アレフの彼方 | ぼくは占い師じゃない

ぼくは占い師じゃない

易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。

☆ はじめに

前回の続きです。

ファースト、セカンド、サードときて、
もう終点なんですが、宇宙に終点は……
たぶんありませんよね。

なんかクリスマスらしい話でもできればいいんですが……
そうはならないだろうなあ。

タイトルは昔読んだ、同名のSF小説から。


☆ 最初の瞬間

上には上がある。

ぼくは占い師じゃない-first
【最初の瞬間、バリアント空間】

このレベルになると、
さらに語る言葉は少なくなる……
というより、言葉は力を失い、
なんの意味も持たなくなるだろう。

図は、ボーネル氏のヴィジョンを参考にしているので
キリスト教的文脈にしたがって三位一体の形式で描いた。

コメントしておきたいのは、
バリアント空間 はこのレベルにあるということだ。

バリアント空間は創造主体(キリスト教文脈でいう図の「父」)の「夢」であり「プラン」だ。
この「夢」もしくは「プラン」は、ハンドブックにおいて「無極」として定義したもので、本源が特殊化したものである。

物質世界はこのレベルに格納された鋳型にしたがって展開していく。

創造主体は、さらに上のレベルのだれかから区分された本源をわたされ、夢見ることを許された。
そこで、創造主体は、区分された本源というフィールドを、バリアント空間という「夢」、「スペース」であり、「光」で満たしたのである。

「夢」は「夢」であり実体を持たない。

これを実体化(物質化)するのはぼくら個別化した生命の意識の役目なのだが……その方法と実体化すバリアントの選択順は自由意志という奇妙なルールにまかせられている。

オチはこうだ。

バリアントの選択をくりかえすぼくらが、実は、その創造主体なのである。

創造主体は、創造主体自身をずいぶん変わったやり方で味わうことにしたものだと思う。

ところで、三位一体というフレームはキリスト教文脈独特のもので、かつ便宜的なもの、と思っていた。
でも、易システムにこのフレームを当てはめるとしたらどうなるだろう……などと考えていたら、この「3」というパターンがどうしてなかなか根源的なものではないか、という気もしてくる。

易は一般に陰陽二元論であるといわれる。

二元論は、有限で三次元的な現実世界においてもっとも基本となる認識フレームだ。

もちろん、三次元世界がすべてではない。

すべてではないどころか、三次元世界は結果(用)の世界であり本源からすれば極々一部の薄い皮膜のような、陽炎(投影)のようなものだ。にもかかわらずゲームのルールにより、ぼくらはその幻影に縛りつけられている……
と、多くの伝統が語っているとおりのものであるとすれば、
実際はそれ以前の高次元世界こそが元因(体)であり、実体であり、本当の現実世界なのであるとはいえまいか。

いや、多くの伝統はそうであるといっているのだ。

これが意味するのは、陰陽は終着なのではなく、さらにその大本の、陰陽という単位から観れば「統合原理」とでも映るような次元があり、そこが、そここそが、本来の故郷であるということだ。

易的文脈で三位一体を描くとするならたとえば次のようなイメージになるだろう。

ぼくは占い師じゃない-trinity
【「統合原理=太極図、能動原理=陽、受動原理=陰」の三位一体】

「統合原理」は大いなる喜びをもって、「能動原理」と「受動原理」に自ずからを多重投影し、それらを創造の原動力とする。

エネルギー(トライアード)である能動原理は、衝動である受動原理に受け止められ、活動する。
受動原理(受け取り、創造する衝動、増殖)はボーネル氏のヴィジョンでいうダイアードであり、易システムは主にダイアードが進化する様子を記述する。

この流れでいえば現実世界の根源は「陰、受動、器」、この世の始まりは女性原理であり、このルーツは大地母神の元型と呼応する。
これは一見、前回 紹介したTOが男性女性の統合原理であることと矛盾するようにみえるかもしれない。

だけど、この宇宙の根源が器・深淵(女性原理)であることはなにをおいても東洋的で、そこにある種の安定を感じるのは筆者だけだろうか。


「谷神は死せず。是を玄牝と謂う。
玄牝の門、これを天地の根と謂う。
綿綿として存するが若(ごと)く、
之を用いて勤(つ)きず。」

(老子 第六章(「「老子」蜂谷邦夫訳注 岩波文庫」より))


創造は「1・2・3」とお行儀よく開始されたのではなく、
「1、3、多!」と爆発的に、急激に膨張するようになされたのである。


☆ メモリー

ぼくは占い師じゃない-memory
【メモリー。個人の記憶、アカシックからそれ以上】

以上述べてきたレベルはいずれも、さまざまなバージョンのあなたであり、わたしである。

各階層に、経験されたデータの保管庫である「メモリー」が描かれていることには、すでにお気づきになっていると思う。
いわゆる「アカシック」といわれるレベルは、惑星単位、すなわちFO で示される階層に付随したものだが、メモリーはここで終わっているわけではない。アカシックがすべてで終着……ではない。

各レベルに応じたメモリーが互いを包含するように重なり合い、連なり合っていて、最終的にデータはバリアント空間にフィードバックされる。

この意味で、バリアント空間は巨大な「メモリー」といえるかもしれない。バリアント空間は、夢であり、メモリーであり、鋳型(イデア)なのだ。


☆ 創造以前

ぼくは占い師じゃない-alef
【本源、逃げも隠れもしない(できない)すべて】

さてお話は(とりあえずは)いくつくところまでいきついてしまった感がある。

呼び方はいろいろあると思うが、創造主体であるところの……図では「意識」あるいは「父」となっているものは、易システムで「本源」としたすべてのおおもとと同等のものなのだろうか。

それがどうやら……ものの本などを参照してみたりすると、ちがうらしいのだ。上には上があるというわけで、創造主体はイコール本源ではない。

ユニバースに対する「マルチバース」という言葉が示すとおり、創造主体はひとつではなく、したがって宇宙もたったひとつ、わたしたちのいるところだけではないとすると、本源はさらにその背景に遠のいていってしまう。

結局、「そこ」にたどりつくことはないのかもしれない。
どのみち、終点のある宇宙ほどつまらないものもないだろうという気もしないではない。

かくて、ゲームはあくこともなく続けられていく……

……んでしょうなあ。