「世界はなぜ「ある」のか?」
— 実存をめぐる科学・哲学的探索
ジム・ホルト著
寺町 朋子訳
早川書房(2013/10/25)
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なぜ「なにもない」でなく、ぼくらの住むこの世界はこうして、このように「ある」のか。
もし、この問いに答えがあるなら、おそらくその答えはすべてを説明する基盤になるかもしれない。
もう少し若かった頃の父ならこう言ったかも。
「しょーもないこと考えてる暇があったら仕事せえ。ニンゲン食うために働くんじゃ、あほ」
いや、そうじゃなくてとうさん、ニンゲン、「なぜ」食うために働かなきゃいけないかがわかるかもしれないんだ。
それがわかれば……
よろこんで「食うために」働くことができる。
いや。
答えによっては、「食うために」働かなくてもいいことになるかもしれない。
ラクすることが目的ではないけれど、こんなに根本的で、こんなに大事なことがわからないまま、ただただ「食うために」生きていくのはあまりにもつらくないだろうか。
答えがあるなら、ぜひとも知りたい。
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なぜ「なにもない」でなく、ぼくらの住むこの世界はこうして、このように「ある」のか。
本によれば、この問いはいくつかの問いに分解できる。
(1) そもそも、「なにもない「無」」なんてことがあるのか(*1)。
(2) 現状、いったい「なに」がこのように「ある」のか。
(3) (1)の「無」があるとして、いまこのように「ある」もの(2)は、そこからどうやって生じたのか。無(1)と有(2)のギャップは、なにがどのように埋めるのか。
ざっとこんな具合で、前掲の本は、著者がさまざまな専門家を訪れて、その謎を追っていく。
紆余曲折あって、著者は一応の結論らしきものにたどりつく。
その結論というか、オチ的なものはここに書かないけれど、ご興味のある方は読んでみてください。
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なぜ「なにもない」でなく、ぼくらの住むこの世界はこうして、このように「ある」のか。
易システムはどうなんだ。
たとえば、ツイストペア・ホイールは、中心から周辺へ向かって「この宇宙」が創造されたプロセスを象徴するが、中心には両儀(陰陽)がある。
「なぜ「なにもないでなく」~」という質問は、「なぜその陰陽があるのか」「その陰陽はどこからどうやって出てきたのか」という質問だ。ホイールは陰陽があることを前提にしている。
「それ以前」に関する質問についての答えはそこには、ない。
【なぜ陰陽があるのか】
では、マスターマトリクスは?
マスターマトリクスは、その中心に巽と震でできた大成卦がある。
ここでは、巽=ゆらぎ(最初のかたより)、震=動き(初動)、と観て、すべての可能性が等分にある可能性の海がゆらいでいて、あるひとつのゆらぎが最初の陰陽になった……とするが、ではその「ゆらぎ」がなぜ起こったのかという説明はない。
もし、複数の「ゆらぎ」があったとするなら、なぜ私たちの宇宙に至る特定の『ゆらぎ』が選ばれたのかという説明も。
【なぜゆらいだのか】
しつこいようですが……
バリアント・マトリクスはどうだ?
「バリアント」はヴァジム・ゼランド氏の一連の著作から引いてきたコトバで、可能な現実のバリエーションのことである。
え、それじゃあ、「なにもない」というバリアントもあって、「ない」が「ある」になるのは、多宇宙におけるバリアントの選択という問題に帰着するのか(*2)?
