以前から行きたい展覧会がありました。
だけどいろいろあって、ちょっとそれどころではないな~という期間が何日か。
一段落しそうなある夜。
じゃ、明日はその展覧会に行ってみてはどうだろう。
そう思ってサイをふって得た卦が、「41:大壮」の上爻変でした。
之卦は「31:大有」になります。
【「大壮」の「大有」に之く】
行った方がいいんでしょうか。
それともまだ早いのでしょうか。
ぼくは「大壮」という卦に出会うと、まず思い描くのが、鳴り物入りといいますか、から騒ぎといいますか、「おおげさ」で内実がともなっていないというイメージです。
目当ての展覧会がそうだということなのでしょうか。
そうだとしたらちょっと残念です。
判断はいろいろ想い浮かんだのですが、展覧会の内容うんぬんではなく、結局、ぼくの方が「いさみ足」なのではないかと、そんな気がしてきました。
だいたい「展覧会にいくかいかないか」なんてなことで、いちいちサイを振っていること自体、落ち着いて出かける心境ではない証拠ではないでしょうか。
この「大壮」という卦、よくみてみますと、天(下卦、乾)の上に雷(上卦、震)があります。
天より高い所で鳴る雷。
天=空と観るなら、上空遠くで鳴っている雷、遠雷です。
なにかにぎやかな感じもします。
にぎやか、お囃子、祭り。
展覧会も、まあ、祭りのようなものではないか。
そうすると、どこか遠くの方でやっているお祭りということになります。
風に乗って篠笛の音が聞こえてきそうです。
自分はこちら側にいて、お祭りのことを思っているわけです。
爻辞をみてみます。
上爻。
「生垣につっこむオス羊、角をとられ、進めもせず、もどれもせず。よいことなしだが、くるしみなやめばやがてひらける。(拙作ハンドブックより)」
やっぱり勇み足ですねえ。
こりゃ家にいた方がよさそうだ。
之卦は「31:大有」です。
これも盛大な卦ですが、内実がともなっていて、とてもいい感じです。
おおいなる収穫。
之卦ですから、「大壮」がやがてそうなる(「大有」になる)ということでしょうか。
得られた爻を変じてできる派生卦は、「之卦」というふうに呼ぶから、なりゆきのように観えるのかもしれません。
というより、「なりゆき」として観た場合に「之卦」呼ばれるのではないでしょうか。
そこのところはよくわかりません。
以前に、毎月一回、二年ほど通った易の先生の所では之卦とは呼ばずに「伏卦」と言っていました。
「伏卦」。
本卦に対して、伏在している卦です。
「なりゆき」かもしれないし、本卦に対する「コメント」かもしれない。
伏卦といった場合、いったいそれが何を意味しているのかは占断の文脈によります。
「之卦」といってしまうより「伏卦」と呼んだ方が、特定の観方にひきずられることがなく、応用範囲が広がるでしょう。
この例の場合は本卦「大壮」に対して、「大有」が可能性として伏在していると観ることはできないでしょうか。
そうだとしたら、問いに対する答えは、今はまだ出かけるタイミングではないが、展覧会に行くこと自体は、大きな収穫をもたらす可能性がある……というふうに観えました。
とりあえずでかけるのはヤメにしておきます。
今回は、本卦周辺にさまざまな連想を広げて判断しました。
☆
ところで話は変わりますが、俳句の世界に「歳時記」というものがあります。「季寄せ」ともよばれますが、季語集のことです。
季語は、俳句を創る人たちの間の共有財産で、時代や時の流れによって語句が追加されたりもしますが、季語認定委員会とか標準化基準といった権威があるわけではなくて、ここがまたいいとこなんですが、ゆるやかな合意のもとに、まるでイキモノのようにまとまっていて、それが時代から時代へとバトンタッチされていきます。
なんでそんな話をしたかというと、易の世界でもそんなものがあったらおもしろいかなあ……
と、ふと想ったからです。
大成卦周辺のイメージをまとめた「易卦の歳時記」ってとこです。
とはいえ、大成卦には卦の名称と卦爻辞という歴然とした決まりごとがあるわけで。
え?「易卦の歳時記」って結局、各易卦の解釈?
それなら、本屋さんの占いのコーナーに行けば売ってるよ……
と言われるかもしれません。
一般的な易占の本は、粗っぽくいえば、各易卦についてのその著者の吉凶を含む解釈です。
「易卦の歳時記」の方はそうではなくて、解釈、吉凶判断に至る以前のイメージ集といった想定です。
まあ、易卦の場合は特に季節とは関わりのないこともあるわけで、「歳時」記っていういい方も変なんですが。
たとえば、今回の占例、「大壮」では、「勇み足」「遠雷」「遠くから聞こえるお囃子」といったイメージで解釈しましたが、そんなイメージ集を一般化してまとめて、共有財産的に受け継いでいったりできたらおもしろいんじゃないかと……
まあ、そうはいっても、そんなことしたらイメージを固定化させて占断の自由を奪ってしまいそうな気もするし、一般化といったって、俳句をやる人より易をやる人は格段に少ないだろうし、季語は俳句に原則必須な約束事で、占断における易卦の周辺イメージってのは、俳句における季語の位置づけとはまたちがう気もするし……
ちょっと非現実的かな。
やるんなら、まずは個人的にやった方がいいかもしれません。
占断をくりかえしながら、その過程で、追加したり修正したりしながら、自分なりの各卦の周辺イメージ集をつくっていく……
そんな「歳時記」をまとめることができたら、それはあなた固有の各易卦とあなたとの「つながり」ということになります。
本のようなカタチにはなってなくても、易という言語を使う人なら、経験による語彙の多寡はあるでしょうが、皆、ココロの中にこの「易卦の歳時記」を持っているはずです。
もしも、易を一生の友としていくなら、この歳時記は一生かけて育て上げていくものなのでしょう。
実はこれ、占術が変わっても同じことです。
カードの図像や、星の配置、掌のしわのパターン、等々。
無数にある象徴と占者との固有の関係。
ラポールといってもいいかもしれません。
このつながりが豊富であればあるほど、その占者は豊かな判断ができる、ということになるでしょう。
願わくば、ぼくの「歳時記」も豊穣ならんことを。
