えるということだ。

この器をフラスコ、その中身を統合をはたすべく投入された素材と観るならば、「器とその中身」のダイヤグラムは、たちまち錬金術的色彩を帯びることになる。

十二消長卦であらわされる変化は、季節のめぐり、地上における時序、時節の変化をあらわすが、これが器である。

中身である離と坎は統合される材料だが、この材料は男性原理と女性原理、硫黄と水銀、太陽と月であり、離、坎の象意としても一致する。
そんなふうに観るなら、このダイヤグラムは「器とその中身のダイヤグラム」という、どちらかというと一般的な観方から、さらに限定された「聖婚のダイヤグラム」ともとれるのではなかろうか。

坎も離も、中心の陰または陽の爻が、上下の陽または陰の爻にはさまれた象だが、明確な「中心」つまり「精髄」を孕んだなにか……対象であると観ることもできる。

錬金術の起源は古代エジプトであるといわれているが、アラブ諸国からギリシャを経てヨーロッパに伝わったのは、かなり時代が下ってからのことで、インドや中国などの東洋でも類似の営みがおこなわれていた。
西洋から東洋に伝わったのか、同時発生的におこったことなのかははっきりしないようだ。
それはともかく、錬金術は西洋の専売特許ではなく、東洋にもあったということで、ここに易とのかかわりがある。

「東洋秘教書大全 藤巻一保、岡田明憲(学研)」には、その代表的なドキュメントのひとつとして「周易参同契」があげられているが「参同契」の解説の一節にはこんなふうにある。

「乾坤は丹(霊薬)の反応容器である鼎炉に相当し、鼎炉に入れる丹の原料が、坎離になる。すなわち、水銀と鉛である」

前述の西洋錬金術とでは、鉛と硫黄というちがいはあるが、いずれも現実の物質というよりも、象徴的意味合いともとらえることができるので、このちがいはさておき、容器とその中身のたとえは「聖婚のダイヤグラム」そのままである。

$ぼくは占い師じゃない-聖婚のダイヤグラム
【聖婚のダイヤグラム】

「聖婚のダイヤグラム」では乾坤は先天図のままで南北に位置し、「器」の要(軸)となっている。
全陽である乾から陰が長じていくプロセスは乾から右回りの灰色の矢印、全陰である坤から陽が長じていくプロセスを左向きの白い矢印で示した。

ところで、蒸留によって精髄をとりだす(丹を練る)プロセスは、錬金術においても基本だときくが、これに相当するシンボル上の操作が、大成卦の互卦をとることにあたるのではなかろうか、とも思っている。

「互卦をとる」とは、大成卦の二爻~五爻までの爻で、ひとつの大成卦をつくる……というより、「取り出す」ことで、たとえば、地風升の互卦をとると次のようになる。

$ぼくは占い師じゃない-chihuu_goka
【地風升の互卦をとって帰妹になる】

すべての大成卦について互卦をとると、16種類の大成卦になる。銀河ツールでは互卦のことを「還元コドン」と呼ぶ。
64種類の大成卦は、16種類の大成卦に「還元」されるのである。

$ぼくは占い師じゃない-還元コドン
【還元コドン】

ではこの16種類の「還元コドン」をさらに「還元」するとどうなるのだろう。いわば、互卦の互卦をとるわけだ。
この場合、16種類の大成卦はさらに還元されて、乾為天、坤為地、水火既済、火水未済、の4つの大成卦になる。

これからさらに互卦をとっても(還元しても)、乾為天、坤為地はその大成卦自身になり、既済、未済は、互いが互いの互卦になって、この4つよりさらに大成卦をしぼりこむことはできなくなる。

