役者と舞台だけではお話ははじまりません。
「シナリオ」がなければ。
そんな話でした。
☆
あらゆる物語の母体となるようなひとつの物語……
といったものはあるのだろうか。
伝承や神話といった物語にはそれこそ無数のパターンがあるだろう。
しかし、新しく創作されたストーリーも、どこか古来からの物語のパターンを必ず踏まえている。
それらにみられる共通のパターン、というよりも、それらの根源になっている「たったひとつ」のパターンはないのだろうか。
そうなってくると、それはもうパターンとはいえない。
元型?
いやそうではなくて、すべての物語の母体のことである。
パターンとはいえない共通の根。
それを「往還(*1)」というひとつの言葉であらわせまいか。
そんなことをぼんやり想ってみる。
辞書をひくと「往還」にはふたつの意味がある。
ひとつは「いきつもどりつ」という意味。
もうひとつは通り道そのもの、「道・街道」という意味だ。
いって、かえる。
ただ往復するだけではない。
その経路は深みをあわせもつ円環になっている。
いって、かえってきた場所は同じかもしれないが、なにかが変わっている。たいがいは、旅した主人公の意識の深さだ。
原則として、深くなる。
こうなると円環はただの輪ではない。
らせんだ。
そもそもいかない、旅など始めない主人公もいれば、いったきりかえってこない主人公もいる。主人公が挫折するポイントはそれこそ数限りなくある。
そんな話は、「わっかの話」にも書いたとおり。
いかない、かえらない、挫折する、あるいはそういったすべてのプロセスにおけるすべての点、断片。
その数だけ物語はあり、だからこそ物語の数は無数であり、だからこそこの「環」はすべての物語の母体なのである。
易システムでも、そういった環/輪を想定している。
ホイール・オブ・ライフやグレート・ホイール(「易システムと時間の立方体」)もそうだが、十二消息卦や、バリアントの流れ、ツイストペア・ホイールにおける状態遷移、テンプレート……などなどもこれにあたる。
しかし、そういった諸々以外にもっと基本になるものは?
易システムは先天図を基本としている。
「易システムハンドブック」のひとつ結果、成果、オチ(?)いきついた先にツイストペア・ホイールがあるわけだが、このツイストペア・ホイールの中心部にあり、ツイストペア・ホイールの元になっているのが先天図だ。
では、先天図は「すべての物語の根」にはなっていないのか。
いや、これは、易システムとしては、そうなってくれていなくては困るのである。
幸いにして易のシンボルはきわめてフレキシブル、かつ多義的である。ひらたくいえば「どうとでも読める」。
では、こういうのはどうだろう。
☆
先天図には数理的な経路がある。
「乾兌離震巽坎艮坤」の並びがそれだが、これが、「往還」に対応したひとつのストーリーになっていないだろうか。

そんな眼で、主に八卦の「意味」から「乾兌離震巽坎艮坤」の並びを追ってみる。

このダイヤグラムでは、乾坤にはストーリーとしての意味を与えていない。行ってこいと息子を外へ放り出す父である「乾」と、長旅から帰ってきた息子を迎える母である「坤」(実は息子が旅した大地は「母」そのものだったのだが)。
まあふつうは、父と母はひとつ屋根の下にすんでいるだろうから、このストーリーにしたがえば、先天図は次のように描きかえることができる。「乾坤」は、ひとつまとめにして出て行く場所と帰ってくる場所、ホームになる。

これを「旅の先天図」と呼ぼう。
ところで、主人公(ドラ息子)はどこへ行って(運がよければ)帰ってくるのだろう。
どこという特定の場所ではないだろう。
実際の場所はストーリーよって異なる。
共通的にいえるのはそこが「異界」であるということだ。
いつも暮らしているよく知ったホームではなく、アウェイ、見ず知らずの場所である。
旅が呼吸であるなら、呼気は吸気にとって、吸気は呼気にとってそれぞれ「異界」である。
生まれてこの方、島を出たことないのならば、トーキョーは「異界」である。
いままでずっと学生で社会にでたことがないのなら、シャカイは「異界」である。
夢しかみたことがなく、理由はどうあれ、生の現実に真剣に相対した経験がないのなら、いまそのきみがまっただ中にいる現実の試練は「異界」だ。
旅の先天図にこの「異界」を描き加えるとすると次のようになる。

「異界」は「離」にはじまり、「坎」におわる。
ものごと、始まりがあれば終わりが必ずある。
いつまでも異界に居続けることはできない。
「離」は文字どおりとる。
離別、別れ、いよいよホームから離れることが確実になるポイントだ。この境界を越えてしまうと、もうあともどりはできない。
「坎」はあてはめるのが、ちょっとむずかしい。
異界を抜け出るための最後の試練といったところだろうか。
あるいはまた、異界を抜け出るための最後のパワーとなる生命の水。
「坎」の穴にはまったあとは、ぐっともりあがって(艮)その試練をまっとうし、異界を抜け出る。
艮=山からみわたす世界は、いままでよりさらに遠くがみえるようになっているはずだ。
ついでにいうと、「離」と「坎」は「風と羅針盤」の中で提示させていただいた「新先天図」の中で、異次元(高次元)を指し示すシンボルである。
もうひとつ、先天図上のこの経路にはおもしろい特徴がある。
それは、経路は円周上を周回するのではなく、いったん円の中心を通り抜けることだ。
図上では、兌から左回りに行きかけて、震から巽に向かって円の中心をとおり、坎、艮と右回りに周回している。
この、震から巽にかけて円の中心をとおりぬけるプロセスをどうみるか。
たまたま読んでいた本(*2)に次のような一節があった。
「中心が強調されるのも錬金術の根本思想の一つである。ミヒャエル・マイアによれば、中心には「分割不可能な」原点があり、これは単純にして不壊の永遠の生命である。これに対応する物質が金であり、ゆえにそれは永遠を象徴する。<中略>中心とは、「神秘に満ちた無限の深淵」である。」
深く、限りない、永遠の虚無。
セルフ。元型の中の元型。
「タナトノート(*3)」の銀河の中心、ブラックホール。
異界に往って還る旅で、異界におけるちょうど真ん中に「虚無」があるのである。
できればさけてとおりたいところだが、ここを通過しない限り、家に帰ることはできない。
もし、この旅が人生であるなら、この虚無はさしずめ、「中年の危機」だろうか。
もし、この旅が魂の成長過程であるなら、この虚無はさしずめ、「魂の闇夜」だろうか。
いずれにしろ、旅はタダでは終わらない。ここでいう「旅」は、連休を利用してゆく物見遊山とはちがう。
いろいろ書いてきたが、この「物語の母体」には次のような特徴があるといっていいだろう。
○ いって、かえるプロセスである。
○ 行き先は住み慣れた世界ではなく、「異界」である。
○ 「異界」の中心はヴォイド(虚無)がある。
いって、かえる。
往還のもうひとつの意味に、街道・道という意味があるのは、それにしてもおもしろい。
それはまるであの永遠のプロセス、道=「タオ」をあらわしているようでもある。
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(*1)
「往還」
この言葉を持ってきたのは、老松克博氏の一連のアクティブ・イマジネーションの著作がきっかけになっている。
(*2)
「オカルトの心理学」
C.G.ユング著、島津彬郎・松田誠思訳、
サイマル出版(1989年)
(*3)
「タナトノート」
ベルナール・ヴェルベール著、榊原 晃三訳、
NHK出版(1996年)