【この中に「無」はあるか】
多宇宙のバリエーションの中で、「ない」と「ある」が並存する、すなわち、「なにもない宇宙」がバリエーションのひとつとして含まれる可能性は、前掲の本の中ではわりとあっさり否定される。
「なにもない」ということは、あくまで「なにもない」のであって、バリエーションもへったくれも「ない」のである。
「なにもない」と「なにかがある」は両立しない。
二者択一である。
「なにもない」宇宙は多宇宙におけるバリエーションのひとつになることはできないのだ。
易システムにもどると、易システムでは、ひとつの大成卦は特定のバリアントを象徴する、としているが、バリアント・マトリクスの中には「なにもない世界」のバリアントというのはない。
理由は、バリアント・マトリクスが象徴するのは、あくまでこの、ぼくたちがいる「この宇宙」のバリアントであり、この宇宙が種々の「あるもの」であふれているのは明らかだからである。
バリアント間を滑走するのがトランサーフィンだが、おのおののバリアントの中での(滑走するよりはるかに鈍重な)物理法則は同じである。おなじ宇宙のバリエーションなのだ。
「なにもない」バリアントになりそうなのは、シンボル的にいえば、一見、「88:坤為地」あたりが「空虚」ということで、なにもなさそうだが、そこに広がっているのはなにもないように見えて、実は豊穣な大地である。
「75:山風蠱」。
強者どもが夢の後、宴会の後に残された皿にはたしかに料理はなく、人もいないが、皿も宴会場もそこある。
「74:山雷頤」。
あんぐりあけた口の中はたしかにからっぽだが、口はある。顔もある。
以下同文。
虚しい卦は他にもありそうだが、「まったくなにも」ないわけではない。
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なぜ「なにもない」でなく、ぼくらの住むこの世界はこうして、このように「ある」のか。
それがいかに論理的に正しくとも著者が到達した結論には、感覚的・個人的にはあまり賛成できない。
あとがきで訳者の方も書かれているが、そもそもこの質問の「なぜ」には、「無」があり、「無」が最も単純であり、かつ、すべては単純な状態に落ち着いてしかるべきであるという前提が隠れている。
ほんとうに「無」はもっとも単純なのか。
すべてが落ち着こうとする先は、ほんとうに「単純」なのか。
やっぱりわからない。
もっとも、この宇宙に限っての話だが、自然は単純を好むという原則は「風と羅針盤」の中でも易システムの基本ルールに盛り込んではいる。
まだ公開していないが、易システムの全体像をまとめておこうという目論見で「MAP13」という全体地図を作っている。
この地図においては、宇宙的トートロジー(*3)というか、この宇宙は自律的、自己充足的であることが前提である。
【MAP13の全体イメージ】
つまりは上に示したトーラスが易システムのすべてなのだが、では、このトーラス自体は一体どこからやってきたのか……
トーラスは自律的、自己充足的な構造の象徴であって説明の必要がないのかもしれない。
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現在のところ、易システムではどちらかというと「真の無」はないというスタンスである。
あらゆる可能性が等分にあり、その全体は「無」のように観える……形而上学的スカラー場的なものはあるかもしれない。
ただそれは「真の無」ではない。
そこに無いのは、他を押しのけてアトラクターになるような、たとえわずかであっても突出したベクトル量である。
本当になにもない……わけではない。
「易システムハンドブック」では「無極」という状態について述べているが、これは「真の無」ではなく、極、つかみどころが無い、という意味である。
「真の無」はない。あるのは「万有の無」だ。
「万有の無」というのも、思いっきり逆説的な表現だが、いつもなにかがある宇宙では「なぜ「なにもない」でなく~」という質問は成り立たない。
「真の無」はない。
もしそれがあったとすれば、ぼくらはここでこうしているはずはない。トートロジーだが。
もし、真の無があったとしたらそれは何も生まない。
無でありつづけるだろう。
真の無が無でありつづけるのはそれが単純だからでなく、何も生むことができないからなのである。
真の無から有への架け橋はないのではなかろうか。
しかしそれでも「なぜこのように「ある」のか」という問いには、一度気づいてしまうと、のがれられないような、ちょっと抗いがたい麻薬的な力がある。
まあ、しかし。
しょーもないことを考えている暇があったら、仕事した方がいいのかもしれない。
食うために働き、死ぬまで生きる。
けだし、「親」は偉大である。
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*1「なにもない「無」」なんてことがあるのか」
←「無の本」なんていうタイトルを見ると、「でもその、「無」の本自体は「有る」じゃねえか」とかいいたくなる。
ちなみに「無の本(ジョン・D・バロウ、青土社)」には、無(φ=空集合)から有(数)を数学的に創りだす方法が紹介されている。最後の章は、「なぜなにもないでなく~」の質問のためにさかれている。
*2「なにもない」バリアントから「なにかある」バリアントの選択される
←それでもなにがその選択をさせたかという説明は必要だ。ゼランドの著作では、バリアントを現実化するのは生命体の意識だが、「なにもない」ところには生命も意識もないだろう。
*3
「トートロジー」
←「なんでこんなにまずいの」
「そりゃあ、まずいからさ」