$ぼくは占い師じゃない-stopgoka
【互卦のいきどまり】

そんなわけで、銀河ツールではこれらの大成卦を「4つの根源的な支配力」と呼ぶ。

$ぼくは占い師じゃない-根源的支配力
【4つの根源的な支配力】

この4つの「支配力」を構成するエレメントは、乾、坤、坎、離であり、それはすなわち、聖婚のダイヤグラムにおける器の軸と、器に投入され統合されるふたつの材料である。

ふたたび、先天図にもどっていうなら、この4つの八卦は四正、先天図上では東西南北に位置している。

(このあたりのことは「互卦=上下卦をつなぎとめる力」という視点で、「風と羅針盤」の中の「結合力のマトリクス」のセクションにて、ややくわしく説明させていただいたので、ご興味のある方はご参照ください)

   ★

ずらずら書いてしまいましたが、
とどのつまり、
「おまえが勝手にそう解釈してるだけだろう」
といわれてしまえばおしまいです。
まあしかし……

個人的には、易のシンボルセットの中には、それだけではかたづけられないような、根源的なものにむかうなにかがひそんでいるような気がしてしかたがないのです。

この先、易がなにを語るかは、自分にもよくわかりません。ご興味のある方はよろしくおつきあい願えばと思います。

それではまた。
ひさしぶりに占例です。

たまにはちゃんと読めた例を。

ある土曜日、ある方から、
会いませんかという連絡がありました。
その土曜は仕事がたてこんでいて
時間がとれそうになかったので、
あくる日、日曜の昼にでも会って
ご飯でもたべましょうか、
ということになりました。

で、日曜。

約束の時間に間に合うように、
そろそろ準備を……というところで、
電話がなりました。
用事ができたので夕方にしよう、
というお話でした。

いいですよ、と答えたものの、
夕方までの時間がまる空き。

というより、ほんとうに今日、
その人と会えるのかなあ。

占ってみます。
(軽いなあ。相変わらず)

サイを振って得られたのは、
観の二爻変。之卦は風水渙です。

観(カン)の渙(カン)に之く。

で、カン、カン、
踏切みたいに音もそろっておもしろいんですが、
おもしろがってばかりもいられない。

一応、今日は空けてあるけど、
ただ待っているというのもいただけない。
やりたいこともあるし。

観の卦辞をみます。

「祭祀を行う。
不要な宴は行わず、誠実であること。
(拙作ハンドブックより)」

正直、よくわからない……

けど、「観」自体は概して静的な卦で、
勉強や見識を深めるようなことには
よいとされています。

で、二爻の爻辞は、

「すき間からうかがい観る程度。
柔順であればよい。(同上)」

観は、こちらは動かずにじっと観察する、
観る卦であり、各爻辞は
その観方のさまざまを描いています。
それが「すき間からうかがい観る程度」ですから、
なんだか今日はあまり会えそうにもありません。

あらためて、卦全体をみてみますと、これが「大艮」。

これは「大卦」という観方で、
大成卦全体をひとつのおおきな八卦として観るやりかたです。
初爻と二爻、三爻と四爻、五爻と上爻、
この3つのペアの陰陽がそれぞれそろっていることが、
大卦として観ることができる条件となります。

各々のペアをひとつの爻として観ると、
大成卦全体でひとつの八卦があらわされることになります。
言葉で書くとややこしいですが、
図示すればすぐにわかります。
大卦として観ることにできる卦は、
とうぜん、8種類。

$ぼくは占い師じゃない-taika

「風地観」という大成卦をひとつの八卦として観ると、
そこにおおきな「艮」があらわれるというわけです。

$ぼくは占い師じゃない-kan-taika

でっかい艮。

艮は山で静止をあらわしますから、状況は動かない。

動かざること山のごとしです。

艮はひっくり返す(倒卦、リバース)と震になって、
震は「動き」あらわすわけですから、
まさに逆の意味になっておもしろいですね。
今回の占的には関係ありませんが。

この「大艮」が観えた瞬間に、
ああ、こりゃだめだな、
今日は会うことはなかろうな、と思いました。

いや、ほんとうのことをいうと、之卦から観ました。

どうもこれ、ぼくのクセみたいで、
本卦をみてちょっとわからないと
すぐ之卦をみてしまうんです。

之卦は「風水渙」で、これは離散集合の、
「離散」の方をあらわす卦です。
水面の波頭がくだけ散って、
風にとばされ空中に散じるカタチ(坎下巽上)。

集まっていたものが散じる、
この占的の場合は集まってさえいませんが、
なにが散るんだろう、と考えたときに、
ああこりゃ、会おうという「予定」が散るんだな、
とそう思ったわけです。

って、書くとかっこいいけど、

以前にも同じ人から同じようなお誘いがあって
同じようなことがあった(忙しい方なので)こともあり、
そういった推量も働いて、ま、今日は会うことはなかろう、
という結論に至り……

はたしてそのようになりました。

たまにはこんなふうに
ちゃんとよめることもあるんですね。

ではまた。
旅の先天図」でお話しさせていただいたのは、あらゆる旅(物語)の母体についてである。
易システムとしては、先天図をその母体してとらえることができる。

ただ、このレベルはあまりに元型的で日常世界とはかけ離れている。日常とはひとつづきのものではあるけれども、はるかに深いところから各個人に対し共通的に影響を及ぼす原動力だ。

もっと個人的なレベルでの物語の環は、「風と羅針盤」の中で、WOL(ホイール・オブ・ライフ)とそのWOLが乗る輪廻の環、GW(グレート・ホイール)として提示させていただいたが……これらの環を導く手順が煩雑なのと、たくさんの大成卦が並ぶことになるので判断もしづらい。

ちょっとあっさりしすぎてしまうかもしれないが、より簡便には「テンプレート」をその環として観たてることもできる。
テンプレートについては「魂のテンプレートから、ただのテンプレートへ」でも述べさせていただいたが、4つの大成卦からなる「環」である。
テンプレートでは、あるひとつの大成卦が決まれば他の3つの大成卦は自動的に決まる。

これがどのような物語の環になるのか。

以下、基準になる卦を「85:地風升」とした例で、順を追ってみてみよう。
$ぼくは占い師じゃない-pw

まず、OD(85:地風升)。
これが基準になる卦だ。すべてはここから始まる。日常的な意識としてのあなたである。
ダイヤグラム全体は大きく、上半分と下半分に分かれる。上と下をわける水平線は地面である。上半分は明るく陽がさしている。下半分は暗い地下だ。

旅はこの地下へとゆっくり降りていくことから始まる。
「t」であらわされる左回りの円の経路だ。
まず、地下へと足を踏み入れる。異界への参入だ。
そしてこの、地下へ降りてゆくプロセスは、G(55:巽為風)で最も深部に達する。旅の先天図でいえば中心、ヴォイドにあたる。ここが物語の第一の山場だ(地下だけど)。

地下の旅はここから上昇に転じる。そしてふたたび地上にはいあがったときに、ODは自分の失われた断片を発見するか、積年の課題と相対することになるのだ。これが第二の山場、Iである。

第二の山場をなんとかのぼりきると、旅人は中天の太陽を目指して上昇していく。この太陽がNだ。Nは一種の理想像で、一瞬、かいま見ることはあるかもしれないが、おそらくはそこに到達することははない。
もし、仮に、万一、そこに到達することがあるとすれば、それはこの旅の環からの離脱を意味する。旅の終わり……ではなく、旅そのものがもう不要な領域への移行だ。逆にいうと環からの出口はNにある。

ここがこの旅のクライマックスだ。環から離脱せずにこの中天を過ぎた旅人は、もといた地上への帰還を開始する。
地上で待つ同胞たちに自分が垣間みたものを伝えるためだ。

地上へもどった旅人は、多少は日焼けして、多少はやせて、多少は老けているかもしれないが、一見、出発したときと変わらないように見える。

だが、その日常的意識(自我)は、もはや無意識とは他人どうしではなく、さらに無意識と調和するようになっており、自己の境界は確実にひろがっているだろう。

以上をカンタンにまとめると、

「自分の失われた断片を求め、地の底をくぐり、一段深い自我へと回帰する道程」

ということになるだろうか。

易……千変万化な大成卦の集合を眺めることは、システムとの対話であるとともに、ロールシャッハ・テストのようでもある。

おそらくシステムは、これ以外にもさまざまなストーリーを隠し持っているにちがいない。
旅の仲間」のつづきです。
役者と舞台だけではお話ははじまりません。

「シナリオ」がなければ。

そんな話でした。

   ☆

あらゆる物語の母体となるようなひとつの物語……
といったものはあるのだろうか。

伝承や神話といった物語にはそれこそ無数のパターンがあるだろう。
しかし、新しく創作されたストーリーも、どこか古来からの物語のパターンを必ず踏まえている。
それらにみられる共通のパターン、というよりも、それらの根源になっている「たったひとつ」のパターンはないのだろうか。

そうなってくると、それはもうパターンとはいえない。

元型?

いやそうではなくて、すべての物語の母体のことである。

パターンとはいえない共通の根。

それを「往還(*1)」というひとつの言葉であらわせまいか。
そんなことをぼんやり想ってみる。

辞書をひくと「往還」にはふたつの意味がある。
ひとつは「いきつもどりつ」という意味。
もうひとつは通り道そのもの、「道・街道」という意味だ。

いって、かえる。

ただ往復するだけではない。
その経路は深みをあわせもつ円環になっている。
いって、かえってきた場所は同じかもしれないが、なにかが変わっている。たいがいは、旅した主人公の意識の深さだ。

原則として、深くなる。

こうなると円環はただの輪ではない。

らせんだ。

そもそもいかない、旅など始めない主人公もいれば、いったきりかえってこない主人公もいる。主人公が挫折するポイントはそれこそ数限りなくある。

そんな話は、「わっかの話」にも書いたとおり。
いかない、かえらない、挫折する、あるいはそういったすべてのプロセスにおけるすべての点、断片。

その数だけ物語はあり、だからこそ物語の数は無数であり、だからこそこの「環」はすべての物語の母体なのである。

易システムでも、そういった環/輪を想定している。

ホイール・オブ・ライフやグレート・ホイール(「易システムと時間の立方体」)もそうだが、十二消息卦や、バリアントの流れ、ツイストペア・ホイールにおける状態遷移、テンプレート……などなどもこれにあたる。

しかし、そういった諸々以外にもっと基本になるものは?

易システムは先天図を基本としている。

易システムハンドブック」のひとつ結果、成果、オチ(?)いきついた先にツイストペア・ホイールがあるわけだが、このツイストペア・ホイールの中心部にあり、ツイストペア・ホイールの元になっているのが先天図だ。

では、先天図は「すべての物語の根」にはなっていないのか。

いや、これは、易システムとしては、そうなってくれていなくては困るのである。
幸いにして易のシンボルはきわめてフレキシブル、かつ多義的である。ひらたくいえば「どうとでも読める」。

では、こういうのはどうだろう。

   ☆

先天図には数理的な経路がある。
「乾兌離震巽坎艮坤」の並びがそれだが、これが、「往還」に対応したひとつのストーリーになっていないだろうか。

$ぼくは占い師じゃない-sentenpath

そんな眼で、主に八卦の「意味」から「乾兌離震巽坎艮坤」の並びを追ってみる。

$ぼくは占い師じゃない-story-diag

このダイヤグラムでは、乾坤にはストーリーとしての意味を与えていない。行ってこいと息子を外へ放り出す父である「乾」と、長旅から帰ってきた息子を迎える母である「坤」(実は息子が旅した大地は「母」そのものだったのだが)。

まあふつうは、父と母はひとつ屋根の下にすんでいるだろうから、このストーリーにしたがえば、先天図は次のように描きかえることができる。「乾坤」は、ひとつまとめにして出て行く場所と帰ってくる場所、ホームになる。

$ぼくは占い師じゃない-kenkonhome

これを「旅の先天図」と呼ぼう。

ところで、主人公(ドラ息子)はどこへ行って(運がよければ)帰ってくるのだろう。

どこという特定の場所ではないだろう。
実際の場所はストーリーよって異なる。

共通的にいえるのはそこが「異界」であるということだ。
いつも暮らしているよく知ったホームではなく、アウェイ、見ず知らずの場所である。

旅が呼吸であるなら、呼気は吸気にとって、吸気は呼気にとってそれぞれ「異界」である。
生まれてこの方、島を出たことないのならば、トーキョーは「異界」である。
いままでずっと学生で社会にでたことがないのなら、シャカイは「異界」である。
夢しかみたことがなく、理由はどうあれ、生の現実に真剣に相対した経験がないのなら、いまそのきみがまっただ中にいる現実の試練は「異界」だ。

旅の先天図にこの「異界」を描き加えるとすると次のようになる。

$ぼくは占い師じゃない-ikai

「異界」は「離」にはじまり、「坎」におわる。
ものごと、始まりがあれば終わりが必ずある。
いつまでも異界に居続けることはできない。

「離」は文字どおりとる。
離別、別れ、いよいよホームから離れることが確実になるポイントだ。この境界を越えてしまうと、もうあともどりはできない。

「坎」はあてはめるのが、ちょっとむずかしい。
異界を抜け出るための最後の試練といったところだろうか。
あるいはまた、異界を抜け出るための最後のパワーとなる生命の水。

「坎」の穴にはまったあとは、ぐっともりあがって(艮)その試練をまっとうし、異界を抜け出る。
艮=山からみわたす世界は、いままでよりさらに遠くがみえるようになっているはずだ。

ついでにいうと、「離」と「坎」は「風と羅針盤」の中で提示させていただいた「新先天図」の中で、異次元(高次元)を指し示すシンボルである。

もうひとつ、先天図上のこの経路にはおもしろい特徴がある。
それは、経路は円周上を周回するのではなく、いったん円の中心を通り抜けることだ。

図上では、兌から左回りに行きかけて、震から巽に向かって円の中心をとおり、坎、艮と右回りに周回している。
この、震から巽にかけて円の中心をとおりぬけるプロセスをどうみるか。

たまたま読んでいた本(*2)に次のような一節があった。

「中心が強調されるのも錬金術の根本思想の一つである。ミヒャエル・マイアによれば、中心には「分割不可能な」原点があり、これは単純にして不壊の永遠の生命である。これに対応する物質が金であり、ゆえにそれは永遠を象徴する。<中略>中心とは、「神秘に満ちた無限の深淵」である。」

深く、限りない、永遠の虚無。

セルフ。元型の中の元型。

「タナトノート(*3)」の銀河の中心、ブラックホール。

異界に往って還る旅で、異界におけるちょうど真ん中に「虚無」があるのである。
できればさけてとおりたいところだが、ここを通過しない限り、家に帰ることはできない。

もし、この旅が人生であるなら、この虚無はさしずめ、「中年の危機」だろうか。
もし、この旅が魂の成長過程であるなら、この虚無はさしずめ、「魂の闇夜」だろうか。
いずれにしろ、旅はタダでは終わらない。ここでいう「旅」は、連休を利用してゆく物見遊山とはちがう。

いろいろ書いてきたが、この「物語の母体」には次のような特徴があるといっていいだろう。

○ いって、かえるプロセスである。
○ 行き先は住み慣れた世界ではなく、「異界」である。
○ 「異界」の中心はヴォイド(虚無)がある。

いって、かえる。

往還のもうひとつの意味に、街道・道という意味があるのは、それにしてもおもしろい。

それはまるであの永遠のプロセス、道=「タオ」をあらわしているようでもある。

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(*1)
「往還」
この言葉を持ってきたのは、老松克博氏の一連のアクティブ・イマジネーションの著作がきっかけになっている。

(*2)
「オカルトの心理学」
C.G.ユング著、島津彬郎・松田誠思訳、
サイマル出版(1989年)

(*3)
「タナトノート」
ベルナール・ヴェルベール著、榊原 晃三訳、
NHK出版(1996年)